人生の終わり

ひぐらしゆうき

人生の終わり

 人生の終わり方を考えていた。私の人生という物語の終わりを決めるのは私でなければならない。

 私はいくつもの物語を創造し、終わらせてきた。それは金のためでもあったし、私の論理や感性を世間に知らしめるためでもあった。自己の承認欲求に従ってひたすらに紡ぎ続けてきた。

 盗みを続けて生きてきた青年の悲惨な末路を描いた長編小説。私が初めて書いた小説であり、初めて世間に認められた作品だった。

 次に書いたのは罪を犯し、刑務所で極刑を待つ男と、彼が冤罪だと知った記者が面会を通じて事件の真相に迫るような推理小説だった。作品は好評だったし、賞も受賞したが私は感動を覚えなかった。

 何か当然のような気がしていた。私の作品は面白い。だから評価されるのは当然だ。当時は本気でそう思っていた。実際私は挫折を知らずにこの年まで生きてきた。

そんな人間の人生の終わりはどんなものだというのだろうか。

 私の作品はすべてモデルとなった人物がいる。友人だったり、私が取材した囚人だったり、親兄弟であったこともある。誰もが挫折を経験しているし、最悪な目に合っているものだ。友人にはギャンブルで破産した哀れな男もいたし、女癖の悪さから多くの女性から恨まれた男、DVで精神的に追い詰められて自殺した女、戦争で負傷し、夢を絶たれた両足を失ったアスリートの男。

 私はそんな彼らの最悪な人生をアレンジして小説として世に出してきた。

 しかし、私は自分のような人間の物語を書いたことがない。ある意味幸せな人生を送ってきた人間の終わりというものを私は描いたことがない。


「それ故に迷っているのだね?」


 その通りだ。だからこそ迷う。

 死ぬ直前になればわかるのだろうか?きっとわからないだろう。意識ははるか彼方に飛んで行き、最後の瞬間を理解できないだろうと考えているからだ。


「君の人生とは、幸福なものだったのか?それは、君自身がその溢れんばかりの妄想力で塗り固めた偽りの幸福なのではないか?」


 そんなことはない。それは自分自身が一番よくわかっている。私は相対的に幸福な人生を歩んできた。私の出会ってきた人間というのは、私と比べて相対的に不幸な人間ばかりだった。この世に絶対的なものはない。故に反論の余地はある。しかし、他人と比べて誰よりも幸福であるならばそれは幸福と言える。この論理は否定しようのない事実である。


「人の人生には必ず不幸がある。そう言っていた男がいた。その論理を信じるのならば幸福だった君には最後の最後に最悪な不幸が訪れるのではないか?」


 それは私も考えた。どんな人間にも不幸がある。人生山あり谷ありでいいこともあれば不幸なこともあると。それは誰もが知っていることだ。

 しかし、例外というものもが必ず存在する。ならば平凡な終わり、幸福な終わりも訪れるだろう。


「では、君にとって幸福な終わりとは何だ?」


 私にとって幸福な終わり。それは私という人間の人生が大衆の精神に残り続けることだろう。そう、要は歴史的偉人の1人として刻み付けることだ。


「君にとって不幸な終わりとはなんだ?」


 誰の記憶にも残らず、作品も私の存在も忘れ去られることだ。


「君はどちらの終わりになると思っている?」


 私は考え続けた。幸福に終わることが勿論最高の結末だ。しかし、私はそこに面白さがあるのかと思った。不幸な終わり方になれば物語は面白いように思う。平凡な終わり方には何の感情もわかない。



 そうだ。よくわかった。

 私の人生の終わりとはこれだ。

 幸福でもなく、不幸でもない、平凡でもない。それが私の人生の終わりというものだ。

 そうだ。そうなのだ。

 この人生を終わりにしよう。この世界に別れを告げて、新たな場所に向かおう。そうして新たな物語を紡ごう。

 私の人生の最後。それは新たな物語の始まりなのだ。


「それが答えか」


 私は目を閉じ、大きな光を感じて目を開ける。

 さあ、終わりに向かおう。始まりに向かおう。

 そうして新しい物語に向かおう。

 承認欲求の果ての方へ。

 新たな物語に進むこと。それが人生の終わりなのだ。

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人生の終わり ひぐらしゆうき @higurashiyuki

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