第37封 不測の事態に立ち向かえ④




 侍女業に従事する手前、そこそこ重い荷物を担いだり、桶に張った水を抱えて走ったり、どうしてもやらねばならない事がある。

 テトラはそこら辺の、カトラリーより重い物が持てない王女より、腕力が強い自負があった。

 つまりテトラのビンタは、結構痛いのである。


 バッチーン! と、小気味良い音を立てて、シェルパの横っ面に火花が飛んだ。

 長身を物ともせずに叩き飛ばされた男は、あまりに身構えていなかったせいで、足を取られて尻餅をつく。

 片方の頬を腫らし、唖然として見上げた先で、テトラは怒りによって呼吸を戦慄かせた。


 次いで彼女は、ふー……と息を吐き出すと姿勢を正し、リナンへ振り返る。

 そのまま直角に腰を折って頭を下げれば、リナン以外の男連中は口を半開きにした。


「申し訳ございません、リナン第三皇子殿下。他国の王族に手をあげてしまいました。侍女としての責任を取りたく、今この場で辞職を願い出たいと思います。御許可頂けますと幸いです」


 極めて事務的な態度に、リナンは眉を顰めた後、テトラの意図が伝わったようでやや口角が上がる。


「……許可する。今この時をもって、テトラ・オービスの、第三皇子付き侍女の任を解く」


 テトラは決して、不幸ではない。

 父母は優しく憧れであり、弟は良く姉を慕ってくれる。馬屋番は気さくだし、料理長は細やかだが気配りがあった。

 城を売って小さな屋敷に移っても、デビュタントで嘲笑されても、侍女殿下だと後ろ指をさされても、不幸ではなかった。


 だが、不幸ではなかっただけで、幸福な瞬間が多かったわけではない。

 

 何事も前向きに捉える彼女とて、全部を肯定し許せるほど、出来た人間ではないのだ。

 悔しいことも、悲しいことも、乗り越えねばならない壁であったに過ぎない。

 ただ懸命に行動しなければ、王族に生まれた義務として、国民を守る術がなかったからだ。


 テトラはエプロンの紐を解き、そのまま床に投げ捨てる。

 厳かな静寂を讃えるメイズの瞳で見下ろすと、シェルパを助け起こそうと膝をついた従者たちが、一斉に戦慄を覚えて平伏した。


 相変わらず尻餅をついたまま、何も言えない悪しき男を、ナンフェア王国第一王女は真っ直ぐに見据える。


「よく聞きなさい、ハルベナリアの第一王子。わたしは絶対に、あなたの国へは嫁ぎません」

「て、とら、殿下、私は、ちが」

「絶対によ。あなたのような人の元になんて、死んでも行かないわ。この件は我が父、オービス国王陛下の御名みなを持って、後日改めて糾弾します。逃げようだなんて思わないで。絶対に許さないわ、大っ嫌い……!!」


 土気色の顔で生気が抜けたシェルパから、テトラは勢いよく視線を外す。

 今はもう一秒たりとも、この男を視界に入れておきたくなかった。


 騒ぎを聞きつけた父が、小広間の扉を開け放ち姿を見せた。

 父は周囲の様子に目を見開き、次いでへたり込んでいるシェルパに目を留めると、険しい表情で足を踏み出す。

 そしてテトラの肩を強く抱いて、そっと彼女をリナンの方へ促した。


「テトラ。明日はお前が主役だ。殿下と共に行きなさい」

「……お父さま」

「大丈夫だ。ここはお父さまが引きつごう」


 父の気遣いへ感謝し、テトラはしっかり頷くと、リナンへ振り返る。

 彼が差し出した手は少し迷いがあって、大丈夫だと安心させるように、躊躇わず自らの手を重ねた。


 リナンはシラストに目配せし、人だかりが出来始めた廊下から、城の奥にある自室に向けて歩き出す。


 困惑した様相の人々が目につくが、テトラは意識的に顎を上げ、リナンのエスコートに身を任せた。

 同行するシラストが立ち止まり、扉を開けたところで、テトラはハッとしてリナンから手を離す。


「……テトラ」


 リナンが名残惜しげにテトラを呼ぶが、無理強いをすることは決してない。

 

 (……不安そうな顔。まるで葛藤しているみたい)


 シェルパに詰め寄るリナンの台詞は、そっくりそのまま彼の行動の裏返しだった。

 テトラの現状を知りながら、触れるほどの距離に居ながら、リナンはテトラを表立って助けてはくれない。

 蔑まれても庇う言葉一つ言わず、嫌味を言われ絡まれても矢面に立たず、一歩下がったところで静観している。


 どの口が言うのだ。見栄ばかり大きい態度で小心を隠して、あの男を詰める資格があると思っているのか。


 まるでそう、自問自答するかのような。


 (確かにそうかもしれない。けれど、殿下は殿下なりに、わたしの意思決定が縛られないよう、心を砕いてくれた事は、嘘じゃない)


 沈黙するリナンの表情はどこか、秘密を知られて叱られる、幼い子供のように見えた。

 同時にテトラに対して憑き物が落ちた、安堵した相貌にさえ見えて、彼女は眉を下げる。


 (……殿下はきっと、向き合うきっかけが、欲しかったんだわ)


 テトラは大きく息を吸い込むと、リナンに一歩近づいた。

 そして両手で頬を挟み、視線を交える。


「リナン殿下、少し、失礼するわね」

「…………ああ、──って、は?」


 テトラは勢いよく膝を曲げると、リナンの額に己の石頭を打ちつけた。 




 


 


 



 

 


 

 

 

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