第33話魅惑の救護室

「……おい」


 廊下を歩いているミアに向けて、遥か上から低い声が降ってきた。見上げると、眉間に皺を寄せた長身の同僚が怪訝な顔でこちらを見ている。あぁ落ち着くなぁと本能的に思ってしまうのは、決して彼に恋をしているからではなく、同じ悪魔という種族だからだろう。いるべき場所に帰って来たなと感じるのだ。


「何があったかは知らんが、廊下は拭け。滑る」

「せんぱい……優しくないぃ」

「お前に優しくする義理はない」


 クロムは水場のないはずの煉獄で何故か水浸しになっているミアをそのままに通り過ぎようとしたが、ふと救護室が近いことを思い出した。このまま廊下に水溜まりを作り続けるよりは、タオルがある救護室に押し込めた方がマシかもしれない。そうしたらこの廊下を掃除できるし、誰かが滑って書類をぶち撒ける二次被害が防げる。


「来い」

「えぇー、ついにクロムせんぱいからのお誘いが♡」

「お前と廊下を片付けたいだけだ」


 無理に明るく振る舞う声を、いつも通りのつれない返事でクロムは返した。救護室に入り扉を閉めると、ミアの頭に白いタオルを放り投げる。


「……白はイヤ」

「文句言うな」


 救護室に白以外のタオルなんてあるわけがないのに何を言っているのだと、クロムは冷ややかにミアを見下ろした。しかし彼女には珍しく落ち込んでいるらしい姿に、何か問題が生じたかと思い一応話を聞いてみることにする。万が一仕事上のトラブルならフォローしなければと思っているクロムに、彼女への情は欠片も無い。


「どうした」

「カレシとケンカしましたぁ」

「くだらん」

「そう言うと思いましたぁ」


 ミアは白いタオル越しに会話しながら、ゆっくりと水分をタオルに移していく。髪と顔を拭いて一息つき、続いて身体を拭き始めた。大きく開いた胸元を念入りに拭いてみるが、予想通りクロムはちらりともこちらを見ない。それをつまらないなぁと思うのは、魅了を主な能力として使う特性からか自分自身の性格なのか、もうよくわからなくなっていた。


「……人間って悪魔嫌いかなぁ」

「好きでは無いだろうな」

「ですよねぇー」

「何を言われた?」

「天使と比べられました」

「……それは……酷いな」

「ですよねぇ!」


 もちろんカイルにそんな意図は無いとわかっているが、今はとにかく慰めてほしかった。そして傷心のミアから一方的に聞いた喧嘩の原因に、クロムは思わず同情した。恋愛事においても仕事上においても、悪魔と天使を比べるのはタブーだ。いくら他人に全く興味が無いクロムにもそれくらいはわかる。


「先輩にも、ひどいとか思うことあるんですね」

「俺を何だと思っている」

「悪魔」

「お前もな」

「天使になりたいとか思ったことあります?」

「無い」

「わぁ、そくとー」

「お前も無いだろう」

「何でわかるんですかぁ?」

「似合っているから」


 ミアは瞳をぱちぱちさせてクロムを見た。やはり視線は全く合わないが、無表情で淡々と紡いだ言葉は紛れもなく本音だろう。背中で黒い翼がぴくりと動く。悪魔が「似合っている」。それがこんなにも嬉しいとは思わなかった。ミアの口角が自然とあがる。他人には見せられない、自分だけのためのニヤけ顔だ。

 

「……せんぱぁい」

「何だ」

「服。ぬいじゃってもいいですかぁ?」

「着替えは無いぞ」

「先輩の上着とかぁ」

「お前と噂になるのだけはごめんだ。もう行くから……」

「ちょっと!」


 クロムが廊下に出ようと手をかけたドアが、向こう側から開いた。至近距離に偶然現れた銀髪に、クロムの眉が寄せられる。癒しの天使が救護室に用があるのは当然なのだが、タイミングが悪すぎだ。

 

「どうしたのよ。廊下水びた……っと」


 中に入ってきたシルバーは新緑の瞳を瞬かせて、渋い顔をしているクロムと半裸でタオルを巻いているミアを交互に見た。そして、そっと後ずさり廊下に出ようと再びドアに手をかける。


「……失礼したわね」

「おい待て」

「シルバーさぁん! ついにせんぱいが私と」

「あんたにもそーゆー事ってあんのね」

「感心するな。違う!」


 揶揄いの視線を向けるシルバーの手首を、クロムは掴んで引き留めた。魅惑の悪魔を救護室に連れ込んだなどと噂になるのだけは避けなければならないと必死だ。


「……何もしてない」


 否定の言葉の強さとは違い、その手に込められた力はとても優しい。全く痛くない手首を見て、そして珍しく焦っているクロムの表情を見て、シルバーは可笑おかしそうに笑った。

 

「ふふっ……ふふ……ごめん」


 肩を震わせながら首を振る。彼女は初めから、勘違いなどしていない。

 

「冗談よ。職務中でしょ? あんたに限ってだけは絶対無いわ。何かあったのよね」

「えぇー。修羅場になると思ったのにぃ」

「だからお前は悪魔なんだ……シル、こいつを頼む」


 不満そうな声を出す半裸の美女にはやはり視線を向けず、クロムは雑巾とバケツを持って外に出た。代わりにシルバーが、ミアの話を聞いている。


「シルバーさん聞いてー、実はねぇ……」

「えっ!? 最低ねその男!」

「でしょでしょ!!」


 思いの外盛り上がっている救護室。その前の廊下で、ミアとの噂を見事回避したクロムは安堵の息を吐きながら、黙々と廊下の水滴を拭うのだった。

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