第四話 夜叉―The Bloody Night

  正夢電鉄―カワタレ線


 第四話 夜叉やしゃ―The Bloody Night


 燕子花かきつばたさま


 とある町の、とある駅。


 そこには、過去への思慮を抱え込んだ人を乗せ、夜半の町を歩く一本の電車があった。噂によればその電車は、乗客に一つだけ『マヤカシ』と呼ばれる幻覚を見せてしまうのだとか。一度乗ってしまったら、車体の遠影が碧空に尽きるまで、マヤカシは解けず乗客にまとわりつく。


 その電車はいつしか、『カワタレ線』と名付けられた。


 カワタレ線は、今夜も待っている。

 記憶という長い線路を進む人を。

 決意という改札口を通り抜けた人を。

 現実という遠い終点を目指す人を。

 カワタレ線は扉という名の大口を開けて、あなたを飲み込もうと待っている。そして今夜も、誰かがカワタレ線へと乗車する。月のない闇夜が染み入るほど、前照灯はその深みをゆっくり溶かす。

 今夜はどんな人がご利用になるのだろうか。


 ————ああ、何という偶然。これは運命だろうか。


 *


――??――


                                                                                                              

 ……暗い。何も見えない。

 ここはどこだろう。ただ眠りに落ちているだけというわけではなさそうだ。重力が地に体を押し付ける圧力は感じなくて、強いて例えるなら雲の上に乗っているようだった。でも体が軽いという感じもしない。さも無重力みたく、ぷかぷかと漂い浮いているような心地だ。暗くて重さのない空間は、宇宙のように思えた。

 何も見えない中、せめて何かを模索しようと腕を伸ばす。だがいくら神経に力を込めても、手が動く様子がない。そもそも自分の指がどこにあるのか確かめられないし、筋肉の伸び縮みの感触や腕が空を切る感触がないから、伸ばせているのかどうかが分からないのだ。まるで腕があるべき部位に何もなく、その部位に延々と力を送り続けているような未曽有の感覚。試しに左腕でも試してみるが、やはりそっちも同様に腕が丸々欠けたまま義手を操作しているような不自然さが絶えなかった。とりあえず腕を伸ばすのは諦めて、落ち着くために息を漏らす。が、なぜだかどれだけ肺を活発にしても気管に空気は通らなかった。呼吸の方法を忘れたように空気の出し入れができないのだ。それなのに酸欠になるどころか、苦しさも窒息感もありはしない。腕に同じく喉や肺も体の器官から消えてしまったのかと思えるほど、体のあらゆるところが無になっていた。

 思い返してみれば、この空間に放り込まれたときから、額や頬に髪が触れたときのくすぐったさも、唇同士が触れ合う柔らかさも、温度や微風に至るまで、一つも感じない。腕と呼吸器官に加えて、目も肌も神経も、体まるごとどこかに脱ぎ捨ててきたみたいだ。端的に言い当てる言葉が見つからず婉曲的な言い方をしなくてはいけないくらい、この真っ黒な空間は生活の中では感じられない異様さがあった。

 一体ここはどこなのだろう。

 第一自分はここに来るまで何をしていたのだろう。何のためにここに来たのだろう。誰がここに連れてきたのだろう。今自分はどういう状態でここにいるのだろう。分からない。いくら考えても、今の状況はノーヒントで答えを出せるようなものではなかった。ただ一つこの空間について分かるのは、どれほど考えても分からないということだけだった。


(いつになったら出られるのかな……)

 声を発したつもりだったが、自分の耳にさえ何の音も聞こえない。体を手放した……ということは、声帯もないのだろうか。考えたことを言語化することすらできないじれったさがじりじりと込み上げてくる。

 だが、何も起こらなかったわけではない。声を出す試みが呼び水になったのか、どこからか妙な音が聞こえ始めたのだ。テレビの音量を一にしたときのような小音で、ざわざわか、さーさーか、擬音語での表現がしづらい音だ。光も、味も、匂いも、温度も、それこそ自分の声すら感じられず、五感のすべてを封じられたと思っていたが、このヘンテコな音を聞く力だけは健在だったということにびっくりさせられた。よく聞くと、それは少しずつ自分に近づいているようだった。ボリュームのつまみをゆっくり捻るように徐々に音が大きくなり、あっという間に普通のテレビの音量と同じくらいになる。それすらも超過した雑音は、今にも爆音のホワイトノイズになろうとしている。五月蝿さにじっと堪えて耳を澄ますと、その騒音の中に一つの声があることに気が付いた。今にも消えてなくなりそうな短い言葉の連続を、逃すまいと聞き耳を立てる。

 そして、声の発する言葉を掴み取る。聴覚が捉えたそれは、この肉体を放棄させられたような漆黒の空間よりも衝撃的で、同時に意味があるよう感じた。


「…………助けて」


――ミラ――



「……っはあぁっ…………⁉」

 少女、ミラは、ベッドの上で目を覚ました。大袈裟に飛び起きたその勢いで、握りしめていたスマートフォンを部屋の隅に投げ捨てる。かつてないほどのリズムで高鳴る心臓に左手を当てながら、未だに存命している勢いに任せ物凄い速さで頭を振り周囲を見回した。ほとんどが漫画本と教科書で埋まった本棚、英語の参考書が開かれたまま放置された勉強机、使い古したせいでいつの間にか点かなくなったベッドランプ、そしてミラが今も右手を置いている皺だらけのシーツ。一つ残らず見覚えのあるものだ。今度は手のひらで体のありとあらゆる所をぺたぺたと触る。腕は……ある。脚は……ある。お腹の肉は……なぜか要らないくらいしっかりある。それに反して胸は……ない。これは元からないから何もおかしくない。安心はしたが、ムカつく。ミラは不満丸出しで唇を突き出して首を振った。兎にも角にも、体におけるすべての器官が元気に動いているのは確かめられた。

 肉体再確認作業を淡々とこなす中、ミラはベランダから降り注ぐ朝日の暖かさと、シャツに染みた汗の冷たさをひしと感じていた。

「はあ……寝てただけだっての……」

 寝起き特有のしわがれた声で独り言を呟くと、ミラは自室の壁に立て掛けた姿見に目を遣る。そこに映ったほほめいた髪のミラそっくりな少女は、気だるげでどんよりとした目を彼女とばっちり合わせた。ミラは肺の上の胸に手を当てながら息をつく。あの空間とは違って呼吸ができるだけ落ち着くが、ミラとしてはまだ寝足りない。意識の半分が眠りに取り残されたまま、放り投げたスマートフォンに手を伸ばす。掴み取った端末の電源ボタンを押すと、雑多な光景を映したロック画面が表示された。愛猫の『ノア』、幼いころのミラ、そしてもう一人の更に幼い少女のスリーショット。もうずっと前からこの画面だ。右上のほうには今日の日付と曜日、現在時刻が白文字で刻まれている。朧げな視界がその文字を拾い上げた。

『二〇二三年 二月 二十日 月曜日 午前七時五十三分』

「ん…………?」

 ミラは目をこすってもう一度時刻を確かめる。

『午前七時五十三分』

 間違いではないようだ。今一度、ミラは考えに耽る。いつも起床してから家を出るまでの準備にかけている時間は短くても十五分。中でもこの鋼のような寝癖を直すのに最短でも五分は必須だろう。加えて家から校舎までは徒歩で二十分余りかかる。そして、学校の登校時刻デッドラインは八時半だ。これらを合算し終え、事の重篤さに気が付いたミラは顔面蒼白になった。

「やばい、遅刻確定だ……」

 あわよくば二度寝かスマホゲームでもしようかと思っていた数秒前の邪念をシーツと共に思いきり吹き飛ばして、ミラは一階のリビングへ全力疾走する。ドタドタという重々しい足音を聞きつけたミラの母が階段下から顔を覗かせた。

「どうしたの、そんなに焦って?」

 すかさずミラが、なおもしわがれた声を荒らげた。

「お母さん! なんで起こしてくれなかったの⁉」

 ミラのシャープな問いに対し、母はきょとんとした面持ちで答える。

「昨日はミラが『お母さん、明日は起こさなくていいからね』って言ったんでしょう。久しぶりに早起きするって言ってたじゃない」

「ぐ……」

 そういえば昨日、そんな戯言を口にした気がする。スマートフォンでアラームをセットしたし、態々起こしに来られるのも癪なので、明日こそは早起きしようと思ったのだろう。結果はこの通り。ミラはかたかたと震える手をグーにして呟く。

「おのれ昨日の私……余計なことを……」

「馬鹿なこと言ってないで早く準備しなさい、朝ご飯できてるからね」

 母の一喝を受けたミラは落胆して「は〜い……」と応答を零す。そしてミラは残された時間がもうほとんどないことを思い出して、急ぎ足で洗面所に向かった。慣れた手つきで爆発した髪を捲し上げ、顔を大雑把に洗い、寝癖との格闘を繰り広げる。髪がストレートに降りてくれるようになるまでにかかった時間は約四分。予想していたより好タイムだ。

 必要最低限のことを済ませたミラは食卓に就いた。合掌ついでに発した「いただきます」の声をコングに、母の日替わり朝食を一分一秒の寸暇を惜しんで掻き込む。そのスピード感満載の戦が「ごちそうさま」を合図で終了するまでで計十分。よし、これなら間に合うぞ。ミラの内心の焦りがほんの少しだけ緩和された。走ってリビングに駆け込んだ彼女は、前日にまとめられることを忘れられた荷物たちをせかせかと鞄に放り込む。続けざまに制服に袖を通し、玄関で登校用の白いスニーカーに履き替えた。そのとき時刻は八時七分。登校に二十分かかるとしたら学校にはオンタイムで到着しそうだ。……なんだ、ならばそう急ぎすぎる必要もないではないか。と、ひとたびでもそう考えてしまうと、何だか無理して焦っている自分が馬鹿らしく見えてきた。先とは打って変わってのほほんとした気持ちになってしまったミラは、玄関口までの廊下を闊歩した。ピカピカの取手に手をかければ、重い玄関扉も簡単に押し開けられる。そうして現れた厳しい外の世界からは、凍てつくような外気が吹き込んでくる……と思いきや、存外暖かい空気がミラを前面から包み込んだ。真冬の二月だから雪でも降っていておかしくはないだろうとさえ思っていたが、今日は雲一つない快晴だったようで、小春日くらいの日差しが降り注いでいた。冷気からの襲撃に備えてマフラーを首に巻いていたミラは、それを引っ張り外す。母が後で拾ってくれることを願ってそれを廊下に投げ捨てれば、いよいよ外の世界のお出ましだ。

「行ってきます」

 誰にともなく低語でそう言ったつもりだったが、リビングからは母の「行ってらっしゃーい」という声が飛んできた。ほんのちょっとだけ嬉しい気持ちになって、ミラは家と外との境目を踏みしめてコンクリートの地面と靴の裏を擦り合わせる。寒すぎず、暑すぎず、ちょうどいいくらいの気温がミラの背にくっついた。

 ああ、心地いい。こうも心地よいと、考え事もままならない。無心でとぼとぼと歩を進め、一度か二度ほど深呼吸する。今日で初めての安穏が、ミラに手を振ったような気がした。


 ……………………。


 ……ふと、今朝のことを思い出した。あの『夢』のことだ。

 どこまでも伸び続ける、黒色だけが存在する世界。手も足も無い状態で、ミラは空中に浮いている。フィクションの世界なら、これはきっと読者にはまだ理解の及ばない「後になって回収される伏線」というものなのだろう。だが、ミラの住まう世界は決してフィクションなどではない。

 では、あれは何なのか。

 実を言うと、ミラはあの無限の暗闇が続く空間のことを知っている。というより、目にしたことがある。何でも、あの空間に幽閉されるのは今日が初めてではないのだ。眠りに落ちると同時に体から意識だけがあそこに飛ばされ、無の空間を彷徨し続けた結果、どこからかノイズが鳴り響き、最後には「助けて」という声で出し抜けに目が覚める。その一連の流れを不定期に何度も経験したのだ。とある友人に何気なくそのことを話したときは「病院行ったほうがいいよ」と言われたが、如何せんそういう類の嫌な予感はしない。不思議と恐怖とか驚愕とか、マイナスな感情は浮かんでこないのだ。だがしかし、現実で起こりえるようなものであるとも考えにくい。したがって、ミラはそれに『夢』という名前を付けて謎を謎のまま残すことにしているのだった。あのような夢を錬成する材料となりそうな記憶もなければ、誰かから助けを求められたこともないのだが。

 そうこうしている内に、ミラの足跡は学校の敷地の中へ続こうとしていた。のろのろと足を運びながら校舎に入れば、殊更意識せずとも上靴に履き替え、教室に入り、席に着くことができた。そのとき既にクラス全員が椅子に腰掛けていることを確かめ、改めて自分が遅刻ぎりぎりだったことに気が付かされた。あの『夢』のことといい、大忙しの準備といい、まだ起きてから一時間も経っていないのにミラの体には眩暈を誘うような疲れが溜まっていた。朝から滔々と流れ込み蓄積していたそれらは、今になってどっと体に押し寄せてくる。背中にのしかかる重みがミラを机の上にだらしなく押し倒す。力なく地にへばりつくように眠る体勢に入ると、不意に壁に掛けられた時計が目に入った。もうそろそろ担任が教室に入りホームルームを始める時分だ。到着して間もないのに、やはり忙しない世の中だな、とミラはありったけの苦笑い込めて思う。頬杖を突き何の気なしに黒板を見つめていると、後ろで彼女の名前を呼ぶ声が上がった。


「おはよ、ミラ! 今日は遅かったね」

「うわっ⁉」

 いきなりの出来事に驚いたミラは肝を冷やし、肩を震え上がらせた。その弾みで瞑った目を半開きにしつつ、真後ろを振り返る。そこにはミラの肩に手を置いて不敵な笑みを浮かべる少女がいた。

 彼女はレイカ。ミラのクラスメイト、および——一応、友人だ。

「ああ……うん、ちょっと寝坊しちゃって」

 ミラが乾いた笑いを含めてそう言うと、レイカは今までの会話のすべてを耳にしていなかったかのように新たな話の口火を切った。

「ねえ、結局『アレ』、どうするの?」

 吐息交じりの小声で耳打ちされたミラは「ん?」と声を漏らし、

「アレって何だっけ」と返した。

 レイカはそれを聞くなり呆れたように続ける。

「え~……忘れたの? あれってのは……」


 ————キーンコーン、カーンコーン。


 チャイムの音で会話のキャッチボールが断絶される。二人がはっと前を向くと、教卓にはいつの間にかジャージ姿の担任教師がどんと腕を組んで立っていた。幸運にも二人がこそこそ話をしていることには気づいていないようだ。ミラは体ごと前に向き直し、背後のレイカにだけ聞こえる声量で言った。

「また後で」


 *


「んで、朝言ってた『アレ』ってのは何なのよ」

 休み時間。たったの十分しかない貴重な休憩を叩いてまで、どこか息が合わないレイカとの雑談に宛てるのには少々不服な気持ちもあったが、何やらちゃんと話したいことがあるとのことだった。

 ミラがそう言うと、やれやれと口に出したそうに手と首を振るレイカが答えた。

「アレだよ、アレ。『カワタレ線』のこと」

「カワタレ線……」

 ミラの頭の中でその単語を玩味する。そして一つの記憶に引っかかった。

「ああ、あのカワタレ線ね」

「そうそう! あのカワタレ線! ……ってミラ、本当に覚えてる?」

「おっ、覚えてるよ。確か……」

 本当はあまりよく覚えていないことを隠しつつ、ミラはついこの間にレイカと交わした会話の一部を思い出していた。


 先週金曜日、レイカはミラにとある提案をした。それは、かの有名な『カワタレ線』に乗ってみようというものだった。

 そもそもカワタレ線とは何か。それは二人も、その他大勢のクラスメイトも、小学生の頃から当然のように知っている、人口に膾炙した或る噂だ。内容はこう。「真夜中に『カワタレ線』という一本の電車が現れ、過去への思慮がある人間を乗せて走っていく。そこに乗ってしまうと『マヤカシ』と呼ばれる幻覚を見せられ、終電までそのマヤカシを見続けてしまうと魂を奪われて死んでしまう」。何とも子供じみていて、そういったコアなものに一片の興味もないミラにしてみれば滑稽極まりない風説だと感じていた。つい最近までは。

 初めてその噂を耳にしてから長い月日を経て十四歳になった今、その考えは驚くほど奇妙に根底から覆された。ここ数週間、奇妙な事件や事故がニュースで取り上げられており、ニュースでも話題の的になっているのだ。


 とある少女、須田すだ栞里シオリとその飼い猫が鉄道の人身事故で亡くなり、もう一匹の飼い猫も事故の数日後に水死体となって発見された事故。

 とある少女、榎本えのもとリンが電車の中で縊首した遺体が見つかった事件。

 虐待児の女の子、岡崎おかざき優愛ユアが駅のホームにて餓死体で発見された事件。


 一見しただけでは、そのどれもが関連性なく偶発的に生じてしまった不運の出来事のように見える。だが特筆すべきは、これらの出来事の裏にある共通点である。当該する事件事故の概要を根掘り葉掘り調べれば調べるほど、様々な共通点がわんさかと見つかったのだ。

