妹の脱皮

ふじこ

妹の脱皮

 妹が脱皮した。脱ぎ捨てられた妹の皮が、乱雑にまとめられたタオルケットの上に横たわっていた。妹の皮は、半透明で、少し褐色がかった乳白色をしていた。重さを支えるだけの強度がないのだろう、ぺちゃんこに折り重なって、重なった部分は色が濃くなっている。頭らしき部分の皮に、眼窩と口を示すような穴が空いていたから、左腕らしき部分の皮に、何人目かの妹の彼氏の名前だという筆記体のタトゥーが刻まれていたから、妹の皮だと分かった。もう妹ではない皮におそるおそる触れてみると、やっぱり柔らかく、ほのかに温かさが残っている。妹が脱皮してからまだ間もないのだろうか。

 肩のあたりの皮の下に手を差し込んで、反対の肩をつかんで妹の皮をひっくり返す。柔らかいから、破れることなく、腰の辺りでねじれて、上半身だけが俯せになった。背中の真ん中に割れ目がある。ぎざぎざしながらも概ねはからの正中線をたどっていく割れ目は、頭の天辺から始まっている。こんどは太腿のあたりの皮を両手で持って、下半身をひっくり返す。割れ目は、脚の付け根、股のあたりで終わっている。妹は、背中から皮を脱ぎ捨てたのだろうけど、だとしたら、妹は、脱いだ皮を丁寧に仰向けにひっくり返したことになる。とても軽かっただろう。柔らかくて温かくて、赤ん坊を抱いているみたいだっただろう。生まれたばかりの妹を抱かせてもらったときも、柔らかくて温かかった。ふにゃふにゃしていて、こんなかわいらしい生き物が果たして生きていけるんだろうかと不思議に思った。

 さて、妹の皮を置いて出掛けるわけにもいかない。もうそろそろ家を出ないと遅刻してしまう。一緒に連れて行けないかしら。仕事の邪魔をするわけでないし、誰も居ない家に置いていくよりいいのでないかしら。こんなに柔らかいのだから、小さくまとめることもきっとできるだろう。ためしに、うつぶせになった妹の皮の腰の辺りで、皮を半分に折りたたんでみる。えび反りのもっとひどい姿勢を経て、妹の頭のてっぺんと爪先がぴったりとくっついた。背中と脚も隙間なくくっついた。このまま折りたたんでいけば、カバンに入るぐらいには小さくなるだろう。何回折りたためばいいかしら。紙は、どんなに大きくて薄くっても七回以上は折れないらしいけれど、皮はどうだろうか。きっと大丈夫だろう。八回でも九回でも折りたたんで、私がカバンに入れられるぐらい小さくなるだろう。だって、妹の皮は紙ではないし、こんなに柔らかくて温かいのだから。


 妹が脱皮するのは、そういえばこれが初めてではない。初めての脱皮は、妹がまだ乳児の頃だった。まだへたくそだったのか、大人の日焼けした皮が端から少しずつめくれるように、皮のかけらがぽろり、ぽろりとはがれて、べびーベッドの白いシーツや、オーバーオールの布のたわみに皮のかけらが溜まっていた。掃除するのは私の仕事で、半透明で少し褐色がかった乳白色の妹の皮のかけらを、指でつまんではビニール袋におさめていった。ひとつ残らずかけらを掃除するのは至難の業で、ベビーベッドの柵とマットレスの隙間に落ちたかけらや、首回りのスタイと服の間にはさまったかけらを見つけ出し、中指と親指でつまみ出すときには、息が詰まった。ときには妹が、自分の皮のかけらを口に入れていることさえあって、妹の唇の端から皮を引っ張り出したり、ときには口を大きく開けさせて口の中に皮のかけらがないか、くまなく探さなければならなかった。

 後ひと駅で、職場の最寄り駅だ。運良く快速に乗れたから、ふた駅飛ばして到着する。ボックスシートの窓側の席に座れたのも運が良かった。窓を鏡代わりに使えるし、少し景色を眺めることも出来る。広告の電話番号を端から順に足し算する。大きな液晶に映し出された車の広告が、別の車の広告に切り替わる。膝の上に載せたカバンをそっと抱え直す。カバンの底に、小さく折りたたんだ妹の皮が入っている。そのまま入れておくのもどうかと思って、大きめのハンカチでお弁当のように包んでみたけれども、さすがに温かさまでは分からなくなった。ハンカチの包みを持ち上げたときに柔らかさは充分に感じられた。財布やスケジュール帳や化粧ポーチで皮が押し潰されるのが心配だったので、化粧ポーチと財布はダイニングテーブルに置いてきた。パスケースとスマートフォンとスケジュール帳と、ハンカチにくるまれた妹の皮が鞄の中にある。電車の振動で心地よく揺れている。そっと鞄の中をのぞくと、淡いグレーのハンカチの結び目が見える。視界の端を駅のホームが後ろに遠ざかっていく。

