第37話金印の罠
(ついに! ついに金印を手にしたぞ)
小さな黒い袋を両手に持って、ケルベスは迷わず上へと飛んだ。姿を消す術のおかげで、自分の姿は誰にも見えない。試したことは無いが、おそらく魔王にも見えてはいないのだろう。追手がないのがその証拠だ。
(これなら飛ばさなくても大丈夫だ。少しゆっくり飛んで……うっ)
急にドクン、と鼓動が跳ねて、ケルベスは姿を消したまま、煉獄の階段の中間付近に降り立った。手に持った袋がずしりと重く、生き物のように脈を打っているような気配がした。
(何だ、これは……?)
ケルベスは両手に持っていた黒い袋を右手に持ちかえ、できるだけ身体から遠ざけるように腕を伸ばした。黒い小さな袋では隠し切れないほど強い金色の光が漏れ、手のひらからどろりとした嫌なものが血管を伝うように流れ込んでくる。頭が割れるように痛んだかと思うと靄がかかったように朦朧としてきて、心の奥底から制御しきれないほどの怒りや悲しみが際限なく沸いてくるような気がした。
「うわぁぁぁぁーーーーー!!!!!」
思わず叫んだケルベスの声に、偶然近くを通りかかっていた悪魔がびくりと肩を震わせ、全速力で飛んで行った。姿が見えないのに声だけは聞こえるのだから当然の反応だろうが、そちらを見る余裕もなく、ケルベスは階段の端に座り込んだ。
(金印にこんな力が……? 何故だ? 魔王は平気で持っていたのに)
ケルベスは「継承」の手続きがある事を知らない。金印さえ手に入れれば
(クロムなら……あいつなら平気で持てるんだろうな)
どんな怒りも悲しみも少し不機嫌そうに眉を寄せるだけで済ませそうな、あの無表情を思い浮かべる。思わずそんな事を思うくらいには、ケルベスはクロムを認めていた。ケルベスは、自分が
【そんな事考えてるから、いつまでも三番目なのよ】
どこからか、愛しの婚約者とそっくり同じ声が聞こえる。最後に彼女を見た時と同じ黒い翼が、ばさりと目の前を横切ったような幻想が見えた。
【あなたにはガッカリだわ、ケルベス。私があんなに天使を殺したのに、あなたはただ見てただけじゃない】
嘲るような声は、確かに彼女のものだった。再び聞きたいと何度も願った声だ。彼女からこんな言葉が出るとは想像していなかったが、今の彼にはその言葉さえも嬉しかった。
(ルシファー……確かにそうだ。俺は、だから金印を手にしたんだ)
右手を握る。先ほどまで気味の悪い生き物のように脈打っていた金印が、自分の一部のように馴染みはじめた。しかし次は頭の中で、業火に焼かれたルシファーの姿が鮮明に浮かぶ。苦しそうに歪んだ顔で、身体から黒い煙を出して、そしてその愛らしい唇で、彼を揺さぶる言葉を放つ。
【あなたは、私を守ってくれなかった】
「っ……!!」
ケルベスは再び叫びたい気持ちをぐっとこらえた。その時ちょうど目の前を、二つの翼が弾丸のように通り過ぎていったのだ。あの速度で飛べるのは、おそらく魔王とクロム。声を出していたら気づかれるところだった。
「……はは……ははは……」
ふたつの翼が見えなくなったあと、金印の入った袋を手にしたままだらりと力を抜いて、ケルベスは乾いた笑いを零す。少し目を閉じると瞼の裏では業火に焼かれた彼女の歪んだ顔が、耳の奥では苦しげな呻き声と恨み言が、呪いの言葉のように絶えず聞こえてきた。
(これは幻じゃない……彼女の今の姿だ。彼女は今も苦しんでいるのに、俺はこんなところで何をしているんだ)
普通なら立ちあがれないほどの虚無感や絶望感をぐっと抑え込み、ケルベスはよろりと立ちあがった。朦朧とした頭で必死に考えるのは、今の状況と今後の動き。
