「表音文字」はとても便利? ⦇大長⦈

 こんにちは、たてごと♪ です。

 だれしも経験あることと思いますが、やたらギシギシ言っていたので危ぶんでいたコタツの足、でもやっぱりいきなり折れてしまうと心も折れてしまいますよね‼


 ……はい(

 前回の、{じ}{ず}{ぢ}{づ}の話の余談ですますよ(

 思うに、例に出した「うなく」「はな」に対する「うなづく」「はなぢ」みたいなタイプの語は、


  ◦ けいどう


と呼ぶべきものでして。

 これは違う表記になってるだけで、発音も意味も由来もぜんぶいっしょの同語なので、別語同士がたまたま語義一致する「どう」とは異なります。

 英語でも「throughスルーthruスルー」みたいのが有るんですが、これを同語ではなく同義語だと認識してるネイティブさんは多分、いないでしょう。

 一方で、〝表意文字たる漢字を別々に遣ってる、ゆえに別々の語なのだ〟って勘違いされやすいタイプのこれは、たぶん日本語特有のものなんですよね。

 「ホトトギス」の漢字表記とか、「杜鵑ほととぎす時鳥ほととぎす子規ほととぎす不如帰ほととぎす杜宇ほととぎす」をはじめとして、どうやら50種類以上も有るらしいんですが、どれも同義語ではなく同語とえるもの。


 それも含めて今回は、ずっと前の『「全部ひらがなでいいのに何で漢字使うの?」ってかれたら何て答える?』の節の余談にもまた、なるんですけども。

 つまり、「やまとことば」は同音異義語だらけ。

 要するにボキャびん語彙ボキャブラリ―ひんじゃく)。

 どうしてそんな事になったのか、ということに関する想像というか、もうそうのお話になります。



     †



 まず日本語の成り立ちは、こんなところだと思います。


 もともと日本語の原形「やまとことば」には、文字という物が有りませんでした。

 そんななか、紀元よりもとうの昔。

 弥生やよいの時代に米が伝来して、より組織的な協調作業が必要になったせいで、社会だけが急発達。

 いちおう漢字も同時期に輸入され始めたけど、学校どころか紙も勉学の概念すらも無いのに、そんなすぐの普及なんか無理。

 そのせいで、「やまとことば」は育たないうちに成熟してしまった、のではないでしょうか。

 つまり、伝達に必要になる語をぜんぶ「頭脳一時記憶にとぼしいアレ」だけで考えたせいで、を効率よく整理することができず、多様性が生じなかった。

 だから当然のように同音異義語が大量発生したし、かつ「言葉とはあいまいなものである(だからあいまいでいい)」みたいな認識も温められてしまった、という。

 そんなストーリーでも無いかぎり、「似たようなくくりにできそうなたいしょうは全部同じおんで呼ぶ」なんて発想、ふつう出てこないと思うんですよ。

 区別に困りますからね。


 それくらい〝紙は偉大〟だって事ですが、ただ逆に言えばそれは、「同じ記号から異なる意味合いを察する事ができていた」って事です。

 つまり日本民族って、そこらへんのどうさつ力がほかの民族とくらべて、異様に高いのかもしれません。

 まあボキャびんのせいで、鬼のどうさつはぐくまれたのかもですが。


 やがて数世紀ののち、紀元を越したころでやっと、漢字を使い倒せる基盤が整ってきまして。

 その過程では、「語の意味にふさわしいと思われる漢字」をわしわし割り当てるという、至って人為的な作業がなされたもので。

 そのために漢語もすこし混じったりして、どんどん「日本語」に成っていったわけですね。



     †



 ところで、半ば人工的であるという事は、うなれば日本語は「」ということ。

 結果として、大量の同音異義語はもとより、異形同語までもが誕生したり。

 また、きっと正確にどうさつしてもらえるという信頼からか、主語を含めたあらゆる語部が省略可能だったり。

 あるいは言葉はあいまいでいいという認識から、元々は持たない意味でことばを遣うことが許容されたり。

 ないしは英語だったら「Iアイ」のみで済む、〈自分〉を指す呼び方に「わっちおい殿どんぼくちんわい」などと、あまりに多彩なレパートリーが生じたり。

 もしくは協調を重視しすぎるゆえの同調圧力からか、「あらたしい」を{あたらしい}とうように、「り」を{り}と書くように、ルールに外れた表現すらもが正しいものとして通用したり。