 いずれもミラの住む奈良県内で発生していること。いずれも死亡推定時刻が深夜であると判明していること。いずれも死の瞬間を目視した人物がいないこと。そして、いずれも電車に関連があること。必然の一致と言い切れるに足る確証はないものの、何かの作為がなければ起こらない確率の事象であると言うには申し分ないくらいの共通性がある。

 その事実にいち早く気が付いたレイカは、その原因として真っ先に『カワタレ線』との関与を疑った。早速手っ取り早い情報収集手段であるネット検索を試みたレイカだったが、かの噂は地元以外では相当マイナーなようでめぼしい情報は一件もヒットしなかったらしい。次いで他県で似たような事件や事故が起こっていないかも確かめたが、「深夜」「目撃証言ナシ」「電車」という限定的な条件を満たすものはなかったのだとか。

 これらの客観的な事実をすべて合算すると、本当にカワタレ線なるものが実在して、それに乗ってしまった人が魂を奪われて亡くなってしまった、ということになる……らしい。ひどく妄想に突っ走ったような話だが、レイカ曰くその仮説を裏付ける証左があるとのことだ。


 三件目の事件では、亡くなった少女が同じ路線の別の駅にて監視カメラに映っていたという記録がニュース記事にも残されている。当然その次に確認された少女は死体となっていた。普通に考えれば、その駅から電車に乗って彼女が亡くなった駅まで移動したとするのが妥当だろう。だがその時間帯、駅には一本も電車が通っていなかったのだ。つまり亡くなった少女は、電車も車も使わないまま数十キロメートル先の駅まで三十分で移動したということになる。それでは少し説明が付かない。

 そこで「過去への思慮がある人だけ乗れる」とされるカワタレ線に乗ったと考えれば、辻褄が合う。レイカはそう臆度したのだった。

 その陰謀論のような推理の始終を大真面目な顔で片っ端からクラスメイトに遊説していったレイカは、彼女でさえ知らぬ間に『カワタレ線実在説』を絶大な話題として騒がせていたのだった。

 件の電車、実在する可能性があるのならば、乗らぬはオカルト好きの恥。そんなある種の知的好奇心を推進力に、怖いもの見たさでレイカはミラをカワタレ線の実態調査——すなわち、乗車してみようという体を張った検証に勧誘したのだった。


「……うん、ちゃんと覚えてる」

「その反応、絶対覚えてないやつじゃん……」

「いやいやいや、覚えてるから。アレに乗るんでしょ? いつだっけ」

 ミラがそう言うや否や、レイカは「しっかりしてよ」と言いたげに苦く笑って、こう言った。


「今日だよ、今日。今日の夜」


 *


「なんで私がこんな目に……」

 私服姿のミラは駅のホームのベンチにどっかり座り込みながらぼやく。肩から提げた鞄からスマホを取り出して画面を付けると、現在時刻のところには午後八時と表示されていた。辺りでは今朝の夢と同じくらいの暗闇が、逃げる光をとっ捕まえては食べている最中だ。登校時の春日和じみた気温がまるで嘘だったかのように外気は肌寒く、座っているベンチの端には霜らしき白色が降りていた。普段なら絶対に外出などさせてくれない時間帯だが、レイカとの約束の日付を完全に忘れるという大失態をしたのはミラだからという理由で親に頭を下げ、特別に許しをもらったのだ。隣を見れば、レイカが背徳感たっぷりの笑みを浮かべて腕時計をちらちらと見ていた。

「……ねえレイカ、もう外真っ暗なんだけど」

 試しにそれだけ聞いてみると、レイカはミラと目を合わせるなり、

「そうだね……いやぁ楽しみだ……」とだけ言って、また時計に目を落とした。忘れていた、レイカは筋金入りのオカルト愛好家なのだった。カワタレ線という一大オカルト的トピックとの邂逅がもしや訪れるかもしれないというこの現状に、彼女が興奮しないはずがない。差し詰め今ミラが何を言ってもその興奮が止むことはなさそうだった。

「あのさ、一個だけ聞きたいことあんだけど」

 ミラがそう言うと、レイカは、

「何! なんでも聞いて!」と目を輝かせた。

「仮にカワタレ線が存在して、私たちが乗ったとするじゃん。そのまま終点に着いちゃったらダメなんでしょ? もしその……マヤカシ? とかのせいで電車から出られなくなったらどうすんの?」

「ふふ、その可能性もちゃーんと考え済み!」

 昂然たる言動と共に浮かべたドヤ顔は、レイカは自信満々の用意周到だぞと主張したくて堪らないようだった。

「へ、へえ。けっこう準備万端じゃない。で、どうすればいいの」

 ミラの問いに一言「よくぞ訊いてくれた、我が友よ!」と面倒な前置きをして、レイカはスマホを取り出し高速で画面をスクロールしだした。首を傾げながらその迅速な指さばきを見ていると、レイカはとある画面で指をぴたりと止めてスマホ本体をミラの目の前に突き出してきた。ミラは目をぱちぱちしながらもそこに映し出された文字列を読み上げる。


『マヤカシを視ている最中の乗客の肉体は、一時的に昏倒した状態になると考えられています。そのためマヤカシの中で車外に出ても、降車したという判定にはなりません。マヤカシから覚醒し意識を肉体に還元する手段として最も有力視されているのは、乗客がマヤカシ内で——』


「……ってねえ、これ何?」

 音読を中断して、ミラはレイカに問うた。書き口からして書いているのは少なくともレイカではない、恐らくだが大人だと推測できる。さりとて、こんな噂話を真剣に書き連ねられているところを見ると、ますます阿呆らしく見えてきて仕方がない。虫を見たような苦い顔でレイカに言うと、予想に反して彼女は疑念の鱗片すらない瞳で豪語した。

「カワタレ線について分かることとか噂とか、全部まとめた文章!」

「そんな胡散臭い文章どっから持ってきたのよ……」

 そう独り言を零すと、レイカは頬に靨を作って言った。


「パパだよ。これ、パパがこの日のために作ってくれたやつなんだ!」

 意気揚々と語るレイカに、ミラはぎくりとする。レイカのお父さんはミラも知っている。記憶は曖昧だが、確かどこかで民俗学を研究している学者さんだったはずだ。確かに専門家となれば間違いは無さそうだが……この際ミラは、マズいと思ってしまった。心の中で阿呆な大人やら散々虚仮にしてしまった相手がまさかその道のプロフェッショナルで、おまけに友達の父親だったとは。失礼極まりない。ミラは焦る気持ちをぎくしゃくと誤魔化しながら「へ、へえ。そっかあ」と言った。レイカはミラが画面から目を逸らすとスマホを豪奢な鞄に仕舞い込み、三度時計をじっくりと見た。

 静謐な夜の駅の中、腕時計のカチカチという音だけが小さく響き渡っている。行うだけでカワタレ線がやってくる儀式のような行為も、もはやカワタレ線が現れるという確証もない。レイカはそう言う。ただ、待つだけ。二人はその唯一の方法を頼りに、寒々しい小夜の中で電車が来るのを今か今かと待っていた。


 三十分後、それまで貧乏ゆすりをし続けていたミラがついに口を開いた。

「本当に来るの? カワタレ線」

 そのイライラとした口調にレイカはどきりとして返答する。

「ぜ、絶対来る‼…………多分」

「どっちよ」

 声色一つ変えずに冷静なツッコミを入れられ唖然としたレイカを尻目に、ミラは呆れに呆れて責めるように話し出した。

「確かにあれが本当に存在したら一大事だけどさあ。普通に考えてあり得なくない? つか知ってる? ああいう噂話って大抵の場合は小学生が面白半分で流してるんだよ」

「ちょっと! それどういう意味⁉」

「まあ要するにさ……何ていうかな、私にはレイカがそこまで本気になれる理由が分からないっていうか……そもそも私、カワタレ線が実在するかどうかって別にそこまで興味ないんだよね」

「えええ⁉ ここまで待って興味ないって言うの……⁉」

「そりゃレイカが無理やり誘うから付いてきてやっただけなんだから当然でしょ! それに親にも心配かけてるからさ、私そろそろ帰るよ」

 ミラが迷いのない手つきで荷物をまとめ始めると、レイカはその腕を掴んでこう言った。

「ちょっとミラ……お願いだよお……」

 半分懇願するような形になってミラを制止したレイカの表情はまさに必死の極み、ミラを引き留める握力が「まだ一緒にいてくれ」という心の内を物語っていた。鬱陶しいが、こう泣きつかれては無情に振り払うのも良心の呵責に苛まれる。ミラは余った方の手で首をポリポリと掻きながら腕時計を見た。午後九時四一分、家へ必ず帰らねばならない時間まではもう少しだけ余裕がある。

「はあ、仕方ない。あと十分だけ」

 ミラがそう言った直後、世話の焼けるレイカは直前の泣きそうだった表情を微塵も感じさせないくらい表情を明々とさせて喜んだ。

「ありがとうミラ~ッ‼ やっぱりミラと友達でよかったよ~‼」

 レイカはミラに抱き着き胴を振り回す。

「うわっ、ちょ、ベタベタくっ付くな! 気持ち悪い!」

 そんな迂遠なやりとりが静かに始まる。レイカを押し退けてひとまず落ち着かせると、ミラはさっきまで自分が座っていたベンチに鞄を置いて足を組み座り込んだ。レイカの顔は暗闇で見えづらいが、少なくともミラの説得に成功した後の彼女は悪い気分ではないだろう。縦にるんるんと揺れているところを見ると、むしろ上機嫌で居るのだと察せる。ミラはちょっとだけ微笑ましい気持ちで、気長に待つことに決めた。


 十分後。駅には電車が来る予兆もなかった。

「じゃ、帰るね」

 ミラはあえて無情にそう言った。さしものレイカでも、約束したならばもう引き留めようとはしまい。そう思っていたのも束の間、レイカは十分前と同じ腕の箇所を掴んだ。

「ちょ、ちょっと待って! あと五分! 五分だけ延長!」

「ダメって言ったらダメ! さっきの約束はどこへいったのよ……」

 さながら今朝の母親のように戒める。不服そうに頬を膨らませるレイカを見ているとまたもや決意が揺らいでしまうが、ここは『仏の顔も三度まで』だ。ミラは仏ではないので二度目で終了とする。

「じゃあ三分! あ、やっぱり四分! 四分だけでいいから!」

「なんで後から伸ばすのよ! ていうか一分も待たないってば!」

 ……一体なぜこいつはここまでして一緒に居たがるのだ。

「ほ、ほんとにダメなの……?」

 哀愁漂う声でレイカが言う。だが今度は、断固としてミラを拘束しようとしているわけではなさそうだ。ミラは腕から力を抜き、こう言う。

「……分かった、明日も同じように待つから。今日はここまでにして」

 その言葉を耳にしたレイカは口に手を当てて、目をうるうる潤した。

「うう、ありがとう……」

 レイカは上目遣いで敬服するかのようにミラを見上げて感謝を述べた。

 レイカの図々しさには頭を悩ませるが、やはり言いくるめさえすれば納得してくれるらしい。安直に言うならピュア、もっと言うなら単純というものだ。そういう相手に対しては、深いことを考えず相手が許容してくれる最もウィンウィンな選択肢を提示すればよい。扱いに慣れてしまえばこっちのものだ。

「じゃ、また明日」

 ミラは素早い手つきで鞄を肩にかけて、疲れたように一息吐いて改札口へと向かった。


 ————直接光を見ていないのに、光で眩暈がした。


「っ……⁉」


 背には目映い逆光が刺すように当たり、ミラの顔が向いている方向には大きく濃い影が作られる。自分の背の隙間を縫った光線はミラの影を地面に象り、その輪郭を非常に皓然とさせた。影になった地面は真っ黒、その他の部分は真っ白。懐中電灯やスマホのフラッシュのような並大抵の灯りではこうはならない。スポットライトとか、あるいはそれに値するくらいの眩耀による仕業だ。ミラは瞠目した眼光を背後に向ける。


 そこには、一つの電車が聳えるように横たわっていた。

 空気の流れからも、雰囲気から感じる音からも、駅に電車が来る気配は一向にしなかった。だというのに、目の前には夜の暗闇の上にのっぺりと貼り付けられた大きな四角い鉄箱があった。その前照灯の光がミラの額に焼き付く。ミラの視界の真ん中、我が物顔でそこに鎮座した巨体は、ピンポンという合図を伴って扉を開け放した。

「あれが、カワタレ線……?」

 と思った直後、我に返る。いいや、これはただの電車だ。まだ終電の時間は過ぎていないだろうから、きっと何の変哲もない電車がタイムリーに来ただけだ。奇々怪々な事象とは何も関係ない。ミラは自らにそう言い聞かせ、焦りかけた心を鎮める。

「なんだ……びっくりした」

 そう呟くと、離れたベンチに座り込んでいるレイカは言った。

「ミラ? どうしたの、やっぱり待ってくれる?」

「ええ……?」

 見当違いな問いかけにミラは困り果てたようにそう言う。誰だって電車が来たら目線くらいは持っていかれるだろう。それだけで気の移ろいを察されても何とやらだ。

「いや、電車来たからびっくりしたってだけ」

 有り体にそう返し、振り向きなおしてから改札の方向を向く。そう、あれはただの電車。乗る必要もない、ミラには実以て無関係な電車だ。


「……ちょっとミラ、何言ってるの。電車なんて来てないでしょ」

「…………は?」

 ミラは肌に粟を生じる思いで、ゆっくりレイカのほうを見る。驚いた表情をしているはずのレイカの顔は真っ黒なペンキで塗りたくられたように、不鮮明で見えづらかった。

 ……いや、それはおかしい。電車の光がこれだけ煌々と輝いているなら、普通は顔面なんて肉眼でも白飛びするくらい明るく照らされるはずだ。にも拘わらず、光がレイカの顔に当たっている様子はどこにもない。物理的に成立しないことが巻き起こっているのだと、ミラは直感的に理解した。

 謎が謎を呼ぶ中、ミラは頭に浮かんだ仮説を声に出す。

「……レイカには、見えてない……?」

 ミラは目線を切り替えて電車を注視する。闇のせいではない黒色の車体が強すぎる存在感と共にそこで黙座している。言葉のない威圧感から、喉が渇いたそれが大口を開けてミラを飲み込もうとしているということが手に取るように分かった。履き慣れない革靴を履いた足をそちらに踏み出す。ミラの踏みしめる地面は黒から灰へ、なだらかなグラデーションを描いて色を変えつつあった。さらに足を進めれば、踏みしめられたコンクリートの色は灰から白に変わり、気付けば既に彼女は扉の前に立っていた。ほのかに暖かで馥郁とした香りが車内から漂ってくる。その香りが肺を通じて体内と頭に巡れば巡るほど、ミラの体温は燻されるように掻き立てられた。

 向こうは暖かい。その温度こそがミラの求めていたものだ。そのことを、かの電車は知っているのではなかろうか。もしや電車は喉の渇きを癒すためにミラを誘っているのではなくて、ミラを快く迎え入れているのではないだろうか。そう考えた途端に、蛍光灯から発せられた光の粒子群が、小さく「こっちにおいで」と囁いたように聞こえた。一歩、また一歩と、ミラはその異質さを厘毫も疑わず車体に近づく。違和感を残さないまま、カコンという音が耳に入る。暖気がミラを包む。安心感で頭が満たされる。ミラは表情を無にし、体内に残留していた冷たい息を漏らした。

 ……ピンポン、ピンポン。

 その音は直ちにミラを正気にさせた。

「あれ……私、何して…………」

 危機を察知したミラは急いで真後ろを振り返る。

「っ……‼」

 が、もう遅かった。ミラを腹内へと取り込んだ扉は強固に、不可逆的に、がっしりと閉ざされてしまっていたのだった。

「くそっ……やられた……」

 窓に顔を近づけて目を凝らすと、その奥にはさっきまで自分がいた駅のホームが映し出される。何の変哲もない、どこにでもある、ただの風景。だが、つい数分前までの自分たちが座っていたベンチを見ると、そこにいるはずのレイカの姿がない。その場で忽然と消失したように、もしくは窓にクロマキーのフィルターでもかかっているかのように、そこにいたという残り香さえ消し去って、レイカがいなかった。

「待って待って待って、どうすればいいの、これ……⁉」

 ミラはがくがくと震える手をいなすように、ポケットに押し込められたスマートフォンを取り出す。縋るように両手で握り、右親指で電源ボタンをポチリ。今朝にも見たあのロック画面が映し出される。それとほぼ同時に、高機能なこの端末は自動でミラの顔を読み込みロックを解除させた。ふぉん、と軽い音を発して、今度はホーム画面のお出ましだ。

「早く……何でもいいからレイカにこのこと伝えなきゃ」

 とにかく近状を報告しよう、その責務感に打ち込まれたミラは顔に液晶をぐっと近づけ、メッセージアプリを起動する。だがミラはそのとき、あることに気が付いてしまった。画面の上部、端に小さく書かれている漢字二文字。ミラの手を静止させるに十分な一言。

「『圏外』…………一体どういうことなのよ……これ」

 普通に考えて、電車に乗り込んだだけでインターネットが完全に遮断されるなんてことがあろうか。ない。少なくともミラのスマホにそれが起こることはない。

 そもそもどうだ、今の状況を俯瞰して見てみろ。ミラにだけ見えた電車の謎。レイカには見えなかった電車の謎。レイカの姿が見えなくなる電車の謎。ミラを無条件で引き寄せる電車の謎。そして、端末の回線を寸断する電車の謎。このうち理由が分かるものは何もない。未解決の謎の上に、ますます妙な出来事が、幾重にものしかかっているというのだ。当然ミラの演算スキルでは処理が追いつくはずがない。

