「違くない」は違うと言われても

 こんにちは、たてごと♪ です。

 「王座」と「正座」って似てるので、たぶん王様というのはその王座で正座をするものなんだとおもいます。


 ……はい(

 さてまたしばらく沈んでましたが、今回は変則的なことばについての話です。

 沈んでるさなかにそーゆーコト考えてるのどうなの、ってツッコミはご遠慮いただいてもろて(


 で、たまに聞かれる


  ◦ 〝「ちがくない」「ちがければ」「ちがかった」という活用はおかしい〟


という指摘ですけども。

 「ちがう」は動詞だから、形容詞的に活用させるのは誤り、ってわけですね。

 これは説明が単純なだけに、どこにもたんがみられない正当性ある指摘のように、思われがちだと思うんですけども。

 ぼくにはちょっと、的外れのように思えるんですよ。

 つまり指摘の内容自体じゃあなくって、冷静に根本から考えてみるとねぇ、って話になります。



     †



 まずもって、「ちがう」ってことばはたしかに動詞という事になってます。

 それでもって、身長差のある人たちについて〝彼らは背の高さが「ちがう」〟みたいにいますけど、ただこの動詞というのは、「動作を述べるもの」。

 この場合、なにか動作がそこに有るわけじゃあなくって、差異の認められる状態に対して、言及をしてるわけでしょう。

 つまり、ことばの役割的には「状態を述べるもの」なのであって、それをするのは形容詞や形容動詞であるはず。

 にもかかわらず動詞の形になってるのが、そもそも基本的に畸怪おかしくね?

 動詞に形容詞の機能を持たせるほうが、むしろ文法たんじゃないですか。

 英語でだって、「differentディファレント」という形容詞になってるわけで。

 動詞で表現するのに適してるのは、たとえば「ちがえる」みたいに、差異を生じさせる動作を指す場合でしょう。


 だとしたら、「ちがくない」「ちがければ」「ちがかった」みたいな活用が誤りなんじゃなくて、


  ◦ 「ちがう」っていう動詞の存在そのもののほうがおかしい


んじゃないの? っていう。

 この「違う」、昔の時代だと{ちが‐う}じゃなくて{たが‐う}とっていた、というのはよく知られた話でしょうけども。

 その「たがう」は、組成が〔う〕と意味的にはっきりしてて、ゆえに形容詞的には通用してなかったやつなんですね。

 一方で「ちがう」については、さっぱり正体不明だったりしまして。

 じゃあ「違う」を{ちが‐う}と、最初に言い出した下手人はいったいだれで、そしてどーゆーつもりだったんでしょ出てこいやオラ説明ちゃんとしろ(



     †



 そして。

 誤りだという指摘が出されてるのに、そちらの方がより一般化するときって、「従来の形式のほうがヘン」だって場合が少なくないように思うんですよ。

 「ぜん形」とか「ら入りことば」なんかがそれでしょ。


 じゃあどうするかって実際、「ちがう」はもう動詞として強く定着しちゃってるから、そこからまず改めろ、っていうのはとりあえず困難な話で。

 それなら誤りだろうが何だろうが、より自然な形で遣われることを許容していったほうが、言葉の組み立てはよりスムーズになるんじゃないの、と。

 ほかの例でも、「来る」は{きた‐る}だったのが{く‐る}になったやつですが、この「くる」もまたHENTAI的な活用をしますよね。

 それを、「来る活用(カ行変格活用)」なんて名前までつけて、特別な活用として文法に組み込んだのだって、つまり一般法則から大きく外れるものを許容したって事でしょう。

 だったら「ちがう」のほうだって、「けいようてきどう」みたいな特殊品詞として扱ってもいいじゃないですか。


 この「くる」や「ちがう」みたいに、突然発生した異質なものは「とつぜんへん」と呼ぶべきもので。

 そんなものを無理に、既存のわくみに当てはめようとしたってふつう、うまく適合しないでしょう。

 むしろ突然変異のことばを、突然変異ままで受け入れることで、生物のそれと同じように現在では考えつかないような発展が、将来みられるかもしれません。

 なのにやみに、誤用だ不正だとうるさく騒ぎ立てることは、むしろコミュニケーションがいの方向に働くんじゃないか、とも思うんですけども。

 審議されるべきは「誤用かどうか」じゃなくって、「通用させて問題が起きないかどうか」なんじゃないですかね。


 もちろん「ちがう」のような、複合語のほうはちゃんと動詞として機能してるので、整理が面倒だというのはあるかもしれません。

 だからといって、「面倒だから、より自然なほうを誤のままとしよう」って言うならそれは、さすがに姿勢として不誠実すぎやしませんか。

 少なくともひとに対して、偉そうな態度を取れるようなもんじゃないでしょう。

 だいいち、そんなすじ違いなんて実際には通用しないからこそ、「ちがくない」「ちがければ」「ちがかった」のような活用が、そもそも登場し始めたんじゃないですか。

 不自然なものをようするのに意義なんてあるか、って思うんですが、さてどうなんでしょう。



     †



 まあこの話って一見、『「絶対防御」ってどういう意味になると思う?』の節とはちょうど逆の主張みたいでもあるんで、分別が難しいのですけどね。

 ただ「絶対防御」については、その遣い方だと字義的に意味が通らないよって話で、それについては熟字訓という代替手段が考えられます。

 一方で、「ちがう」についてはことば自体がエラーを起こしてるから、既存のわくみだとよ、っていう違いが一応ありまして。


 こんな感じにことばとう性についてを、一律のルールだけで判断するのって、けっこう難しい事でして。

 なので個別に評価をしてったほうが、判断もしやすかったりはします。



     †



 つか、こうした指摘をしがちなのって一般人よりも、より知識のある専門家のほうのはずで。

 それならそれで、「だったらこれぐらいは言及できててほしい」みたいな思いは、あったりしますわね。

 べつに重箱のすみをつつくことを、専門にしてるわけじゃないんでしょうし。


 とはいえ実際の語学の専門家って、わりと細かい口出しをせずに、ぼうかんてっしていたりもしまして。

 なんか「語学者とはみづからがことばを左右するものではない」みたいなきょうでも、あったりするんですかね。

 個人的には「もうちょっと発言してくれてもいいのよ」って思うけど、つまりそういう指摘って専門家によるものじゃあなくって。

 ただ定義をかじっただけの半可者が、騒ぎを起こしてるだけかもわからんわけで。

 ……まさかホンモノの重箱のすみつつきのプロなのか……?(


 ともすれば、〝意見の内容に発言者は関係ない〟とはわれるものの。

 実は結構、「どんな人物が言った事なのか」って肝要な判断材料なのかもしれません。

 なんにせよことばに限らず、「せまい創作論」やら「エセ科学」なんかも含めて、マヌケな踊りを踊らされたりしないように気を付けたいもんですね。

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