激闘!日本シリーズ

深海くじら

激闘!日本シリーズ

 ここは北の果て、エゾコンフィールドで行われる日本シリーズ第七戦もいよいよ九回裏。セ・リーグの覇者大阪猛虎軍とパ・リーグを制した北海道ファイヤーズがともに三勝ずつの五分ごぶで迎えた最終戦も大詰めだ。スコアは1対2。守っている猛虎軍が1点リード。だが我らがファイヤーズも下位打線が粘りを見せ、二死ながら満塁に漕ぎつけている。この最高の舞台に野球の神様は粋なことをする。球場DJのコールに送られて左打席に立つのは、今年メジャーリーグから戻ってきた世界最高の二刀流プレイヤー、大涌谷おおわくだに穣平じょうへいだ。

 マウンドにはこれまた北海道の元至宝、十五年前までファイヤーズの絶対的エースを勤め、メジャーでも大活躍、四十二歳で出身地の大阪に一年契約で加入したダリュースゆうが仁王立ち。

 両軍ファンによる怒声混じりの大歓声と足踏みジャンプは球場全体を揺るがし、右翼外野席最後列の座席に立ち上がって飛び跳ねてるボクたちの背後一面にそびえ立つ超大型強化ガラスも、表面をビリビリと震わせている。ガラスの向こうには、球場に入れなかった無数のファンが折り重なるように顔を押し付けているのが見える。

 もはやエゾコンフィールドは、いつ爆発してもおかしくない火薬庫と化していた。





「なあ晴海はるみ、このままファイヤーズが優勝したらなまらヤバくね?」


 網走あばしり美幌びほろ町近辺では唯一の行楽地、きたみファミリーランドでぐるぐる回るわっかを眺めながら持ってきたフライドポテト(要するに自家製のジャガイモ揚げ)を齧るボクは、さほど思い入れもなく、そうだねぇと答えた。


「なにスカしてんだよ。目ん玉かっぽじってこれよく見ろ」


 貴仁たかひとが押し付けてきた道スポの一面に目をやった。振り切ったスイングがめちゃめちゃ絵になる大涌谷穣平の大判写真に被さるように、太字縁取り付きの煽りコピーが踊っていた。



「猛打、大涌谷が止まらない!

 ファイヤーズ、ぶっちぎりで首位独走!!」



 大涌谷選手なら野球に疎いボクだって知ってる。なんせ野球好きで昭和のひとの父が毎朝のようにMLB中継を観ていたから。

 本場MLBの百五十年の歴史でも類を見ない超絶にスペシャルな選手。打てば三冠王、投げればサイヤング賞。もうひとつおまけに走らせれば盗塁王。海の向こうの本家本元で二刀流やら三刀流やらユニコーンやらと持て囃されていた日本人は、ニュースにならない日もないくらい有名だった。ま、サイヤング賞ってのがどんな賞なのかは、今もってよく知らないけど。

 そんなMLBのスーパースター大涌谷穣平選手が現役生活の最後の締めくくりとして、今シーズン限りの契約で古巣の北海道ファイヤーズに帰ってきた。すでにベテランの閾を越え引退間近の彼だったが、日本球界では全盛期の如き無双ぶりを発揮し、六月初めの昨日時点で本塁打二十五本、打点六十、打率四割、二十盗塁、十三勝零敗、百奪三振、防御率零点台という恐ろしい成績を弾き出していた。おかげでファイヤーズも二位に十五ゲーム差をつけて首位を独走中なんだとか。ちなみにそれらの数字がどのくらい凄いかに関しては、ボクにはさっぱりわからない。