 そういう、伝達をむねとする言語としては相当いびつな要素が、そちこちで含まれるようになったんじゃないでしょうか。

 もしかしたら、「コメがそうさせた言語」とも言えるかもしれません。


 そしてそのいびつさこそが、〝日本語はムズカシイ〟とわれるゆえかと。

 まさにHENTAI、まさにガラパゴス。

 日本人ですら、ここらへん何がどうなってるのか、いまいちよくわからないんじゃないですか。

 って言うよりそもそも、日本語の全容を掌握できてる人なんて、この世に一人でも存在するんでしょうかね。

 だってこれ実感的に、たぶん最先端の量子力学よりもずっと難解ですよ。


 ……じゃあ、そしたら。

 整合性のきちんと取れてる文法なんてものも、定義は不可能なのかもしれませんね……。


 ごめんなさいルール作った人、ちょっと言い過ぎたかもでした。

 前回でのあっこうぞうごんてっかいします。

 これにて菊花の紋は、平穏が約束されたのです……!(


 そんなこんなで日本語は、〝世界一習得の難しい言語〟という事で、しばしば筆頭に挙がりまして。

 それについて、〝アルファベット圏の基準で見るからそうなるんだ〟との物言いがついたりしますが、これについては「それは違うよ」と。

 だってここまで、ルールが守られてないってレベルじゃなくてルール自体がグダグダ、だなんて言語とか他に有ります?

 日本語は世界的に類を見ない、あるしゅ異次元的な成り立ちをした、超越的難解言語だと主張しておきますよ。

 あっそこ、〝苗木君のクセに生意気ね〟とか言わないで(


 まあだからこそ、余計な鎖は付けないほうがいい、とも思うんですけれどね。



     †



 余談をもう一つ。

 混同されてて紛らわしいのをどうにかしよう、っていう意図で同音異義語には、漢字が当てられるわけですけども。

 『「ら抜き言葉」ってどうしてダメなんだと思う?』の節で説明したとおり、「やまとことば」には子音一音に至るまでに、ある程度の意味合いが含まれていたりするんですね。

 そしてあまつさえ、その一音一音についてすら、同音異義語みたいなものが生じてしまってるわけです。


 だから〝「ぢ」「づ」を{じ}{ず}に書き換えろ〟なんて規定、本当は無いほうが良かったはずなんですよ。

 何が何だかわからなくなりますからね、りゅうざきくん困りますからね(

 「ゐ」「ゑ」も{い}{え}に置き換えて書くことになりましたが、前者はそもそもヤ行であるゆえに発音上で小書き仮名「ぃ」「ぇ」のように機能したほか、語幹なし一段動詞を除いては語尾には現れないゆえに特有の意味合いを持つと推定されるなど、性質面で多少の差異が有ったりするので、こちらのはいも正直どうかと思ってます。

 つまり、公式正規の取り決めがすでにもう、いびつなわけですね。

 マジでこんな気持ちの悪い言語、他に有るんでしょか。

 で、こんな規定いったい何のためにあるんや、という疑問だけは前回出しましたけれども。

 たぶんこれ、「ひょうおんきょうしんじゃ」がそう決めたんかなあ、って気がしましてね。


 表音文字ってつまりそのままおんを表す文字だから、おんの重複する文字があると邪魔、っていう考え方は確かに有るますよ(

 けれどもさあ、だったら助詞の「は」「へ」「を」だって{わ}{え}{お}と発音するけえ、「わ」「え」「お」でよがね?

 「ぢ」「づ」だって「ゐ」「ゑ」みたいにはいでえがんべ?

 こんなハンパなさいはいすっから、みんなワケわからんくなるんろ?

 半可くさいにも程あるでねか?