 はす向かいには、制服を着た高校生ぐらいの男の子が座っている。濃いグレーのブレザーに、ワイシャツに緑色のネクタイを締めて、大きな黒色のリュックサックを膝に乗せて、片手で抱えている。もう片手は、リュックサックの上に何か本を開いて、真剣に目を通している。試験前なのだろうか。かたそうな指先がページをめくる。私の指もあれくらいかたいだろうか。カバンの上に右手を開いて、手の甲とてのひらを交互に見るように、手をくるくる回す。丸く切り揃えた爪先が我ながら上出来だと思う。電話機のボタンを押すために、パソコンのキーボードをたたくために、スマートフォンの画面をなぞるために整えられた私の指。ピアノを弾くために短めに爪を切ってある私の指。ボタンや鍵盤に接する指先だけ、わずかに皮が厚くなったりしているのだろう。妹の指はどうだろう。パチンコ台のレバーを回すために、小遣いの札を数えるために、新しく出来た彼氏の家の鍵を握るために、長い爪を淡いオレンジ色に染め上げた指。昨日の朝、妹は私より早く家を出て、軽く掲げられた片手が振られて、オレンジ色の指先がひらひらりと揺れていた。

 脱皮すると爪はどうなるのだろうか。皮の方に残るのかしら、体の方についていくのかしら。爪は皮膚の一部が固くなったものなんだし、脱ぎ捨てられた皮の方に残っているような気がする。皮膚が硬くなった組織というと、人の爪だけでなく、サイの角やヤマアラシの針もそうだったはずだ。サイもヤマアラシも脱皮はしないから、参考にはならない。妹が脱ぎ捨てた皮に、オレンジ色の爪が残っているのかどうか、確かめたくなっている。妹の部屋で皮を見つけたときにどうだったかが思い出せない。皮とは随分色味が違うから、残っているのなら気付けそうなものだが。いまここで、妹の皮を包んだハンカチを開いて確かめたくなっている。カバンの中に手を入れて、カバンの中でハンカチを開いて確認するなら、はす向かいに座っている男の子にも気付かれないのではないか。もし、妹の皮に爪が残っていたらどうしよう。昨日の朝見たオレンジ色の指先と寸分違わないか確かめようか。鏡のようにつるりとしたマニキュアの触感そのままなのかを確かめようか。長い爪を自分の爪の上にあてがって見ようか。そのまま、私の爪がオレンジ色に染まる想像をする。カバンの中で、今にも結び目に届きそうだった手をきっと押し止める。電車の速度がゆるんで、駅のホームが見えてくる。


 最後の一冊に値段を書いたシール片を貼る。ドイツの出版社の楽譜だ。クラシックではないからさすがに作曲者の名前は知らない。アルファベット順に処理していったから、苗字の頭文字がWであることは分かる。足元の段ボールに楽譜を入れて、午前中の仕事は終わりだ。来客はなかった。平日の午前中はこんなもので、午後になれば学校や仕事帰りの客が来るだろう。

 店内の棚という棚には、楽譜が差し込まれている。かたい紙の表紙に製本されたものもあれば、裏表に印刷したのを折り畳んだだけのものもある。いつからあるのか分からず、日に焼けて変色してしまったものもあれば、つい最近店にやってきたとすぐ分かる精緻な印刷のものもある。棚は演奏する楽器ごとに区分けされているが、時々、棚の途中で楽器が切り替わる。そういうところには、棚からはみ出すように切り出した段ボール紙を差し込んで、裏と表に別々の楽器の名前を書いてある。どこまでがどの種類かこれで分かるようになる。背表紙が見えるように並べられているが、不意に、自分の部屋をを忘れていましたとでも言いたげに、棚の一角に楽譜が積み上げられていることがある。本当に居場所を忘れられていることもあれば、忘れ癖のある客が、物色した楽譜をしまい忘れただけのこともある。私の仕事は、新しく仕入れた楽譜に値段を付けて棚にしまったり、棚の整理をしたり、客の相談にのって楽譜を探したりすることだ。お金を触ることはない。だから、レジの奥には老齢の店主か、その息子が、ひとりで座っている。いまは店主が座っていて、私が目配せをすると、店の出口に向けて首を横に動かした。会釈をして、作業のために座っていた丸椅子から立ち上がる。足元に置いてあったカバンを肩に引っかけて、そっとした足取りで店を出る。

