終─夢とふものは頼みそめてき

 またね、と微笑んだ君は白に飲み込まれた。連日の積もった雪は駅舎をすっぽり覆っている。


 手の温もり。身体の火照り。腰の重だるさ。

 夢にしてはあまりにも鮮烈で。


 網膜に焼き付いた左手の薬指。鼓膜を揺らした優しい声。

 現実にするには夢見が悪い。


 嘘だ。本当だ。夢か。現実か。

 分からない。何故こんなにも胸の奥がざわめいて、鼓動が激しいんだ。嬉しくて、悲しくて、嗚呼、なんでまた「またね」なんて。


 ぐわぁんと揺れた。

 あの夏と同じように酷く身体が揺さぶられた気がした。


 駅舎を前に何を立ちすくんでいる?

 踵を返すように柔い光の下を駆けた。轍の上は走らない。まっさらな積もりたての新雪の上をガムシャラに走る。ブーツの先はぐしょぐしょだし、コートもやっぱり濡れている。それでも冷たい風は涙を拭ってくれる。ライトブルーのマフラーとカールの取れた髪は大きくはためいて、私の存在を白い世界で誇示している。


「ばかだ! ばかだ、ばかだ!!」


 何が楽しくて雪道を走る。なりふり構わず、白に染まりながらただ走った。


「やだ! やだ、やだ!!」


 何に対して駄々をこねる。心身ともに子供じゃあるまい。私の背中にはランドセルも、参考書で詰まったリュックサックもないのに。


「まだ、もっと!! ねぇ!!」


 鼻を啜って、両の手で涙を拭っても言葉なんて出てこない。息苦しいのは足が取られてしまうから。胸が痛むのは吸い込む空気が冷たいから。


「あきひと!!」


 手を伸ばしてもこの方向にアンタはいない。私は背を向けて走っているから。


「あきひと!!」


 名前を呼んでも、君が来ることはないでしょう。

「いつか」も「また」も、口に出した君よりも願ったって来ない。そんな筋書きでフィルムを撮ることは、もう二度と。


 ガチャリと扉を開ければ部屋は暖かいまま。自分以外の残り香、乱れた閨。忘れ物の煙草箱。


「……ばかやろう」


 瞳に映らないのは君の姿だけ。

 ぽそり、と呟いたアンタが言う「ぬばたま」の髪が白くならないかしら。「よく通る」と言ってくれたこの声が枯れっぱなしにならないかしら。遠い日の思い出になればいいの。

 ううん、違う。全部が夢ならば。夢であったならば。


 


 *




 お昼前の電車に乗った。

 ターミナル駅の新潟には向かわない。信越本線上りにおひとり様乗車する。ボックス席含め、あの日と同じように人はまばらだった。ガタンガタンと軋む音、窓際は外の冷気をよく通し、暖房の熱も扉が開く度に振り出しに戻る。乗降者で雪は水溜まりに変わって、冬だなと思った。

 アナウンスは実家の最寄り駅を告げる。私は降りない。

 あの夏、連れ出してくれた君はもう隣にいない。私はただぼうっと肘をついて雪がちらつく外を見ているの。

 青一面だった田んぼ。寂れていたはずの農村。緑が深くなるはずの山々はいつまで経っても現れない。あの夏の「青」に「白」を重ねて、熱さえも奪って行ってくれ。

「三条」よりも奥。「長岡」でも終わりじゃない。新幹線の見送りのために私は揺られている訳じゃない。

 雪やこんこん。あられやこんこん。降って降って白で覆え。トンネルの先の──


「青海川も」


 白と鈍色。凍てつく海風に身を縮める。

 すっかり乾いたチェスターコートから覗く薄桃色のフレアスカートがはためいた。ライトブルーのマフラーに隠れた髪は普段しない編み下ろしで、お気に入りのシルバーのイヤリングは去年のクリスマスプレゼント。精一杯のお洒落のつもりでここに来た。


