第3話 ハルくんとマサさん


「……昨日の、おじさん?」


 茜色に染まった昊の下。悠葵はるきは放課後の帰路の途中で、丁度児童公園の傍に差し掛かったときであった。あの背の高い男が公園のベンチに腰掛け、スケッチ・ブックを広げて何やら描いていた。風景画のようで、陽が西に傾いた昊を描いていた。今から色を塗るさん算段つもりなのか、男の傍らには絵の具やパレット等の一式が置かれている。

 ようやく悠葵の聲に心付いたのか、男は面を上げ、僅かに切れ長の目を見開いた。


「君は、昨夕さくせきの」

「うん。こんなところで何してんの?仕事?」


 男は無表情のままスケッチ・ブックへ視線を戻し、そっとスケッチ・ブックの表面を手で撫でた。ごつごつと大きい、大人のひとの手だ。

「……いいや。単なる趣味だよ。君は下校中かな」

「うん、そうだよ」

 悠葵は飄々として答えてみせるが、男は変わらず表情を変えない。それはひどく珍しく、面白く思われた。たいていの人間は悠葵の受け答えに満足そうにするか不審そうにするかなのに、この男はまったく興味がなさそうな素振りをする。悠葵の努力のすべてが無意味でちっぽけな――そんな気分になる。


 やおら悠葵は男の隣に腰掛けた。前方へ目を向けると、公園は既に児童こどもたちが駆け回っていた。ブランコを大きく漕いで巫山戯るや、ジャングルジムで競争をする児。暫し沈黙を貫いたのち、すくっと男が立ち上がった。何事かと目で追うと、喉でも乾いたのか自販機の方へ向っていた。悠葵はベンチに置き去りにされていたスケッチ・ブックを勝手に捲った。

「オレンジジュースで良かったかな」

 悠葵がおもてを上げると、男が自販機で態々購入したらしいペットボトルをつい、と差し出していた。どうやら悠葵にも買ってきてくれたらしい。悠葵は一寸言葉を失ったが、直ぐ様満面の笑みを作って「ありがとう、おじさん」と返して受け取った。

 男は言葉を返すことなくふたたびベンチに腰掛け、自分用に買ったらしい缶コーヒーを煽っていた。缶のラヴェルにはブラックと印字されていた。

 悠葵もまたジュースのを煽り、一息ついた。男は無言でスケッチ・ブックを開き直し、絵の具を混ぜていた。悠葵は何となしに尋ねる。

「おじさんは今日、お仕事休み?大人のひとって朝から晩までお仕事しているイメージ」

「無理をしてしまってね。今は休職中――仕事を長く休んでいる」

「ふうん?大人のひとって大変だ」

「子供は子供で悩みはあるものさ。悩みに年齢は関係ない」


 男は絵筆を止めることなく、答える。その眼差しは至って真剣。悠葵は己の脚を支えに頬杖をついた。

「僕の父さんや母さんと違うこと云うんだなあ、おじさんは」

「そうなのかい?」

「うん。よく、子供はお気楽で羨ましい、若い頃に戻り合いって嘆いているよ」

「主張はひとそれぞれだ」

 男は抑揚のない言葉を静かに返す。悠葵の方を向くことは一切ない。悠葵はじっと男を見詰めた。男の目は昏く沈んでいるのに、何処か真っすぐで澄んでいるようにも思えた。悠葵はふたたび、尋ねた。


「いつも此処で絵を書いてんの?」

「……まあ、たいていは」

「絵を描くのって愉しいの?」

 男は変わらず口を噤み、昊を見上げていた。その横貌は墨色に染め上げられ、表情が見えない。もう間もなく水平線へ沈みゆく黄昏の陽光は弱々しい。あのドヴォルザークが鳴りはじめている。男は小さく「もう、こんな時間か」と独り言ち、静かな聲で云った。

「私にとって、絵は心を鎮めるための手段のひとつでしかない。それを愉しいと言うかは、人次第だね」

「ふうん」


 再び沈黙が、ふたりの間を流れる。悠葵は何度も口を開いては言い淀む。男は再度またスケッチ・ブックへ視線を落としている。

「ねえ」悠葵は言葉を絞り出す様に切り出した。「また、此処に来てもいい?」

「別に構わない。君の好きなときに居たいだけ居ればいい」

「……ふうん」

 悠葵は勢いよく立ち上がった。西陽にしびが差し込み、その貌もまた墨色に染められており、感情を読ませない。華奢で小柄な黒い影は大きく手を伸ばし、昊を仰ぎ、明るい聲を上げた。

「まあ、いいや。うん。気が向いたらまた来るよ」

 男は応えない。悠葵はそれで構わないと感じた。寧ろそれが良いとすら。悠葵はふと「そうだ」と聲を溢した。


「ねえおじさん。僕のことは――ハル。ハルって呼んでよ」


「……では、私はマサ、で。別におじさんのままでもいい」


 やや困惑した聲持ちで男――マサが返す。悠葵はそれが少し愉快に思えてからからと笑った。

「じゃあ、マサさんで」

「ああ、よろしく。ハルくん」

「あはは、マサさんにハルくんて呼ばれるとこそばゆいな」

「……自分で名乗っておいて」

「えへへ」

 ドヴォルザークの旋律が余韻を残して止んだ。茜色は紫陽花色を絡めて、夜の装いへと変容しつつある。悠葵はベンチの足元に置いておいたランドセルを拾い、担ぎ上げた。教科書の重みがずっしりと小さな肩に圧し掛かる。

「じゃあ、またね。マサさん」

「ああ、気を付けてお帰り。ハルくん」

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