 古くて大きな雑居ビルは、昔は相当賑わっていたのだろうけれど、今は店の区画を遮るシャッターが目立つようになっている。向かいも隣も、白くて波形に凸凹したシャッターが天井から地面までを遮っている。行き止まりがそこかしこにあるようで、簡単な迷路のようだ。はす向かいの管楽器店の横を通り抜けて、ビルの中央に位置するエスカレーターに乗る。黄色い枠線を踏まないように注意深くタイミングを見計らって、ごうんごうんと下っていく黒い板に足を乗せる。くだっていきながら、カバンの中をのぞいた。持ち手に引っかけたパスケース、カバンの内側の側面についたポケットに入ったスマートフォン、ネイビーブルーの表紙のスケジュール帳、淡いグレーの妹の皮の包み。電車を降りたときから変わらずそこにあるのを見て、安心する。

 ビルの地下二階のフロアのテナントは飲食店が中心だ。昼から酒を飲みながらツマミが食べられるのを売りにしている居酒屋も多い。そういう居酒屋が千円もしない定食をランチに出していたりする。のれんの脇に置かれた黒板に日替わりランチの文字があるのを確認して、店に入る。スーツ姿の男性が一席か二席間隔を開けながらカウンターに座っていて、一番奥に三席が空いている。カバンを体にひっつけながら椅子の後ろの狭い通路を通って、一番奥に座る。店員に「日替わりランチ、ご飯少なめで」と注文を言いつけて、カバンを隣の席に置く。昨日と同じように昼食をとりにきただけだが、妹の皮がここにあるということが、どこか私を安心させる。

 この店に私を連れてきたのは妹だった。いきなり、用事もないのに店にやってきて「お昼食べに行こ、おねえちゃん」と私を誘った。開店間もなかったから、妹は、店の外の壁にもたれかかったままぼうっとして、私が昼休みに入るのを待っていた。本当にぼうっとしていただけだったと、妹に聞いて分かった。携帯電話も持たないで来たと言うのだから、当然財布も持っていなかった。彼氏が眠っている間にこっそり出てきたのだと笑う妹の目の下には濃い隈があった。よく迷わず私を訪ねてこられたものだと言うと、ビルの地下の居酒屋でアルバイトをしていたと答えた後、近くのパチンコ店に足繁く通ったと気まずそうに続けた。地下に下るエスカレーターに乗って、妹の背中とカットソーの間の仄暗い隙間を見下ろしながら、怪我はないかと妹に尋ねた。大丈夫だと妹は笑った。そうして妹が入ったのがこの店で、壁際のテーブル席に向かい合って座って、日替わりランチを二つ頼んだ。

 カバンの中に手を入れる。カバンの底にじっとしている妹の皮の包みに触れる。脱皮したての温もりはもうすっかり冷えているだろう。皮膚の温度と湿り気をそのまま残して柔らかかった皮は、冷えて乾燥して、かたくなっているかもしれない。家に帰って元の通りに広げようとしても、戻そうとする最中に千切れたり、ひびが入ったりして、できないかもしれない。どうやって治療しようか。血小板の働きには期待出来ない。それでも、大きな絆創膏を貼ってみる? 皮同士を引っ張り寄せてポアテープで留めてみる? 重なった部分をホチキスで留めて針の上からメンディングテープを貼ってみる? いっそまっぷたつに引き裂いてみようか。妹の皮はうめき声一つだってあげないだろう。晴れ晴れした気持ちになっているのに気が付く。

 カウンターの向こう側から、店員が食器の乗ったトレイを手渡そうとしてくる。カバンから手を出して、トレイを受け取って自分の前に置く。小盛のご飯の右に赤味噌の味噌汁、ご飯の奥に千切りキャベツと八等分のトマトとメンチカツ。トレイの右上に水入ったグラスと中濃ソースのボトル。手を合わせて、いただきますを言う。妹の、少し低く掠れて自慢げな、おあがりなさいは聞こえない。


