杏仁豆腐哀歌

タヌキング

震える杏仁豆腐

私の名前は衣川 忠男(きぬかわ ただお)。

52歳の冴えないサラリーマンである。

会社では窓際社員、家では嫁と娘から疫病神扱い。時折、生きている意味さえ見失ってしまう愚かで醜いオッサン、それが私だ。

私は仕事の商談の為に、自分より20も年下の課長と二日前に博多にやって来た。

課長は私の一生懸命まとめた資料を片手に商談相手の会社の人に雄弁にプレゼン。悔しい想いも無くも無いが、それをバネに頑張ろうにもバネが壊れているので、そんなやる気も出てこない。


「忠男さん、僕は後泊するので、あなたは先に帰って下さい。」


課長はそう言って邪魔者の私をホテルから追い払った。どうやら後泊で遊んで帰るらしい。本当に良いご身分である。

まぁ、これ以上若僧に良いように使われないでいいと思うと清々する。

さて、私は私の唯一の楽しみの為に邁進しようではないか。


博多駅の中にある、JR博多シティいっぴん通り、そこには様々なグルメ商品の出店が立ち並び、私の目的の店もそこにある。

杏仁豆腐専門店 恵比寿堂

店の看板が見えた時、私は初恋の人に出会ったかのような感動を覚えた。

何を隠そう、私は杏仁豆腐が大好きである。

あのクリーミーでつるんとした喉越しが、日々の生活に疲れた私の荒んだ心を唯一癒してくれる。ちなみに寒天のようなカチカチの杏仁豆腐を私は杏仁豆腐と認めていない、あの類は牛乳寒天とでも名前を変えるべきである。


そんな杏仁豆腐好きの私を唸らせる杏仁豆腐が、恵比寿堂の杏仁豆腐である。

この店の杏仁豆腐はクリーミーかつモチモチとした食感で私を極楽浄土へと誘う。ほんのり甘い蜜の味付けは、きっと杏仁豆腐本来の味と食感を楽しむ為に敢えてのことだと、私には聞かなくても分かる。聞くのは野暮さ。


今日は何を買おうか、出来れば3個は買いたいところだな、ビッグサイズ、マンゴー、巨峰にしようかな?

私はウキウキした気分で恵比寿堂のショーケースを見てみた。すると愕然とした気分になってしまった。

ショーケースには、ちょこんと一つだけ普通サイズの杏仁豆腐が並べられていた。


「お客様、すいません今日はその一つしか残っていません。申し訳ありません。」


ペコペコと平謝りの店員さん。残念だったが、杏仁豆腐が一つしか無いのはこの人のせいではない。この人を責めたところで杏仁豆腐が増えるわけでもあるまい。所詮私の人生はこんなものだ。そう言い聞かせて、目の前の耐え難い現実をなんとか受け止めた。


「あぁ、良いんですよ。元々一つだけ買う予定でしたから。じゃあ、その一つを……」


「ちょっと待ったーーーー!!」


な、何事だ?声のした方を振り向くと、そこには白いポロシャツと青いジーパンがよく似合う若い男が息を切らして走って来た。歳の頃にして20歳前後といったところだろうか?


「はぁはぁ、ちょっと待ってください。」


「な、なんだね君は?」


「はぁはぁ……その杏仁豆腐、僕も買いたいです。」


何ーーーーーー!!ただでさえ一つしかなくて意気消沈していたというのにーーー!!神はこの冴えないオッサンの細やかな幸せすら奪おうというのかーーーー!!

そ、そうはさせんぞ!!神よ!!


「ダメだーーーーーーー!!この杏仁豆腐は私のだーーーー!!ゴッホ!!ゴホ!!」


久しぶりに大きな声を出して咳き込んでしまった。だがこのオッサンにも譲れないものがある。


「そ、そうですか、残念だなぁ。病床の祖母が恵比寿堂の杏仁豆腐を食べたいと言っていたんですが。」


病床の祖母だと!?なんだその設定!!