 それでも彼女は足掻くように原因を推理する。頭に浮かんだ考えを、一言一句漏らさず声に出す。

「レイカにはこの電車が見えなかった……そして……電車の中にいる私には、レイカが見えない。これって……見てるものがレイカと私で違うってこと? いや、でも……そんなわけ……」

 そんなわけ、ない。根本的にありえないのだ。二人は同じ人間、目にもおかしいところなんてあるはずがない。コンタクトもメガネもしていないのだから、見ているものに違いがあるなんて。そんなわけがないのだ。


 ……ただ。

「あるとすれば………………」


 ミラの脳裏をかすめた可能性を首肯するかのように、アナウンスが流れてきた。


『……近鉄カワタレ線をご利用いただき、ありがとうございます。この電車は天理行き、深夜特別快速急行です。次は、天理。天理です』


「やっぱりそうか……っ!」

 ミラの思った通りだ。強いて信じようともしていなかったが、ここまで来ると渋々にでも頷くほかないだろう。

 あるはずがないことが起きてしまう、その些々たる可能性。妄想の世界から脱走して現実にまで来てしまった、あの噂の電車。

 カワタレ線は実在した。そして今、ミラはそれに乗っている。

 ミラの頭の中で、バラバラだったパズルのピースがはまったような感じがした。きっとあの三件の事件もカワタレ線が原因だろう。夜に駅で電車に乗り、幻覚を見せられ、そして……死ぬ。そういう魔物の手のひらの上に、ミラは文字通り『乗っている』のだ。

 皮肉なことにミラを囲う車体の正体がカワタレ線だとすると、今までのことがすべて説明できる。カワタレ線はミラにだけ見えて、レイカに見えなかった。それはなぜか。百パーセントとは言い切れないが、推測できる理由は一つしか思いつかない。カワタレ線は、「過去への思慮がある人を乗せる」からだ。それを逆手に取ってみれば、過去に対する後悔の念を持たない人間はカワタレ線に乗れないのだ。だからカワタレ線は、レイカに干渉できなかった。見ることも、光を受けることも。ただ過去への思慮がある……言い換えれば、『乗客に指名された』ミラにだけ、カワタレ線は姿を見せ引きずり込むことができたのだ。

「……そして、結局私だけが閉じ込められたってことか」

 この憶測が前提からして非現実的であることを重々承知の上で、ミラの思う理由はそういうことだった。ミラは嘆息を漏らした。

 証拠も証言もないためこの考えが憶測の域を超えることはない。これもただの夢なのかもしれないし、実はドッキリでしたというくだらないオチが待っている可能性だって残されている。が、仮に今のすべてが真実だった場合、ミラは空前絶後のピンチに晒されているということになりそうだ。カワタレ線が終点に着くと乗客は魂を抜き取られる。ミラは、現在進行形で「一歩間違えれば死」の状況に立っているのだ。この駅から終点まではたった四駅、時間にしておよそ六分というところ。つまるところ残り時間はもう朝食を食べ終わるほどもない。タイヤと線路が擦れる金属音で発進した電車の中、ミラは警戒するように身を固くした。


 ガタンゴトンという音の隙間から、アナウンスが続く。


『カワタレ線にご乗車中の美良様、山崎美良様————

       ————迷子の山崎輝良様が先頭車両にてお待ちです』


「………………キラ?」


 *


 夏。その日はいつもと変わらず、随分と平凡な毎日の一部であった。

「あっ! ちょっと、そっちに行っちゃ危ないよ!」

 ミラは家の近くの公園で、道路に飛び出そうになった少女の腕を掴む。間一髪、その二、三歩先の道路には車が通り過ぎて行った。あと少し掴むのが遅れていたら、少女の全身大打撲は避けられなかっただろう。

 腕を掴まれた少女は申し訳なさそうに頭を掻き、えへへ、と笑った。彼女はミラが安堵の溜息を吐いてするりと離した手を両手で握り返す。甘えたそうに溶かした目をして、彼女はミラの体に抱き着いた。

「わっ……⁉」

 少女の名前はキラ。ミラの妹だ。

 キラはミラに白い肌をすりすりと撫で付けると、ぱっと真上を向く。ミラと目が合って幸せそうな彼女は、たちまちたいへん満足げな表情を顔一面に広げた。その愛くるしい顔の妹に何か伝えようかと思ったが、キラはミラが口を開く間もなく「ありがと、お姉ちゃん」とだけ言い、同級生の友達の元へ手を振って戻っていってしまった。すたすたと地面の砂を蹴り上げて去っていく健気なキラの後ろ姿を、一人取り残されたミラは何も言わず見つめる。言葉にするのも今更なくらい、世話が焼けて危なっかしい妹だ。いつ道路に飛び出して車に轢かれてもおかしくないと思うと肝が冷える。だからこそ、ああして元気にはしゃぎ回っているところを見ると無性に微笑ましくなった。

 ミラはそっとキラとその友達の群れから視線を外す。何気なく見た黄昏の空は、トースターの中でじりじりと照り付けるヒーターの光ように、熱気をたっぷり含んだ夕焼けによってオレンジ色に染められていた。門限は刻一刻と近づいている。ミラは嬉々として戯れる小さな集団に呼びかけた。

「キラ、もう帰ろうか」

 鬼ごっこをしていたのであろうか、いそいそと走っていたキラはミラの声に足を止めて肩を持ちあげた。その様相を見た周囲の友達もぴたりと足を止める。キラは一滴足らずの寂しさを含んだ顔をして友達の顔を見回す。彼女らは揃って静かに笑い、問題ないとでも言うように優しく頷いた。

 普段であれば「あとちょっとだけ!」と強請るキラだったが、今日はどういう風の吹き回しか、真率な態度で「うん、帰ろ」とだけ言いながらミラの手を再びぎゅっと掴んだ。くるりと振り返った彼女はその髪を嬲らせて、友人たちに余した方の手を小さく振る。向こうからは「ばいばーい!」と活気溢れる別れの辞が飛んできた。

 手を繋いで、二人は帰路に就いた。キラは今日の分の思い出をダイジェストのようにあれこれと語る。彼女は今日、かけっこで初めて一位になれたらしい。姉妹揃って運動が苦手だと思われていたが、キラは違ったようだ。走りっぷりの良さを友人たちに褒められ、「爆速ランナー」だの「ダッシュマスター」だのと様々な称号を博し、それらを浴びたキラはまさに面目躍如の様だった。どれもこれもいかにも子供らしい成長だが、こういう小さじ一杯くらいの歓喜がキラを大人にしていっているように見える。日々新しい発見があって、その中にはいつも「楽しい」が埋まっている。キラがそれを掘り起こす度、彼女は変わっていっていた。

 だが愉悦だけを感じるのでは大人にはなれないのも事実だ。まだ十一歳のミラが言うことではないが、些細な失望や憤怒もあってこそ、人は大人になれるのだ……と、個人的には考えている。笑ってしまうほど豪放磊落な人柄で今を大切に生きているキラは……もちろん本人には言えないが、失望とか憤怒とか、負の感情とは無縁の人生を送っているように感じる。もしかしたらこの先キラが二十歳を迎えても、その楽観的な性格は「童心を忘れない」と遠回しな言い方で邪険に扱われてしまうかもしれない。人は誰しも、大人とは程遠い大人になってしまう可能性がある。特に、キラには大いに。このままずっと子供のまま生きるのかと思ってしまうくらい、今のキラは幼いのだ。

 それでも、ミラはキラが立派な大人になれると確信していた。

 なぜなら。

「……キラは私の自慢の妹なんだもん」

 不思議そうな顔でぱちぱちと瞬きするキラの頭を、ミラは左手で豪快に撫でる。わしゃわしゃと髪を乱されたキラは含羞を帯びた紅色を頬に浮かべて嬉しがった。考え事をしているうちにキラの思い出話は幕を閉じていたらしく、気付いた時には既に家の門の前を通過する寸前だった。


 足を止めて門を押し開け、扉の奥で二人を迎える玄関に足を入る。丸一日嗅いでいた草木や土による自然の匂いから一転、何より安心感のある家の香りが鼻に押し寄せた。クーラーの効いた室内が体内の清涼感を一気に高める。靴を脱ぐためにキラから手を離すと、彼女は靴をぽいと脱ぎ捨てて一目散に洗面所へ向かった。遠くで「ママただいま!」という声と共に蛇口から水を流す音が聞こえる。その音を聞いて、ミラはいっそう微笑ましく、感心した。何を言わずとも手洗いを心がけてくれるようになったのだ。追いかけるようにミラも洗面所へ行き、キラと横並びで手を洗う。肩を並べて仲睦まじく肝胆相照らす二人を、母は笑って眺めていた。

 その日は既に遅かったのもあって、就寝の時刻を早めることにした。動き回って汗の染み付いた服を脱ぎ、湯気立つ風呂に二人で浸かる。疲れ切った体にとって湯の中は雲の上のような心地だった。全身の血液が快感に包囲される。寝そうになり、起きる。寝そうになり、起きる。そんな危うい行為をしながら蒸気に包まれていると、キラが虚ろな目をして眠たげに首を傾げた。本当に寝てしまってはまずいと、二人は急いで風呂から上がった。タオルを被り、髪を乾かし、二人でお揃いのパジャマを身に着ける。就寝の準備は万全だ。満を持して二階へ駆けあがり、布団に潜り込んだ。風呂で存分に蓄えた眠気を一度に放出するように、意識が猛烈に眠りに吸い込まれていく。隣ではまだ布団に入ってから二分も経っていないのに、すーすーと寝息が聞こえてきた。ミラも寝ようかと思ったが、どうしてか妙に眼が冴えていた。思えば今日は、色んな考え事をした気がする。キラの将来やら何やら、遠い未来のことについて。

 正直、キラがどんな大人になってもミラは肯定するつもりだ。それがキラの決めた道なら、大人になってさえくれるなら、前途多難な茨の道でも応援する。楽しんで生きてくれたらそれで百点満点だ。今のまま大人に、とはいかないが、きっとキラはいつまでも平凡な日々を忘れない大人になる。そう信じている。そう考えると、別にご立派な大人になんてならなくったっていいし、大人になる未来もそう遠くないのかもしれない。ただ幸せに生きてくれたらいい。むしろミラがあれやこれやあと嘴を挟むのも、お節介なありがた迷惑となって終わってしまえばよい。

 眠りに落ちてゆく頭の中で、考える。

 ……キラが大人になった姿を無事に見届けたい。

 それがミラの唯一身勝手な願いだった。


 簡単に願うには、それは身勝手すぎたのかもしれない。


「キラ……?」

 あれから数週間経ったある日、目が覚めてみると隣で寝ているはずのキラがいなかった。ミラに勝るとも劣らぬほど朝が苦手なあのキラが、ミラより先に目覚めるとは思えない。案の定階段を降りてみてもキラの姿はなかった。それだけでない。母も、父も、そこにはいなかった。

「どこにいるの? お出かけ?」

 返事はない。電気も水道も鳴りを潜め、家は完全にもぬけの殻と化していた。寝起きでぼうっとした頭がゆっくり異変を感知していく。リビングに出てあちらこちらを探しても、外出を前広に告げるメモは見当たらない。緊張感がミラの鼓動を早くした。

「どうして……どうして誰もいないの?」

 応えてくれる人間はおらず、声は空しく朝日に溶け出していった。どこ、どこなの、どこにいるの、ミラは譫言のようにそう言う。


 ……外が騒がしい。昨日はなかった、誰かの声がする。

 そのことに気が付いたミラは足首が挫けそうになる勢いで立ち上がる。目を閉ざしてじっと耳を澄ませると、その喧騒が次第に鮮明に聞こえてきた。音のする方向は、階段を下ってすぐ左から。そこには、玄関の扉があった。

 どっどっどっ。廊下を走りきったミラは、玄関家の扉を破るように開ける。無機物的で爽快な音と陽の光が何より先にミラを出迎えた。急な明るさにぎゅっと瞑った目を引き攣らせながら開けて、玄関前を見る。水色のシャツに紺色の制服を身にまとった警官らしき人物が二人、それに対面するように母と父。鬼迫ある表情をしてパジャマ姿のまま外に飛び出したミラの姿を、四人は戦慄した瞳で凝視していた。一瞬だけ、両親がそこにいたことに安堵したが、次の瞬間にはその安堵は消え去っていた。ミラはまじろぎもせず四人が立っている辺りを見る。

 キラが、いない。

「ミラ……」

「ねえ、お母さん。キラ、どこ行ったの」

 有無を言わさず母親に問い質す。母は開きかけた口を閉ざし、言葉を焦らしているように見えた。言わなければいけない、伝えなければいけない、けれど、伝えられない。母が浮かべたのはそんな顔だった。一方、父は拳を握り締めるミラを横目に、事態が悪くなったとでも言うような顔を貼り付けて警官と話をしている。きっと実際はそうではなかったのかもしれないが、そのときのミラにはそれが自分を誑かしている仕草なのだと感じてしまった。わなわなと込み上げてくる怒りと疑いが、十を数える間もなくミラの脳に触れた。

「ミラ、落ち着いて話を」

 母の声など歯牙にもかけず、ミラは力いっぱい叫ぶ。

「落ち着いてなんか……ッ‼」

 業腹から噴き上げた咆哮が口の外に飛び出た、刹那。


「ミラ‼‼」

 父の重たい叫びが、ミラの声を掻き消した。煮えたぎっていた彼女の威勢と焦りは俄に消え失せる。気が付けばその場は水を打ったように静かになっていた。父はその凪いだ玄関先に、「……部屋に戻っていなさい」という一言を泳がせる。そのときにミラが何を考えていたか、これっぽっちも思い出せない。驚きで火照った頭をもたげ、ふらふらと家の中へと戻り、暗く閉ざされた玄関ドアにもたれかかって膝を抱えていたところから、ミラの記憶が再開していた。

 それからずっと扉越しに、ミラは小さな話し声を盗み聞きしていた。


  キラが昨晩、自殺したらしい。


 場所は家から遠く離れた山の中腹辺り。お誂え向きにも両足の靴を遺して、高い崖から飛び降りたのだ。死体は両親の二人でさえ目にできないほど、人とは思えぬ凄惨な姿だったとのこと。淡々と情報だけを伝達する警官の声は扉に染み込んで、その先にいるミラにもよく聞こえた。

 母は事の経緯を聞き終えると、ボソボソ声で警官と質疑応答を繰り返した。

 亡くなった時刻は詳しく判明していない。事件当時は目撃者もおらず、第一発見者はその山の管理人であった七十代の男性だった。深夜の山荘で寝泊まりしていた最中、発砲音に似た音を耳にしたとのことで、夜が明けてから付近を散策して初めて遺体を発見したらしい。死因について、他殺や事故の痕跡は……時間の許す限りは隅まで調べ上げはしたものの、特には見つからず、現状は自殺で間違いないという。

 母は他にも、自殺の理由や直前の行動を問うていた。だが深夜から今にかけての短時間捜査で分かる情報は薄く、事情聴取もまだ錯綜しているために、答えられる質問には大きな限りがあった。警察とて現在進行形で齷齪と情報収集を行っているものの、気が遠くなる作業であることに変わりない。肝心なことは未だ分からず終いなのだった。

 そこから先の話は、もはやほとんど覚えていない。ただ寒々しい玄関口で膝を丸めながら耳を澄ませるばかりだった。だが、そのときのミラ自身の感情は、濃くはっきりと憶えている。


 キラが。あの幼くて元気なキラが。自殺なんてするわけがない。明日に目を輝かせ、ミラの手を掴んで前へと進み行くようなキラが、明日が来ることを拒むなんて、そんなことをする理由がないのだ。ミラの見る限りでは学校での友人関係も円満だった。家族も優しく接し続けてきた。キラには人生を途中で終わらす意味も必要もないはずだ。それなのに、こんなところで自殺なんて結果があっていいものなのか。まるで打ち切りになった漫画のように、理不尽で馬鹿げた終わり方が訪れるなんて、許されていいのか。悲しいとか辛いとか、主観的な感情を軽々と飛び越えた疑問と怒りが、凶悪な不自然さと共にミラを支配した。

 どうして。誰も答えてくれやしない鈍色の疑念を腹から吐き出す。扉の向こう側、母と父の感情のないような受け答えが飛び交っている。そこから、またもや記憶が薄れてきた。確か心が疲れ切って、玄関口の壁に寄り掛かったまま寝てしまったのではなかっただろうか。その姿を両親が見たのかもしれない。目が覚めたときには自室のベッドで寝ていて、体を起こそうとしてもびくともしなかったことだけは覚えている。後で分かったことだが、あのときミラは風邪を引いてしまったらしい。熱が出て、三日間ほどは何も考えられなくなっていた。


 キラがいなくなった後の生活は、笑止千万につまらなくなった。何も常に「キラがいない」と涙ぐんで過ごすわけではない。のうのうと人生を食べていく中で、ふと隣を見たとき、いつもそこにいるはずの妹がいない。一つ屋根の下で共に日常を営んでくれたことへの感謝を伝える猶予さえ与えず、いないということがくっきりと判ってしまうのだ。そのときの不意打ちを喰らったような寂寥感は、心に穴あけパンチでも挟まれたような悍ましい痛みと等しかった。ミラの人生は、妹が生きていた期間とそうでない期間に分断されたのだった。その恐るべき隔たりはどこまでも悪魔的で、ミラから「楽しみ」を感じたいという意欲をゆっくり削ぎだした。