「今年こそはエゾコン初の日シリが観られそうだぜ。な、ヤベぇだろ」


 エゾコンってSF大会? ニッシリてのはなんだべ? 利尻島のニシン御殿かなんかかな。


「エゾコンはエゾコンフィールド。ファイヤーズの本拠地で北広島にある最新型の屋根付き球場。でもって日シリは日本シリーズのこと。ほんっと晴海はなぁんにも知らねえな」


 ジェットコースターを満喫して帰ってきた弟たちに水筒を渡しながら、貴仁は呆れ顔でボクを見ていた。そんなローカルな世界の常識なんて知らないって。


「そんなわけで、今年優勝したらエゾコンの日本シリーズは絶対観に行くから、お前も覚悟して金貯めとけよ」


 え? 北広島って確か札幌の隣だよね。なまら遠いやん。泊まりじゃなきゃムリやん。


「だ、誰が行くの? 北広島まで」


「誰って、決まってんじゃん」


 涼しい顔してボクと自分を交互に指差す貴仁。

 え? えええっ!? ぼ、ボクらまだ高校生だよ。いくら幼馴染だからって、男の子とふたりきりで旅行だなんて。

 ボクの狼狽える顔を見てにやにや笑う貴仁は、こう続けてきた。


「ちゃあんと親父たちがスポンサーでついてきてくれっから。うちの親父から晴海んとこのおやっさんにも話通ってるし」


 はぁ? なにそれ。意識しちゃったボクがめちゃめちゃバカみたいじゃん。

 ボクは思い切り頬を膨らませて、明後日の空を見上げた。





 七月に入ってもファイヤーズと大涌谷選手の勢いは止まらない。どちらも二位との差に大きく水を開け、完全に一人旅の様相だった。ファイヤーズはマジックナンバー(?)とかいうのも点灯して、早くも優勝へのカウントダウンを始めていた。道民の盛り上がりも尋常ではなく、ボクたちの町でも商店街に横断幕がかかりだした。

 一方でもうひとつのリーグの方でも独走態勢に入っているチームがあった。関西地方を中心に熱狂的なファンを持つ大阪猛虎軍だ。ファイヤーズ同様二位以下に大きく差をつけた猛虎軍は、秋を見据えてのあっと驚く大補強を行う、と発表していた。

 七月末のトレード期限 (そういうのがあるらしい)で大々的に発表された猛虎軍の補強は、確かにとんでもない(とみんなが言う)ものだった。


「ダリュース優、猛虎軍に電撃移籍!


 長年MLBで活躍し、大涌谷と雌雄を競ってきたダリュース優が引退を目前に日本球界に復帰。しかもその球団は現在セ・リーグで首位を独走中の大阪猛虎軍。もともと北海道ファイヤーズのエースだったダリュース投手だが、出身は大阪府羽曳野市で子どもの頃は猛虎軍のファンでもあった。『有終の美を飾る最後のチームとして、秋の日本シリーズで古巣に立ちはだかる側に回りたい』という談話の真意は、MLBでライバルだった大涌谷選手を倒したいという強い決意か」





「ヤバイよヤバイよ」


 八月初日の学校のプールサイドで貴仁が騒いでる。

 高校も先週から夏休みに入ったけれど、最初の一週間だけはプールを解放してくれるから、ほかに遊びに行くところのないボクたちはほぼ毎日ここに来て涼んでいるのだ。


「よりによって猛虎軍だってよ。なまら熱い。熱過ぎるよ!」


「つかダリュース裏切者すぎるっしょ」


「いやいやいやいや。これはこれでアリっしょ。敢えて北海道で敵役やるっつーか」


「どっちにしろ、心臓の強さはソンケーだわ」


 ひとがせっかくスク水以外のを着てきてやったってのに、ボクら女子の温情もそっちのけで馬鹿猿どもは野球の話ばっかり。ホント失礼な奴ら。七五三の貸衣装みたいに似合ってないボクのセパレートはいいとしても、ズン子のビキニやみゃあのハイレグワンピくらい褒めてやりゃあいいのに、口を開けば大涌谷の十八勝目と四十号がどうだのファイヤーズの二十連勝がこうだのクライマックスシリーズ要らないんじゃねだの、言ってることがガキ過ぎて頭沸いてんじゃないのかな。無神経男子とか、全員死んじゃえばいいのに。



 アイスを食べながらの帰り道、ボクは無言でムクれたままなのに、貴仁の奴はお構い無しに喋りかけてくる。


「いやあ、マジ秋のエゾコンが楽しみだよな。ダリュース対大涌谷! くーっ、燃えるぜ」


 ふん。勝手に燃えてろ。ていうか、燃え尽きてしまえ、この朴念仁が。

 心の中で大いに毒づいていたボクの肩がつつかれる。何、と振り向いた頬に人差し指が突き刺さった。

 ……小学生みたいなことやりやがって。こいつ、マジ殺す!

