09 薔薇と蕾
扉の前に立つと、シルフィールは大きく息を吸い込んで――吐き出した。
ノックのために持ち上げた手を、ドアを叩く寸前に下げる。
そういった動作を何度か繰り返しつつ、シルフィールは部屋の前の廊下を落ち着きなく行ったり来たりしていた。
外出から戻ったあと、しばらくシルフィールは寝込んでしまった。
ルイが言うところの【成れの果て】に襲われたときに、ひどく消耗してしまったことが要因だろうとのことだった。
アンによれば、シルフィールは死ぬ一歩手前のところだったらしい。しばらくは安静にしていてくださいね、と強く念を押された。
外に連れて行ってもらって理解したが、幾らシルフィールが健脚とはいえど、此処から逃げるどころかひとりで外出するのはほぼ不可能だ。
切り立った崖の上にあるヴェリテ城から出ても、崖下の森にも集落にも行けそうにないし――行けたところで【蕾姫】である自分は悪いモノに目を付けられやすいのだという。そんな状況では、気軽に散歩など出来なさそうだった。
城の外をふらふら出歩くのはかなりの危険を伴う。シルフィールにとっては特に。
道理で外出を望んだとき、誰もがいい顔をしなかったわけだ――ルイを除いて。
もうしばらく外出はこりごりだし、少なくとも誰かに連れて行ってもらうにしてもお出かけしたいとはいまは思えなかった……。
シルフィールを襲ったあの青白い肌の子供たち――あれは屍体に取り憑いた魔性のモノだといっていたが、彼らが焼け死ぬ時の断末魔の悲鳴が耳にこびりついて離れない。いまでも
「おや。そちらにおられるのはシルフィール様では?」
「か、カトルっ……⁉」
飄々としたようすで歩み寄って来たカトルが、右手を上げたまま固まっているシルフィールと閉ざされたままの扉を見比べ、訳知り顔で頷いた。
「ははあ、ルイ様のところにいらしたんですね! 早くお入りになればよろしいのに――あの方も早く入ってこないかとやきもきしておいでですよ」
「そ、そそそんなわけないでしょうっ! 私は通りがかっただけですし、ルイ様は私のことなど気にしてもいないはずです……」
勢いよく首を横に振った時、すぐ背後でドアが軋む音が聞こえた。振り返って確かめる前に、ぐい、と勢いよく伸びてきた腕に抱きすくめられる。
「……おい、カトル。余計なことを言うな」
「ふふふ、焦れてしまいまして。申し訳ございません」
そのまま助けを求める暇を与えられず、ずるずると部屋の中に引き込まれ、ばたんとノックさえしなかった部屋の扉が閉じた。はあ、とため息が頭上から降って来たので振り向くと呆れた表情のルイがシルフィールを見つめていた。
「まったく、いつになったら入って来るのかと思ったよ」
「えっ、いえ私は通りがかっただけで、すぐにでもお暇しますのでっ」
「シルフィー」
じっと紅い眸に見つめられ、ごくと喉が上下してしまった。
「……あ、あの」
ルイは何も言わなかった。じっと、表情さえ変えずにシルフィールのようすを窺っている。勇気を出さなくては。自分を叱咤し、なんとか口を開いた。
「あなたにお礼を言いたくて、来ました」
「……礼、だって?」
怪訝そうにルイは目を細めた。心臓がどきどきと激しく波打っているのが自分でも感じられる。何を言っているのかわからない、とでも言いたげだがどうしてわからないのかシルフィールには理解できなかった。
「――助けてくれて、ありがとう」
ルイがいなければ、シルフィールは死んでいた。
あのおぞましい【成れの果て】に腕をもがれ、腹を喰い破られ――無残な死を迎えていたことだろう。想像するだけでもぞっとしてしまう。
シルフィールが彼らに話していない「秘密」――自分がシルヴィアの身代わりでこのヴェリテ城に来たうしろめたさも全部飲み込んで、救ってくれた彼に感謝だけは伝えたい。そう思って、ルイに会いに来たのだ。
わかってよ、わかるでしょ、それぐらい。
命を救われたんだから「ありがとう」が当たり前でしょう? そんなふうに口走りそうになるくらい、ルイはきょとんとしていた。
「あんた、変わってる。俺だってあんたを殺すかもしれない、そう思っていたんだろうに。相手が変わるってだけだよ――助けたのだって、自分の糧とするためにあんたが必要だからだし」
「それでも……っ!」
ルイの醒めた言葉を遮ってでも言っておかなくては駄目だと思った。それぐらい、大切なことだとシルフィールは思ったのだ。
「感謝してるってことぐらい言わせてよ……」
ぽつりと呟くようにしていったシルフィールの言葉をルイはじっくりと咀嚼しているようだった。彼が口を開くまで、いくらかの間があった。
「『ありがとう』ねえ。感謝は気持ちじゃなくて、態度で示してもらいたいものだけれど……」
「わ、わかってるってば、だから……はいっ」
シルフィールはブラウスの釦を自ら外して、首元をさらした。
室内とはいえすうすうするし、じっと見つめられているせいかひどく居た堪れなかった。
「い、要らないならいい――っ⁉」
「誰も要らないなんて言ってないでしょ。少し驚いただけ」
さらされた首筋をひんやりと冷たい指が撫でる。ぞくっと身震いしたシルフィールを見てルイが笑ったことに気付いてはいた。
「それじゃ、遠慮なく」
は、と大きく開いた口からのぞく牙が、つぷりと皮膚の中に沈んだ。
――いただきます。
律義な挨拶が耳に快くてぐにゃりと力が抜ける。おかしいのかもしれないが、こうして自らを差し出すことにもすっかり慣れつつある。シルフィールの体調が整うまで、ルイは近寄っても来なかった。
でも、本当は辛かったのではないだろうか。
貪欲に貪られ、甘い痺れがシルフィールの全身に走った。餓えて、苦しくて、喉が渇いていたのかも。
食事をとれないのは辛く苦しいことだ。自分は失敗の罰として食事を抜かれた経験ぐらいしかないから、本当の意味で理解することは難しいのかもしれないが。
シルフィールが回復するまで、距離を置いていた時間。
外出時に感じていた恐怖を、痛みを、疲労を、いたわってくれていたのではないかと思うほどに、ルイに親近感をおぼえはじめていることに気付かされる。
自分とは違う、彼のことをもっと知りたいと思っていることにも。
シルフィールを支えながら存分に吸血をして満たされたルイと、赤い血の味のキスをした。
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