紫水すみれと桃瀬さくら5

 もし自分に何か才能があるとしたら、どれだけ無理をしても倒れない体があるということなのかもしれない。

 週末巡業と平日のレッスンに加えて、家に帰っても練習が出来るように、無理を言って庭の物置小屋を小さなレッスン場に作り変えてもらった。なんの加工もしていないただの板を敷いた小さな四角い空間は、雨が降ると埃と湿気の入り混じった独特な匂いがする。

 そこに自分の汗の匂いが混じって、睡眠不足と酸素不足からくる激しい鼓動の音が耳に走って、目眩の中を泳いでいるような奇妙な感覚に陥るのは、嫌いではなかった。

 こうなってみてはじめて知ったのは、何かをしているというのは、何もしていないより遥かに気が休まるということだ。それをしていることが正しい――あるいは少なくとも間違ってはいない――という行為に時間を費やすことができるのが、単純に嬉しかった。

 同時に、努力めいたものをしているのにそれが身にならないという事実が、これほどまでに心身に悪い影響を及ぼすということもはじめて知った。

 悪い影響、などという単純な言葉しか思いつかないのは、そのことを正面から受け止める気概が私にないからだ。どろどろとした厭な感覚が体に走るのが嫌で、ともかく、いつまでもダンスの練習に時間を割いた。

 体が苦しめば苦しむほど、厭な感覚が薄まっていくような気がする。でもそれがなんの解決にもなっていないことは、自分が一番理解している。こんなことをしていても意味がない。なににもならない。

 それでも、動き続けるしか私には方法がない。

「5月にライブするから!」

 週末巡業を続けて半年以上経ったある日、またぞろ急に事務所に呼ばれて、急に出てきた社長にそう告げられた。サプライズが常態化してしまうと、事務所に呼ばれただけで何かがあるのだろうと分かってしまう。

「ライブですか?」

「なんだ~」

「なんだってなによ」

「なにってわけじゃないけどぉ」

「ライブかー!」

 行きの車内では誰も口にしなかったけれど、私以外のメンバーのもともとのポテンシャルの高さと、地道なライブ活動でグループの人気もかなりあがってきていた。今、このタイミングで事務所に呼ばれるということは、デビューなのではないか、と誰もが思っていたに違いない。

 アイドルに対して外からの目線しか知らなかった私は、彼女たちのプロとしての自覚や、それに伴う所作のひとつひとつに、毎日苦しみに似た驚きを覚えていた。

 いくら素質があったからと言って、不特定多数の人間に見られて、評価され続けるということに、慣れるということは恐らくないのだろうと思う。むしろ、評価される続ける時間が長ければ長いほど、不安や恐怖は増えていくに違いない。

 だから、彼女たちは慣れているのではなく、立ち向かっているのだ。毎回毎回、人の前に立つたびに、新しい何かをするたびに、立ち向かっている。そうして、このグループのメンバーは私以外、立ち向かい続けることの覚悟がある人間しかいない。

 どうしてそんな人たちがいまだにデビューできないのか。

 その疑問について、深く考えるのがこわかった。理由なんて、私にはひとつしか思い当たらない。

 社長は嬉しそうに空中に向けて指をくるくると回した。

「一日2公演を6日間ね!」

 商店街や地域の人が懸命に作ったステージや、研修生全体でのライブではなく、ちゃんとした場所で自分たちだけでライブをするのは初めてのことだ。これからどういうことをしていかなくちゃならないのか、私にはまったく想像もできなかった。

