紫水すみれと桃瀬さくら4

 あまりに激しい環境の変化にさらされ続けて、驚きとか不安とか混乱とか、そういった類の感覚を全部使い切ってしまったらしい。事態を理解できていない、ということがすでに日常になってしまって、何にどういった感情を抱いているのか、自分でまったくわからない。

 ただ、ミニバンのかすかな揺れと走行音だけは、少しだけ心地よいと感じる。

「すみれちゃーん」

 視界の端で白いビニール袋がガサガサと揺れて、小さい頃に水族館へ行った時の記憶がさっと眼前を通って消えた。そういえば最近は家族で車で出かけていない。というより、家族にあまり会っていないような気さえした。

 実際には土日以外は家に帰っているのだから、そんなはずはないのだけれど。でも、やっぱり家族との会話がまったく思い出せなかった。

「すみれちゃんってば!」

「あ、は、はい!」

 顔をあげると、前の座席から腕が奇妙に伸びてビニール袋を取れと意思表示している。

「こんぶか梅干しどっちー?」

 そういえばマネージャーさんが買ってきてくれるという話だった。たしか和風ツナマヨを頼んだはずだが、袋の中にはもうそれがない。仕方なく残っている梅干しを取ってちらりと見ると、隣の人の手に和風ツナマヨが握られている。

 ええと、彼女の名前は――。

「やっぱり芸名って慣れないよねぇ」

 と後ろにいる平野さん、改め葉子さんがつぶやいた。

「はい、ぜんぜん」

 まさか自分にそんな事態が降りかかると思っていなかったので、あまり真剣に考えたことがなかったが、うちの事務所のアイドル部門はほとんどの人間が芸名を使っている。最初のうちは名字だけとか名前だけといったような芸名だったのが、最近はグループのコンセプトによって、がらりと名前を変えるのが主流になってきている、らしい。

 あの日、事務所で突然社長にグループ活動を命ぜられ、追って芸名が与えられた。平野さんは緑間葉子。リーリは黄山花梨、ミーミは燈乃夕陽。色彩をコンセプトにしたグループらしい。名前は『Intense*Tone』で、私の名前は紫水すみれ。

 まったく、何もかもピンとこない。

「とーこちゃんデザートは?」

「ちょっと、あんた話聞いてたの? 芸名、ちゃんと使って」

 後部座席には葉子さんと同期の笹原瞳子さん改め青野海さん、そしてその横には野瀬ひら花さん改め赤居苺さんがいる。この3人はデビュー確定と目されていた8人組グループの一員で、それはミキちゃんが熱を上げて推していたグループだった。

 事務所に正式に名前をつけられたグループではなかったが、実力が高く、デビューしている先輩のバックによくついていて、研修生のライブではエース格のグループだった。もちろん、ファンも多かったはずだ。

 けれど、彼女たち三人がIntense*Toneに選ばれたことでそちらグループは自然消滅、この三人以外の人たちはデビューが遠ざかったということになる。実際にIntense*Toneの結成を機に、としか思えないようなタイミングで数人が事務所を辞めていってしまった。

「苺。あんたこの前も本番で名前間違ってたでしょ。もう普段から絶対に本名使わないようにして」

「じゃあとーこちゃん、じゃなくて青ちゃん? 海ちゃん?」

「どっちでもいいけど」

「ブルーちゃん!」

「それはやめて」

 三人は芸歴も一緒に働いてきた時間も長いので和気あいあいと話しあったり、まったく話さなかったりと、気安い感じがする。

 一方で私たちの前に座っている黃山さんと燈乃さんは、誰にでも同じ態度で明るく接し、一見人懐っこい感じを受けるが、実際に近くで接しているとそうでもない。

 相手がどんな人間であってもその態度が変わらないのは、本当は誰にも興味がないからなのだ。テレビで見ていたリーリとミーミと同じように、二人でいると最強で、だからこそ、それ以外はそれ以外でしかない。