 そう心に決めて睨みつけてやったら、想定外のいい笑顔をした貴仁がこう言った。


「晴海の水着、可愛かったぜ」


 な、なんなのよ。こいつ。

 振り上げた拳の収め場所がわからないボクは、溶けたアイスが指を汚すのも忘れて、ただ蝉の鳴く音を聴いていた。





 ファイヤーズと猛虎軍の両チームは、それぞれのリーグで八月末に優勝を決めた。北海道中のどの町でも、観光大使に任命されている選手のポスターが大涌谷選手のそれと並んでバス停やら伝言板やら駅やら飲食店内やらに貼りめぐらされていた。

 美幌の街中の電柱にも、試合はおろか、一軍にもいたことないような見たこともない選手が大涌谷選手と並んで握手してるポスターが貼ってあった。写真の下にでっかく名前が書いてある。『北海道ファイヤーズ美幌町観光大使』って肩書きをつけて。


 まるで選挙みたいだ。

 ボクはそう思った。

 ポスターは町役場で申請すれば誰でも貰えるそうで、町の人たちはこぞってポスターを手に入れては好きなところに貼っていた。我が家では、トイレに貼ってあった。便座に座ったらいきなり男二人と目が合ったのだ。知らない選手の方はどうでもいいとして、大涌谷穣平に見られながらでは落ち着いておしっこもできない。ボクの猛抗議のおかげで、我が家のポスターはトイレから神棚の横に引っ越していった。





 九月末、怒濤のレギュラーシーズンはファイヤーズ、猛虎軍ともに勝率八割を上回る異常事態のまま幕を閉じ、興行的理由で行われたクライマックスシリーズでも両チームは当たり前に無敗で駆け抜けた。

 全国民が、世界中の野球ファンが知っている。本物のクライマックスは、十月末から始まる日本シリーズだと。


 エゾコンフィールドで行われる第一戦を一目見ようと、全国のファイヤーズファン、もとい大涌谷穣平ファンが大挙して北広島町に押し寄せた。MLBでの活躍で国民知悉率百%の彼がパ・リーグの投打全個人記録を塗り替える歴史的シーズンを送ったのだから、これを見逃すわけにはいかない。対する猛虎ファン、ダリュースファンも負けじと大量動員する。

 飛行機で、列車で、車で、自転車で。この日だけで推定百万人の観光客が北広島市を訪れたらしい。エゾコンフィールドも球場周辺のボールパーク各所に大型スクリーンを用意し、敷地内のどこでもパブリックビューイングができるよう整えたが、それでも全然足りなかった。

 JRの駅からボールパークまでの沿道には違法露店がずらっと並び、パチモンのレプリカユニフォームや帽子、Tシャツ、タオル、キーホルダーにブロマイド、応援グッズ等々を販売し、これがまた飛ぶように売れている。


 入場券は、当然だが外野の端っこに至るまでの全ての座席がプラチナチケット。その抽選倍率は、開幕戦で百八十倍。あるかどうかもわからない第七戦の外野席最後部でも五十倍に近かったらしい。ボクらは貴仁とうちの家族、親類縁者の名前をかき集め、韓国製のチケット購入プログラムと専用パソコンまで買い入れて申し込み、最終第七戦の外野席四枚のみ確保できた。完全記名制であるにもかかわらず、販売完了直後のチケット再販サイトでは定価五千円の最安チケットでも千ドルの値段がつけられ、しかも売れていた。どこで聞きつけたのかは知らないが、ボクにも五万円で買い取るというメールが送られてきて思わず売りそうになったが、猛烈な勢いで父に止められた。





 第一戦。両軍先発は大涌谷穣平とダリュース優。一触即発の道民・大涌谷ファン連合と関西から大挙してきた猛虎応援団が見守る中始まった試合は、大涌谷穣平の一人舞台で終わった。1番投手で登場した彼は、初回を三者三振で切り捨てた直後の一回裏に放った先頭打者本塁打を皮切りに、二本塁打四打点、投げては八回無失点十五奪三振という八面六臂の活躍でファイヤーズに勝利をもたらした。