 その分かりやすい例が一つ。それは中学校で初めて催された文化祭の準備期間だ。クラスの出し物を全力で完成させようとしているクラスメイトたちの温度感に馴染めず、放課後にせっせと頑張っている仲間たちを必死で見ないふりをして、ミラは何の手伝いもすることなく自然と家へ帰っていた。必要とされることもない。はなからチームワークなんてない。そんなミラは、クラスにとっては空気と同じだった。だから、帰り続けたのだった。そうして迎えた当日、生徒たちは無論、先生たちも激しい盛り上がりを見せる。開会式では軽音楽部が狂喜乱舞の大演奏、上がったボルテージを冷ますことなく、皆が歓喜の渦に飲まれていた。夜までミラがその一日を何と思って過ごしていたかなど、つゆも知らないまま。

 ただ、思うのだ。キラさえいてくれたなら。キラさえ生きていてくれていたなら。大事そうに五百円玉を二、三枚ほど握り締めて、煌びやかな瞳で出店を回るキラがいてくれたなら。ただそこにいて、生きてくれていたなら。それだけがただ何となく寂しくて、ミラは何も言えなかった。ぽっかりと空いた空白が、ミラには白色に見えなかった。


 事件から三年。ミラはその間に、様々な情報を知った。

 キラは生まつき、比類なきほどの端麗さを持っていた。ミラとの間に年齢の差異を見出せないほどはっきり、キラの顔つきや所作には美の妖精が住んでいた。ミラはそのことを、ただ鳶が鷹を生むようなことが起こったのだと思っていた。だが実際は違った。二人は、腹違いの子だったのだ。ミラの母は今も同じ屋根の下で暮らしている、小柄な女性。対してキラの母は、芸能に疎いミラですらテレビで何度も目にしたことのある人気女優だったのだ。再婚後にキラが産まれてから行われた三者間での話し合いを経て、最終的にミラの家族として育てることに決まったという。蛙の子は蛙とはよく言ったもので、その事実を耳にした瞬間にミラとキラとの間にあった違いを百パーセント理解した。同時に今の母や父がミラ以上に震撼していなかった理由も理解できた。二人はキラにミラほど興味がなかったのだ。

 けれどそれはミラの最も知りたかった事実ではない。キラが自殺にまで至ったわけは三年経った今でさえ依然として不明。事情聴取は彼女の友人やクラスメイト、もちろんミラにも行われたが、その結果として分かったことは「何も分からない」ということだけだった。まるですべてが後の祭りだという事実を押し付けられたように、ミラは自身の無力さに気が付いた。

 星の如きキラはもうこの世にいない。死んだ人間は生き返らない。ミラには親友もいない。家族もただの一つのコミュニティの一員で、愛情や温もりは大して感じない。その上で、ミラが何かに期待することができただろうか。


 気付けばその三年間の中で、あの『夢』を見るようになっていた。


 *


「……思い出しちゃった」

 過去を思い出しているうちに、目に涙を溜めて瞼を閉ざしてしまっていたらしい。目を開けると、生暖かい汁が床まで落ちた。

 キラという一つの単語を投げかけられる度、キラと過ごした幸せから、それが堕落する音や自分の軟弱さまで、すべて思い出してしまう。ゆっくり時間をかけて圧縮したばねが一度に弾ける、そんな感覚。大抵その後は筆舌に尽くし難い悲哀が心に影を落とすのだが、今は違う。

 ミラは頭の中を懐かしさと虚無感でいっぱいにして、ポケットに仕舞ったスマホを取り出して、カチッと電源ボタンを押す。光りだしたロック画面に映るのは、愛猫のノア。今より少し幼いミラ。そして、もう一人。ロック画面をはち切れんばかりの笑顔で待ち受けるのは、紛れもないキラだった。一欠片の曇りもない、快晴の向こうへと飛び乗ったような顔の妹だった。

「キラ…………」

 ミラはスマホの電源を落とす。そして、真正面を向いた。

「……カワタレ線。この先頭車両に、キラがいるんだよね」


 それはつい数分前。アナウンス改めカワタレ線は『山崎輝良様が先頭車両にてお待ちです』と、間違いなくそう言った。それもミラを名指しして。当然ミラが無反応でいられるはずはない。自ら命を絶った妹をちらつかされて、剰え『待っている』と告げられ、黙って見ていられるわけがないのだ。

 もちろんミラも、キラが待っているという言葉がカワタレ線の虚構による謀りである可能性を案じなかったわけではない。そもそもカワタレ線の存在が虚構の産物に近いのだから、その中で死んだ人間がミラを待ち構えているという囁きを信じるなんて、もしミラが今のミラを俯瞰するだけの他人だったとしたら考えられないことだろう。

 それでも、ミラはキラがこの先にいると信じた。それをたとえ地の果てまででも追ってやるのだと決意した。

 だって、どうせ死ぬのだから。ミラは殊に自殺念慮を抱いているわけではないが、いずれにせよ電車が終点に着けば一も二もなくお陀仏になるのは必定だ。それならまだ、脱出の糸口か、はたまた死ぬまでの暇潰しになるような何かが見つかるかもしれない選択をしたい。ミラはこのとき、奇しくも久しく、先頭車両の光景に期待をしたのだった。カワタレ線が何をしたいのかは知らないが、ミラはそれが何だったとしても受けて立つつもりだ。そう決意した。


 ミラはポキポキと気持ちいい音のなる指を折り曲げて、足を踏み鳴らしながら前へと進む。その決意めいた歩幅は、ミラの中で燃える闘志のような心境を物語っていた。ずかずかと突き進んだ先は、車両同士を結ぶ貫通扉。両開きの重い扉はミラを試すように仁王立ちしていたが、彼女は脇目も振らずその取手に五本の指をかける。全身を使って腕に体重をかけると、扉は、ぐぬぬ、と言いたげにも真横に押し退いた。扉は緩やかに強固さを綻ばせ、ミラをその先へと通す。


「……後悔はしない」

 車両の連結部分に出たミラは一言そう呟くと、先と同じ動作をもう一度してみせた。二枚目の扉も難なく開く。その先の車両に、ミラは飛び出した。空調から垂れ流された新鮮な空気がミラを歓迎する。下を向いて体に力を入れていたミラはぱっと勢いよく顔を上げた。そうして初めて、目は周囲の景色を目で捉える。


「……何、あれ」


 視線の矢を射た的は、貫通扉でも車両の先でもない。

 ただそこに、どんと居座る〝何か〟だった。


 何なのかは分からない。ただ真茶色で、ぬめぬめとした泥かヘドロのようなものを頭から被っていて、悪臭を放っているということだけが分かる、そんなものだ。そしてそれは今も絶え間なく床を焦がれた栗のような不快な色の粘着物で覆おうとしており、ぎりぎり人間の見てくれをしたそれの頭と思しき部位には黒く空いた孔が三つ、まるで目と口のようなものを象っていた。ミラの鎖骨ほどの高さしかない体調が、気色の悪い現実味をぶちまけている。雨に打たれた後の粘土製の傀儡らしき物体が、そのとき、ミラの目の前にいたのだった。

「マジで何……これ……」

 知らぬ間にミラは口と鼻を手で覆っていた。それもそのはず、粘土人間もどきは直立不動を貫いているのではなくて、今も少しずつ、じりじりとミラのほうへと足のような器官を動かしているのだ。目のない目をミラに合わせて一歩を確実なものにするそれは、悍ましさを、生々しさを、そしてある意味で肉々しさを感じさせていた。べちょっ、と嫌な音を捏ねては、数本の糸が切れた操り人形のように生硬な歩行をミラに見せつける。その不快感と言ったらない。


 しかし、後ずさりをしたミラが放った言葉は恐怖を露呈させるものではなかった。


「……ふっ。いや、別にキモイだけで怖くないんだけど」

 言葉の通り怖がりも、嫌がりもせず、軽く嘲笑した不敵な笑みを浮かべたミラ。彼女は多少引き攣った唇を見せて、気色の悪い粘土傀儡に首を振ってやった。

「どうせこれも全部、マヤカシとか言うやつなんでしょ? 幻覚見せて怖がらせようとしてるのかもしれないけど、そんなもんじゃ誰もビビらないから」

 そう。ミラはこのとき既に気が付いていた。これは単なる『マヤカシ』と呼ばれる夢のような虚妄であり、非常にありきたりなホラーを演出しているだけのだということに。この珍妙な怪異こそが、噂を通して人々に伝播した恐怖の正体なのだということに。そうと分かれば、ミラのすべきことは一つだ。


「そういうの、あんまり面白くないと思うけどな。エンタメのつもりか知らないけど、やっぱり幻覚にしては質が低いっていうかさ。正直に言うと大量のゾンビとかが襲い掛かってきたりとかされたほうが怖いし、そもそも何なのか分からないものを出されても……ねえ?」

 人形に向かって、早口で正論を殴り入れ、ミラはおまけにチープな品を嘲るように「ふっ」と一笑をかました。そんな彼女は居丈高にでもなったのか、気ままに手を組んで頭上に上げて退屈そうな欠伸をしてやった。

「それで、適当な怖がらせはもういいから。早くキラに合わせなさいよ。……どうせキラもアンタの幻覚なんだろうけどさ。死ぬ前に姿くらいは見てたいの」

 短絡的に結論を持ち出したミラの言葉には、重みと、少しばかりの怒りや苛立ちが練り込まれていた。

 カワタレ線はあのとき、キラがミラを待っていると言った。その餌に釣られてやってきたミラを出迎えたのがこの泥人形だ。どちらも同じ幻覚だと知っていても、ミラにとっては価値が違いすぎた。

「……それも、アンタなんかには無理なんじゃないの。なら最初から適当なこと言わないでよ」

 舐め腐ったようにそう吐き捨て、ミラは近くの座席に腰を下ろした。

 事実、カワタレ線は確かに人智を超えたものだ。マヤカシもこいつも、そもそもカワタレ線という存在そのものの意義についても、ミラには説明一つできない。だが、だからと言って人間に勝てる保証があるわけではないのだ。ましてや人間の恐怖する対象がこんなにも馬鹿馬鹿しいものだと思われているとは、実に予想外で、実に呆れた事実だった。ミラは今日この瞬間、知った。カワタレ線は結局、たかが噂程度のものだということに。ただ他人に見えなくて、ちょっとしたヘンテコな幻覚を見せるだけ。ただ、それだけのものだ。ミラは身をもってそれを立証した。そんな気になっていた。薄っぺらな自信がミラを天狗にした。

 それが綻んでいくのに、ものの数分さえ必要なかった。


 傀儡は動きを止め、役目を果たしたように下を向く。

 ……と思いきや、奴はそのままミラのほうへ歩んでいった。

 彼女の殺し文句を一文字も受け付けないさまで、たったの一点に焦点を当て続けながら。どちゅっ、どちゅっ。聞いたこともないような、泥を圧し潰す音が粘土人形の足裏から強烈に鳴り響く。

「え……えっ? 嘘……」

 完全に論破しきったと確信し見縊っていたミラにはその事実が拍子抜けするほど意外だったのか、彼女は途端に鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして立ち上がり、そして固まった。粘土人形が動き出したことに対して、ではない。粘土の末端に肉付けされた手のようなものが、明らかに粘土ではない物体を握りしめていたことに対してだ。艶々と光沢を放ち、蛍光灯の光線を見事なまでに反射させ、その鋭さを豪語するその物体。


 奴の手には、一丁のナイフが握られていた。


「……はあ? いやいや、本当に何なの。こんなの聞いてないんだけど」


 先ほどのミラの雄々しさは一体全体どこへ行ったのだろう。はっと目を見開いたときには、足は限りなく竦み、指は神経を撫でるようにびくびくと跳ね、頬を冷や汗が流れ、血の気が引き、鳥肌が立っていた。「別に怖くない」。そのミラの言葉が丸々裏返しになって頭から齧り付く。


 ミラは痺れた足先で踵を返し、真後ろを向く。見える景色が百八十度一転した。逃げる。ただ逃げる。でなければ死ぬ。そのことを理解してから実行に移すまでの瞬発力こそ良かったものの、全力で地面を蹴って逃げようとしたその束の間、ずっしり重い貫通扉の背面が行く手を塞いだ。

「っ……ヤバっ……⁉」

 最悪だ。ミラの脳内に続々と身の危機を告げる予感の文字列が羅列されていく。手探りでぎりぎり掴んだ取手に手をかけてスライドしようとしたが、悴んだ手指に力は入らない。ただでさえ重い扉は非力になった腕ではびくともせず、引き返せはしないことを一言一句丁寧に述べていた。開けられないと悟ったその直後、ミラは全力で扉を殴打する。

 がんっ。がんっ。がんっ。

「あ…………だ…………れ……か」


 誰か。誰かここを開けて。誰でもいいからここを離れさせて。

 強張った喉が出すことを許さない声を、心の中で叫ぶ。



 ふとミラが後ろを振り返ったそのとき、既に泥人形のナイフはミラの背に振りかざされていた。


「たす………………………………



 痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ痛いああああ


――ミラ――



 「っはあ゙っ⁉ あ゙……あ゙ぁっ……ゔ……あ゙…………」

 悲鳴になれなかった音だけが、しきりに喉から溢れ出ていた。

 体が熱い。正確に言うなら、背中の一部分だけがドライアイスを埋め込まれたように冷たく、それ以外の……頭や手、腹なんかの筋肉は、骨を支えるので精一杯なくらい火照り燃えている。そんな摩訶不思議な感覚は、ミラの胃酸が食道を通して上ってくるには十分な程度なほど気持ちの悪いものだった。

 ミラは口元をがっしりと押さえて、膝先を床に落とす。どうしようもないくらい壮絶な吐き気に溺れまいと抗い、とっぷりと汗みどろをしみ込ませた服の上から心臓に手を当てる。今朝飛び起きたときの胸の高鳴りが序の口だったと思えてしまうくらい、ミラの心臓は一秒間に幾度も跳ねていた。

 深く息を吸い、吐き、吸い、を繰り返し、やっと吐き気が収まる。

「何だったの……あれ……」

 そう言葉にして、濁った視界を周囲に振り回す。見えるものはさっきと何ら変わりない。白い壁、低い天井、揺れ動く床、踊り舞う吊り革。ここは、電車の中だ。先ほどと違う点があるとするならば、真後ろには乗務員室があるということだ。つまりここは、電車の中でも終端車両。ミラがここに、最初に乗り込んだ場所だ。

「でも私……あっちで変な奴に襲われて……いや、襲われた後に……」


 今のミラの頭を指で突く者がいれば、彼女の首から上は軽易に吹き飛んで行ってしまうことだろう。ミラにさえそう思わせるほどに一触即発のオーバーヒート状態になった脳内で、分かることをすべて思い出していく。友人と共に駅のホームで待機して。カワタレ線に乗って。キラの追憶に駆られて。先の車両で泥人形と出会って。気付けば刃物を振りかざされていて。そして、あの次の瞬間、猛烈な痛みが走って……。

 ミラの中で、とある可能性が萌芽した。


「…………もしかして、死んだ?」

 いや、そんなことはあり得ない。何があり得ないって、すべてだ。

『幻覚』だと思っていた存在に命を奪われるなんていうことも受け入れがたい話だが、それ以前のことが食い違う。仮に本当に死んだとしても、ミラは今こうして生きているというのだ。死ぬほど痛みが走ったし、殺されたと言われても納得のできる状況ではあった。だが今、ミラは生きている。死んだのに生きている。訳が分からない。死んだらそのまま地獄行きじゃなかったのか。そもそも背中を刺されただけで即死するのか。分からない。何も、分からない……。

 試しに右手を開いて閉じて、それを繰り返してみる。するとどうだろう、右の手のひらには、当たり前のように指や爪が擦れる触覚が伝わってくるのだ。触覚が途切れているような気配はまったく感じない。ここが神経の存続する彼岸でもない限り、ミラは今、生きていると言えよう。

「じゃあさっきのは何……?」

 眉を絞って自問するが、残念なことに自答する答えは持ち合わせていなかった。「背中を刺されて、ミラは死んだ」。正直なところ、そう考えるのが現状において最も妥当だ。あれだけの痛みを感じたのなら死が訪れてもなんら疑問は浮かばない。だが、ならなぜ今、ミラは生きている?