 いきなりグループにされたのだから当たり前だけれど、私たちの関係は全体的にちぐはぐだった。

 なにより私の隣に座っている彼女。

「あの桃瀬さん、それ、おいしいですか?」

 如月撫子改め桃瀬さくらは、私が頼んだツナマヨを小さな口でついばみながら、ちらりともこちらを見ずに、首だけかしげた。

「あんまり、ですか?」

 すると今度は反対にかしげる。

「そうですか」

 まったく意思の疎通ができない。最初はオーディションの件で嫌われたのかと思ったが、そもそも彼女はあの時のことを覚えていないような節がある。何を話かけても今までの私の人生経験では読み解けない返事が返ってくる、というよりほとんど言葉を発しない。

 トンネルに入って、社内が橙色になって、急激に心細くなった。

 自分の置かれている状況を冷静に考える時間がない。あったとしても、うまく考えられない。なにせ研修生の研修生としてこの事務所に入って、まだ三ヶ月くらいしか経っていない。時間のことを考えると、いつもただ遠くにきてしまった、という感慨だけが沸き起こってくる。

 体内のスピードと体外のスピードがあっていないのだ。気を抜くとすぐ魂だけが遠くに飛ばされていくような気持ちになる。だから走る乗り物に乗っていると落ち着くのだろうか?

 この事務所にいる人間が目指しているのは、もちろんCDデビューで、そのうちのほんの一握りの人間がグループを組んでデビューということになる。だからこうしてグループを組まされたということは、デビューを目指すためのスタート地点に経った、ということなのだろう。

 平日はグループでレッスンをして曲を覚えて、土日はいろんな場所でコンサートをする。コンサートといっても、地方の少し大きめの商業施設の吹き抜けとか、市民会館なんてのはとてもいい方で、どこにでもあるような電気屋さんのエアコン売り場の前とか、ほとんど人通りのない商店街の端っことか、一体こんな場所で歌って踊って、何になるのだろうと思うような場所が多かった。

 ただ、事務所のネームバリューで足を止めて見てくれる人は思っている以上に多い。

 人の目にさらされるということが、こんなにもあらゆる感覚をすり減らしていくものだとは思わなかった。それは勿論、技術不足ゆえに私がグループの中で悪目立ちしているから余計に、ということもある。

 けれどそれとは別に、根本的なこととして、人間の視線は私の体から確実に何かを掠め取っていった。たとえば足を大きく上げたとき、声がちょっとだけ掠れたとき、MCでうまく答えられず沈黙してしまったとき、あるいは、指先を天へ高く突き上げたとき。

 あらゆるときどき、人の視線が私の中から私を盗んでいく。

 盗まれるのが嫌だ、ということではないのだ。そうではなくて、私には盗られるようなモノなんて何もないのに、勝手に何かを充足され、それを盗られていることが落ち着かない。見ず知らずの人の頭の中に、別の私が形成されていくのがこわい。

 イベントが終わると、しばしばハイタッチ会が開かれ、研修生推しの熱心なファンたちが数名、また私のところにもやってくる。

「もっとダンス練習しなきゃだめだよ」

「今日の前髪いいかんじ! この前よりだんぜんいいよ」

「ブログ更新さぼってるでしょ~」

「音外さなくなったね、えらいえらい」

 大きなライブに何度も出ていたり、誰もが知っているテレビ番組に出ていたりしている他のメンバーにならわかるが、まだ入って数ヶ月のなんの取り柄のない私に、どうしてこの人たちはこんな熱心に声を掛けてくるのだろう。

「ありがとうございます」

 でも私にできることは笑顔で対応することだけだった。その笑顔に、また人が何かを作り出していくような気がする。中身のない体の、外側だけがどんどん頑丈になっていく。それに比例して、私の中身は減っていくのだ。もともと何もないのに、減る。

 そんな人たちの中でも、頑なに私とだけハイタッチをしようとしない人がいた。それはお前を認めないぞ、という別のメンバーのファンからの意思表示であったり、あるいは、このグループが出来たことで何か不利益を被った人のファンからの悪意であったりする。