 TVで観ていたボクにも、その凄さは伝わった。そんなものが存在していたなんて思いもよらなかった北海道愛が、ボクの裡からむくむくと湧いてくるのが手に取るようにわかった。



 第二戦は打って変わって打撃戦。追いつ追われつの手に汗握る好試合だったが、最後はファイヤーズが4番青宮あおみやの快打でサヨナラ勝ちを収めた。これでファイヤーズ二勝零敗。明後日からは猛虎軍の本拠地、甲子苑球場に舞台を移しての連戦となる。

 その夜、札幌と北広島の複数箇所で騒ぎがあった。どれも関西から来たファンと道民ファンとの小競り合いだったが、規模も件数も少々、いやかなり大きい。およそ二十箇所で同時発生的に起こったそれらの騒ぎで、死者五名、負傷者八十名、焼失店舗は計三棟。

 この事態を重く見た道警と大阪府警は、それぞれ特別警戒態勢を取ると発表。両球場周辺と近隣繁華街の警らを大増員し、違反者、不審者は即時逮捕拘留すると通達してきた。


 一方で収容観客数を増やすことに腐心していたエゾコンも秘密兵器を投入してきた。名付けてスカイネット。屋根付き球場である利点を活かして、天井直下三メートルの全エリアをカバーする吊り下げネットを設置し、野球を真上から座り込んで観られるという世界でも類を見ない新機軸の席だった。

 第六戦、第七戦の二試合のみの完全自由席で各試合七千席の販売を開始したところ、ものの三秒で全席完売した。



 第三戦、猛虎打線はスタンドの九割を占める熱狂的虎党の声援に押されて爆発し、9対2の大差でファイヤーズ投手陣を粉砕した。猛虎ファンは快勝に酔いしれ、道頓堀の日間売り上げは平均の五倍となった。



 ホームタウンの勢いは止まらず、猛虎軍は第四、第五戦も勝利を収めた。とくに第四戦ではダリュースが初戦のリベンジとばかりに大涌谷から全打席三振を奪う快投を見せ、打線も足を使った小技でファイヤーズ守備陣を翻弄するなどで、好投する大涌谷から2点をもぎ取り逃げ切った。

 この夜の関西圏繁華街はどこももれなく大繁盛、店に入れなかったファンが路上やコンビニ前で勝手に酒盛りをはじめるという大騒ぎとなったらしい。

 その日検挙された酔客は二千人を超えたためトラ箱 (捕まえた酔っ払いをひと晩留め置く留置所みたいなもの?)が間に合わず、各警察署の道場を仮宿泊所にしたのだそうな。ちなみにこういうとき恒例の道頓堀川ダイブも、その夜だけで三十人。うち一名は心肺停止になったという。


 第五戦でも猛虎軍は、2点リードで迎えた九回表、無死二塁一塁のピンチで打者大涌谷を敬遠し、次打者松藻斗まつもとの内野ゴロ併殺の間に1点は失ったものの後続を絶ち、勝利を掴んだ。

 猛虎ファンは策士岡多おかだ監督の老練な采配に酔いしれ、優勝ペナントに片手を掛けた自軍の勝利を確信していた。


 猛虎軍三勝二敗で後がないファイヤーズナインは、数十万人の猛虎ファンとともに北海道に帰ってきた。





「ヤバい。猛虎軍、マジ強い」


 例によって、教室の後ろで男子どもが集まって騒いでる。以前だったら聞き流していた戯言談義だが、最近は予習も兼ねて毎試合追っかけているので、ボクでもついていけてしまうのが怖い。


「あの勢い、半端ないよな」


「中継見てても甲子苑のアウェイ感は凄すぎでしょ。三百六十度全部敵じゃね」


「だよな。昨日の沁水しみずとか、完全に飲まれてたもんな」


「ネットの噂だけど、猛虎団の奴ら、十倍の値で買うからってファイヤーズファンに転売持ち掛けてるって」


 十倍どころじゃないよ。ボクんとこにも十万円で買うってメール来てたし。


「このままだと明日もやられておしまいになっちゃうかもな」


「 そ れ は 無 い ! 」


 弱気な級友に断固とした反攻宣言するのは貴仁の声。釣られてボクもうんうんと頷いてしまう。

 ホントだよ。明日負けちゃったらボクらのチケットが単なる紙切れになっちゃうもんね。


「ちょ、ハル。なにいきなり頷いてんのよ? あんたそんなに数学出来たっけ?」


 そうだった。こっちは中間試験の感想戦やってたんだった。


「ごめんごめん。ちょい思い出したことがあって」


 ちろっと舌を見せて誤魔化したボクは、なにごともなかったかのように女子グループの話題に戻っていく。あぶないあぶない。野球クラスタとはカンケーないで通してるんだもんね、ボク。明日の第六戦終わったらすぐ家を出て、貴仁んちの車で北広島に向かうなんて、口が裂けても言えっこない。