 ちゅうか日本語って同音異義語がぎょうさんあるさかい、表音文字ちゅうんは日本語とはめっちゃ相性悪いねんで。

 せやから表意文字たる漢字までをも使つこてんねんで。

 助詞の「は」「へ」「を」を残しとんのも、結局そういう理由やろ。

 要はじゃき、勧誘にゃあくれぐれも乗っらんといてつかあさい。


 ……我ながらなかなかエい関西弁だとおもいます‼(



     †



 似た話で、漢字の読みの差異ってやつもありますね。

 たとえば「目の敵」は一般に{のかたき}と読むもので、これを{のかたき}と読んだ人にいちいちツッコミ入れてるのをよく見掛けます。

 でもこれ、{め}は現代読みで{ま}は旧読みってだけで、意味的には何ひとつ変わりありません。

 むしろ、そこまで言うならちゃんと{}と読んでるんだろうな(※「かたき」と違って「かたき」は「てき」と同じ意味だよ!)と。

 ついでに、「の当たり」も当然{のあたり}と読んでるんだろうな、というツッコミが(


 ほか、「役務」も一般には{む}で、これを{む}と読んでる人にも同じくツッコミ入りますけども。

 これも、{えき}は漢音で{やく}はおんっていうでしかなくて、意味的には完全に同一です。

 つまり音読みするとき、漢音に沿うかおんに沿うかは「不文律」、要するに「慣習」以外には根拠がまったく無し。

 そして結局には同じ意味になるんだから、


 つまり、漢字は表音文字じゃなくて、表意文字。

 だから、その漢字を指してるって事だけわかれば、どう発音してるかなんて心底どうでもいいんですよ。

 「わたくしあたくしわたしあたしわたいあたいあっしわっちわて」みたいな発音の揺れが許容されてるのだって、どれもが〔私〕って漢字を指してるのがわかるからこそでしょ。

 もちろん、野放図にしてしまうと発音バラけまくって収拾つかなくなるんで、「わたくし」という本則は有ったほうがいいわけですけども。


 とはいえ言語自体、意思の伝達をするために存在してる物じゃあないですか。

 それってつまり、


  ◦ おんだけ伝わっても、意が伝わらなかったらどうしようもない


って事で。

 知らない外国語で話し掛けられてもさっぱり理解できないのだって、要するにそういう事ですよね。

 そしてそれは逆に言うなら、


  ◦ 意さえ伝わるなら、おんは必ずしも伝わらなくて構わない


って事でしょう。

 じゃあ多少そこに、辞書通りでない発音が有ったとして、意味的に間違ってないなら問題も無くないですか。

 いったい何のためにおんをそこまで、かんぺきに伝えなきゃいけないんでしょうか。

 「だいがえ」は「だいたい」じゃないとダメですか、それがいいなら「やく」はなぜダメなんですか、そもそも「えき」じゃ伝わりにくいって面も無いですか。

 つか、こういうとこ譲っとかないと、〈発音の便べんのための崩し〉をする「おん便びん」すら否定することになりませんか、「くろうと」は「くろびと」じゃないとダメですか。

 おまけに熟字訓までもNGになりませんか、「防人さきもり」は「さきもり」じゃないとダメですか、海や山は死にますか(


 だいいち辞書ってこれ、国が法としていてる物じゃあなくって、営利企業がへんさん発行してる物でしょう。

 かつ、〝ばくしょう〈✕大勢で笑う:○激しく笑う〉〟や〝✕あたらしい:○あらたしい〟の例もある通り、ときには辞書にだって誤解釈や間違った慣習がそのまま載る、だなんてことは周知の事実でしょう。

