第28話マスター権限と魂の救済

(ルシファー……少し待っててくれ。必ず助けるからな)


 最下層で彼女の魂を放ち、ケルベスはしばらく立ち止まって考えを纏めていた。彼女は地獄に堕ちたが、彼は少しも諦めていない。

 

(『魂の救済』……あれを使えば彼女を救える)


 地獄のマスターが持つ権限のうち、最も大きいものに「魂の救済」というものがある。地獄に堕ちた魂のうち、充分に禊を終えたと判断された魂に対して、地獄から救い出し肉体を元に戻す事ができるのだ。


 ルシファーは多くの天使を殺したのですぐには復活できないが、おそらく数百年もすれば元に戻せるだろう。悪魔の数百年は短い。ケルベスは待つつもりだった。


「十三条など邪魔なだけだ。あんな理不尽な法……即刻廃止するべきだ」


 先程サタンに止められた言葉を、ケルベスははっきり声に出した。サタンがどれほど優れた王か、十三条がどれだけ重要な法か、彼はよく理解していた。


 しかし誰も傷つけないはずの天使たちから放たれた心を殺す言葉の数々が、天使は殺しをしないと言いながら顔色ひとつ変えずに引き金をひいた天使の王ミカエルの冷酷な瞳が、ケルベスの考えを変えたのだ。


(金印が欲しい。金印さえ手に入れば「任命権」を使ってクロムとミアをリーダーから降ろし、「改正権」を使って十三条を廃止できる。そして天使を全員殺し、ルシファーが安心できる環境を整えてから「魂の救済」を使う。そうすれば……彼女はもう天使を殺さずに済むんだ)


 対天使用の殺戮人形と化した愛しい婚約者。彼女が目覚めた時に天使がいなければ、もうあんな悲しい事件は起きないだろう。彼女を責める白い翼もいない。彼女が殺さなければならない白い翼もいない。彼女の新しい翼と同じ、黒い色だけあればいい。


 しかし、この計画はあまりに無謀。あの圧倒的な力を持つ魔王から金印を奪う方法など、どれだけ考えても思いつかない。


(いや、必ずチャンスを作ってみせる。待っててくれ、ルシファー)


 ケルベスは黒い翼をピンと伸ばし、決意を新たに最下層の業火を見下ろした。炎に呑まれた彼女の姿は既に見えない。少しの間瞳を伏せて心を業火の底に預け、ケルベスはひとまず形だけの日常に戻っていった。



      ◇


 


「魂の救済?」


 最下層奥の黒の部屋。クロムは隣から聞こえた言葉の意味を考え、書類仕事をしていた手を止めた。


「そういえば、そんなのもマスター権限にありましたね」

「あんま使った事ねぇけどな」


 隣では、サタンが金色に光る丸い印をゆらゆら揺らしている。クロムはそれを見て、呆れたように息を吐いた。

 

「そんな大事なものを不用意に出すなと言っているでしょうが」

「この部屋にはお前とミカエル、シルバーしか入れない。ちょっとくらいいいだろ」

「ケルベスとミアはどうしたんです」

「あいつらはリーダーとしての資格は充分だがまだ信用が足りない」


 サタンは即答したが、クロムは複雑だった。魔王自ら任命した悪魔のリーダーが天使のリーダーよりも信用できないとは何事か。


「そんな者たちをリーダーにしている意味は?」

「仕事を任せられるかと大事なものを預けられるかは全くもって別の話だ」

「それはそうですけど」

 

 クロムはとりあえず頷き、目の前の書類に戻った。あの事件以降ケルベスは、淡々とリーダーの仕事を全うしている。しかし以前のように覇気はなく、話もほとんどしなくなった。最近はクロムも諦めて仕事上重要な話のみ書類にまとめて回している。


「……特にケルベスは、抜け殻のようですからね。面倒な雑談をしなくて済むのは気が楽ですが、あまりにも反応がないと聞いているのかわからないのでどうにかしてほしいところです」