 エゾコンフィールドに戻った第六戦の開始前、スタンドとTVの前の視聴者は揃ってどよめいた。ファイヤーズの先発メンバーに大涌谷の名前が無かったのだ。たしかにシーズンからこっちずっと使い詰めなので疲労が溜まっていても不思議はないが、取り立ててのトラブル情報も無いのでおそらくは陳条ちんじょう監督お得意の奇策なのだろう、と解説者は語っている。でも、王手を掛けて乗り込んできた猛虎軍を相手にこんな小手先の手が通じたりするの?


 案の定、試合は終始猛虎軍ペースだった。投手陣はそれなりに踏ん張って猛虎打線を3点に押さえてはいるものの、メインエンジンを欠く打線は全く繋がらず、チャンスらしいチャンスもつくれないまま終盤まで来てしまった。貴仁の家のリビングでTV観戦してるボクは、画面から片時も目を離すことができないでいる。

 八回の裏、ようやく試合が動いた。一死から安打、失策、四球で満塁。おそらくはこの試合で最後のチャンスに球場は沸きに沸いた。歓声に呼応するようにベンチから陳条監督のスマートな背中が現れて、主審にひとこと告げた。代打、大涌谷。

 スタンドで、そして全道じゅうのTVの前で大歓声が上がった。絶対に敬遠されない場面、その瞬間を逃さないための大涌谷温存策。第五戦に岡多監督が見せた奇策のお返しだったのだ。

 ここで併殺打を打てば、ファイヤーズ全選手、全道民の気持ちが折れてそのままゲームセットに流れ込むだろう。だが大涌谷選手の雄大な構えを見ていたら、そんな不吉な未来など微塵も想像できない。猛虎軍の抑えのエース湯澤ゆさわも、この世界一の打者には完全に飲まれていた。

 ほぼすべての日本人が注視する中で投じられた内角速球は、決して悪い球ではなかった。が、スイングはそれを凌駕する。一閃した黒バットから放たれた低い打球は一瞬で一塁手の横をすり抜けて、水切り石のように右翼線を二回跳ねてフェンスに到達した。嬌声の中で次々と帰ってくる走者。三人目がホームにスライディングする前に、大涌谷は三塁に到達していた。

 満塁の走者を一掃する同点タイムリー三塁打。三塁ベース上で天に向かって吠える大涌谷穣平の姿をTV画面いっぱいで目撃したボクは、闘神の降臨を見た、と思った。ベースに片足を置いた仁王立ちで味方ベンチを鼓舞する彼の姿は、もはやヒトではなく、純粋に闘うためだけに顕現した神々しい生き物だった。

 球場は、全道は、全国、全世界に広がる大涌谷穣平ファンは狂喜のるつぼと化していた。

 だから、続く松藻斗選手がセンター前にクリーンヒットを打って大涌谷選手を迎え入れたのも必然だし、九回のマウンドに大涌谷穣平が立ってるのも、たった五球で猛虎軍の3、4、5番を打ち取ったのも当然に思えた。

 打ち上がる花火の音が聞こえないくらい、球場の喜びの声は大きなもので、相当数いたはずの猛虎応援団の存在すら搔き消されたみたいだった。


「さ、行くぞ」


 止まらない歓声で質疑が全く聞きとれないヒーローインタビューの映像を眺めていたボクは、貴仁の呼びかけで我に返った。そうだった。いよいよ明日はここに行くんだ。





 帯広経由で一晩走った車は、明け方に着いた千歳の昼夜営業スーパー銭湯でひと休みした。風呂と仮眠で身体を休めたボクらがエゾコンフィールド間近に到着したのは午後二時前。試合開始が夕方の六時だから全然余裕で練習も見られると思っていたら、駐車場手前の周回道路で動かなくなった。一時間待って進んだのは五十メートル程度。すぐ向こうにエゾコンフィールドの勇姿がそびえてるというのに。