 謎の上に謎を重ねるように、前触れなく音が響いた。

『……近鉄カワタレ線をご利用いただき、ありがとうございます。この電車は天理行き、深夜特別快速急行です。次は、天理。天理です』

「はあ……?」

 それは一度聞いたはずのアナウンス。示された行先もまったくそのままだ。さらには、続けざまに『カワタレ線にご乗車中の美良様、山崎美良様。迷子の山崎輝良様が先頭車両にてお待ちです』という声まで聞こえた。まるでラジオの『初めから』ボタンを押したように、それは電車に乗ったときと全くもって同じものだった。

「なんで急に……ていうか、さっきから何なの?」

 今ミラに巻き起こっている怪奇。それは、既に流れたはずのアナウンス音声、気持ちの悪い泥人形。そして、死んだはずの生きているミラ。自分の理解の及ばない境地に立たされて、まるで煙に巻かれたみたいだ。彼女は左手で髪をかき乱す。彼女は右手を雑にポケットに入れ、そこからスマホをひょいと取り出した。画面を見るより先に電源ボタンを押し込む。既に弱光が放たれていたスマホに視線を落とすと、そこに表示された画面を目が処理した。ミラは連ねられた文字列をそのまま口に出す。


「午後九時五十二分…………あれ?」

 三秒となく、その違和感にピンと来た。そこに書かれていた時間の僅かな『差』だ。

 ミラがレイカと電車が来るのを待っていたとき、時刻は確か午後九時ちょうど。あれから四十分近く待って、さらに十分延長した。となるとこのカワタレ線に乗車したのは最低でも午後九時五十分余りでないとおかしい。ミラが初めに電車に乗り、キラのことを思い返し、泥人形に刺されるまで、体内時計の計算に依るなら少なく見積もっても五分はかかった気がする。その見積りが正しいとすれば、今は午後十時過ぎとなるのが正解のはず。

 だが、スマホに表示された時刻はそれを無言で否定している。午後九時五十二分。ミラの憶測で言うなら、その時刻はミラが初めにカワタレ線に乗り込んだときのものだ。

「時間が……戻ってる?」

 不可解極まりない状況に順応してきてしまった頭が、とうとう架空濃度百パーセントの自論を持ち出してきた。だが今度のミラはそれを「あり得ない」ことだとは思っていない。

 恐らくだがカワタレ線は、ミラが思うより何倍も『なんでもアリ』の存在だ。他人の記憶を勝手に覗き見たり、人殺し人形を練り出したりと、マヤカシという言葉では収まりきらないくらい、人間であるミラの想像力では追いつきがたいことを難なく成し遂げている。そんな自由度の高い『化け物』にかかれば、時間を逆行させるくらい容易いのかもしれない。ここまで現実から遠ざかった世界をたった一本の電車ごときが作り出しているのだから、その仮説は立証待ったなしだろう。

 ミラは試しに片手の指にもう片方の指を重ね合わせ、ぐっと力を込めて手の甲のほうに折り返してみる。すると、ポキポキと気持ちのいい音がした。ちょうど、数分前にも聞いた音だ。

「やっぱりそうか……」

 数分空けただけで、同じ指から同じポキポキ音が鳴ることは普通ない。だが今に鳴ったということは、とりもなおさずミラの体ごと乗車直後にリセットされているということなのではないだろうか。なにせ今、この状況は普通ではないのだから。その理論でいけば、刺された背中が完治していることにも、同じアナウンスが流れてきたことにも説明が付く。

 ……『タイムリープ』。この事象に名を付けるならそんなファンタジックなものになってしまうが、この場にはそれに頷けるだけの根拠があった。


 それらを一通り頭の中で整理したミラは一息ついてこう言う。

「……一回全部書き出そう」


 ミラは素早い手つきで肩から下げた鞄を床に下ろし、じいっとチャックを開く。中から筆箱を取り出すとすぐ、ペンとメモ用紙を引っ掴んだ。床にメモをぺたりと押しつけたミラは、今分かっていることをすべて書き出し始める。


(私が刺された瞬間に、ここへ乗車した直後へと時間が戻った)

 ミラはペンで数直線のような横棒を一本、その上に二点を記す。そして左の点の真上には「現在」、右の点の真上には「刺される」と書いた。その後、右の点と左の点を結ぶ弧を描き、左のほうを指す矢印を作る。


(時間が戻ったら体の状態はリセットされる。でも、それまでの記憶は持ったままだ。とりあえず、これをタイムリープって呼ぶことにするか)

 矢印の上には大きく『タイムリープ?』と書く。


(つまりは刺されれば刺された回数だけ、終点に着くまでの時間稼ぎはできるってことね)

 二点の間に時計を描く。針は若干左のほうが前の時刻を指している。


(でも問題は、あの泥人形か)

 ミラは数直線とは別に、横長の長方形をいくつか並べた絵を描いた。略図だから何でもいいと思っていたがあまりに抽象化されすぎてしまっていたため、横に小さく『電車の車両図』と書き足した。


(まず私は始め……要は今みたいなタイムリープ直後は、ここにいる)

 略図の最も左の長方形に棒人間を立てた。


(で、私が刺されたとき。私は一つ先に行って、そこであの泥人形と鉢合わせた)

 右へ矢印を伸ばし、一つ先の長方形まで引っ張ると、そこに別の小さな棒人間を書き加える。手の部分には包丁らしきものを持たせておいた。


(分かってるのはこれだけ。で、ここからは私の推測ね)

 ふう、と一息吐いたミラは再びペンを強く握る。


(泥人形とエンカウントしたときもそうだったけど、あいつは私のほうにゆっくり進んできていた)

 包丁持ちの棒人間の頭上に、短い左矢印を描く。


(それとは別に、私が刺される直前、二両目の先の貫通扉も、多分その先の扉も、私は開けてないのに勝手に開いていた)

 ミラは手にしたペンを一回転させる。


(てことは、よ。もしかしてあの泥人形、初めから私にちょっとずつ進んでるんじゃないかな)

 最も右側の長方形の末端に、点線で同じ包丁持ち棒人間を描いた。


(ずっと二両目で待機してたなら別の貫通扉は閉まってたはず。そうじゃないってことは、あれが開けて入ってきたってこと。あの速さなら私が乗って歩き出してからあのタイミングでようやく二両目ってとこか)

 ミラはペンの頭を一押しし、先端を仕舞った。頭の中で今まで出た情報すべてを結びつける。


(最終的な推論はこう。私がここに来た瞬間、あの泥人形は先頭車両からゆっくり私のいる終端車両まで近づき始める。で、どこかで私とエンカしたら殺しにかかってくる。それでもし刺されたら、乗車した瞬間に時間を戻されてリスタート。まあ……死に戻りゲームみたいな感じか)

 書き終えたミラは一呼吸置いて、少し離れて腕を組み、図とにらめっこした。うーん、と唸ったのち、こう言う。


「本当かあ……?」

 やはり見返してみると、あまりに推論がすぎるような気がするのだ。これらすべては、不確定要素の多い中で「多分こうだろう」を貫いたようなアイデア。他の可能性は十二分に存在するし、そもそもこれが絶対無謬なシステムである保証などどこにもない。タイムリープなどという考えに至っては、ミラの現代ファンタジーの読みすぎに由来するものだ。もちろんゲーム的な思考に関して言えばよくできたプログラミングだが、まずまずカワタレ線はゲームではない。いくらシステムがそうだったとしても、ゲームとは違ってプレイヤーのミラには痛覚も恐怖も肌で感じられてしまう。根本的に、単なるスリリングなゲームとは違う緊張感があった。そういうリアリティも加味して、ミラの仮説は蓋然性を尽く欠いているようだった。


「けど、賭けるしかない」

 ミラは思い出したようにペンを握り直し、床に伏し、メモに新たなことを書き足した。

 右側の先頭車両の長方形、点線の泥人形よりさらに奥に、一回り小さな棒人間。すぐ隣に書いたのは、キラ、というたった二文字だけ。今の今まで忘れそうになっていた、何より大切なこと。

(第一目標はキラを見つけること。とにかく先頭車両に向かわないと)

 ミラはメモとペンを鞄に入れて、またも前を向く。前方には合わせ鏡にされたような貫通扉の列が、ずらりと一直線に並べられていた。あれを五、六回ほど開けた先——先頭車両に、キラはいる。信用できる理由は一つもないが、そう信じてミラは前へ進むためその場を去ろうとした。

 そのときだった。


 ————ガラン。


「おっ…………とぉ……思ったより早いな」

 ミラから最も近い場所にある貫通扉が、俄然開いた。無論一人でに開いたのではない。見るまでもない、あの泥人形が、ナイフを持っていない不定形な手で扉を開けていたのだった。とぼとぼと頑なに足を止めない奴の頑固さは、どこか機械的で、人間味を欠如した異質さを纏わりつかせていた。

「やっぱ当たってたか。あいつは等速でこっちに向かってくるんだ」

 苦笑するようにそう言う達観的な彼女だったが、そのこめかみの辺りからは冷や汗が流れていた。


 戻ろうがそうでなかろうが、刺されたら一度は死ぬ。

 そして、死ぬのは、死ぬほど痛かった。

 ミラの心が、もう死にたくないと囁いた。


 ミラは凛々とした空気を吸って、温もった二酸化炭素とともに吐き出す。

「じゃあ、避けてやるよ……!」

 言い切るかそうでないかのタイミングで、ミラは鉛直方向に落下するかのように姿勢を低くする。助走を悟らせる一秒も許さず、前方へ駆けだした。セットした髪の毛も勿体ないほど簡単に後ろへ引っ張られる。決して鳥のごとく疾風のごとくとはいかなかったが、ミラには確実に胸が空気を切る音が聞こえた。びゅんっ、と鳴る一瞬のうちにさえ、視界の中の泥人形の姿がさらに大きくなっていく。

 泥人形は、手にしたナイフを振りかざした。

 あれが突き刺されば即死。あれが突き刺さればリセット。

 あれが万一顔にでも突き刺されば……。


 ……今だ。

「っ…………‼」

 ぶぉん。


 空気を切る音が木刀を振り下ろしたときように鋭くなる。そうしてミラの体が最も速度を上げた瞬間を、ミラ本人は見ることができなかった。咄嗟に目を閉じてしまったからだ。暫時真っ暗な中で勢いを殺さずに突っ走っていたが、次第にゆっくりと減速し、体の緊張が少しだけ収まったくらいで足を止める。手の戦慄きをそのままに、恐る恐る目を開く。視界が明転すると、そこには何もいなかった。ただ真っ白な電車の床が広がっているだけだ。その光景と同じようにミラの頭も暫く真っ白になる。だが間もなくして、ミラははっと後ろを振り返った。

 そこには、泥のこびりついた奴の背中があった。肩の上からは、ナイフを虚空に伸ばしたまま硬直する泥人形の腕のようなものが覗く。ミラとの距離はおよそ車両の半分といったところだった。

「あっぶな…………」

 人形のナイフの振りがあと少しでも正確だったなら、ミラは大体喉仏の辺りを貫通させられていたことだろう。そう考えるだけで、ミラは背筋と肝を凍らせた。その上どっと汗をかいたものだから、今のミラの背中は極寒だ。

 そんな彼女を尻目に、泥人形はまたも肉体らしき物質をうねうねさせて、首として見て取れる部位を右へ左へ動かした。辺りを見回しているつもりなのだろうか。何かを探しているようにも見える。数秒間それが続いたのち、人形はナイフを下ろして再び俯き、とぼとぼとミラと真逆の方へ歩いていった。


 その姿を見て、ミラはへなへなとへたり込んだ。全身の筋肉が任務を遂行しきったように弛緩する。背中を打撲する前に床に手を付けたのが唯一の救いだが、もう体は動かせない。ただ短い呼気を漏らすほかに身体を休ませる方法はなさそうだった。瞬きの多い目を床に落としてみると、そこにはあの泥人形が移動した軌跡と思われる泥がべっとりと付着していた。ちょうど、ミラが尻を置いている場所にもそれがあるようだ。

 ミラは顔を歪めて立ち上がる。お気に入りのジーンズの背面には、謎に包まれた粘土色の物質がへばりついていた。

「うわ……待って最悪なんだけど……」

 まさかミラは自分が死んだことよりも服が汚れることが嫌だったのか、そう思わせるくらい嫌そうな顔をして震え上がった。それを手で払うようにして汚れを取ると同時に、ミラは前方に向き直る。純白だと思っていた床も、よく目を凝らして見てみれば手のひらくらいの大きさの泥の点が奥からずっと続いていた。おまけと言わんばかりに、先の貫通扉は開いて、そこには一際大きな泥溜まりが形成されている。

 なおも苦虫を噛み潰したような顔をして、ミラは言う。

「最悪……だけど、これで終わりじゃない。キラを、迎えに行くんだ」

 ミラは淡々と泥の跡を追う。一歩一歩、それに歩幅を合わせるように。

 泥はミラの歩幅とぴったり合致する。右足を伸ばした先を予知しているように、踏みしめる地面には泥が待ち構えている。それを踏みつぶしてまた左足を伸ばすと、そらまた泥を踏む。車両同士の連結部分にある泥溜まりを除いて(そのときは足首まで泥を浸からせて)、何度も歩幅合わせを繰り返す。それはまるで、手を繋いだ誰かが歩いたところをなぞる、そんな和気藹々とした遊びを彷彿とさせる。その分、ミラの頭には過ぎるものがあった。

「…………今はどうでもいい。とにかく先を急がなきゃ」


 *


 先を急いで何分としないうちに、泥の足跡が終わった。背を曲げて床だけを凝視していたミラの視線の先と、足裏を引っ付けた先に、泥がなかったのだ。散々汚されてきた靴の裏が、今度は床を汚すほうになる。それがどういうことか、理解するためには周りを見渡す必要もない。それはとりもなおさず、今、ミラは電車の先頭車両にいるということだ。


 キラがここにいる。カワタレ線はそう言った。

 そしてもう間もなく、顔を合わせる瞬間が来る。


 三年間隔絶された姉妹。それだけの時が経てば、ミラもキラの顔を鮮明に思い出すことが難しくなっていた。ロック画面で笑う妹をそらで描けなくなっていることが、ミラは怖かった。いつの日か記憶は塵になって風に吹き飛ばされてしまいそうだった。

 だからミラは、ただ待っていたのだ。キラと再び会える日を。


 ————ミラはゆっくりと顔を上げる。


「……なんでよ」

 顔を上げた先に、キラはいなかった。


 そこは『乗務員室立入お断り』と書かれたプレートを額にくっ付けて進行方向の風景を透かす窓が広がるばかりだった。キラどころか、人のいた気配さえない。一周ぐるりと見回しても、人の姿は窓に反射したミラの像だけだ。希求していた妹の姿は、霧散するように打ち砕かれる。理想も、期待も、あったもんじゃない。

 キラなんていない。カワタレ線は嘘を吐いたのだ。


「……いや、違う。嘘じゃない。キラは本当にここにいたんだ」


 ミラは独り、そう言った。

 そこに根拠はない。否定できる材料も証拠もない。キラの居場所なんて、冥界でないのだとしたら分かりっこない。

 それでも、ミラには『解る』のだ。最後の泥の跡にぴったりと足を重ねると、解る。見たこともないホログラムの形を借りて、自分と同じ立ち位置に佇むキラの偶像が、目以外の場所で見ることができているというのだ。その光景が実際に起こったことだということも、ホログラムもどきは教えてくれた。なぜかは伝えず、心に直接信じさせる方法で。

 要するに、ミラが感じたことは「キラがここにいた」ことだけが、「何となく」解るなどという不確定極まりないことだった。


 モヤモヤした気持ちのミラは、持てる最大の疑問を吐露した。

「じゃあ今はどこにいるのよ……」

 そう。かつてここにいたという事実だけが漠然と解るのに対して、不都合なことに今キラがどこに居るかはさっぱり分からないのだ。あと少しというところまで続いた想像が、もどかしくて堪らないくらいぷっつりと途絶えている。なぜそれだけが『解る』のか、原因の究明がしたいのも山々だったが、それ以上にミラには妹のどこへ行ったのかを知りたいという感情が青天井に募っていたのだった。

「とりあえず、探しに行かなくちゃ……」

 そう口にした、折も折のこと。

『まもなく、天理、天理です。この電車は、この駅までです』


「あ………………」

 キラの居場所やら何やら思考の錯綜していた頭が、新たな情報で上書きされる。ホワイトアウトした脳が、ポケットからスマホを取り出すよう命じた。カチッと電源を入れて見えたのは、『午後六時零分』の文字。

 徐々にその真の意味を理解しつつあったミラは、ゆっくり二歩分歩み出す。その先は、くるりと百八十度方向転換した方向——今まで来た道の続く方向だ。ミラはもう三歩分進む。こっこっ。足をだんだんと速めていく。早歩きになり、小走りになり、ついには床を勢いよく蹴り出した。いきなり強く動かしたことで足の裏が攣りそうになる。それでもミラが目指すのは、自分が初めに乗った終端車両だ。

 もちろん考えなしに後戻りしているわけではない。

 彼女は今、泥人形目掛けて走っているのだ。


『マヤカシを見たまま終点に着くと、乗客はその魂を奪われてしまう』

 レイカからの話で最も鮮明に覚えているのがその言葉だ。要約するまでもないが、最大限噛み砕いて言えば、終点に着いたらミラは刺されて死んだかどうかに拘わらず否が応でもゲームオーバーということだ。初めは「乗ってしまったのだから甘んじて受け入れるべきだ」と思っていたが、今は違う。まだミラは、キラの居場所を知らないからだ。実の妹が手の届く距離にいたまま、「終点に着いたので終わりです」などという顛末が来ることを、ミラは毛頭受け入れるつもりがないのだ。


 ゆえに。


 *


「間に合った…………っ‼」

 既に減速を始めている車体、その窓からちらと外を見れば、まさに駅のホームらしき建造物に突入しているところだった。もう数十秒もすれば、仰々しい音を立てて扉が開く頃だろう。そうなればミラの激闘は呆気もなく幕を閉じる。そんな危機一髪の隙間を縫った今、ミラは爆速で床を駆けていた足を急停止させていた。大きく勢いを殺したミラの腹の前にいるのは、たった一体の泥人形。攻撃を躱されたことで標的を見失って、ぐったり真下を見ている。握りしめたナイフは銀ギラに、蛍光灯の光を反射していた。


 もう二の足を踏んでいる時間は残されていない。ミラは泥濘に覆われた人形の、人間で言う肩のような部分を揺さぶって言った。

「ちょっと! ねえアンタ! 殺したいヤツならここにいるからさ! ほら!」

 電車が大きく揺れ、同時に速度がもっと緩やかになってくる。ミラは冷や汗を額に流す。強引に傀儡野郎の目を引こうとするが、果たしてこんなフィジカルな手法でも効果はあるのか。そう憂いだのも束の間、錆び付いた蝶番を力任せに折るみたいに、泥人形の首がミラの方を向いた。貫通した目が彼女の眼を捕まえる。異常で不可解な光景に、何度目かも分からないぞっとした恐怖感を憶えた。ミラは思わず半歩後ずさりして言う。

「で、できるんなら刺してみなよ」

 手を広げて胴体をがら空きにする。この無防備なミラを、泥人形はいつでも刺すことができるだろう。彼女の目的もそれだった。


(痛いけど……早く死んで、時間リセットしないと……)

 刺されたら時間が戻るからやり直しがきく、という希望。それは単なるミラの仮説から生まれた幻のようなものだ。もしかすれば初めに時間が戻ったのは、どこぞの神か何かの気まぐれかもしれないし、再び発生する保証はない。つまりこの行為は、失敗すれば取り返しのつかない最終手段——もとい、ミラの仮説が正解していることに賭ける、伸るか反るかの博打というわけだ。だがミラは、その博打に挑戦することさえ難儀している。彼女が最悪の窮状に立たされているという事実はどうにも変わらないようだった。

 顎の先端より床に流れ落ちた汗から目を背けるように、右側の窓から外へ目を遣る。『天理』と書かれた駅看板がゆっくりと視界の端を流れていくのが見えた。危機感に早くされた脈拍が、より多くの汗を体外へ排出する。加えて、電車の揺れは一秒一秒さらなる衰弱死を見せつつある。完全に動きを止めるまでの秒数は、片手で数えられてしまいそうだ。

 ミラはごくりと生唾を飲み込む。冷えた指先の震えが止まらない。

(早く刺して……っ!)