「お前、ケルベスのあの様子は素だと思うか?」


 サタンがクロムに問いかけた。クロムは改めて、彼の様子を思い出す。


「さあ……特に演技をしているようには見えませんが」

「そうか? 裏では意外と元気かも」

「気持ちの切り替えが得意なタイプではないと思いますが」

「よくわかってるじゃねぇか。あいつは過去を引き摺るタイプだ……そしてああいうタイプの奴は、どんな事をしても元に戻そうと・・・・・する」


 サタンは確信を持って口にした。何千年も生きる悪魔が、一生に一度しか出来ない婚姻契約。それを結ぼうと決意するまでに思い思われる相手は、そう簡単に現れるものではない。


「ま、お前には分からないだろうがな」

「さっぱりですね。サタン様は?」

「さてな。だが想像はできる……ルシファーの件は、あまりに不幸だった。何としても取り戻したいと思って無謀な賭けに出ても不思議じゃねぇ」

「それで魂の救済……ですか」


 クロムは少し考えた。金印を利用したマスター権限を使えば、ルシファーは数百年後には元通りに復活できる。確かに今のケルベスには、それが唯一の希望だろう。魔王が肌身離さず持ち歩く金印を手に入れることができるなら、だが。


「……サタン様から金印を奪うと? そんな無茶な」

「無茶だが、あいつにはやる意味がある。というか俺ならそうする」

「引きずるタイプではないのでは?」

「俺はな。今のは俺がケルベスだった場合のシュミレーションだ」

「成程……確かに、奴は勢いで行動するところがありますが」

「何気ぃ遣ってんだよ。無鉄砲な馬鹿って言えよ」

「元に戻る保証があるならまだしもあの状態の堕天使ルシファーを救済しようというのなら、無鉄砲な馬鹿としかいいようがありませんね」

「愛は時に男を馬鹿にするらしい……ケルベスあいつはそういうタイプだ」

 

 サタンはほんの一瞬笑い、金印を机の上に置いて手をかざした。闇が金印に吸い込まれていく。輝きを増した金色を見て、クロムは首を傾げた。


「何をしたんです」

「盗難防止にはならねぇが、泥棒を弱らせるおまじないだ」


 サタンは悪戯を仕掛けた子どものように笑った。しかし、おそらくそれは子どもの悪戯なんてかわいいものではないのだろう。クロムは頬を引き攣らせた。


「……内容を聞かなければいけませんか?」

「別に。勝手に言うから嫌なら耳を塞いどけ。今からこの金印を不正所持した者は自らの心の闇に吞み込まれ、出口の見えない苦しみを永遠に背負う事となるだろう」

「抽象的ですね」

「身体に影響を与えるのは難しいんだよ。心を傷つける方が簡単に……どうした?」

「いいえ。まさに悪魔の所業だなと思っただけです」

「そりゃあ魔王・・だからな」


 引き気味に首を振ったクロムの言葉に、サタンは当然のように頷いた。


「何も無いならそれでいい。理由もなく誰かを傷つけて喜ぶ趣味は俺にはねぇが、悪い事をした奴にはそれ相応の罰を与えて然るべきだ。そうだろ?」

「そうですね」


 クロムは今度は同意した。悪い事には罰を。それこそ地獄の存在理由。


魔王おれから金印これを奪うという事は、地獄の全てを手に入れるという事だ。例えば大罪人を復活させることも、十三条を廃止すれば天使も人間も殺し放題の世の中をつくることもできる……さて、あいつはどう出るかな」


「絶対に、油断しないでくださいよ。地獄だけじゃなく……天国と人間界のためにも」


 心の底から心配そうに金印を見たクロムを見て、サタンは金の瞳を緩ませる。やはり心から信頼できるのは彼だけなのだと、金印の罠にこっそり例外・・を仕込んだ事は、サタンは誰にも言わなかった。

 

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