 つまりそんな物はただの「著作物」、ただの「参考書」であって、法典でも聖典でもないはずでしょう。

 なのにそこでじら立てて、キイキイガヤガヤとめごと起こすなら、そっちのほうがよっぽど伝達に支障をきたすんじゃないですか。


 ぶっちゃけ、ぼくの姓が〝かわ(仮)〟のような感じだったりしますが、これは一般には{こうづ}である事のほうが多いです。

 だから大半の人がぼくのことを「こうづ」と呼んできますけど、こんなものはいちいち訂正をして回るのも面倒でしょう。

 そもそも名前とは呼ぶためにあるもので、じゃあぼくが呼ばれてるって事さえわかるなら間に合うはずで。

 つまり発音が{かわ}か{こう}かについて、こだわるメリットとデメリット、大きいのはどちらですかっていうてんびん、あると思いませんか。

 あ、ちなみに仮は本当に仮です、実名にはってもいませんよ(



     †



 って思ったんだけど、『現代仮名遣い』に関する内閣告示。

 よく確認してみるとそれ自体は、主旨的なところを要約するとこう。


  ◦ 〝主として口語体のよりどころを示すもの〟

  ◦ 〝正しいものとして規定するわけではない〟

  ◦ 〝各専門分野や個人の表記にまで及ぼそうとするものでもない〟


 ……はーめ息出る。

 告示の内容はまあ「表音文字教」のなせるわざなのかもですが、でもちゃんとこういうただし書き、有るんじゃん。

 じゃあこれ完全に、ヴァカが「目安」を「正規」と勘違いして広めてるだけじゃん。

 豆腐で首めたろか冷奴cool guy🤤(


 いわゆる〝誤用警察〟のみなさんって、割とそういう本質からそれた、的外れな事ばっかり言ってたりするので、「あーはいはい」とテケトーに受け流しとくが吉です。

 ま、ぶっちゃけこれも〝表音文字教〟のりゅうかと思いますがね。

 やーいやーい邪教邪教(



     †



 そもそも「表音文字教」って、マジ邪教なんですよ。

 表音文字の利点は


  ◦ 〝ごく限られた数の文字だけで、すべての語が表現できる〟


ことだってわれるわけですが、で。

 それで表現されるのは飽くまで「おんれつ」で、語そのものが表現されるわけじゃないんですね。

 さっきも出ましたが、同音異義語の多い言語圏だと


  ◦ 発音がわかっただけでは語の特定にまで至りきれない


わけで、要するに「役に立たない」んですわ。


 このエッセイでちょっと前、『道のり』の節で、同音異義語がメッチャ多い語の例として「のり」を挙げましたけれども。

 よしんば「のりのりのりのりのりのりのりのりのりのりのりのりのりのりのりのりのりのりのり海苔のり」を{nori nori nori nori nori nori nori nori nori nori nori nori nori nori nori nori nori nori nori nori}と書けたら、それで何だよと。

 こんなんじゃあ、どれが何の「のり」なのか全然わからんじゃん。

 え、〝のりをたべる〟なら海苔のりだ、みたいに文脈で判断できるって?

 なに言ってんだ、みんな小学校時代にはのり食ったろ‼(


 だいいち文脈から判断とかそんなの、文字だけで語を表現した事になんか全然ならないですよね。

 さらには、たとえば〈理解できたからといって、それだけで分別までができるようになるわけじゃない〉って意味で、「わかっただけじゃ分からない」なんて言い回しが、十分通用しうると思いますけども。

 これ、ひらがなオンリーで「わかっただけじゃわからない」と来られたら〝……え?〟ってなりませんか、文脈から解釈するのも難しくないですか。

 ほらやっぱ、〝すべての語が表現できる〟だなんて大ウソじゃん!

 日本語で漢字が使われるのも、平仮名もまたそれくらいには「役に立たない」からだし、逆に言うなら日本語ってそれくらい、漢字に依存してるんですよ。


 ま、本来「り」のはずの語が「り」で通用しちゃってる時点で、学校の国語の授業は敗北してる気がしますけれども。

 あの授業ってあれ、いったい何を伝授してる業なんでしょか。


 あ、ども。

 国語も音楽も赤点だったボカロPのアカウントはこちらです(



     †



 そしてこれは英語での話ですが、さらに加えてもう一つの問題。


  ◦ 〈れき書〉は英語で「resumeレジュメ」ですが、これを{resumeレジューム}と発音すると〈再開する〉って意味の動詞になるんですっ!


  ◦ それと〈風〉も「windウィンド」だけど、これも{windワインド}だったら〈曲がりくねる〉って動詞でしてねェ‼


  ◦ あっそういや〈婦人〉も「womanウーマン」なんだけど、複数形だとどうも「womenウィミン」になっちゃってさ、テヘッ♡


 ……じゃねーか!