「き、君のお婆さん悪いのかい?」


「医者からは来年の桜はもう見れないと言われています。ですから僕が東京から博多までわざわざ出てきて、杏仁豆腐を買いに来たわけです。」


おぉい神よ!!ふざけるな!!こんなお婆さん想いの若者を今ぶち込んで来るんじゃない!!

こんなの私が譲るしかないじゃないか!!

神は死んだ!!


「ふぅ……この杏仁豆腐を君に譲ろう。」


「ほ、本当ですか、ありがとうございます!!これで病床の祖母も……」


"ごちーん!!"


それは突然のことだった。簡単に言えば若者が後ろから杖で殴られたのである。

痛そうに頭を抱えてうずくまる若者。

犯人は白髪頭の腰の曲がった老婆である。腰は曲がっていても、元気はあるようで杖をブンブンと振り回している。


「この馬鹿孫が、誰が病床じゃ。しょーもない嘘つくでないわ。はよ用事済ませんか、電車がもうすぐ来るぞ。ワシは向こうの方で待っとるからな。」


「う、うん、分かったよバァちゃん。」


老婆は杖を突きながら、ツカツカとその場を去って行った。

……さて、説明をしてもらおうか。私が目でそう訴えかけると、若者は観念したのか、渋々といった感じで本当のことを言い始めた。


「はい、祖母が病床なのは嘘です。ピンピンしてます。祖母を一人旅行させるのは心配なので孫の俺が同行しました。嘘ついてすいませんでした。僕はその杏仁豆腐が好きでして、博多駅に来たら絶対買おうと思ってたんです♪」


「いけしゃあしゃあと何を言ってるんだ!!」


全くもってとんでもない奴だ。嘘までついて杏仁豆腐を食べようとするとは、まぁ、気持ちは分からんでもないが、だが人間としてやったらいけないことがある。

まぁ、だがこれで杏仁豆腐は私のものに……


「ジャンケンで決めませんか?」


……何を言い出したんだ?この男。


「い、一応聞いておくが、何を決めるというんだ?」


「それは勿論、この杏仁豆腐の所持者を誰にするかです。」


「このゆとりめ〜〜!!ふざけるなぁ〜〜!!」


私の人生でここまで激昂したのは初めてのことである。現代の若者とはこうも恥知らずなものなのだろうか?


「ふざけたことを言っているとは自分でも分かっていますが、納得のいかないまま手ぶらで帰るのは嫌なんです。おじさんだって、このままシコリを残したまま、杏仁豆腐を食したくないでしょ?」


むむっ、なんかそう言われるとそんな気がしてきた。この若者の言ってることは本当にめちゃくちゃなのだが、仮にこのまま電車の車中で杏仁豆腐を食べたとしても、100%美味しい杏仁豆腐を食べれるとは思えない。

何のしがらみもなく、仕事からも家庭からも解き放たれた状態で杏仁豆腐を食した時、それこそが至高の時間になるのだろう。


「分かった、君の提案を受けようじゃないか。ジャンケン勝負だ。」


「ノリが良いですね、おじさん。それじゃあ、やりますよ。」


私の右手に全てを委ねる。勝利をこの手に掴むのだ。


「せーの、最初はグー、ジャンケン……」


よし、チョキだ。勝利をVサインで飾るのだ。


「ポンッ!!」


「ぎゃあああああ!!」


いっぴん通りに響き渡る私の悲鳴。それもその筈、私がチョキを出したのに対して、若者が出した手はグー。つまり私の負けなのである。


「ラッキー♪それではこの杏仁豆腐は僕が……」


「ちょ、ちょっと待った!!」


ここで起死回生の一打を打てなくてどうする!!仕事で出世する夢は途絶えたが!!大好きな杏仁豆腐だけは諦めてたまるか!!


「ジャ、ジャンケンは3回勝負だ!!」


私がそう言い放つと、若者は開いた方が塞がらないといった感じに驚いていたが、ハッと我に返り、こう反論してきた。


「そんな後から言ってもダメですよ!!」


「ジャンケンは3回勝負が基本だろ!!」


押し通すしかない。無茶は承知の上である。常識など知ったことではない。畳み掛けるぞ!!