 帰りの車内の中で、はじめに口を開いたのは黃山さんと燈乃さんだった。

「やばいよ、時間なくない? どうすんの?」

「どうするってか、どーなんの?」

 巡業を続けるうちに座り位置はいつの間にか固定されていて、一列目に黃山さんと燈乃さん、二列目に私と桃瀬さん、そして三列目に青野さん、苺さん、葉子さんが並んでいる。

「どうもこうもないでしょ、やるしか」

 青野さんがめずらしく強張った声音でつぶやいた。いつものように葉子さんがまったりとした声で返す。

「たしかにねぇ。もう決定なんだからやるしかないよー」

 黃山さんと燈乃さんが座席の間からそれぞれ振り返った。

「だって一ヶ月半もないじゃんすか!」

「ていうか一ヶ月もなくない? まだなんも決まってないのに?」

「やばー」

「やばすぎー」

「マネージャーさん知ってたんじゃないの?」

「雰囲気くらい教えてくれたらよかったのにー」

「そーだそーだ」

 しばらく彼女たちは騒いでいたが、私にはそれがどういう種類のやばいなのか分からなかった。日にちが足りないということなのだろうか。私はむしろ、一ヶ月近くもあるのかと思った。巡業のときはいつも数日で曲を覚えて披露している。

 ためしに横にいる桃瀬さんの様子を伺ってみたけれど、やはり何を考えているのか少しも分からない。もしくは何も考えていないのかもしれない。こうやって舞台の上ではなく、すぐ隣に彼女が存在するようになっても、私と彼女との距離は一切変わっていなかった。

 むしろ、ただ見ているだけの時より、遠い場所にいるような気がした。

「一ヶ月って、準備期間として短いんですか?」

 それでも私はなるべく彼女に話しかけるようにしていた。青野さんと葉子さんはどうにかグループの雰囲気をよくしようとしている。実際に少しずつではあるが、ちぐはぐでまとまりのなかったグループの空気感はまとまりつつあるような気がした。

 でもその中で、明らかに桃瀬さんだけが浮いている。あるいは、私と桃瀬さんだけが、というべきなのかもしれない。

 自分の力でその状況がどうにかなるとは思っていないが、やはり、何もしないよりは何かをしてる方がまだましな気分になれる。それに、矛盾はしているけれど何を話しかけても、大抵は答えが返ってこないので、彼女に話しかけるのは非常に気が楽だった。

「わたしは日数的に余裕があるようにも感じるんですが」

 彼女の瞳はいつもぼんやり光がにじんでいて、まどろみの中にいるようだった。あまい飴玉みたい。そのゆらぎを見るたびに、これは違う、と思う。私が知っている桃瀬さんの瞳は、もっと鋭利で、獰猛で、それから――。

 そう思った瞬間、桃瀬さんが私を見た。

「あなたにはむりだと思う」

 ぱちん、と目のあう音がした。

 間近で聞くほとんど初めて彼女の声は、いつものように甘ったるく間延びしていたが、いつもとは違ってその奥に確固たる意思が存在していた。

「え?」

 意図せずぽろりと落ちた声音に、いつも、何にも反応を示さない彼女が律儀に答えを返してくる。

「あなたが一ヶ月で人に見せるライブをするのは、むずかしい」

 その声は耳から入ってきて、心臓を突き刺して、そのままそこへとどまった。深く深く、どこまでも刺さって、もう動かない。

「一ヶ月は、そういう時間」

 彼女はいつもの不思議そうな顔をしていて、私はあまりに恥ずかしくて苦しくて、その顔を見続けることはできなかった。

 彼女の言っていることはもっともだ。そもそも私のような人間が、商店街であれ小さな町の手作りのものであれ、舞台に立っているということがおかしいのだ。いくら寝る間を惜しんで練習をしていたって、人に見せていいレベルには達していない。

 その事実そのものより、そのことを忘れつつあった自分が恥ずかしかった。人より時間をかけていることになど、なんの価値もない。私のような人間が時間をかけるのは当たり前のことで、それ以上の何かを求められているのだ。

「すみません」

 桃瀬さんはなにも答えなかった。声が小さくて、聞こえなかったかもしれない。いや、そうじゃない。そうではないのだ。彼女にとって、私の言葉は答えるに値するようなものではないのだ。