「どうやら入場券持ってない連中も相当数車で来てるんだろう。これじゃ埒が開かん。お父さんたちは千歳空港まで戻って車停めてくるから、お前たち二人はここで降りて先球場に入っとけ」


 運転席の貴仁パパはそう言って貴仁にチケットを二枚手渡した。助手席に座る父も財布から諭吉三枚出してボクに握らせる。


「ハル、タカちゃんと二人、席でなんか食べながら待ってて。二時間は掛からないと思うから。あと、お父さんたちのレプユニ買うのも忘れないでね」



 車を降りたボクらは球場に向かって歩く。山小屋みたいな形をしたエゾコンフィールドは、すぐ近くに見えるのに全然近づかない。ありゃ相当大きいんだな。

 近づくにつれて人が増え、球場の建物が視界いっぱいになった頃には、まわりも人だらけになっていた。肩をぶつけ合いながらじゃないと歩けないほど。ボクは怖くなって、貴仁の手を握った。握り返す強さで、貴仁も同じように感じてるのがわかる。


「チケットあるよ〜チケット」

「大涌谷のサインボールがたったの五千円」

「応援タオル、今なら安くしとくよ〜」


 あちこちで怪しげな囃子の声が聞こえるが、いったいどの人が発してるのかもわからない。どこに向かえばいいのか皆目見当のついていないボクを引っ張って、貴仁は人を掻き分けながら進んでいる。やっぱり男の子なんだ。頼もしいって素直に思う。

 ようやく球場外壁に取りつけたボクらは、そこから約半周沿って右翼観覧席の入り口に辿り着いた。球場内のショップエリアはさっきまでの球場外よりは幾分空いていたけれど、レジ前の列はやっぱり凄かった。貴仁は、グッズと食べ物をふた手に分かれて買いに行こうと提案してきたけど、離れたら二度と会えなくなる気がしたので、効率悪くても一緒がいいって言い張った。


 なんとかグッズを買い終えたボクらはもう疲れ切っていて、とても食べ物なんかに手が回らなかった。既に試合開始まで一時間を切っていたから、軽食はもう諦めて、そのまま席に座ることにした。グラウンドでは猛虎軍が試合前の練習をしている。

 大涌谷の打撃練習が見られなかった、と貴仁が嘆いていたら、すぐ前に座る大涌谷ユニのおじさんが、彼は今日投げるから打撃練習はしなかったよと教えてくれた。

 猛虎の選手が打球を高く打ち上げた。と上の方から、痛て、という間抜けな声が響いてきた。見上げると、頭上一面に青い網が張られ、あの向こうに人影のシルエットが無数蠢いていた。


「あれがスカイネット。昨日の試合で初めて使われた新しいタイプの観客席だよ」


 さっきのおじさんが教えてくれた。真上から寝転んで試合が見れるんだって。いずれ一度は試してみたいとおじさんは言ってたが、落ちそうな気がするから遠慮しておきたいとボクは応えた。


 試合開始まであと二十分。車を降りて二時間半を過ぎたが、父親たちはまだ来ない。途中、一度電話をかけてみたが、電源が切れているか電波が届かないところに……と言われた。四万人以上いるこのエリアこそが一番電波が届いていない場所なのだろうと解説してくれたのは、またしても前のおじさん。よほど誰かに説明するのが好きらしい。



 選手たちが皆ベンチに消え、場内が真っ暗になった。一塁側と三塁側の二階席の下にある真っ黒の壁面に映像が疾走った。大仰な音楽とともに、ファイヤーズの今シーズンの活躍が走馬灯のように流れる。七色に瞬くレーザー、内壁のぐるりを取り巻いている細長いディスプレイ、席のあちこちに仕込まれたサーチライト。さまざまな光を駆使して、試合前の演出が繰り広げられる。


「綺麗」


 思わず口に出したボクは、隣に座る貴仁の手を掴んでいた。この数時間で、貴仁との距離が子どもの頃の近さに逆戻りした気がする。常に手を繋いで、何をするにも一緒だったあの頃。