「ばいばい、秋人。お幸せに」


 君がいた夏に別れを告げる。

 眼下に広がった真っ青な日本海は記憶の向こうにしまいたい。白波の音はずっと大きく、飛沫を上げて、穏やかの対極にある。私が見てるのはそんな冬の海だから。

 目を閉じて「またね」と笑った昨日の君に一方的に伝えよう。


「心配なんてしないから。私が、美冬がいっち信頼してるんはアンタだっけね。またねなんて私は言わないよ」


 ポケットからスマートフォンと忘れ物のタバコの箱を取り出す。タバコは一本だけ吸われたあとがあった。

 グシャリと箱をひしゃげる。だから心配してないんだよ。アンタのそういう無駄に気にしいなところが本当に。


「お慕い申しておりました」


 つうと頬に涙が流れた。


「うたた寝に恋しき人を見てしより

 夢とふものは頼みそめてき」


 結局は、君をずっと探していたんだ。いつかの「夢」を忘れられずに、とっくに起きているのに微睡んだままでいたいと、私は願っていたんだよ。

 君には届かない。伝えるつもりも一生ない。

 それでもいいの。

 今度こそ、と通話ボタンを押す。三コール目で貴方は出てくれた。


「もしもし? 春真くん」


「どしたぁ。珍しいね、君からの電話なんて」


「あのね、春真くん。ごめん、私ね、しちゃったみたいだ」


 ええぇ、と電話口の向こうで恋人は動揺している。


「……おれ、まだ、振ってない」


 ああ、違うんだよ。可哀想な人。馬鹿な私に振り回されるなんて、愛おしい人だ。


「ごめんね。伝え方が悪かった」


 この報告は墓場まで持っていくのが良いんだろうけど、と前置きをしてぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。


 いつも夢の中でも探してる人がいた。夢から覚めても手に残る朧気な感触と、名前を呼んでくれる声を思い出して、今晩もまた会えないかしら、なんて期待して微睡むの。

 うたた寝の夢に恋しい人を見てからというもの、当てにならないさ夢というものを頼りにするようになってしまいました。

 昨日までは、ね。きっと夢だった。……だけど、私は眠っていなかったし、現実だったんだよ。


「え、ふたま」


「違うよ。二股なんてしてない。六年ぶり再会」


 でもね、と付け足す。


にするにはあんまりにも勿体ないくらい、私の大事な人だったんだ」


 そう、とても大事な人。大切な人。誰にも変え難い、私の腐れ縁の、一蓮托生であれと願った、そんな人が私にいたの。さよならをしてから、私は気持ちに名前を付けたの。


「美冬、今から君に会いに行ってもいいかな」


「え、なんで、むりだよ」


「君はひとりで遠くに行ってたとしても、会いに行くから待っててよ」


「え、でも」


 大丈夫、怒ってないよ。と柔らかく貴方はなんでもない様になだめてくれる。あたたか過ぎて苦しくて、どうしてこの温もりに今まで手を伸ばさなかったんだろうと胸がチクリと傷んだ。


「春真くん、今言うのは狡いかもしれないけどお願いきいてくれますか」


 貴方は夢でありませんように。


「春真くん、会いたいです」


「ああ、俺も」


 もっと早くに呼べば良かった。君だけが私のトクベツじゃないって知っていただろうに。

 君への想いはもう少しだけ覚えておきたい。夢の中のお話は、忘れ去るにはまだ鮮やかだから。

 少しづつ瞼を開けて、薄ぼんやりとうつつが見えるようになった時、そこにいるのは貴方がいいなんて我儘を言えるだろうか。貴方が迎えに来るそれまでは、このモノクロームの海岸を眺めて待っているわ。




 春が来るまでゆっくり眠ろう。目が覚めれば雪は溶けているだろうから。

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雪を溶く熱 佐藤令都 @soosoo

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