 ふと視線を泥人形のほうに戻すと、まるで「また会ったね」とでも言いたげに、奴はナイフを振り上げていた。


 ミラはそれを知った一瞬の間に、目を大きく見開き、ぎゅっと閉じる。


「んっ………………‼」



  待って、まだ 行けるか?


 やっぱり怖い      どうしよう


      覚悟を決めないと


  まずい   でも   早く



  時間がない  やばい



  あとちょっと


  大丈夫


    何とかしないと


    あっ




 ————ぐちゃり。


――ミラ――



「痛…………ぁっ……‼」

 頭と体を繋ぐ太い幹に、ミラは両手をぐっと宛がう。止血する要領で強く押さえてはいるが、これと言って出血はしていない。ただそれほどの痛みが——それこそ断頭台で処刑されたかのような痛みが、ミラの頸椎にまで染み込んでいた。

「はあっ……うあ……アイツ……何で首刺すんだよ……いっ……て」

 目から沸騰した涙が零れ出る。口からは湯気のような呼気がブロアーのごとく吹き出ている。耳が燃え、脈が狂ったメトロノームのリズムを真似して不整になる。たったの数分前に感じた吐き気が、またもミラを胃を襲った。


「……でも、これでようやく分かった」

 ミラは周辺を見渡す。白い壁、低い天井、揺れ動く床、踊り舞う吊り革。そして真後ろには乗務員室。間違えようもない、ここはミラが始めに搭乗した場所、換言するなら、今さっき刺された場所だ。泥人形はいない。窓から見える光景は、少なくとも終点の駅ではない。ミラはスマホを取り出し電源を付ける。ロック画面の時計が教えてくれた時刻は、『午後九時五十二分』。それが意味することは、『あれ』が神の気まぐれでない必然だということだった。

「『タイムリープ』……やっぱり私の仮説は当たってたんだ」


 今一度ミラは、頭の中でこの現象をおさらいする。

 開始時刻は午後五時五十二分。その瞬間から電車は走行を始め、おおよそ六、七分かけて終点へと向かう。その間にミラが泥人形の持つナイフで刺されてしまったら、無条件で午後五時五十二分へと身体ごと逆行する。持ち物もすべて『一回目』でのその時刻のものになってしまうから、メモを書いても持ち越せない。したがって知り得た情報は頭で整理整頓しておくほかなさそうだ。先ほど懸命に図まで示したあのメモも、ミラの手元からはしっかり消えている。そして忘れてはいけないのは、終点に到達してしまうとそこでゲームオーバーということだ。午後五時五十二分から午後六時零分までの短いタイムリミットで、仮にミラがミラなりの目的を達成できなければ、嫌でもナイフで刺されなくてはならないということになる。疑わしいほど出来上がった話だが、何より疑うべきはそんなファンタジックな設定が実在してしまっている現状と、それを可能にしているカワタレ線の存在だ。

 何でもアリの噂の代物、まさかとは思ったが、こんなことまでできてしまうのか。改めて、ミラは過去から続く夜の脅威を知った気がした。

 そんな夜の化身は、三度目の呟きを滴らせる。

『……近鉄カワタレ線をご利用いただき、ありがとうございます。この電車は天理行き、深夜特別快速急行です。次は、天理。天理です』

「……何が何でも四度目は言わせない」

 決意表明の言葉と共に、彼女は握りしめていたスマホをポケットへと仕舞う。がら空きの左手の四本指は手のひらと親指の中へと固く握り込み、寸分の狂いもなく顔を真前へ。視線の矢印の先端は何枚かの扉に阻まれた先頭車両を捉える。揺れる床はミラを嫌ってでもいるのか、のべつにミラを横転させようと奮っている。されど、ミラはそんな些細な嫌がらせなど眼中にもない。ただあの泥人形だけを掻い潜って、キラを見つけ出す。その他のことはすべて度外視していたのだった。

「絶対、見つけ出すから」

 ミラはまるでそれが自らの天命だとでも言いたげに、志じみた一歩を踏み出した。


 *


 ねえねえ、おねえちゃん。

「どうしたの? キラ」

 おねえちゃんの好きな数字はなあに?

「えー、何急に! あ、それ、またクラスで流行ってる占いとかでしょ?」

 違うもん! ねえ、教えてよ!

「はは、分かったよ。そうだなあ、好きな数字……三、かな」

 それってどうして?

「ほら、お姉ちゃんの名前、ミラでしょ。三は『みっつ』とも読めるから、何だか似てるなって思って」

 え〜、意外! お姉ちゃんっぽくない!

「そうなの?」

 うん、意外。

「そっかあ、じゃあキラは何が好きなの?」


 キラはね…………


 *


 古臭い記憶の本棚からゆくりなく落ちてきたのは、キラと交わした会話の中でも新しめのものだった。それを思い出したわけは紛いもなく、これまでに経たタイムリープの回数に由来しているのだろう。

「これで九ループ目……」

 今までに八回、ミラは泥人形の持つナイフによって刺し貫かれた。彼女はその数分毎の経験を、痛みと併せて容易に想起できる。


 乗車時から数えて三回目、ミラは先頭車両を目的地にして、敢然たる疾走を見せつける。両脇を真っ赤なカバーをした座席が四回流れてゆき、窓からは月明かりが汗ばんだ頬を控え目に照らす。そうかと思えば、車体がトンネルの中へと切り込んで、灯りは車内のものだけになってしまった。目のチカチカする空間を力走して、先頭車両より先に到着するのは、道中に佇む泥人形の元。二度目の勇気を鼓舞すれば、奴の攻撃を躱すくらいはミラにもできる……と、彼女は軽く見積もっていた。だがどうやら、油断のうちに体を明後日の方へ翻してしまったミラの脇腹を突き刺すくらい泥人形には易かったようで、隙を突かれた一撃は華麗にミラの肉に穴を空けた。鈍刀の重い斬撃が胴に走る。目を開けると、既にそこは終端車両だった。

 「そんなことある……?」と小言を零したミラは、ループ四度目にして『ナイフを避けきれない』という情けない可能性を考慮のうちに入れた。先ほどと同様に走る電車の中を走り、迎えた泥人形とのご対面。今度こそ、と正確に体を縮めて勢いを生きたままにすると、茶色の腕から伸びた刃物はミラをすり抜け、その先まで一直線で走り抜けることができた。余韻に浸るでもなく足を休ませずにいると、二度目の数倍は早く先頭車両にたどり着いた。そこにキラはいなかった。それも予想通りと言えばそうだ。長期戦を持ち出してくるカワタレ線が、この程度で簡単にキラを差し出してくれるはずがない、ということは既に前提としていたからだ。ミラは気を切り替えて、今まで奔走してきた車内をくまなく捜索してみる。と、思い立ったのはいいものの、確かその辺りで終点に着きそうになり、終端車両にいた泥人形に刺されに行ったのだった。ぐさり、胸の刺し傷がむしろ軽快な効果音を奏でる。目を開けると、既にそこは終端車両だった。

 ループ五回目辺りから、ミラはあることに気がつく。刺されたときの痛みが、少しずつ和らいでいっているのだ。もちろん激痛に変わりはないが、初めは全身が鋏でちょきんとされたのかと錯覚してしまいそうになるくらいの鋭痛であったのに対して、直前のものはミラの人生で最も重かった生理痛と大差ないほどであった。どうせ死ねば戻るからという理由で脳が痛みを必要としなくなったのか、単に痛覚を伝令する感覚神経が慣れてきてしまったのか、詳細は分からない。ただミラにとってはこれが『嬉しい誤算』であることに間違いはなかった。それからまた揺れ動く床を駆け抜け、泥人形の殺意を華麗に回避し、先頭車両へ行く。キラのいない、ただキラがいたという事実だけが解る、あの車両へ。引き返し、ない草の根まで分けて探してみても、車内で生物的な挙動を取るものなんてミラと泥人形くらいだ。それほど人間味のない電車の中、やはりミラはキラを探すのだった。

 六回目も、七回目も、八回目も、ミラは同じようにキラを探す。制限時間が迫りきて、あえなく時間を戻す。走り疲れて避けきれなかったナイフによって、不覚にも時間を戻される。いずれにしても、ミラはこの回帰から抜け出せないでいた。

 元来ミラの目的はループからの脱出ではなくて、キラを見つけ出すことである。キラに一目でも再会させてくれるのなら、その代償として、あるいは乗車券として、はたまた後払いの運賃として、そのまま潔く自らの魂をカワタレ線に放り渡そうとまで思っていた。だがここまで焦らされ、挙句の果てには約束を不履行にされそうになり、自分の記憶を弄ばれては、流石のミラも心変わりは不可避だ。何としてでもキラと会って、その上でこの苛立たしい電車から抜け出してやる。そういう気概が、今のミラにはあった。


「……そろそろ終わらせよう」

 九回目。ミラは、先頭車両でそう呟く。

 二つの泥の跡にぴったり両足の裏を貼り付けたミラの全身を、「キラはここにいた」という確固たる情報だけが実感を持って飲み込んでいた。堰を切ったように押し寄せるイメージの中、今も彼女の脳内には自分と同じ場所に立つ実妹の姿が流れ込み続けている。艶めいた髪がてらてらと光を反射し、スリムなボディラインを誇示する、されど儚く散ってしまいそうな姿を。

 自らの居場所を悟らせない泡沫のキラ。その行く先を、誰も教えてはくれなかった。


 ミラはスマホを取り出した。画面に映る現在時刻には、もはや興味も示さない。ただ茫然と眺めるのは、ロック画面の壁紙に住む画素たちが犇めきあって形作られた、キラの姿だけだった。頭で流れ続ける古びたフィルムのような記憶、その中にいるキラと、視界に映る一枚のキラ。どこかで二つの思い出の形が重なったような気がした。霞がかって思い出せないほど奥深くに押し込んだメモリフォルダと、たった七百八十ピクセルの中でだけ息をするキラの笑顔。それらが思い出なんていう古臭いものと混ざり合って、ミラの意識は過去へと吸い寄せられた。

 ミラはスマホの電源を落として、そっと目を閉じる。集中して、神経を記憶に寄せ集めて。もう彼女には電車のガタンゴトンという騒音も聞こえない。ただ破損した音声ファイルを強制的に再生するように、忘れかけていたキラの声を追憶していた。


 *


 キラは小さかった。ミラの二年前より一回り、いや、二回り程度だろうか。立派で大らかな性格と相反するように、幼い体躯をくるりと見せながら、今日も彼女はお遊戯に疲れて、帰り道に立っていた。

「お姉ちゃん、明日、パパとママとお出かけするの!」

「そうだね、楽しみ! キラは楽しみ?」

 微笑みながらそう聞けば、キラは破裂しそうなくらいの笑みをぷかぷか浮かべて言う。

「とーーっても、楽しみ!」

 ミラはその光景が何故だか可笑しくて、嫌なことも、辛いことも忘れて、大笑いする。学校では見せたことがないくらいの哄笑も、キラが隣にいれば何の恥ずかしさもなかったのだった。

 キラはミラと手を繋いで歩く。彼女より幾分か大きいミラの歩幅に合わせて、とっぽとっぽと軽快なステップを決める。そのリズムがお気に召したのか、今度は両腕を大きく縦振りし始めた。手の繋がったミラの左腕も自然と同じくダイナミックな動きをする。それもまた可笑しかったのか、二人は合図もなしに同時の大笑いを決め込んだのだった。

 家に帰っても、翌日になっても、ミラはキラと歩んだあの帰路を忘れられなかった。たった一日の思い出なんてキラはとうに忘れてしまっていただろうが、ミラにはあの肝胆相照らした瞬間が何か大切な意味があるように感じて、あのときの歩幅も、あのときの腕の高さも、ミラをじっと見つめるキラの視線も、ちょっと物足りない身長も、刹那たりとも忘れることはなかったのだった。


 *


 過去の思い出話にしては、やけに短い回想だった。ただ外で遊んだ後の帰り道、何気ない数分の出来事。全力で意味ある記憶を抜き出した結果、溢れ出てきたものは日常すぎる思い出なのだった。

 だからこそ、ミラは理解した。

「そっか、そういうことか」

 ミラは目を開ける。トンネルを抜けた後のように見える世界が明転して、視界が何秒かぼやけた。物思いに耽ったような顔で、視界が元に戻るまでを身じろがすに待っていた。冷たい空気を入れ込んで、温かい肺の空気を押し出す。ミラのするべきことはもう決まった。迷いはない。雑念はない。あるのは一筋の理解と、回顧の念だけだった。ミラを心臓から突き動かすものは、そういう「掴んだら靄になって消えてしまう」ようなものだった。何より頼りなくて、何より確実に存在するものだった。

 ミラは後ろを向く。次の瞬間にはもう、足が前方の床を引き寄せていた。後ろ足は斜めに地を押し蹴り、前足を悠々と追い越す。後ろ足となった前足も同じことをして、ミラの体はゆっくりと来た道をたどり始めた。ぐんぐん、歩みは走りになる。脇腹の隣で小さく腕を振ってみると、鼻先と肩が風を切る音が鼓膜を何度か揺らした。泥のたっぷり溜まった道を滑走路に、ミラは疾駆を続ける。走りにくい革靴の中で靴下に包まれた足が熱くなる。蒸れているみたいで気持ちが悪いが、そんな理由ではミラは止まらない。既に扉の開いていた貫通部に体をねじ込んだら、次は道幅の広い車両の中を全力疾走。誰もいない車内でそれを繰り返すと、思ったより早く〝目的地 に着くものだ。先頭車両でない目的地、それは二回目のループと同じ。ループの開始地点、もとい終端車両だ。

 最後に体をねじ込んだミラは、きゅっと音を立てて急停止した。慣性がミラを前に押し倒そうとする。一歩踏み出して何とか耐えて、体の重心を落とした。突然に収まった運動はミラの呼吸を荒々しくする。肺の欲が満ちるまで息吹を繰り返すミラ、彼女が立ち止まった先に見えるのは、たった一体だけの泥人形だった。ミラと比べれば、一回り、いや、二回り小さいだろうか。片手にナイフを握り締めたまま脳天のつむじを壁に押し付けて、まだ道があると勘違いしているかのように同じ場所を何度も何度も足踏みをしている。動くたびに体の泥が零れ落ちているからだろう、奴の足元には柔らかで汚い泉が形を成していた。

 ミラはその姿を少しだけ見つめて、また息を吐いた。呼吸はもう整っている。焦ることは何もない。ミラは、今度はどこまでもゆっくりと、泥人形に近づいた。こつこつ。電車の揺れる音は空気を読んで、文字通り鳴りを潜める。ミラの革靴の音が泥人形の耳にもしっかりと伝わったであろうそのとき、奴はミラの方へぐりっと首を捻じった。奴の視線は一切の隙もなくミラの眼窩を貫く。だがそれは、睚眦の眼ではない。それは無邪気な子供が好奇心を自制しながらじっと見つめるような眼だった。

 やっぱりだ。奴がミラを捉える目には、恐怖と別の懐かしさがある。


「……ねえ」

 口に出した途端、奴はミラに発言の余裕も与えずに、泥まみれの腕を振り上げてきた。ミラの知っている、あの懐かしい高さまで振り上げた。殺意の籠った右腕が蛍光灯の光を隠して、ミラの顔面に影を作る。ここで刺されてしまえばまたやり直し。痛みを伴って十回目の午後五時五十二分を迎えることとなる。もちろん二回目のループはそれが目的だった。あのとき、この行為は終点に着かないようにするための手段に過ぎなかった。だが、今は。