 妹と二人で暮らすようになってから、けれども、妹が私たちの家に居ることは少なかった。実家に居るときよりも家に戻るようになった、と妹が不満げに主張したので、別に叱っているわけではなくて事実を述べているだけだと伝えた。だれかに聞かれれば妹が家に居ることは少ないという事実を率直に伝えるだろうということも伝えたら、怒るかもしれないと思ったのに、妹は、ごめんねお姉ちゃんと、本当に申し訳なさそうに呟いた。ひどくびっくりしたのを覚えている。その夜、妹は外に出掛けず、夕飯の食器を片付けて、風呂掃除さえしたけれど、次の日の朝にはまた出掛けていって、しばらく戻らなかった。玄関からなくなっている黒色のコンバースを見て、申し訳なさそうに呟いたときに伏しがちになっていた妹の睫の繊細さを思った。

 似ていない姉妹だとよく言われた。似ていないのではなくて、妹が特別なだけだと私は思う。妹は、私にも、父にも母にも似ていなかった。アーチを描いて適度な太さの眉毛も、アーモンド型の二重の目も、いつも少し口角があがった唇も、嫌みでない程度にプライドの高さを示している鼻も、ふっくらとした頬も、くるくると顔の周りで跳ねている癖毛も、家族の誰にも似ていなかった。小さい頃から、その言葉が相応しいと世間的には認められないだろう小さい頃から、妹は、美しかったと思う。 ダイニングテーブルの上に、妹の皮の塊がある。淡いグレーのハンカチの包みを、カバンから取り出してテーブルの上に置いて、ハンカチの結び目を解いた。カバンに入るように小さく折り畳んだから、幾重にも折り重なった半透明のはずの皮が、光をあまり通さなくなっている。褐色がかった乳白色の鉱物の塊のように見える。折り畳んだ皮の塊の輪郭は曲線ばかりでなく、かたく乾いて鋭角と鈍角を繰り返すギザギザの線もある。朝、妹の部屋でそっと持ち上げたときの温かさを失っているのは明らかで、そのことを確かめるために触れるのは躊躇われた。妹の布団の上にあったとおり、四肢を自然な形に伸ばして俯せの姿勢にすることは、もうできないだろうと、光をまだわずかに透過する妹の皮の塊を見たときに、理解していて、本当にそう出来ないと分かるのをおそれている。昔、ベビーベッドのシーツの隙間からさえひとつ残らず集めた妹の皮は、集め終えた後どうしたのだっけ。ビニール袋の中の小さな皮のかけらが、すべてくっついて、クリーム色の玉のようになったのでないかしら。私は、妹が死んでしまうのではないかと思った。妹からこぼれ落ちたかけらをすべて集めてとっておかないと、目をつむって眠っている妹が私のせいでもう目覚めないかもしれないと思った。脱ぎ捨てた皮でさえ美しい私の妹は、どうやってだって生きていける。泥水を啜りながらでも、殴られた青痣に新たな痣を重ねながらでも、柔らかな毒がにじんだ言葉をまき散らしながらでも、どこでも生きていける。

 よく見ると、妹の皮の塊の中には、淡いオレンジ色や、仄かにきらめくココアブラウンや、濡れたようなコーラルピンクが混じっている。どうして、朝には気付かなかったのか、妹が昨日していた化粧はそのまま妹の皮に残ってしまったのだ。妹は、化粧を落としたり風呂に入ったりするのを省略するために脱皮したのだろうか。クレンジングオイルで化粧を落とし、洗顔料で顔を洗って、石鹸でからだを洗い、タオルで水気を取ってから、顔には化粧水と乳液を塗り、からだにはボディミルクを塗る。そうした後の清潔でしっとりとした肌と同じような、脱皮した後の瑞々しい新しい肌に、妹は再び化粧をまとって、出掛けていったのだろうか。朝、家を出るときになくなっていた、妹の銀色のパンプス。しばらくの間どこかに行っても、それが長くて半年近くになろうとも、妹は必ずこの家に帰ってくる。私が妹を待っていることを疑いもしない。私はいつも少しだけ妹が羨ましかった。