「ありがとうございました」

 そういう人たちにも、笑顔を渡す以外に私にできることはない。もちろん好意に対するものとは別の意味で心がすり減るが、同時に安堵を覚えることもあった。認められていない、ということの方が、存在しない何かを認められるよりよほど自然で、よほど安全のような気がするから。

「すみれ、あんまり気にしちゃだめだよ」

 イベントが終わって帰り支度をしていると、青野さん軽く私の肩を叩いた。彼女はグループのリーダーのような存在で、葉子さんと同期のため下積みである研修生時代も長い。長年一緒に頑張ってきた仲間が選ばれずに、私のようなぽっと出の人間が選ばれたことに思うところもあるだろうに、いつでも気にかけて率先して話しかけてくれる。

 アイドルというのは、こういう人がなるのだ。人間として光に満ち溢れ、どんな状況でも闇を照らそうとするような。

 一方で私は、その意思の強い瞳で見られると、どうしようもなく後ろめたくなる。

「いえ、ごもっともな意見だと思ってます。歌も踊りも私は全然なので」

「そんなの最初からできる人なんでいないから」

 そう言って缶ジュースを差し出してくれた。ぶどう味のジュース。

 紫色。

 私のメンバーカラー。 

 好きだとも、嫌いだとも思ったことのないこの色が、今では私の色になってしまった。

「すみれって入所してどれくらいだっけ?」

「えっと――五ヶ月くらい、ですかね」

 口に出してみると、もうそんなに経つのかという感慨と、まだそれしか経っていないのかという落胆が同時に湧き上がってきて、くらくらした。入所3ヶ月目にグループを組まされて、それからは忙しすぎて時間の経過の感覚が一切ない。

「そっか、あー、そうだったかも」

 そういって青野さんは何かを思い出したような顔をして、意味深に笑った。なにがそうだったのだろうと顔を見ると、あれ、と彼女はいたずらっぽく笑った。

「もしかして覚えてない?」

「えっと」

 頭の中から青野さんに関するなんらかの情報を取り出そうと動かしたが、ひとつもヒットしなかった。

「うわーショックだわぁ」

「す、すみません」

「冗談だって」

 笑って、さっきよりも気安く、強く肩が叩かれて、少しだけ体の緊張がとけた。青野さんは真面目であるのにあっけらかんと明るく、なんだか人間としての骨格が太くたくましい感じがする。

「すみれのオーディション、私も一応審査の方でいたんだよ」

「えっ」

 オーディション、という言葉にトラウマが蘇って、一瞬で頭に血がのぼった。あの日、あの時のことはリーリとミーミ、じゃなくて燈乃さんと黃山さんが最初に口にして以来、誰の口からも聞かなかった。

 もしかしたらどこかでは噂になっているのかもしれないとは考えていたが、まさかこれほど身近にあれを見て、知っている人間がいるとは思わなかった。

「す、ま、あの、う」

「ちょっ、なに? 落ち着きなよ。どした?」

 心臓が圧縮されたようになって、うまく言葉が出てこない。

「あの、いや、あのとき、桃瀬さんの隣にいたのって」

「わたしわたし」

「いっ」

 あの時を知られているということも勿論だが、青野さんの存在に気づけていなかったことはショックだった。彼女は研修生の中でも人気のメンバーだったので、事務所に入る私は勿論彼女のことを認識していたのだ、それなのに、絶対に目に入っていたのに、認識していなかったなんて。

