青野海と赤居苺5

あとからいろんなことを思い出して、分かっていたのにとかもっと出来ることがあったのかもしれないとか、そんなことを考えるのは、ちゃんと事件が起きてくれたからだ。

 事件が起こらなかったら、それまで通り何も考えずに、同じことを繰り返していたに違いない。

 だからといって、その事件が起きてよかったとは思えない。

「すみれ!」

 桃が大声をあげるのをはじめてみた。桃に蹴り飛ばされた男は、すでに大人たちに捕まえられていて、床に頭をつけた状態で身動きが取れないようにされていた。

 私は、苺の顔を見ていて、今にも苺の名前を呼ぼうとしていた。なぜか、ひろ花という名前がでてきた。

 でも私はその時とっさに、その名前を呼ばなかったのだ。呼べば何かが変わったかもしれないのに。

「すみれ、大丈夫?」

 それから、まずはすみれを気にするべきだと思った。リーダーとして、リーダーではないけれど、そういった人間として。すみれの腕からは血が流れていた。まず怪我人の対処が先だ。当たり前のことだ。それが、今やるべきことで、他のことはすべて後だ。

 そうやって逃げているのだとわかりながら、私は苺に向き合うことを遅らせた。

「あ、いや大丈夫です大丈夫です、ぜんぜん大したことない」

 男が持っていたのは小さなカッターナイフのようで、ことの物々しさの割には血もそこまでは出ていなかった。でも問題は傷の深さなどではない。明らかな憎悪をもって、向かってきた人間がいる。その事実だ。

 男はあきらかに殺意の言葉を吐いていた。道具がそれに見合わないなんてことは、問題にはならない。死ね、と言ったのだ。あの男は。

 ざわめきが何重にもなって、私たちの周りの空気を圧縮していた。

「苺、大丈夫?」

 葉子の声が聞こえて、はっとする。

 苺はさっきとまったく同じ場所に立っていた。

「苺」

 ようやく私は苺のそばに寄っていった。その肩に手をかけようとした。そのとき初めて自分の指先が震えていることに気がついた。指先だけではない。血も肉も細胞のひとつひとつまでもが、震えている。自分が狙われたわけでもないのに。

 けれど、苺の体は何一つ動いていなかった。

「いちご?」

 目が、私を向かなかった。

「いちご、いちご!」

 どうしてだろう。私はその時、もう二度とこの子は私を見てくれないのかもしれないと思ったのだ。その目がこちらを向いているのにも拘わらず。

「とーこちゃん」

「うん」

 私はうなずくことしかできなかった。

 苺はかるく笑って、そのままふっと瞳の電気を消した。消えた、というのが正しいのかもしれない。

「ひろ花?」

どんなに呼びかけても、触れても、反応がない。体だけが重たく、ただそこにあった。

 苺の中からすべての色が消えてしまった。

 私たちのまわりには、ただざわめきだけがあった。




「私も桃瀬さんが大声出すところ初めてみました」

 緊急処置室とかかれた部屋は薬品の匂いが充満していて、なんだか居心地が悪かった。すみれの切り傷は縫うほどのものではなかったらしい。むしろ手首の捻挫の方がひどかったらしく、固定されていて痛々しい感じがする。

「ねーびっくりした。飛び蹴りしてたよね?」

 葉子はいつも通りの受け答えをしている。未成年たちは帰らせたので、私と葉子だけですみれの様子を見に来たが、外から見ている分にはすみれもいつも通りだった。

「桃はすみれのことになると頭に血が上るのかも」

 葉子の言葉にすみれは、まさか、と首を振ったが、実際、桃を帰らせるのはものすごく大変だったのだ。病院につれていけと葉子も私もかなりひっかかれた。最近は少しましになってきたと思っていたけれど、いつまでも野生児のようだ。

「本当にすみません。もっとうまく動けたらよかったんですが」

「何言ってんの、よく咄嗟に動いたよ」

 私だったらあんな風に動けなかった。実際、ただ目の前の女の子を抱きとめるしか出来なかったのだ。すみれが動かなかったらどうなっていたのかと考えるとぞっとする。

「私、てっきり桃瀬さんが狙われたのかと思って、それで」

 すみれは暗い顔でうつむいてから、すぐに顔をあげた。

「苺は、どうですか?」

 すみれと一緒に苺も病院に運ばれていた。あきらかに様子がおかしく、受け答えがはっきりとしない、というより、何も喋らなくなってしまったのだ。答えないというより、外界の出来事が届いていないような感じだった。

 捕まった男がそのあとどうなったのか私たちには知らされていないが、少なくとも苺への殺意をほのめかしていたことだけは間違いない。でも、処遇なんてどうでもいいのだ。問題はこのあとに起こりうるであろう、あらゆる反応。