 お風呂にお湯を張った。いつものバスソルトを入れるのはやめて、代わりに、妹の皮の塊を入れることにする。淡い褐色の妹の皮の塊は、溺れるこどものように湯船の底に沈んでいった。人間のからだの七割は水で出来ているそうなので、それだけの水分を吸収して、朝見つけたときのように、温かくて柔らかくて少し湿った、妹の皮になってほしい。かみさま、と口にしかけてやめる。今、平安を祈ってどうなるというのか。

 風呂用の椅子に座って、棚のクレンジングオイルを手に取り、顔全体に広げていく。洗面器にくんであるお湯を手ですくって、顔を洗う。なぜか妹は私と同じ石鹸やシャンプーを使いたがるので、どれも一種類ずつしかない。妹は、時たま、ちょうど良いタイミングで石鹸やシャンプーのストックを買ってくることがあった。家にいないのにどうして分かるのか、へんてこな才能だ。大抵得意げに報告してくるので、私は、笑いながらありがとうを言って、妹が買ってきたストックを受け取る。いつの間にかそうして、私と妹が二人で暮らすためのこの家の体裁が、整えられて続いていく。シャワーからお湯を出して、頭の上からお湯を被って髪の毛を濡らす。左手でシャワーヘッドを支えながら、右手で髪をとき、頭皮をマッサージするようにも指先を動かす。大体一分ぐらいその作業を続けて、棚のシャンプーを一プッシュ分手に取る。仄かなゆずの香りがする。てのひらの上で軽く泡立ててから、シャンプーを髪の上に落として、頭皮をマッサージするようにしながら、髪と頭皮を洗う。泡が目に入ると痛いので、目をつむって髪と頭皮を洗う。妹は昨日の晩、何時頃家に帰ってきたのだろう。私が入浴している間には帰ってこなかったはずだ。パジャマの上衣だけを着て、湯船の栓を抜き風呂掃除をしたのを覚えている。風呂掃除の後、すぐに自分の部屋に向かって、ベッドに寝転がり、布団を被った。眠りにつくまでの間に妹が帰ってくることはなかった。ドアが開く音も、足音も、ひとつも聞こえなかったから。

 シャワーヘッドを右手に持って、お湯を出して泡を流していく。肩や項をシャンプーの泡が流れていく、こそばゆい感覚に肩が跳ねる。髪をとかしながらお湯で泡を流していく、左手の指先や指の間にもこもことした泡を感じなくなってから、目を開ける。すぐに目をつむって、温かいお湯を真正面から顔で受け止める。お湯を止めて、タオル掛けに吊してあるボディスポンジを手に取り、ボディソープを二プッシュ分とって泡立てる。泡の乗ったスポンジで自分の肌をこすっていく。外でついた汚れと、乾いた汗と、いらなくなった角質が全部こすれて流れていきますようにと簡単に願いながら、力を込めて自分の体をこする。

 妹は、要らない物を置いていくために脱皮をしたのだろうか。落とさないまま眠ってしまった化粧も、淡いオレンジ色の爪の飾りも、要らないから皮の上にそのまま残していったのだろうか。私のところに残していったのだろうか。妹は、自分が人に愛されていることを分かっているくせに、それを確かめようと行動することがよくあるから。それとも、私を慰めようとした? 腕に痛みを感じて手を止める。強くこすりすぎたのか、腕が赤くなっている。スポンジをぎゅっと絞って、泡を落としてから、シャワーからお湯を出す。泡を落としていくように体にお湯を掛けると、少しずつ、ヒリヒリとお湯がしみた。バカみたいで、惨めな気分になる。

 シャワーでこうなんだから、お湯に浸かったまたしみるだろうと分かっている。なのに、私はお湯に浸かろうと、シャワーヘッドを金具に戻して、スポンジをタオル掛けに吊して、椅子から立ち上がっている。椅子に少し泡が残っているのを、浴槽からお湯をすくって、かけて、流しておく。

 さっき沈めた妹の皮は、まだ、浴槽の底にある。お湯でふやけて広がり始める気配もなく、沈めたとおりの場所にじっとしている。浴槽に足を入れると水面が揺れて、妹の皮の輪郭が歪む。少し熱いぐらいのお湯にゆっくりと体を沈めていく。ゆらゆらと水面が揺れて、水底がよく見えなくなる。浴槽の底におしりを付けて、膝を曲げて座る。私のお尻にぎりぎり触れないぐらいの位置に、妹の皮がまだ沈んでいる。今になって、妹の皮に触れるのが怖くなっている。自分の腕で自分の肩を抱いて、そっと目をつむる。

