第10話 とりあえず、できることから




 その日は結局、お茶と果物で空腹を誤魔化した。


 次の日、三秋は出かけてくると言って姿を消した。神様をするためになにをすればいいか、近くの神に相談してくるというのだ。


 一人になった碧玉はしばらく考え込んでいた。

 房は廟の中のように静かだった。たまに鳥のさえずりが聞こえてくる程度だ。こんな中でいつまでも座り込んでいても始まらない。


 よし、と小さく呟いて立ち上がる。


 房の中を探してみれば、掃除道具は揃っていた。この辺り人間と変わらないのが不思議な気がするが、人間の世界で生きている以上、家事は必要になるのだろう。ならば、自分は役に立つはずだ。


 人々がお参りに来る気になるくらいに、この廟を清めよう。


 そのためには少しでもうらぶれた感じを払わなければならない。蜘蛛の巣が張った廟など危なっかしくて足を向けようとは思えないはずだ。誰もが訪れやすい、清潔で明るい場所に変えなければ。


 幸い掃除は得意だった。何をすればいいのかくらいは分かっている。


 袖をからげて、髪を巾で覆って碧玉は房を出た。廟の中は相変わらず暗い。蝋燭でもともしたいところだが、あいにくと見つけることができなかった。


 代わりに窓を開け、風と光を入れる。堂内に溜まった落ち葉や埃を履き出し、雑巾でくまなく磨き上げる。


 午前中が過ぎる頃には、廃墟感も薄らいできたような気がした。

 柱に塗られた丹は色褪せているが、こすり上げた甲斐があって艶が出てきた。床石は何度も往復して雑巾がけをした分、砂っぽさはなくなっている。


 胸一杯に広がる達成感は気持ちよかった。香でも焚くことができたのなら言うことがないが、あいにくと蝋燭と同じで見つからない。そんなものはとうの昔に使い果たしてしまったのかもしれない。


 代わりに庭に咲く花を摘んで飾ってみた。香りこそ薄いものの、なかなか居心地の良い場所になった気がする。


 碧玉はそっと表通りを伺ってみた。人々が通る気配はする。だが、ここへ向かう足はない。


「……そうよねえ……」


 ついため息が出る。


 元々この廟はほとんど打ち捨てられていたようなものだった。自分が子供の頃から寂れていて、祭りらしいものすら行われていた記憶がない。どういう由来の廟なのか誰も知らないのだから当然かもしれない。

 そもそも碧玉がこの廟へ足を向けたのは、誰もいないからだった。誰も来ることのないここなら、心置きなく泣くことができると思ったからだ。


 もし三秋だけであれば、いずれ壁や屋根に穴が開いたかもしれない。現に瓦のあちこちには草が生えだしている。

 天気のいい日を見計らって草抜きをする必要がある。自分はここで暮らすことに決めたのだから、これ以上廟が寂れるのを見てはいられない。


 昼餉はまた果物にした。中庭の果樹から好きなだけもぐことができる。しかし、甘いものは好きだが、これが毎日続くとなるとうんざりする。


 伯父伯母の家に戻れないだろうか、と考える。飛び出してきてしまったから、自分の私物を持ち出せなかった。ほとんどは二束三文のものばかりだが、両親の形見も含まれている。

 一つ二つ売れば、当面の生活費の足しにはなるのではないだろうか。

 そう思って、碧玉は吹き出した。そんなことに頭を悩ませなければならない身でも気分は落ち込まなかった。むしろやる気が沸き上がってくる。

 婚家にいた頃はこんなことはなかった。科挙を受けることを目標としていた夫は、いつも碧玉ではなく書物ばかりに目を向けていた。

 こちらが言うことにもまるで耳を貸さなかった。無学な者はこれだから困る、が口癖だった。文字もろくに読めないまま嫁いできた碧玉のことを、最後までまともに取り合わなかった。


 そなたは特別だ。気持ちが落ち込みそうになったとき、三秋の言葉が耳に蘇る。自分を見つけた人間は百数十年間いなかったのだと、彼は昨日たしかにそう言ってくれた。

 思い返すと自然に頬が緩んでくる。


 三秋が自分のことを本当はどう思っているのかは知らない。妻に迎えよう、と言ってくれたのは憐れみだと分かっている。日々の失望と絶望に追いつめられた人間を、神様らしく救ってくれただけなのだろうと。


 それでもいい、と思う。


 あの頃に比べれば今は格段に気分が楽だ。昨日まで呼吸をするのも苦しかった。生きていていいのかとさえ思っていた。けど今は違う。


 そうだ。生きていくために頑張らなくては。


 伯父伯母の夜は早い。夜半になる前にはもう床に就いている。もし荷物を取りに帰るとすればその頃だ。一晩無断でいなくなった姪を彼らは許しはしないだろう。神の元に嫁いだと言っても笑われるのは目に見えている。

 自分が笑われるのはならまだしも、三秋が笑いものになるのは許せない。


 夜になったら、三秋が帰ってきたら相談しよう。

 それまでの間は働いていよう。お茶を飲み干して碧玉は立ち上がった。午後からは祭壇の器具を磨き上げるつもりでいた。

 あと、表に水を撒くのもいいかもしれない。埃が抑えられて清々しさが増すだろう。


「あら」


 表に目をやった碧玉は、そのまま立ち止まった。

 向こうの通りを子供が駆けている。両手に何かを抱えているため危なっかしい足取りだが、決して足を緩めない。今にも転びそうなその様子に、つい目が離せなくなる。

 結局、その子供が転ぶことはなかった。それどころか、真っ赤な顔をしたまま廟の門を潜ってきた。


 慌てて碧玉は物陰に隠れた。そうしなくても、子供の目には彼女が映っていなかったかもしれないが。


 真っ直ぐに子供は本堂に入った。小さな肢を折り曲げ、たどたどしく祈りの仕草を繰り返す。


「お願いします」


 その声はまだ幼かった。


「どうか、この花瓶を元に戻してください!」


 そう言って、子供は抱えていたものを祭壇の前に広げた。それは割れてしまった花瓶の破片だった。


 目を瞠る碧玉の前で、子供はしばらくの間黙っていた。目を閉じているのは、願いを念じているからだろうか。

 もちろん花瓶が元の形になることはない。破片は何時まで経っても破片のままだ。


「お願いします」


 しばらくして響いた声は湿っていた。


「どうかこの花瓶を直して下さい。お願いします……!」


 そう言って、子供はべそをかきながら廟を出ていった。

 花瓶の残骸をこの場に残したまま。


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