 なにが〝アルファベットは表音文字です〟だ‼

 なにが「テヘッ♡」だ(


 これ、日本人が英語に取っつけない最大の理由じゃないですか。

 だってこれじゃあ、アルファベットの基本的な発音知ってても、音読すらまともにできないじゃないですか。

 日本の表音文字たる平仮名でもまあ、例の助詞とかで多少の揺れは有りますけど、こんなひどい発音の裏切り方はしませんよ。

 「アルファベットはひどい」、はいこれおぼえて帰ってくださいね(

 あっ大丈夫です、英語圏の人はたぶんこれ同意しますから。

 実際、あっちの人たちって不文律がだいきらいなんで、〝許せない〟〝恥ずかしい〟とか内心思いつつしゃべってるって人、少なくないみたいですし。


 〝言葉とは時代によってうつうもの〟とすらわれるもので、まあ個人的には「いやそんなコロコロ変わられたら困るだろ」とは思うんですけれども。

 でも結局、まったく同じ表記の語に対しても、ニュアンス的な差異を持たせたいってニーズって、かならず発生してくるんですね。

 かと言って、発音の揺れごとに新たなつづりを次々とこしらえてたら、語の姿が化けまくって正体がわからなくなるでしょう。


 たとえば冒頭にも出した、〈通過する〉という意味の「throughスルー」。

 こいつの表記の揺れをカウントしてみよう、なんて奇特な方がいらっしゃったようで。

 そしたら何と、実用されてたのが確からしいものだけで、500通りを超えるバリエーションが見つかったそうな。

 「わたくしあたくし:〜」みたいに発音が揺れてるわけじゃなくて、同一の発音をしてる同一のことばが500通りの表記、ですよ。

 おい信長、秀吉、家康、ホトトギスなんかにれてる場合じゃねえぜ‼(


 中世の英語とか大体そんな感じだったようで、〝複数の表記がない単語は無かった〟とまでわれるほどで。

 これを全部辞書に載せよう、なんて事をやり始めたら一体どうなってしまうのか、想像したくもないですって。

 近代になってやっと〝こりゃあアカン〟ってなって、標準化が図られてきてるようですけど、未だに{throu}だの{thru}だの残ってますからねえ。


 そんなこんなで、表音だけで語を表現しきろうだなんて、はなから無理な相談なんですよ。

 そこに目をつぶり続けてるかぎり、「表音文字教」は邪教でしかないんじゃないすか。


 あ、ども。

 英語も赤点だっt(以下略


 ……いやまあ、そりゃあ恨みますよ。

 学校教育、僕の感性をとことんふみにじりましたからね。



     †



 そう考えると、表音文字と表意文字の入り混じった日本語というのは、実は結構理想的なスタイルなのかもしれません。

 意を強調したいのかおんを強調したいのか、場合によって対応をじゅうなんに変えれるわけですからね。

 というか根本的な話、「聴覚情報で伝える」のと「視覚情報で伝える」のって、冷静に考えたら全然別の行為じゃないですか。

 なのにその手段を無理繰り共通化させる、メリットとデメリットのてんびん、割と後者にかたむく気がするんですが、さてどうでしょう。

 「文語」と「口語」っていう対比も有ることですし、どうも


  ◦ 書きことばと話しことばでは、作法プロトコルが異なるほうがむしろ自然


みたいに思えてきました。

 そういう観点で、漢字ってものすごい発明品だと思います。


 あ、ただし発音に気を付けたほうがいい、という場合も有りまして。

 語が連続するときに濁るおんいん変化を、「れんだく」と呼ぶわけですけれども。

 逆に、連続している語をあえて濁らせないことで、それらがつながっていないという事を明示できたりもします。

 その遣い分けの例としては、たとえば「間髪いれず」ということば

 これ、{かんぱつ}って読むのはちょっとマズくて、{かん・はつ}と濁らせないまま、かつ{は}にアクセントつけて言ったほうがいいやつなんですね。


 というのも、これは〝かんはつれず〟という慣用句から{に}が「じょしょうりゃく」された略語で、つまり「間」と「髪」の間でいったん区切れるからです。

 ここ濁らせるとつながってしまって、「かんぱつ」でひとつの単語なのだとする事になってしまう。

 でもそう呼ぶべきシロモノが、実物として存在するわけでもありません。

 ゆえにそこは、区切れることを明示しといたほうが意味が伝わりやすい、ってわけですね。

 まあ濁ってても伝わる、って言えばそうなんですが、よりていねいって事で。

 なるべく原型をつぶさない形のほうが、やっぱり誤解は起きにくいでしょう。


 あるいはこれは、〝かんはつれず〟全体の略語としての「かんぱつ」という単語なのだと。

 そう見なして〝あれはかんぱつだった〟みたいに言い回してみるのは、おもしろいかもしれません。


 と、こんなことを普段から考えたりしてるぼくはもうそろそろ、〈誤用警察をあらためる〉って事で「ようけんさつ」とでもるべきなんですかね。

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