「大体君は最初にあんな嘘をついておいて、私の3回勝負は受けられないのか!!最近の若者はこれだから嫌なんだ!!」


「ぐぬぬ、わ、分かりましたよ。3回勝負ってことは、あと僕が一回勝てば良いんですか?それとも3回勝ったら勝ちなんですか?」


「そ、それはケースバイケースだ!!」


「なんでだよ!!アンタそれは自分が良いように事を進めようとしてるだろ!!」


私たちの争いはハタから見れば、さぞ醜いことであろう。いつの間にか野次馬が沢山居て、私たちは、さながら見世物小屋の猿である。

それでも良いと思った。醜く愚かだろうが、杏仁豆腐が手に入ればそれで良かろう。

だが状況は一変した。


「お母さーん、マユ、杏仁豆腐食べたーい。」


それは野次馬の中から出てきた女の子の声である。コロコロと太った如何にも食べることが好きそうな女の子。何故だかその女の子と、私の娘の幼い頃の姿が重なった。


「ダメよマユちゃん。その杏仁豆腐はおじさん達のどちらかが買うんだから。」


女の子の母親だろうか?黒いポニーテールの若い女の人が、女の子の後を追って野次馬の中から出てきて、杏仁豆腐を欲しがる女の子を後ろから抱き抱える。

しかし、女の子はジタバタ暴れてお母さんの言う事を聞こうとしない。


「嫌だー!!杏仁豆腐食べたーい!!」


その光景を見て、私は自らの行いを恥じた。

大人とは子供の未来を作るために尽力せねばならない。なのに私ときたら、なりふり構わずに自分の欲を満たすためだけに……


「おじさんいきますよー!!」


「……もうやめにしよう。」


「えっ?今なんて?」


「もうやめにしようと言ったんだ。」


「はっ!?何言ってるんですか!?」


「大人達の醜い争いに子供を巻き込んでしまってはダメだ。杏仁豆腐はこの子に譲ろうじゃないか。」


「はっ!?いや何を言ってるんですか!!」


若者はまだ不安があるようだが、私はもう何の未練もない。若者を制止する。


「あのお母さん、私たちのことは気にせず、早くその子に杏仁豆腐を買ってあげて下さい。」


「えっ、いやでも……」


「いえいえ我々は大人ですので、子供に譲るのが筋というもの。お嬢ちゃん、杏仁豆腐好きかい?」


私は出来うる限りの笑顔を作って、お嬢ちゃんに笑いかけてみる。けれどお嬢ちゃんは真顔でこちらを見てる。


「んー。普通ー。」


あはは、そこは嘘でも好きと言って欲しかった。


こうして私は杏仁豆腐を食べ損ね。そのまま電車で帰路に着いた。

車中で少しだけ良い駅弁を食べながら、私の心は不思議な満足感と達成感に溢れていた。

それにしても若いお母さんだったな。まぁ、最近の子は色々早熟と聞いたことがあるし、若いお母さんでもおかしくないか。



私の名前は園崎 恵美子(そのざき えみこ)21歳。ろくに定職にも就かず、売れない劇団の劇団員をしている女である。


「ありがとうねマユちゃん♪はいこれペロペロキャンディー♪」


「うわぁーい♪マユ、ペロペロキャンディー大好きー♪」


報酬のペロペロキャンディーを受け取ると、マユちゃんはトコトコと何処かに去って行った。

後腐れないのは良い。彼女を娘に配役することにより、私は杏仁豆腐を手中に収めることが出来た。

クックク♪やはり男は女と子供には弱いよな♪

収入もない実家の穀潰しとして肩身の狭い思いをしている私にとって、週末に恵比寿堂の杏仁豆腐を食べることだけが唯一の楽しみなのだ。

一つしかないから、大事に食べよう♪


と、思っていたのに、無情にも母に食べられてしまったのは、悲劇を通り越して喜劇としか言いようがなかった。



















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