 往年のレジェンド否場いなばさん(という名の知らないおじさん)による始球式がつつがなく終わり、ようやく試合が始まる。日本シリーズ第七戦。この試合で全ての決着がつく。

 マウンドで投球練習する大涌谷投手が随分小さく感じる。でもミットに刺さる音は妙にリアル。ライブ観戦ってこんな感じなんだ。周囲を見回すと、ボクたちの両隣の空席を除き全ての席が埋まって見える。頭上のネットも人で埋め尽くされている。背後のガラス面に目をやると、球場に入れなかった人たちが何重にも折り重なって、夕暮を背景にしたシルエットになっていた。


「プレイボール!」



 試合は大涌谷穣平とダリュース優の投手戦で始まった。ともに相手チームの打者を完璧に抑えて一人のランナーも許さない。投げた瞬間に漏れる呼吸のような声とキャッチーミットの乾いた音。時折鈍く響く打球音は、どれも内野ゴロだったり凡フライだったり。


 試合が動いたのは六回裏。二死後、二回り目最後の打者が打った弱いゴロを捌いた三塁手砂糖さとうが一塁に悪送球した。初めての走者を二塁に置いて、三回り目の先頭打者は大涌谷。ベンチの申告による敬遠で塁を埋め、2番の松藻斗と勝負するダリュース。追い込んでからの高めストレートは若い頃を彷彿させる百マイルの快速球だった。振り遅れた松藻斗のバットが弾く詰まった打球は、ふらふらと上がって二塁手の後ろにぽとりと落ちた。スタートの良かった二塁走者がホームに帰って来た。ファイヤーズ、先制!

 観客席のあちこちでハイタッチが起こり、お祭り騒ぎになった。スタンド全体が揺れ、頭上のスカイネットも波打っている。

 ボクは少し怖くなって貴仁を見上げるが、先制点で我を忘れてはしゃいでる彼はボクの不安に気づかない。


 試合は大詰めの九回表。大涌谷はここまで猛虎打線に一塁も踏ませない完全試合を続けている。疲労からかコントロールが定まらなくなって球数は嵩むけれど、7番、8番を討ち取ってあとひとり。岡多監督はここで代打の切り札の背番号4、大ベテランの川籘かわとうを送った。簡単にツーストライクまで取った三球目、すっぽ抜けた大涌谷の球は、川籘の突き出した尻に直撃した。デッドボール、ここまで息を潜めるようにしていた猛虎応援団が、ここぞとばかりに大音声を上げる。一塁には代走飢多うえだが送られ、迎える打者は今シーズンのセ・リーグ首位打者、地下本ちかもと。強力無比の猛虎打線の中でも最も信頼が置けるチームリーダーだ。

 一球投げるごとに吠える大涌谷。ファールで粘る地下本。お互い譲らない対決は、ツーツーからのサードゴロ。しかしこれを野々務良ののむらお手玉し、どこにも投げることができない。


「なんか嫌な感じがするね」


 そう言うボクの言葉に、貴仁は大丈夫、と胸を叩いた。


 猛虎軍、二死ながら二塁一塁。迎える打者は、得点圏打率の高い那可乃なかの。二塁走者が帰れば同点、一塁走者の地下本が帰ったら猛虎軍が逆転する。

 大涌谷が吠えた。

 フルカウントからの那可乃なかのの打球は、一塁線に転がった当たり損ない。猛虎軍万事休す、と誰もが思った。軽いステップで打球に追いついたキャッチャーの訓示くんじは素手で拾って一塁の青宮に送球……のはずが、那可乃なかののヘルメットに当たって大きく跳ねた。

 ボールは二塁手の定位置に落ちたが、当の二塁手は一塁のバックアップに走っていて不在。遊撃手も三塁よりのシフトで追いつかない。スタートを切っていた飢多うえだは楽々ホームイン。だがそれだけでは済まない。野球脳抜群の地下本も快速を飛ばし、一塁から長駆本塁へ。右翼手からのバックホームでのクロスプレイは、十分におよぶリプレイ検証の末、走者地下本に軍配が上がった。猛虎軍、土壇場で逆点。