(金印は手に入れたが、十三条の廃止はあとだ。十三条がある限り、魔王とクロムは勇者に勝てない。仮に勇者が負けても、十三条違反でどちらかは確実に地獄堕ちだ……できればそれが魔王なら最高だな)
金印が光っているのが袋越しにもよくわかる。自分こそが地獄の王だと背筋を伸ばした彼の表情からは、もう怒りも悲しみも苦しみも読み取れない。
「新しい
彼は継承を知らない。不正所持の罠を
◇
「くっそ、やられた!」
署名が並んだ討伐欄のページを破り捨てながら、悔しそうにサタンが叫んだ。
「姿を消せるとは思いませんでしたね」
クロムが眉を寄せて周囲を見回す。姿を消す能力など聞いたことが無い。しかし変身術も、もとはケルベスが独自に編み出したものだ。姿を変えるのと見えなくするのは、やり方が似ているのかもしれない。
「どうします?」
「とりあえず煉獄行くぞ。まず勇者、それから金印だ」
「いいんですか?」
「仕込んでた防犯システムが作動するから、たぶんしばらくは動けねぇはずだ。それに、かくれんぼしてる暇はねぇんだよ。気づいてたか? ここには悪魔がほとんどいねぇ……ミア!」
「はぁい!」
サタンが叫ぶと、滝の裏に隠れて様子を見ていたミアが出てきた。そこにいたのはサタンの指示だ。ケルベスとの接触で何かが起こるかもしれないと、予想してのことだった。
「任務だ。
「了解しましたっ!」
ミアはほんの一瞬不安そうに瞳を揺らしたが、何も言わずに法律書を抱え、最下層まで飛んで行った。それを見送って、サタンとクロムは同時に再び黒い翼を動かし、最高速度で煉獄まで飛んだ。
「くそっ、油断したな」
「今のは仕方ないです……天国が無事だといいのですが」
悪魔がほとんどいなかった地獄を思い出し、クロムは眉を寄せた。これで煉獄にもいなければ、既に勇者に殺されているか、そうでなければ天国に集結している可能性もある。
「悪魔けしかけて天国総攻撃ってか?」
「戦争の噂もまだ払拭しきれていないですし、煽るのは彼の得意技です」
「十三条はまだ生きてるだろ」
「だとしても、魂が堕ちるのは日没です。周囲の悪魔には先に廃止したとだけ言っておけば、とりあえず今はバレません」
「……いい感じに悪い奴だなお前」
「引くか褒めるかどっちかにしてください」
階段を上がり、サタンとクロムは煉獄に降り立った。やはり悪魔はほとんど居ない。天使も全くいなかった。がらんとした大広間に、サタンとクロムの靴音だけが響く。
「死者の魂もねぇな」
「扉が閉まっていました。避難済みかと」
「そっか……ちゃんと仕事したんだな」
サタンは労いを込めて瞳を細め、しっかりと閉ざされた非常扉を見た。担当は天使か、それとも悪魔か。何れにせよ危機が迫る中、保身よりも魂の安全確保を優先したのだろう。緊急時のガイドラインが上手く機能している事を誇りに思い亡くなった大勢の悪魔たちを忍びながらも、サタンの視線は勇者を探して大広間をさ迷っていた。
「やはり天国が心配ですね。様子を見てきます」
「そうだな。勇者も気になるし一旦分かれて……」
「どっちが魔王だ?」
若者らしく覇気のある声が背後から聞こえた。ふたりが同時に振り向くと、聖剣を携えた燃えるような赤髪の剣士がこちらを睨むように見ている。サタンとクロムはそれを見てすぐに、ドラゴンを倒した人間がいたという報告を思い出した。特にサタンは確信を持って、勇者の前でわざとらしく両手を広げ、確信を持ってその名を呼んだ。
「ようこそ煉獄へ。カイル」
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