「すみません、青野さんもいらしていたとは知らず、私は」

 今すぐ切腹してしまいたい。

「そんなに謝ることか? オーディションなんて誰でも緊張するんだから、周り見えてないのなんか普通だってば」

「いえ、でも――」

「それにすみれは桃のファンだったんでしょ?」

「ファン!?」

「え、違うの」

「ちが、違わない、のかもしれないですが」

 すると、ああ、と青野さんはにやにやと笑った。

「そういえば桃自体に興味はないとか言ってたっけ」

「わああああ!」

 恥ずかしさで頭が取れそうだ。

 からかっている、という体を取ることで青野さんが私のことを気遣っていることは汲み取れたが、それでも私にはその事実を思い出すと叫び出さすにはいられなかった。

 あはは、と青野さんは今度は本気で笑い、また私の肩を叩いた。

「そんなに気にしないで大丈夫だって、桃なんて絶対覚えてないから」

 記憶を吹き飛ばしたくて頭を振りすぎて、なんだか目が回ってきた。

「わかってます、わかってます、そんなにうぬぼれてないです。あの人は多分まだ私が同じグループということも気がついてないです。というか、グループを組んでいるという自覚があるのかどうか」

 それは言い過ぎでしょ、と青野さんは吹き出したが、飲みものを一口飲んだと、動きを止めてしまった。

「いや、わかってないって可能性もあるな。あいつ」

 ああ、と沼の底から這い上がってきたような疲労にまみれた声を漏らして、青野さんはぼうっと空を見上げた。

 もう日が暮れ始めて風が冷たくなっている。目も鼻も口も眉もすべてのパーツがはっきりとしている青野さんの横顔は、造形美という言葉を表すためだけにここにいるような存在に思えた。その美しさが陰りを孕んでいるのは、日が暮れているからだけではないようだった。

「なんとかしないとね。私たち、グループになったんだから」

 その陰りは焦りにも見えるし、悔いにも見えるし、寂しさにも見える。

 それはおそらく私のような何も目標を持たなかった人間には、決して得られない類の影だ。何事かを追いかけ続けた人間だけが感じることの出来る影というものが、人生には存在する。

 小さいころからそのことには気づいていた。私にはそれがないのだ。そうして、これからもそれが得られるような気がしない。そのことを思うと、やはり自分の場違いさに気が遠くなった。

 青野さんはそんな私の顔を見て、安心しろとでも言うように一度笑った。

「大丈夫だよ。まだ組んですぐだし、ちぐはぐに感じるかもしれないけど、どうにかするからさ」

「はい」

「私たちにとっては最後のチャンスだからさ」

 ふいにつぶやかれた言葉に、完全に体が固まってしまった。

 青野さんと葉子さんは今年で16歳で、女のアイドルとしてデビューを目指すにはもう時間がなかった。それはわかっている。16歳なんて、おそらく普通の人生にとっては若すぎる。それなのに、この世界では「最後」が目にちらつく年なのだ。

 青野さんは強い瞳で私をまっすぐに見ていた。

「私たちがそう思ってやっているってことは、すみれにも知っておいて欲しいと思って」

 何かを賭して生きてきた人間の真摯な言葉というのは、ほとんど刃物に近い。外から見ていたときには、そういう言葉が世界の汚さを切りつけてくれているような気がしていた。

 けれど、こうして近くで、しかも自分に向かってくることに、私はまったく耐性がなかった。

「はい。頑張ります。私も」

 やっとのことで喉の奥から声を絞り出したが、そんな状態でさえ、私の声はあまりにも浅く、薄っぺらく、なんらの覚悟もないことがそこから読み取られはしないかと不安になった。

 青野さんは今度は叩くのではなく、優しく私の背中を撫でた。

「そんなに頑張らなくてもいいよ。それより、つらかったらちゃんと言って。私も葉子もすみれのことは、絶対に守ろうって決めてるから」

 悲しいでも寂しいでも楽しいでもなく、苦しくて涙が出るのは初めてだった。

「一緒のグループになってくれてありがとね」

 そんな言葉をかけてもらえる価値は私にはない。

 でも、もう逃げることは出来ない。この人たちの人生がかかっている。私の何もない人生なんかのせいで、彼女たちの人生が変わるなんてことが、あっていいはずない。

 やらなくては。せめて、彼女たちの足を引っ張らないように。

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