名前のない料理

 トマト缶とサバ味噌缶をフライパンに適当にぶっ込んで、コンソメと塩をちょっと足すと、意外にも美味かった。偶然の産物なのに、北野さんはたいそう気に入ったらしく、おかわりまでする。


 こんなの思いつくなんて天才ですよ。ほんとに天才。橋爪さん結婚しなくても本当に平気そう。ひとりで生きていけそうだもの。


 北野さんはご飯をひと粒たりとも残さずたいらげた。これを食べるのが毎週の楽しみなんですと屈託のない笑みを見せるから、そこは俺に会うことを楽しみにしてくれよと思ったけれど、口端についたトマトの汁を見たらどうでもよくなった。


「……旦那さん、そろそろ帰ってくるんじゃないの?」

「ああ……そう、ですね」

「近くまで送ります」


 北野さんは年季が入ったコーチのトートバッグを引き寄せると、よいしょ、と小さく口にしながら立ち上がる。若干ふらついたから手を貸して、そのついでにキスをした。口端のトマト汁をきれいに舐めとってやった。残して帰るとまずいでしょうに、それ。



 一年くらい勤めていたパートの女の子が辞めて、その子のかわりにやってきたのが北野さん。こけしみたいな黒髪(ボブって呼ぶにはちょっともさい)と、もちもちの白い肌が妙にアンバランスで、若いのかそうじゃないのかひと目ではわかりにくかった。後日、三十八歳だと事務のおばちゃんから聞いた。


 うちはこの近辺ではそこそこに大きい保険代理店で、仕事も多岐に渡る。特に北野さんがいる事務部は社長や営業に振り回されっぱなしで、営業の俺が言うのもなんだがとてもハードだと思う。それにも関わらず北野さんは仕事をすぐに覚えて、よく気が回り、だからといって、それをひけらかすわけでもない。


 そもそも仕事以外で話しているところをあまり見かけたことがなく、いつもだれかの話に相槌をうつか、静かに笑っているだけ。

 北野さんが入社して一年も経った頃、北野さんの歓迎会やってなかったよねえ、と社長が突然言った。


 飲み会の場で、主役のはずの北野さんはテーブルの上の皿を片づけたり、届いた料理や酒を取り分けたりしていた。


「北野さん、お子さんがいらっしゃるって聞きました。いくつなんですか?」


 ひとつ上の先輩、亜由さんがビールを片手に、北野さんの左隣に座る。右に俺がいるから、挟まれているような形になって、北野さんはたじたじになった。


「子どもは中学一年生と、小学五年生の、男の子で」


 男の子の親なのか。あんまりそんな印象なかったな。この人も、大きな声で子どもを叱ったりするのだろうか。想像がつかない。


「おい亜由、お前も早く結婚しろ。彼氏いるって聞いたぞう」


 ざわめきの中、子どもというワードだけを拾った社長が、真っ赤な顔で豪快に笑う。

 亜由さんは社長の姪っ子で、大学卒業後この会社にやってきた。本人はコネ入社だと笑っていたけれど、客からの信頼も厚く、売上もちゃんと持ってくるし、彼女の天職だと思っている。


 亜由さんは三十歳を目前にしているせいか、結婚だ彼氏だとその手のネタで社長やまわりの社員にいじられる。そのときばかりは本当に気の毒になる。親戚と社員の境目が曖昧になっているのは、いいこともあるけれど面倒くささのほうが勝る。これ、大きな会社ならコンプラに引っかかるよな。


 亜由さんはもう慣れたって感じで軽くいなしている。


「結婚がすべてだとは、思わないですけどね」


 北野さんが消えそうな声で言った。亜由さんは社長に言い返すのに夢中になっていたから、聞こえていないようだった。

 北野さんと目を合わせると、北野さんは気まずそうに笑った。

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文学フリマ福岡9 サンプル「名前のない料理」 来宮ハル @kinomi_haru

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