 スタンドのあちこちで悲鳴が上がり、左翼スタンドを埋める猛虎応援団だけが大騒ぎをしていた。


「なんかヤバいことになったね」


 ボクは隣の貴仁に怒鳴った。そうしないと聞こえないのだ。貴仁もヘドバンのように頭を振って応えてる。天井下のスカイネットはギシギシと異音を立てているし、ボクらの後ろのガラスもしなってて変な反射で光ってる。もうみんな、おかしくなってる。


 次打者を三球三振に仕留めた大涌谷は、ベンチに戻るまでずっと吠えていた。



 九回の裏のファイヤーズの攻撃ではいい当たりが続けて二本、外野に飛んだけど、どちらも地下本の好守備に阻まれた。疲れを隠せないダリュースは二死まで漕ぎ着けたが、7番、8番に続けて四球を出した。

 陳条ちんじょう監督はここで、代打に選球眼の良い生邑きむらを送った。ネクストバッターズサークルでは大涌谷が仁王立ちしてダリュースを睨んでいる。その気合に当てられたのか、ダリュースは生邑きむらに死球を与えてしまった。

 岡多監督が立ち上がった。抑えのエース湯澤ゆさわは準備ができている。昨日こそ大涌谷に打たれて救援失敗したが、シーズン中の救援成功率十割を誇っている。この稀代のクローザー湯澤ゆさわが再びマウンドに上げるのか。だが、ダリュースは首を横に振る。最後まで俺に任せろ、とでも言ったのだろうか

 九回裏二死ツーアウト満塁、スコアは1対2。守っている猛虎軍が1点リード。そして左打席に立つは、世界野球界の至宝、大涌谷おおわくだに穣平じょうへいだ。舞台は完全に整った。


 球場全体が揺れている。比喩なんかじゃなしに。

 大涌谷は一度もバットを振ることなく、投球五球でフルカウント。

 走者を無視したダリュース優はおおきく振りかぶって渾身の一球を投げ込んだ。

 一閃する大涌谷のスイング。


 もはや打球音とは思えない爆発音とともに、打球はボクたちのスタンドめがけて飛んできた。目の前に着弾するのを捉えた瞬間、背後のガラスが聞いたこともない音を立てて割れた。ガラス面に張り付いていた球場外の観客だ雪崩のように押し寄せて、外野席最後部の観客を次々と飲み込んでいく。


晴海はるみっ!!!」


「貴仁っ!!!」


 グラウンド内ではファイヤーズの選手全員がベンチから飛び出し、陳条ちんじょう監督を胴上げしているが、内野席のファンたちも上の方から崩れ落ちるように次々とグラウンドに転び落ちているのが見えた。

 宙を舞う監督の横にドサドサと降ってきているのはスカイネットの観客たち。編みが切れたのか、留め金が外れたのか。地上六十メートルから小雨のように振ってきた彼らは、程なく豪雨に変わった。グラウンドを逃げ惑う選手たち。だが七千にも及ぶ人の形をした雨から逃げ切るのは容易ではない。

 壁面や天井から、音もなく巨大なガラス片が降ってきた。車のドアほどもあるガラスが、外野席全体に向かって降り注ぎ、席で押しつぶされたまま身動きの取れない観客たちを一刀両断していく。飛び散る腕、足、そして首。ボクの五十センチ前にも落ちてきたガラスは、説明おじさんの身体を綺麗に縦割した。

 背後からの雪崩を避けようとしてボクは座席の隙間にしゃがみこんだ。隣の貴仁の手も引いたが、手応えがない。頭上で流れていく群衆の雪崩をやり過ごしながら見ると、貴仁の手は肩から先しかなかった。

 その状況でも、ボクは声を上げなかった。たぶん神経の回路が閉じてしまったのだろう。周りを埋め尽くす悲鳴やうめき声も、じきに消えていった。奇跡的に怪我もなく、座席の間の小さな隙間で蹲るボクは、貴仁の手を握りしめたまま、たたじっとしていた。





 音の消えた暗闇の中で、ボクは大事なことを思い出した。

 繋いだ手に力を込めて、ボクはそれを言葉にする。




 おめでとう。やったね貴仁、ファイヤーズ優勝したね。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

激闘!日本シリーズ 深海くじら @bathyscaphe

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