05 おはようございます、旦那様。

 気まずい空気が流れた食事会が終わり、食堂から出ていこうとしたときに、公爵に呼び止められた。


「このスープ、まだ残っているかな?」

「ええ、少しですが」


 嫌な予感がしなかった、と言えば嘘になる。

 公爵の発案でシルフィールは再びルイの部屋へと向かっていた。


 いかにローズレイ公爵に絶賛されたスープとはいえ、ありふれた何の変哲もないスープだ。しかも料理人でもない素人のシルフィールが作った、である。昔、母が作ってくれた味と、イヴェル邸でのキッチンメイドに手ほどきという名のしごきを思い出しながら調理してはいるが、眠り続けている公子を目覚めさせる料理を作れるわけがない。


「『ああ見えて、食欲旺盛だから』って言われても……」


 匂いにつられて起きるんじゃないか、なんて。シルフィールが来てからずっと眠りっぱなしのルイがそんな簡単に目覚めてたまるものか。

 案の定、すやすや眠り続けているルイを眺めながらシルフィールは息を吐いた。皿は脇のテーブルに置いて、定位置である椅子に座る。


「あの、ルイ公子様。私、そろそろお出かけしてみたいんですけどー……なんて」


 無反応の相手に語り掛けるのは既に慣れっこだったが、公爵から外出許可を取れなかったことで地味にへこんでいた。

 気詰まりだとは言わない。満たされているとは思っている。


「だってこのお城、窓もないんだもんなー、そろそろ外の空気が吸いたいなあ。風に当たりたい、日光を浴びたい……」


 いままで当たり前だったことが出来ない、というのは自分でも気づかないうちにシルフィールを憂鬱にさせていた。ローズレイ公爵もカトルも多忙で、シルフィールは一日の大半を誰とも会話こともなく過ごしている。ルイに話しかけてもひたすらシルフィールが投げるばかりで、返ってこない。


 それでいい、と言い聞かせてはいたけれど、ただの強がりだったのかもしれなかった。いまだって、たったひとつ失敗しただけで、世界のあらゆる人たちから冷たくはねつけられたような心地で落ち込んでしまっている。


 大きな声でシルフィールが騒いでも、ルイは瞼を動かすことも眉を顰めることもない。寝台の上で昏々と眠っている。きっと彼には、シルフィールが感じているような不安も悩みもないのだろう。羨ましい、などと思ってしまった自分を恥じた。


「むう……なんだか私も眠くなってきちゃった、な」


 少しだけならいいはず、と頭の中で言い訳しながらルイの寝台にごろりと横になる。隣とはいえ、自分の部屋まで戻るのが億劫だ。それよりも、いまはひどく眠い……。

 重たい瞼を閉じればすぐに、シルフィールは意識を手放した。




 甘い薔薇の香りがする。

 そう思った瞬間、首のあたりに鈍い痛みを感じた。


「いっ、た……」


 思わず声を上げると、しー、と窘めるような声が間近で聞こえた。


「あのさあ、ちょっとぐらい我慢しなよ。久しぶりの食事中なんだから……っ」


 皮膚に突き立てられた何かがシルフィールを侵す。

 ぎりぎりと食い込んで、血管を破る。

 あふれてきた血がつう、と首筋を伝った。流れたその跡をなぞるように、濡れた感触がぴちゃりと肌を這ったとき、ぞくりと背が震えた。

 痛みと妙な感触にもだんだん慣れて、その違和感にも馴染んできた頃のことだった。


「うーん、悪くはないけど……どことなく貧相だ。ねえ、あんたってどこの家の出身だったっけ」

「……ん、う」


 おーい、と何度か呼びかけられ、目の前で手を振られてようやく意識が戻ってきた。

 紅く輝く双眸が、シルフィールを捕捉している。しなやかな腕が、シルフィールを抱きよせていた。


「……誰?」

「誰、って、あんたなかなか面白いこと言うね。ふうん、愛する夫の顔を忘れたって言いたいわけかな、俺の花嫁は?」


 漆黒の黒髪、紅い双眸。瞬きのたびに長い睫が蝶の翅のように揺れる。

 ローズレイ公爵が有する特徴と完全に一致する。うたた寝のおかげで意識が飛んだ結果、状況を見誤ったが、間違いない。


「もしかしなくても、ルイ公子、でしょうか?」


 せいかーい、と気の抜けるような声音でルイは答えた。その間もシルフィールは彼の腕の中におさまったままだった。


「な、な何をしていらっしゃるんでしょうか」

「なにって、何だと思う?」


 逃れようとばたつくシルフィールを、ルイは捕らえたままでいる。いちおう必死で抵抗しているのだがものすごい力で押さえ込まれていた。


「つれないなあ、シルフィー。さっきは気持ちよさそうに応えてくれていたのに」

「嘘言わないでください!」


 ちぇ、とルイは子供のように唇を尖らせる。

 それでもたえずひんやりと冷たい光を宿した眸に見下ろされているから落ち着かない。くしゃくしゃとかき混ぜるようにシルフィールの頭を撫でながらルイは答えた。


「まったく、誘ったのは君の方なのにね。こんなにいい匂いを漂わせておいて、その気がなかったは通用しないよ」

「匂い……えっ、スープの? あなた本当にスープで目覚めたんですか⁉」


 呆れたようなまなざしがシルフィールに向けられた。


「そんなわけないでしょーが……はあ、どうせあの性悪公爵が仕向けたんだろうけどね。ご丁寧に、きみという餌を俺の鼻先にぶら下げて強制的に目覚めさせるなんて。あーあ、俺はまだ寝ていたかったんだけどなあ」

「餌……」


 いま聞き捨てならない単語があったような。はっと首に手をあてると、ぬるりとした感触が指先に触れた。


 血、だった。


 呆然と赤く染まった指を見つめていると、ルイがおもむろにシルフィールの手を取った。

 そして何のためらいもなく、口に含む。ちゅ、と口づけながら、纏わりついた血を舌がなめとる。


「……っ!」


 じっと、何かをはかるようにルイはシルフィールを見ていた。口に含んでいた指を離すと、ぺろりと唇をなめた。煽情的な仕草に思わずぎくりとしてしまう。


「何をしていたのか、って君は訊いたよね」

「あ……」


 その先を聞きたくない、と思いながらも耳を塞ぐことも許されない。

 妖艶で美しい、目の前の少年にシルフィールは魅了されていた。



「『食事』だよ。起きたばっかりだからあまり食欲はないんだけどさ。活動するにはある程度の栄養が必要ってこと……俺はあまり燃費が良い方じゃないから、百年起きたら百年眠る、の周期を繰り返している」


 紅い眸が、シルフィールを捉えて、捕らえた。


「ヴェリテ城へようこそ、【蕾姫】。きみは我らがローズレイ公爵家――薔薇の一族へ捧げられた食事いけにえなのさ」


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