「……そうじゃないんだよ……っ!」

 ミラは振り下ろす直前の静止した右手首を、絞めるように強く固く締めた。泥の中に埋もれた不確かな肉体を、強く、強く。人間と傀儡、両方が驚いたように目と孔を大きくする。握り込まれたナイフの刃は、数センチ先にズレでもすればミラの手は簡単に皮を裂くだろう。そうしたくて堪らない泥人形はより一層右腕に力を込め、その数センチをさらに縮めていく。カタカタと金属の高い音が震えに準じて小鳴りした。鈍く重い腕力が、ミラの腕力と直接対決を始める。両手に泥が絡みついて、爪と指の隙間に銅色の粘土が食い込んだ。

「く…………っ‼」

 彼女の非力な筋肉がぷるぷると小刻みに揺れる。こちとら二本腕で全体重をかけているというのに、奴の片腕による力のほうが強いだなんて。

 このままでは、いずれ押し負けて『ぐさりタイムリープ』だ。

「ねえってば‼ 私の言うこと聞いて‼」

 ミラの吸った空気を全て押し出すくらいの大声でそう叫んだ。奴に言葉が通じないということを、ミラは今まで直感的に理解していた。現にミラの必死の声を聞き入れたところで、腕の力が弱まりはしていない。仮に音が聞こえていたとしても、言語を交換するのは難しい。そう思っていた。だが、もしかすれば、そのバイアスは間違っているのかもしれない。

「私には分かる。アンタは人形なんかじゃないんだって」

 腕力がさらに強くなる。こっちに来ないようにするので精一杯だ。

「アンタのその体も、力も、歩幅も、腕の上げ方も、見つめ方も。私は全部知ってる。私が、アンタのことを誰より知ってる」

 ナイフのカタカタ音が大きくなる。ミラは歯を食いしばる。

「カワタレ線は必ず初めに『キラが先頭車両にいる』と言う。でも実際に先頭車両にはいない。ただ、ここにいたことがあるって解るだけ。それがどういうことか、ようやく分かったよ。アンタは初めに先頭車両にいて、ここに近付いてくる。だからカワタレ線の言ったことは嘘じゃない」

 そう言って、ミラは唯一の支えにしていた腕をふっと離す。抑えがなくなった右手は、そのままミラの背を目掛けて振り下ろされた。

「分かってる、アンタが…………」


 同時に、ミラは泥人形に抱き着く。

 奴の右腕から放たれそうになっていた斬撃は、ミラに届かなかった。


 ミラは言った。ようやく分かった真実を。


「アンタが、キラなんでしょ」


 泥人形はその言葉を聞いて硬直する。今まで必死で殺そうとしていた相手が無様に背を差し出したというのに、奴は振り上げたナイフを宙に浮かせたままにしていたのだった。


「ねえ聞いて、キラ。私のこと覚えてる? 私の名前、分かる?」

 懸命に問いかける。返答はない。ただ奴は動きを止めて、同じ場所に泥を溢れさせるばかりだった。

「私は……キラのこと覚えてるよ。楽しかったことも、笑った思い出も」

 奴が動く。振り上げた腕を、ミラの体を避けて降ろした。だらんと垂れた右手のひらからナイフが離れる。それは鋭い音を立てて床に落ちた。

「ずっと変わらないね。背とか、癖とか、何もかも。生きてた頃とホントに何も変わってないじゃん」

 人形の顔に空いた目のような孔から、ぽたりぽたりと透明な液体が滴り始めた。それは抱き着くミラの肩を濡らす。どこか温かいように感じられた汁は、ミラの目からも滴っていた。

「キラは忘れちゃったかもしれないけど……私はずっと覚えてる。そうじゃなきゃ絶対気が付かなかった」

 ミラはその言葉が言い終わるか否かといったところで、抱き着いた奴の中に確かな体温があるのを感じた。無機物ではない、生き物特有の、優しい温もりだ。

「だからさ。こんな泥まみれじゃなくて、元のキラに戻ってよ」


 そう言った次の瞬間、人形を包み込んでいた泥が〝剥がれた〟。

 ごぽごぽ、排水口から水が湧き出るときの音を奏でて、ありったけの泥をすべて床に落とす。もちろんミラが抱いている箇所も例外ではなく、とうに茶色を塗りたくられた腹面に重ねて泥が降りかかった。されどミラは抱擁をやめない。泥の排出が繰り返される度に、抱え込んでいる体温がはっきりするような気がしたからだ。何の温かみもない粘土がすべて床に落ちたとき、目の前の人形は人間になる。そんな気がしていたからだ。

 ごぽっ。最後に一発大きな音を立てて、辺り一帯に泥をぶちまける。その勢いに負けたミラは思わず腕を離す。顔面に飛んでこないようにとガードしていた腕の隙間から、周囲が見えた。白色だった壁も、紅色だった座席も、カラフルな広告の紙面すらも、気付けば土色に染め上げられている。そんな中、ミラの視界の中でたった一つ色彩を保てていたものがあった。


 短く整えられた緑の黒髪。黒曜石を埋め込んだような深みの迫る瞳。すっと通った鼻筋。シルクのような仕上がりの肌。傾城傾国のモデルのような顔たち。彼女の純真無垢さが簡単に察せる背丈。その清麗さには物足りない瀟洒なワンピース。美脚を象徴する両膝までを覆った靴下。無駄な修飾をするアクセサリーなんてものはない。

 人の姿をしても生気の感じない彼女の姿は、息をする骨董品だった。

 そんな様で、少女はどこまでも麗しく、そこに立っていた。

「久しぶり。キラ」

 少女、キラは、そこに立っていた。

 キラはひどく面食らったような顔をして、口をぽかんと開けている。それでも美しいと思えるのだから、笑いでもしたら大変なことになろう。


 ミラはもう一度抱き着く。泥人形にではなく、キラに。

「キラ……っ」

 ばさっと体を覆われたキラは、何も言わずにそれを受け止める。ミラの全身に付着した泥も、キラには張り付かず落ちていった。

 この体温。この感触。この匂い。この体勢。すべてが懐かしい。たかが三年前が、悠久の時のようだった。もう感じられないと思っていた夢のような心地が、今ここにある。今ここに、キラがいる。これはカワタレ線のマヤカシかもしれない。でも、偽物ではない。

 あまりの旧懐に、ミラはぎりぎり抑えきれずにいた涙を、抑えることをやめてしまった。滝の如く流れ出したそれは汗になるはずだった体内の水分も奪って、足元に溜め続けられた泥をより柔らかくする。

「キラ、キラ。私、キラのお姉ちゃんだよ」

 分かり切ったことを口にするミラの真意は、言葉一つで簡単に名状できるものではなかった。


 突然、キラの口が動く。

「オ…………」

 そこから、言葉ではない音の声が飛び出てきた。

「…………え?」

 キラの唇はそのときから合わさったり離れたり、何かを言いたげにしきりに動いていた。キラがミラに伝えようとしていることは、短いメッセージのようだ。ミラはキラと同じ高さに屈んで目を合わせる。

「なあに、キラ」

「オ…………」

 ぽつり、零された言葉はあまりにちっぽけで、それでいて重たかった。


「オネエ……チャ……ン……」

「は………………っ」

 ミラは胸を撃ち抜かれたように驚く。理解の追いつかないスピードで為したキラの発言は、ミラの目の縁に留まっていた涙も押し出した。歯止めの効かなくなった涙腺が彼女の心情を一隅まで物語る。ミラは作法も礼儀も忘れたように、勢い任せてキラにしがみ付いた。

 小さな体に文字通り身を預けたミラの姿は、ひょっとしたらキラには情けない姉として見えたのかもしれない。いつまでも過去を引きずるミラに、キラは呆れてしまったかもしれない。ほんの少し先に逝ってしまった家族を弔いもせず阿呆のように悲しみに打ちひしがれて、自らの命の価値まで哀惜に委ねてしまったミラに、憐憫の情を禁じ得ずいるのかもしれない。それでもなお、ミラはキラを抱擁し続けた。どれだけ哀れで意気地のない姉になっても、キラを愛することだけはやめないようにと。もう二度と、この温もりを忘れないようにと。

「キラ……」

「オネ……エ……チ……ャン………」

 二人の目から連動するように涙がぼろぼろと零れる。もうキラには人形の面影はない。彼女は、人間だった。

 ミラはキラを抱いた。強く抱きしめた。今までの思い出という頁が折り重なった本に題を刻むように、この思い出を一番に実感していた。不可思議な電車での再会なんていう夢のような思い出が、ミラにとっては一番になっていた。

 感涙を限界まで枯らしたミラは、ようやくキラの体から自分の体を離す。キラのワンピースはミラのせいで濡れて、皺ができてしまっていた。

「ありがとう、キラ。また会えてよかった」

 えへへと笑って泣き顔を隠すが、ミラの声は包み込めないくらい嗄れてしまっている。濡れた頬を汚れた袖で拭う。その温度が人肌であったことがまた、ミラの頬を濡らす。キラがキラになってから、ミラはずっと泣き腫らしだ。なんと情けない。

「こんなお姉ちゃんでごめんね。キラ」

「お……ネエ……チゃン……」

 キラはびちゃびちゃになったミラの顔に両手を伸ばす。ゆっくりと、まるで蝶に触れるように、そっと。赤く腫れた涙袋に優しく触れた。

「キラ…………」

「……………………」

 キラの指にも涙が伝う。キラはまだ驚いたような目を変えずに、口を半開きにして、指をミラの頬に持ってきた。その膨らみをなぞるように曲線を描いて、キラの指はミラの口角にぴったり合わさった。シルクのような触れ心地の指先が、そこを逆ハの字に押し上げる。ぐいっと無理やり顔の形を変えられたミラの表情は、泣くのには相応しいものではなかった。

「キラ……それって……」

 キラは柔らかに指を離した。ミラは上がった口角をそのままにして、ぼうっとキラの指を目で追う。彼女の白い人差し指は、今度はキラの頬に向かった。何秒も何秒もかけて頬を滑り、最終的にはミラにそうしたのと同じ場所を指した。同じ力で、ぐっとそこを押し上げる。するとキラの相好はミラの鏡のように、全く同じものになった。思わず目を瞑ってしまうほどに頬の肉が上がって、自然と歯が口唇の隙間から覗く。

 二人は、笑っていた。


「……そうだね。泣いてなんかいちゃだめだ」

 ミラはそう言って、滑らかに頷く。キラは自分の意図が伝わったことに満足したのか、ミラを真似て頷いた。二人の目からはもう涙なんてものは消え去ってしまっていたのだった。

「ありがとう。キラのおかげだね」

 そう言ったミラは無理な笑みを崩して、同時に相好を崩す。笑わされているのではなくて、笑っているのだと言いたげに。キラの方はというと、指を口尻から離して笑顔ではなくなっていた。さっきと同じで、吃驚と戸惑いを足して二で割ったような顔だった。それでもミラにはそれが無感情な作り者だとは思わない。あの笑顔は、もちろん今のぽけっとした顔も、一人のキラだったからだ。


 生きている人間が死ぬように、感動の再会にはいつか終わりが来る。それはミラが最も知っていたことで、それでいて最も怖いことだった。

「そろそろ…………かな」


 ミラの言う通り、それは「そろそろ」だった。

『まもなく、天理、天理です。この電車は、この駅までです』


 窓の外に広がる景色はどこか狭まって、月明かりの射さない駅のホームに包囲されていた。電車の揺れるガタン、ガタン、という音の間隔が、次第に長くなっていることに気が付いた。

 そろそろ、終点に着く。

 ミラはもう一度、己の目でキラの目を捕まえる。人とここまでしっかり目を合わせたのは何年ぶりだろう。キラの眼球には、ミラのシルエットが淡く反射していた。

「キラ。私はもうそろそろお別れをしなくちゃいけない」

 そう告げると同時に、屈んでいたミラは立ち上がる。彼女の顔を追うように、キラは首を傾けてミラを見上げる。どうして、そう訴えかけているように見えた。

「こんなところで本当に会えるなんて思ってなかったから、実は何を言うか用意できてなかった。でもこれだけは言える。私はキラのことが、心から大好きだよ」

「おね……え………ちゃ…………」

 キラの絞り出したような声はミラの耳に入ったことだろうが、ミラはその声があってもなくてもどうしようもないことを知っていた。その証拠に、たった今右側に見える窓から『天理』と記された駅看板が通り過ぎて行ってしまった。

「それと……ありがとう。私のこと、お姉ちゃんだと思ってくれて」

「お…………ね…………」

「考えてたんだ。もし再びキラに会えることがあったら、何を話そうかって。何で自殺なんかしたのかとか、あのとき何があったのかとか、何であんな泥人形の姿になってたのかとか。いっぱい聞くつもりだった。ずっと疑問だったことを、キラに聞かなくちゃいけないと思ってた。でも……なんか私、そんなのどうでもよくなっちゃった。だって、ここで会えたんだもん。お姉ちゃんはそれだけで十分」

 壮大なビージーエムは流れない。車体が線路を踏む音だけが、環境音として居座っていた。その喧騒さえも、静かに死のうとしている。

「私もいずれそっちに行くからね。それまで、待っていて」


 ミラはぽそりとそう言うと、まるで落とし物を拾うみたいに片膝を立てて屈んだ。続けざまに、どろんこの床を掻き分け始める。キラは目線を落としてその光景をじっと見つめる。掘るように床の汚れを無造作に取りながら、ミラは言った。

「キラを置いて私一人で帰るなんて、まったく、お姉ちゃん失格だな」

 ミラは直後、「あっ」とだけ言って、泥の中から一つの固体を取り出す。茶色が僅かに取れたその物体は、キラ——否、泥人形が取り落としたナイフだった。何度か振って付着した泥を落としてみると、刃の部分は焦げたように錆びついていることが分かる。

「でも安心して。いつか絶対に迎えに行くから」


 何の恐怖もなく、ミラは鋭利なナイフを自分の首元へ向けた。

「これで刺されたときね、すごく痛かったの。死ぬほど痛かった」

 ミラはその言葉を放って、刃の先端と首の付け根を隣接させる。

「でも、死んではいなかったんだと思う。だってほら、人が即死できるほど深い傷は負わなかったし。きっと、死ぬ前に過去に戻されてたんじゃないかな」

 その問いの提起に応答するようにアナウンスが鳴り響く。


『右側の扉が開きます。ご注意ください』


「おねえ……ちゃん……」

「……そうだ。大人になったキラも、いつか見てみたいな。どんなキラになるのか、お姉ちゃんはずっと楽しみにしてるからね」


 その声を合図に、床は動きを止める。視界の端で前へと吸い込まれていく外の世界も止まり、吊り革の絶妙なダンスも終わり、序にミラの息も詰まる。まるで時間が冷たく止まったみたいだった。

 あと六秒、存在しない駅員が扉を開けるまでのタイムラグが過ぎたとき、ミラは本当に魂を奪われて死んでしまう。


「あのときキラに言えなかったこと。今から言っても遅くないよね」

「おねえちゃん…………………………」




「キラ」






「またね」

















 ————ピンポン、ピンポン。


――ミラ――



 ……暗い。何も見えない。

 あるはずの重力がなくて、ぷかぷかと浮いているようだ。でもそこに雲の上のような柔らかさはなかった。辺りの暗さも相まって、まるでそれは宇宙空間に放り捨てられたような体感だ。それに加えて、疲れ切った太ももにジンジンと走る痛みも、上がった息の音も感じない。意識を保ったまま全身麻酔をして、神経が別れを告げたような、そんな感覚。

 となればここは、あの『夢』の中だ。今朝に危うく寝坊を招くところだった、あの『夢』。どうしてこんなタイミングで出てきたのかは分からないが、きっと大きな意味があるのだろう。

(私は……あれからどうなったんだろう。本当に死んだのかな)

 のっそりとした小考が頭の中をとぼとぼと歩く。抵抗力が大きすぎる思考回路では、どうにも電流が豆電球を光らせそうにはなかった。

 暫くして、周囲から何やら音が聞こえ始めた。それは例のノイズ音だ。初めの小さな雑音は、かのときように音波の振幅を漸増させてゆく。冷静にものを考える時間も与えないまま、音は暴風の吹き荒れる音に変わり、さらにガガガと爆音にまで育つ。やがてそれが最高に喧しくなったところで、耳鳴りを誘うように音量がぷつりとゼロになる。空気の凪ぐ音すらしない『夢』の中で、次の瞬間にはまたも音が生まれていた。

 ミラはすぐに、その声を聴くことになる。


「…………助けてくれてありがとう。お姉ちゃん」



「…………キラ?」


 ……そうだ。思い出した。


 キラが自殺した夏の、あの日の前日。ミラとキラの二人は電車で小旅行に出向いたのだった。旅行と言っても、休日の楽しみが『駄菓子屋にて五百円で何を買えるかチャレンジ』だったような田舎に生まれたキラのために、数駅先に待つ都会の町へと足を運んだというだけだ。休日の遊びには普通といったところだが、都市の中心に住まう人々にとって当然の光景でさえ、キラの好奇心を掻き立てるには十分だったらしい。妹は目につくものすべてを、身を乗り出して覗き込んだ。彼女の姿を見守っていたミラは、陽光の照り付ける肌に汗を浮かべながら微笑していた。なんとも享楽的な日常だ。ただそれだけで終わったならよかったのに。