 わかっている。

 わかっていた。

 わかっていたはずなのに、どうして忘れてしまっていたのだろう。私は、ここにいる人たちとは違うのだ。実力も気力も経験も、そうして覚悟も。

 私にはなにもない。

 なにもないのに、どうしてこんなとこにいるのだろう。




 

「すみれっち、そこ1.5だな」

「はい! すみません」

「さっきのとこ葉子とすみれちょっと遅くない?」

「私あれ以上むりかもー」

「すみれ前通れる?」

「ごめんなさい、どこですか?」

「あー、時間ないからあとで衣装替えと合わせて確認しよ」

 その一ヶ月は、最早忙しいというようなレベルではなかった。一秒ごとに覚えることが増え、認識する前にまた新しい事柄が増えていく。濁流の中にいるようで、意思を持つ暇がない。休憩時間になるごとに、すべてのことが思い出せずに激しく焦る。仕方がないので途中からすべてを動画に撮っておくことにした。

 レッスンが終わって動画を見て、いつの間にか眠って、また朝動画を確認して、学校で眠って、休み時間に動画を見て、またレッスン。

「すみれっち、そこは75だ」

「すみません」

 何を言われたのかを理解したところで、活かせないのならば意味がない。頭で分かっていても体が動かないときと、体が分かっていて動いているのに頭が追いつかないときと、そんな瞬間が何度も入れ替わり立ち替わり現れて、ただただずっと混乱している。

「すみれー、休憩しな休憩」

 休憩中に動画を見ていると、葉子さんにスマホをとりあげられてしまった。目の前から強制的に映像がなくなると、もっともっと無理をしなくてはいけないのに、ほっとしてしまう自分がいる。一人だけが出来ていない姿を延々と確認する作業は、何十時間経ってもずっと辛い。

「目をつぶると疲労回復するんだって」

 ふにゃふにゃと笑いながら、葉子さんは私のまぶたの上に手のひらをのせた。視覚が遮断だれると、制汗剤の涼しい匂いがして、ふっと体の中に風が通るようだった。

「あんまりがんばっちゃだめなんだよー」

 葉子さんの声はまったりとしていて、すずしくてあたたかい。

「どうしてですか」

「だって疲れちゃうじゃん」

「でも、私だけ足を引っ張ってるんで」

「そんなのどうってことないよ。だってライブだよ?」

 私にはその言葉の真意が分からなかった。すると、葉子さんは横にいる赤居さんに「ね?」と声をかけたらしかった。ごきゅっという水分補給の音の後に、ぷはーっという息を吐く音がして、すぐに赤居さんの声が返ってくる。

「そーだよ、すーちゃん! ライブは楽しいのが一番だから!」

 赤居さんの普段の喋り声はやや掠れていて、明るく跳ねて、弾んでいる。一つ一つの要素を拾うとバラバラなのに、彼女の声の中ではすべてが矛盾なく存在していて、いつまでも聞いていたくなる不思議な音だった。

「楽しい」

 言葉を繰り返してみたが、自分の感覚とあまりにかけ離れていて、言葉だけが浮いていくのがわかった。

「まちがってもいいんだよ、みんな喜んでくれるよ!」

「ちょっと苺」

 今度は正面から青野さんの声がした。

「あんたは間違えすぎ。さっきまた変なところで足あげてた」

「うえぇ、なんで気づくの。青ちゃん私のこと見すぎじゃない?」

「いや普通に気づくから」

「とか言って本当は私のこと大好きなんだよ」

 耳元で苺さんが掠れた小声で言った。好きじゃない、とまた不機嫌そうな青野さんの声が降ってくる。二人がやいのやいのとやり合う声は、不思議と厭な感じがしない。

 葉子さんが私の目を隠しながら笑う気配がした。

「そうそう、リラックスリラックス」

 手のひらで私の表情筋を慰めるように、葉子さんはくるくるとゆっくり私の頭を旋回させた。独特な慰めかただ。まったりとした声に、体の緊張が溶けていくような気がする。

「このあと年下組で合わせるんでしょ? 楽しくやりなー?」

 でもその一言で、少しほぐれた私の体は、一瞬で凝り固まった。

 私にとっては、ライブでの立ち位置や衣装替えや、その他もろもろのすべてが初めてで、何もかもに時間と経験が足りない。それでもほとんどの曲は今までやってきたものばかりで、踊りに関して言えば振りが入っている分、他に比べればまだ多少の余裕がある。