「苺については、まだ何もわからない。今日はもう遅いし、一応、検査入院って形で病院に残るって」

「そうですか」

 検査をしたところで、異常など出てこないだろう。傷つけられたのは見えるところではない。見えないものを、どうやって癒やせばいいのだろう。

「まぁまぁまぁ、とりあえず明日は当然中止だし? この先のことなんて考えてもしょうがないからね!」

 葉子がめずらしく張りのある声を出した。

「すみれはもう帰れるみたいだから、一緒に帰ろ。マネージャーさん呼んでくるから」

 そういって葉子は私も一緒に外へ引っ張り出した。けれど、廊下に出るとすぐ立ち止まってしまう。

「葉子?」

 顔を見ると、いつも笑っているような顔が固くひきつっている。

「ねえ、私たち、なにも悪いことしてないよね」

「は? 何言ってんの、当たり前じゃん」

 勝手に応援して勝手に妄想に浸って勝手に絶望して勝手に襲ってきた方が100%で全部悪いに決まっている。でも、それは自分が悪くないということではないような気がした。苺を守れなかった。こんな風になるまで、なにもせずに苺だけを真ん中にいさせたのは私だ。

「でも、苺は私たちを恨むかも」

 まさか葉子がそんなことを言い出すとは思わず、固まってしまう。

「なに言ってんの。私はともかくあんたは恨まれる余地ないでしょ」

「なんで? だって苺をセンターにしたのは私じゃん」

 葉子は口を引き結んで、今にも泣きそうな顔をしている。私はそんな風に思ったことが一度もなかったが、思い返せばたしかに、苺がセンターになるのを嫌がったとき、むりやりな理論で苺を丸め込んだのは葉子だ。

 でもそれは、私がセンターになることを拒んだからだ。そう口で伝えたことはなかったけれど、ずっと一緒にいるのだから、私の気持ちなど葉子にはわかりきっていただろう。

「そんなことないでしょ。あんたは、いつもどおり意味わかんないこと言ってただけで」

「あの時は意味わかってて意味わかんないこと言ってたよ」

「そうだろうけど」

「苺をセンターにしとけば丸くおさまると思って」

「でも実際に逃げたのは私だし」

「それはそう」

「いや、そこはフォローしてくれてもよくない?」

 そう訴えると、ふっと葉子は笑った。

 どうしてかわからないけれど、私たちは今まで一度も真剣な話をしたことがなかった。話し合おうとしても、いつもこんな風にゆるく脱線したやりとりになってしまう。

 でも、だからこそ、ずっと隣にいられたのだろう。

「だいたい、苺に人を恨むような機能ついてない」

 それは自分自身に言い聞かせた言葉だった。どんな性格の人間だって、大きな事件が起こったあとでは、まったく同じ人間ではいられないだろう。けれど、今の私たちには自分たちの言葉を信じるしかなかった。

「たしかに」

「ともかく今は、私たちがしっかりしないと」

 すみれだって表面上は心配ないように見えるけど、普段どおりであるはずがない。そもそも責任感の強い子だから、ちゃんと見ていてあげないといけない。

 夕陽と花梨だってかなりショックを受けているはずだ。あの二人が一番物事をよく見て考えている。実際にこういう事態になることを懸念していたし、いらぬ責任を感じているに違いない。

 桃に関しては、何をどう思っているのかまったくわからないが、少なくとも何かを感じてはいるだろうし、今日の様子を見るに獣化が進んだりするのかもしれない。

「しっかりって具体的になにすればいいの?」

 葉子が怪訝そうな顔で言った。

「それは自分で考えてよ」

「わかんないよ」

「なんかあれじゃない、気丈に振る舞うとか、優しく寄り添うとか」

「わかった。気丈に振る舞って優しく寄り添う」

「ちょっと、丸々パクらないでよ」

「私に思考能力はない」

「開き直らないで」

「ともかくあれでしょ、年下組を不安にさせないようにってことでしょ」

「まぁ簡単にいうとそう」

「今後どうなるかわからないしね」

 明日のツアー最終日は中止が決定されたが、その後のことは何もわからない。明日になれば世間も騒ぎ出すだろうし、今決まっている仕事をどうするのかも決まっていない。たぶん、出ることにはなるのだろう。すみれは別としても、危害を加えられなかった私たちが休めば、ファンの子たちが不安になる。

 結局、なんでもないように振る舞うことだけが、私たちに許された唯一の防御だ。

 ただ苺にだけはもう、そんなことをさせたくはなかった。

 そう考えていると、葉子が方に手を回してきた。

「よし、じゃあ円陣組もう」

「は?」

「円陣!」

「ふたりで?」

「そう、はい!」

「ええ?」

「よし、え、なんて言う?」

「しらないよ」

「じゃああれだ、ええと――年上組、がんばるぞ!」

「お、おお」

「あの」

 二人で両肩を組んでいるところに、ちょうどすみれが現れて、なにをしているんですかと聞かれた。なにもしない、と嘘をついて、私たちはすみれに笑いかけた。すみれも、曖昧な顔で笑った。

 防御ばかりもしていられない。

 笑顔は私たちの唯一の防御だけど、最大の攻撃でもあるのだから。

 せめて私は、戦わないと。

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