 あちこちと巡っていたキラだったが、唐突にミラのほうへ歩み寄ってきた。焦燥に駆られたような深刻な表情が、ただならぬ雰囲気を醸す。驚くミラへ彼女がしどろもどろに言うには、大切にしていた玩具のアクセサリーを失くしてしまったのだと。そういえば家を出る前にも、「これは欠かせない」と言って着けたブレスレットがあった。キラの手首を見ると、すっからかんになった肌色だけが覗いていた。

 それからは旅行なんてそっちのけで、キラのブレスレットを探すことに。今まで歩いた道をなぞって、じっくりと地面に目を凝らす。何分、何十分とそれを続けているうちに、カンカン照りの太陽が二人に牙を剥いた。滝の如く流れる汗が首元から下を濡らし続け、体力は底を突こうとしていたのだ。ぜぇ、はぁ、とうとう疲れに慣れないミラが音を上げ、捜索からリタイアする。芋を洗うような人ごみの町で、小さな玩具がそう簡単に見つかるはずがない。それが分かっていたから、ミラは「新しいのを買おう」とキラに告げた。優しく包んだように思えた言葉。だが、その姿はキラを失望させてしまうこととなった。どんなものよりも大切にしていたブレスレット、それは母親——実の母親から貰った人生初の誕生日プレゼントだった。ただの円い輪だったとしても、キラにとってそれはかけがえのない代物だった。だからその日、姉がいとも簡単に諦めて「新しいもの」という代替品を提示したのが、許せなかったのだ。

 キラは白昼の最中にも関わらず大きく泣きだす。喚き声を上げた子供と、それを必死で宥めようとする子供。傍から見たそれはひどく不快で、同時に滑稽なものだったらしい。親切な人の一人くらい現れてくれればいいものを、二人を除け者にするように周囲の人間はどんどんとその場を離れていった。

 いくら大人びた性格と言っても、ミラは当時小学生。どうしようもなくなったら、当然目の前の妹のように泣きじゃくりたくもなる。何と言うべきかも分からないまま、ミラはキラの肩を揺さぶって、「お願い」という言葉を並べ続けていた。やめてほしかった。泣くのだけは、やめてほしかった。ミラが無力になるから。何もできなくなるから。

 結局、その日は疲れ果てた二人を母親が迎えに来て、家路に立つこととなった。ぱたりと気絶するように眠りに落ちたキラを後部座席に乗せて、車は我が家に達する。ミラから事の始終を聞き終えた母は、何も言わずキラを抱き上げてミラの部屋のベッドへ寝かせた。

 太陽が転がるように地平線の奥底に落っこちて、奇妙なほど早く夜が来た。まだ目を覚まさないキラを隣に、ミラはベッドに入る。キラには背を向けた。楽しむための旅行を傷だらけの思い出で終わらせてしまったことへの罪悪感に、向き合うことができなかったのだった。


 その夜のミラは珍しく眠りが浅かったみたいだった。

 午前三時頃に目を覚ましてしまった。


 ふと隣を見ると、そこにはキラがいなかった。



――ミラ――


「はあっ、はあっ、はあっ」

 暖かかった空間から摘み出された私は、覚束おぼつかない足取りで開け放たれた扉を後にする。凍えるような冷気が燃えるような私を包んだおかげで、今この瞬間に外の世界へと飛び出たことを自覚した。かこん、と金属を蹴る音がする。直後に足元の材質がコンクリートに変わったから、きっとここは駅舎の中だ。眩しい蛍光灯には力の及ばないライトがミラの汗で湿った唇を照らした。棒になった脚を何歩か動かしていたが、いつの間にかふらふらと重心が揺らいで、気付いたときには膝を地面に打ち付けて倒れていた。右半身の体温が地面に吸われていく。もう体には力が残っていないのだ。当然、二本足で直立することもかなわない。冷たく黒い夜の床にうつ伏せになりながら、私は熱のこもった靴を脱ぎ捨てた。溜まっていた熱気が一気に足から抜ける。じゅっ、と音がしそうなくらい、足裏が靴下越しに冷やされたのが分かった。

 私は今朝のあのときのように、体をペタペタと触る。腕はある。脚はある。お腹の肉もある。胸の部位も、骨と皮ならある。

「生きてる……私、生きてる」

 私の放った言葉で肩の荷を下ろしたのは私自身だった。寒さを跳ね除けるくらい沸騰ふっとうしていた体の水分が少しずつ冷めていき、呼吸もだいぶ正常になっていく。生きているということに心をしずめられたのは久しぶりだ。そうして冷静になった私は、今までのことを振り返り始めた。


「今まで私は何してたんだろ……。確か……カワタレ線に乗って……あそこで……そうだ。何度も刺されたんだった。痛かったな……」

 泥人形の猛攻もうこうを思い出すと、あの鋭くとがった刃が私を刺し貫く画が脳内再生されて、おまけにぎりぎり目に入った自分の血の色も描画された。もうあんな経験は二度と御免ごめんだ。

「それから……ああ、そう。キラに会った。懐かしかったな。でも……本当に会えたって実感、あんまりないや」

 泥人形の化けの皮ががれて、中から出てきたのは実の妹。どういうこと? と今となっては思うけれど、そのときは納得していた。あそこにいたのはキラだったんだって。

「そして最後には、終点に着いて……でもその前に……ああ、思い出した。私、抜け出したんだ」

 改めて言葉にしてみると、創作の物語だったとしてもつまらないくらい突飛すぎる体験だ。そりゃあもう、簡単に信じることなんてできっこない。幻覚が、死んだ人間に会うなんてことが、本当にあるなんて。だけど私は分かっていた。今までのことは、創作の物語でも、ましてや夢でもない。マヤカシを見せるカワタレ線に、私が乗っていた。そして、私はそこから抜け出した。

 あのとき。あの瞬間。私の人生と記憶を簡単に塗り替えてしまうような出来事が、秒単位で起こっていた。脳の整理よりも早く、物事が目まぐるしく動いていた。自分が何をしていたのか、何を以てそうしたのか、思い出すだけでも大変だ。私は一つ一つ、散らかった教科書をかばんに仕舞うように片づけていく。


 第一にしっかり思い出さないといけないのは、私がカワタレ線から脱出した方法だ。最後に自分で自分を刺した行為、あれは何だったのか。

 私はカワタレ線に乗る前、レイカにとある文書を見せてもらった。『カワタレ線』というものが一体何なのか、それを記した文書。意気揚々と私に見せつけたスマホの画面で、私は読める部分を一通り読んだ。


『マヤカシを視ている最中の乗客の肉体は、一時的に昏倒した状態になると考えられています。そのためマヤカシの中で車外に出ても、降車したという判定にはなりません。マヤカシから覚醒し意識を肉体に還元する手段として最も有力視されているのは、乗客がマヤカシ内で——』


 私が声に出して読み上げたのはそこまで。長ったらしくて読む気になれず切り上げたわけだが、私はその直後に「何これ?」と問う直前に、その先の文まで読んでいたのだ。


『最も有力視されているのは、乗客がマヤカシ内で——


 ——絶命するということです。これにより、死亡した乗客はカワタレ線の展開する幻覚領域外へとはみ出て、現実での肉体が存命している状態で覚醒することができます』


 要は『マヤカシの中で死んだら出られる』ということだった。

 ではなぜ、あれだけ刺されても一度も出られなかったのか。それは簡単だ。実際は死んでいなかったからだ。厳密に言うと、死ぬまでの猶予ゆうよの間に時間を戻されていたからだ。

 泥人形に刺されたのは確かに痛かった。だけど、さすがに即死するレベルではなかったのも事実。簡単に言えば、あれだけじゃ「死にきれなかった」ということだ。その上時間が戻って傷もなくなるから、いくら刺されても脱出はできなかった。でも、最後の最後、私が自分で自分の首を刺したあのときは違う。私はあのとき、喉を貫通するくらい本気で刺したのだ。おかげで刃が肉を引き裂いた瞬間に死ねたらしく、過去に戻ることもなくそのまま目を覚ますことができた。

 あのとき私が判断を間違えてしまっていたら。そう考えただけで身の毛がよだつ。今生きているからいいけれど、『絶命すれば帰れる』という情報を知ることができていたというのは偶然そのものだったと思う。そういう点でも、あの瞬間は危なかったとしか言いようがない。

「ふう……」

 カワタレ線脱出からおよそ一分半。情報的にも精神的にも、少し整理が着いた。おかげで、あれから初めてまともに息ができた。

 そんなときだった。



「…………心の整理はついたか」

「うわっ⁉」

 声が聞こえた。低くて重厚感じゅうこうかんのある声、間違いなく大人の男性のものだ。その冷たく鋭い声にびくっと背筋を固くした私は、音の方向を見るために首を斜め上に傾ける。

 そこには一人、夜闇の中でも真っ黒だと分かるくらいの濃さをしたジャケットに手を突っ込み、左半身で私を見下ろす男が立っていた。

「だ、誰ですか…………」

「その質問には後で答える。今はこれからする私の質問に答えてくれ」


 ……いや、普通こっちが先でしょうが。マジで誰だよアンタ。

 その言葉が喉仏まで上ってきたくらいで、私は出かけた声をぐっと堪える。

 普通に考えたら、この人は不審者だ。「怪しい」を絵に描いたような人だ。昼間にぷらぷらほっつき歩いていたら職務質問は確定でされる、みたいな人だ。けれど私は彼の言葉の重みに逆らえない何かを感じて、いつの間にか考えることをせず「はい……」と言ってしまっていた。

「まず。お前の名前は何だ?」

 いきなり個人情報を聞き出されてぽかんとした私に、彼は面倒くさそうに「無駄な心配は要らん。利用したりはしない」と念押しした。それを言われるとさらに怪しくなるんだけど……という心の声も同じく喉仏で抑えつけ、恐る恐る本名を告げる。

「ミラ……山崎美良です」

「なるほど。ではミラ、お前は今まで何をしていたか覚えているか?」

 またも探りを入れるような質問に、一瞬戸惑う。とはいえここで何か言うのをためらっても何も変わらなそうだ。

「えっと、カワタレ線っていうものに乗っていて……あ、ええとカワタレ線っていうのは……その……」

「説明は要らない。それについてはお前より私の方が詳しく知っている」

「は、はあ……?」

 詳しく知っている? カワタレ線を? レイカでもあるまいし……とは思ったが、この怪しい風采ふうさいから見てもスピリチュアルなものに造詣ぞうけいが深くてもそこまで違和感はない。気にせず彼の質問を聞くことにした。

「次だ。お前はどうやってカワタレ線から目を覚ました?」

 ……おっと。それを聞かれると今まで以上に返答に困る。

 脱出方法は、さっき私が述べた通りで間違いない。だがどうやってこの人に話す? 泥人形のことからキラのことまで、すべて話す? そう頭を抱えていると、彼はうんざりしたように溜息を吐いて言った。

「手短でいい。だが簡潔に話してくれ」

「は、はい。えっと……ナイフで自分を刺しました。そしたら普通の電車の中で目覚めて、気付いたらここに」

 ちょっと簡潔すぎたか。伝わったか怪しいぞ、これは。と目を泳がせていたのも束の間、彼は私の意図を汲み取りきった上で眉毛をちょっとだけ動かしてこう言った。

「……待て。マヤカシの中のナイフで自殺したのか?」

「そういうこと……です。多分」

「どうして?」

「どうしてってそりゃあ…………死んだら出られるって聞いてたから」

「誰から?」

「えーっと……まあ、友達から?」

 そのとき、私の回答が予想外だったのか、男の人はひどく驚いて服の影になったポケットの中に左手を突っ込んだ。そう思えば、中から何かを取り出す。ペンのようなものを右手に握っているから、そっちは手帳かメモ帳といったところだろう。彼はペンを忙しく走らせていた。


「もう少し踏み込んだことを聞こう。マヤカシの中で何を見た?」

「何、って……ええっと、初めは泥まみれの人形みたいなものが襲ってきました。ナイフを持っていたのもその人形です」

「人を襲う人形……夜叉やしゃのようなものか……それで?」

「それで……ナイフで刺されたら、時間が戻って。数分間を何回もループさせられました」

 カリカリとペンが走る音だけを聞いていた私は、ここまで何の疑いもなく話を聞いている彼により一層「こいつは誰なんだ……?」という感情が煮えてきた。そうしてぼうっとしていると、彼は鋭く言う。

「……続けて」

「あ、はい……」

 私は小さく咳払いをしてから続きを語る。

「それからできる限り色んなことを試しました。それで最後は、ナイフを持っていた泥人形が私の妹だってことに気づいたんです」

「妹?」

「はい……私には数年前に自殺した妹がいるんです。あまりに突然のことだったので、どうしてもショックでした。もう会えないんだって思ってたので、なんだか……幻覚の中だとしても、会えたのが嬉しくて」


 私がそう言い切ると、今までの話を淡々とメモしていた男はペンを止めた。首を傾げて彼の方を見ると、彼は私の話に涙するでもなく怪訝けげんな顔を浮かべてこう言った。


「……その妹も、過去にカワタレ線に乗ったというわけか」

「…………どういうことですか?」

「いやなに、突然の自殺というのもカワタレ線の仕業かと思ってな」

 彼の言葉を聞き逃さなかった私は、釘を打って発言を固定するように声を少しだけ大きくして言った。

「……やっぱり、何か関係があるんですか」

「何がだ?」

「『自殺』と『カワタレ線』です。普通は結びつかないはずなんですよ。魂を奪うのがカワタレ線なんだとしたら、自殺とカワタレ線は独立的な存在のはず。それでもそこに何か繋がりがあるってことは、キラいもうとの死とカワタレ線が関係しているということ……ですよね」

 キラの姿が頭をかすめる。あの夜、あの小旅行の日の夜。仮に隣で寝ているはずのキラがベッドから抜け出して、私と同じようにカワタレ線に乗ってしまったのだとしたら。

「あの。知っていることがあるなら教えてください。お願いします」


 私が彼に問いただすと、彼は不敵に薄笑いを浮かべて、私に告げた。


「ならば、私の元に来ることだな。私もお前に聞きたいことが山ほどある。どうだ、ここは交渉といこうじゃないか」

「はあ…………?」


 ————それが、私と彼と、奇妙な夜との出会いだった。






――レイカ――


 少女、レイカは、走っていた。


 日常の中でじゅうぶんに通り慣れた道を、ただひたすらに走っていた。噴き上がるような恐怖を機動力に、既視感のある世界を駆け巡る。そこに現状を理解しようとする思考はなかった。ただ無心で、とある場所を目指すばかりであった。

 改札口に定期券のカードを押し当てたときのピッという音が、レイカの耳の奥に反射し続けている。どれだけ寒々しい空気を突っ切ってもそれだけが消えなかった。脳内に残響する音という呪いは、レイカのはらわたの中にある氷塊をぐちゃぐちゃに掻き混ぜる。駅から脱走して何分経ったかさえ分からない今もなお、レイカの目に焼き付いている光景は、無人の駅にて、自分が連れてきた親友が虚無の眼球をして何かを懸命に見つめる狂気的な姿だった。


「ミラが……ミラが‼‼」

 それだけを譫言のように並べて、寝静まり夜のしじまと化した街中を通り過ぎる。黒ペンキで塗りたくられた半天球はレイカと彼女の町をかぽりと覆って、月がごろりと転がる空を丸ごと動かして、どこまでも彼女を追尾していた。灯りも碌にない空間に彼女の足音が生み落とされ、そのまま闇に吸い込まれて消える。勢いが失せることを許さないまま地面を蹴っていると、整備されていた道がだんだんと草木を増していった。じきに道とも言えない道に突入し、それもすぐに通過する。脇に広がるのが一面に広がる田であったことに気付いて、初めて自分が何の遮蔽物もない畦道を疾駆していることを知った。気が遠くなるほど、涙の溜まった目線の先は暗黒に飲み込まれていた。

 それでもレイカは走る。意識と身体が一人歩きして、考えなしにスニーカーのゴム底を擦り減らそうとする。血反吐が出てきそうなくらい喉がカラカラに乾ききっているというのに、それを潤せる唾液は尽きてしまった。もう走りたくない。レイカの臓器の片隅がそう言うが、それでも走りを止めようとしなかったのは、骨の髄まで震わせるような焦慮を落ち着かせるためだった。


 ————ざっ。足音が俄に止まる。


 動きを止めたレイカは肩で息をして、何とか肺を空気で満たした。代わりに太鼓のような心臓の脈動が肺を圧迫して、酸素をゆっくり使い果たそうとしていく。気管支にコルク栓でも詰め込まれたように息も絶え絶えになって、レイカはそのままの姿勢で膝から崩れ落ちた。


 だがそれは、走るのを諦めたからではない。目的地に着いたからだ。


 彼女の両脇には古びた一基の鳥居の柱が二本、若干の赤色を保って立っていた。レイカが目指し、行き着いた場所。ここは、神社だった。


 レイカは寒さと戦慄で悴んだ両手の指を交差させるように組む。出来上がった掌印の凹凸に、レイカは何の迷いもなく額をくっ付けた。


 小さな声で、レイカは唱える。


「ワカタレ様、助けてください…………っ」


〈了〉

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『正夢電鉄―カワタレ線』 燕子花様 @kakitsubatasama

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