 ただ、一曲だけ、初めて披露する曲があるのだ。

 私と黃山さん、燈乃さん、そして桃瀬さん4人で披露するそのユニット曲は、グループの年下組らしく明るく楽しげな曲調で、聞いている分には楽しい。ただ今までの曲とはダンスのテイストが少し違うらしい。まずもって私にはその違いが分からなかったが、そのせいで振りがまったく体に入らない。

 これまで7人全員で踊っていたのが4人になるので、1人の出来の悪さがより目立つ。だから、他の何よりもこの曲のダンスを頭に叩き込むことを優先していた。はずだった。

「ねぇ」

 それは4人で練習をはじめて何日目かのこと、全体を一度通して踊った後、突然桃瀬さんが私の前に立った。私はグループで一番身長が高く、桃瀬さんは一番低い。自然、彼女が私を見上げる形になる。

 桃瀬さんの顔は、芸術家が死ぬまで情熱をかけて作成したもののように、ほとんどぞっとするほどの愛らしさを持っている。どうも幻めいている。この一瞬間にしか、存在し得ないものが、ずっと目の前に存在している。そういうたぐいの、目眩を伴う愛らしさ。

 愛想のないだぼだぼとした練習着でさえ、特別なもののように見える。

「あの、どうしましたか? なにか――」

 私の言葉に、彼女は首をかしげた。

 彼女が何を求めているのか、私には何も分からなかった。ただ、ほんの少し何かを考えるような間があったような気がする。それは、今ままで見た桃瀬さんの動きの中で、一番の人間への配慮を感じさせるものだった。

 だからこそ、その次の言葉はまた私の心に強く刺さったのだった。

「これ以上、練習しても意味がないとおもう」

 すっと、周りの空気が変わった。おお、という無感動な黃山さんと燈乃さんの声の音が耳に届いてきて、私はなにかが起きたのだということを理解する。けれど、音だけ届いてなんの感覚もない。

 練習を見ているだろう大人たちの気配も、うまく感じることができない。少し暑いレッスン場の空気も、汗の流れる感触も、すべてが体から遠ざかっていく。

「意味が、ない、ですか」

 ただ言葉を繰り返すことしかできなかった。彼女の前で私に出来るのは、いつもそればかりだ。言葉を繰り返して、意図を汲み取ろうとする。いつもは繰り返してみたったその意図はわからない。でも、今回ばっかりは、汲み取るまでもなく意図など一つしかない。

 私のやっていることには意味がないのだ。これ以上、何をどうがんばっても。それは、私自身がもうずっと前から気がついていたことだった。

 それでも、誰かがそれを言ってしまうまでは、そうではないのかもしれないと思うことができた。気づかないふりをすることができた。

「すみません」

 涙が出るときの感覚を、私はもうずっと長いこと忘れていて、そもそも自分のことで泣いたことなどあっただろうかと思う。泣くほどなにかに心を傾けたことなんてなかった。

 今だって、自分の気持ちから踊ったり、歌ったり、立ち位置を覚えたり、衣装の脱ぎ方を覚えたり、しているわけではない。ただ、迷惑をかけたくないというだけ。

 賢明でない人生を歩んできたツケがまわってきただけだ。それなのに、どうしてこんなに悲しいのだろう。どうしてこんなに、苦しい気持ちになるのだろう。全部自分のせいなのに。

「ごめんなさい」

 何度、謝っても、どれだけ悲しく、苦しくても、彼女はやはりただ不思議そうに私を見ているだけだった。

 もう無理だ。もう立てない。

 そう思いながら、私はしばらくレッスン場の床に向かって泣き続けた。

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