 今の彼氏はいままでと違うんだと、妹は力説した。つきあい始めの頃、妹は毎回同じことを言う。どこが違うのか尋ねると、些細なところを変えただけの同じ答えが返ってくるまでがセットだ。今回はなんだったっけ。マクドナルドのチキンナゲットを頼むときにソースを選ばせてくれる、んだったかしら。そのときの妹にとっては、妹が言ったことだけが真実で、私の苦言など聞きやしないのだから、妹から返ってくる答えをふうんと聞き流す。妹は、水出しアイスティーの入ったコップを勢いよく机に置いて、じゃあ行ってくるねとこそばゆそうに笑った。彼氏の家に行くんだと笑った。新しい彼氏は、妹に「好きなことをすればいい」と言って、パチンコやスロットや、競馬や競艇に使うお金を、快く出してくれるんだそうだ。貸されているんじゃないでしょうねと何度も確認した。妹は違うと首を横に振るばかりだった。妹はそう思っていても実際は分からない。妹のうつくしさを担保にして金を貸す男は何人も見てきた。金が手元に戻らないと見るや、妹は担保を奪われる。そのやり方が性的な方向に向かわないのは不思議だった。だからなのか、妹は、じきに、奪われたうつくしさを取り戻す。蝶が羽化するように。蛇が脱皮するように。生まれたばかりの赤子が一年で二倍の大きさになるような、生命力で以て。妹は昨晩、傷ついた体を抱えて、私に気付かれないようにこっそりと家に帰ってきたのだと、考える。私に気付かれないように足音を潜めて階段を上り、ゆっくりと部屋のドアを開けて、音もなく、自分のベッドの上でうずくまった。

 喉が、かわいている。

「おねえちゃん」少しくぐもった、舌っ足らずで甘えた妹の声が、確かに聞こえた。目を開けると、半透明な開き戸の向こうに人影が見える。私より少し背が高い、髪の長い人影。妹だ、とすぐに分かる。そうして私が返事をする、前に、戸が開けられる。服を脱いで、裸になった妹が、浴室に入ってくる。妹の左腕には相変わらずタトゥーが見えた。手の指の爪は淡いオレンジ色に塗られたままだった。顔に化粧は施されていないが、最近では見覚えのない青痣が目の周りを痛々しく彩っている。それ以外に目立った傷がないのが不思議なくらいだったが、妹は少し足を引きずっていて、浴槽の前で立ち止まる。

「ただいま」妹が、目の端に涙を堪えながら、ぐずつきかけた湿っぽい声で言う。

「お帰り、琴」私は、いつもどおりを装って、努めて冷静な声で返事をする。喉に声が引っかかるんじゃないかと心配した。妹は、唇の端を無理矢理引き上げると、浴槽の壁に手をつきながら脚を持ち上げて、爪先からゆっくりと、お湯に浸かる。両脚をお湯に入れた後、なんのためらいもなく、お尻を浴槽の底につけて座る。あっと言う間もなかった。ゆらゆらと揺れる水面の下、浴槽の底に確かに沈んでいたはずの妹の皮は、もう見えない。妹の丸いお尻が浴槽の底にぺったりとくっついている。妹は自分の皮を踏みつけたのを気が付く様子もなく、膝を抱えると、私の肩に頭をもたれかける。煙草と、アルコールのにおいがした。はあ、とため息をついて、妹のつむじに頬をこすりつけるように、頭を傾ける。

「夕飯、何食べる?」

「いらない。……嘘。親子丼、食べたい」

「鶏肉買ってないから、他人丼でもいい?」

「お姉ちゃんが作るならなんでもいい」

 いい、と言った妹の声の残響が、居心地悪く耳に残る。「わかった」と答えて浴槽の底に手を這わせる。妹のお尻がそばにある気配だけがして、やっぱり、妹の皮はなくなっている。妹のお尻の穴に吸収されてしまったんだろうかとグロテスクな想像をする。くすりとも笑えない。胸が痛む。手が震えて目の奥と鼻の奥が熱くなる。熱いのか冷たいのか分からない。喉がかわいている。自分の髪と体を洗って、妹が同じことをするのを手伝って、部屋着に着替えてから、料理をして、妹と一緒に食事をして、週末の練習に向けて譜読みをして、自分の部屋のベッドの上にうずくまって、それから、それから。きっと、妹の皮の柔らかさと温かさを思い出して少しだけ泣くと思う。

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