前日譚④
土曜日の夕方。
昼過ぎの騒動が収まって、やっとその日の練習が済んだ。山崎の参加が遅れたが内容が内容なだけに柳田に詳細が報告されることはなく、彼らの監督も別に関心がないので形ばかりの訓示で終わった。
一ノ瀬康二の姿はすでにない。練習中にも見かけることはなかった。あの騒動のあと、勝手に帰ったようだ。メッセージにも既読がつくが返事がない。今日も煙草の後始末を自分たちでやる必要がある。ムカつくことばかりだ。
解散したあと、野球部の喫煙者3人だけが空き部屋に残った。陽が落ち始めているがまだまだ熱が残っていて、締め切った部屋は蒸し暑い。そんな中で煙草など吸っていると煙も籠るし、いよいよ居心地は悪い。
「あの女」紫煙を吐きながら山崎が言う。
「仕返ししねーと気が済まねえ」
生田と鳥飼は何も言わずにそれぞれの煙を吐く。
相手は高校空手の実力者である。しかも反撃に躊躇がなく、被害者には言いにくいが鮮やかでカッコよくすらあった。離れて客観的に見ていた二人には分かる、仕返しに行ったところで返り討ちにあうだけだ。
巻き込まれたくない鳥飼は、別のことを提案した。
「それより、一ノ瀬が怪しくねぇか」
あとの二人は続きの言葉を待つ。
「あの女の子、一ノ瀬のクラスにいないらしいぞ」
「は?」反応したのは生田だ。
「マジかよ。あの、俺のファンの女の子?」
「ん。田中が一ノ瀬と同じクラスらしーけど、あんな子いないって言ってたぜ」
「んなばかな。最近引っ越してきたとかじゃないか? あと……目立たないタイプとか」
「ああいう可愛い系の女は名前は忘れても顔は覚えてるだろ。引っ越してきたならなおさら目立つ。知らないわけねぇ」
「……あの野郎」
「あの女の子、一ノ瀬のスパイかも知れないぜ。よく考えたらこの部屋の窓が開いていたのも変だ。いつも煙草の時は閉めてたのに、誰が開けた? 一ノ瀬がやったんだろ」
鳥飼が言葉を切った。あの漢女は怖いが、無抵抗な一年坊ならなんてことはない。
仕返しするならまずはあいつじゃねーか?
誰かがそれを口に出そうとした時、ドアがノックされた。
2回、2回、3回。
仲間内の合図だ。これを知っているのは3人に煙草の味を教えた卒業生か、一ノ瀬しかいない。
鳥飼が咥え煙草のまま、内側から鍵を開けた。
ユニフォーム姿の生徒がいる。帽子を目深に被り俯いているのでどんな表情なのか分からなかったが、名前も番号もないユニフォームは一ノ瀬のものだ。
「てめー良い度胸してんな? 今日はどこに……。ん?」
一ノ瀬は体格は良いが身長は平均的だ。しかし目の前の生徒は明らかに彼よりも背が高い。鳥飼が見上げる形になっている。これからの伸び代を期待して大きめに発注されるユニフォームが、今はぴっちりしていた。目深に被った帽子から覗く髪も長く、ウェーブがかかっていて、陽を受けているからか茶色に見えた。野球部は全員坊主だ。
「誰だお前」
山崎が鳥飼の背中越しに低い声を出した。
その生徒は帽子を少し持ち上げて、
「どうもー」
と、場にそぐわない笑顔を見せた。喫煙者たちには見覚えがあった。
「お前、あの時の」
特に生田はしっかりと顔を記憶している。昼間の騒動の時に黒川弥生に声をかけ、フェンスを乗り越えようとしたやつだ。あのあとすぐに姿を消したので何者かと怪しんでいた。
「先輩たちにお願いがあって来たんですよ」不気味ににやけながらその生徒は言った。
「もう悪いことはやめて、ふつーの中学生になってもらえませんか? 煙草なんて体に悪いものは吸わずに、後輩にいじわるもせずにさ。この部屋もくっさいし、匂い消すのめっちゃ大変なんすよ。そういうのを後輩に丸投げするなんて、カッコ悪いすよ、そういうの」
「ふざけんなコラ」
山崎が鳥飼を押し退け、左手で生徒の襟首を掴んだ。
「てめー何しにきた。一ノ瀬の回し
目をぎらつかせながら
「言ったな!」殴りかかろうと右手を引いたところへ、謎の生徒の鋭い
謎の生徒は崩れ落ちてもがく山崎を見下ろし「いたそー」と顔を歪めてつぶやく。
「せっかく
唇の端を歪めたまま、3人を眺め回して、たっぷりと間を作ってから口を開いた。
「明日、お前らの悪事がバレる。煙草を吸っていたことも、一ノ瀬康二に面倒ごとを押し付けていたことも。だけど、他のことは黙っておいてやる。だからもう二度と一ノ瀬とあのクラスメイトには関わるな」
『他のこと』とはなんだ。いや、それはともかく、やはり一ノ瀬の名前を出すと言うことは。
「やっぱりあいつがチクったのか」鳥飼が唇を舐めながら聞いた。緊張している。煙草のフィルタが張り付いて気持ちが悪い。
「いいや。俺たちが、学校にチクった。悪い大人と戦うために、直接、校長にな。一ノ瀬は、都合が良かったから俺たちが利用した。このユニフォームももういらないらしいから、貰ってきた。おかげで正門を堂々と通れたぜ。俺たちは趣味で悪者退治をしているだけで、あいつは関係ないし、お前らは本当の目標じゃない。だからこれ以上あいつや俺たちに関わらないなら何もしない。ただし、そっちが来るならこっちもそれ以上でやり返す」
床に転がる山崎を見て嘯く。
「こんなふうに」肩をすくめて、まだ立っている二人を見た。
「わけわかんねーこといってんじゃねーぞ。それで納得できると思ってんのか」
体格に勝る生田が煙草を吐き捨てその生徒に近付こうとしたが、彼はそれを目と手で制した。
「納得させるつもりなんてねーよ。納得しなくても言うことを聞けっていってんだ。もう『お願い』じゃねー。『警告』だって言ったろ。生田達郎センパイ」
謎の生徒の笑みは消えている。
「五月二十日生まれで王貞治と同じ誕生日が自慢らしいけど、妹の方が七月五日で大谷と同じ誕生日だから羨ましいんだってね」
「な、どうして知ってるんだ?」
「どうしてでしょうね。でも小学校の妹さん、兄貴が後輩をいじめてるなんて知ったらどう思うかな? 自慢のお兄ちゃんなんでしょ? しかも来年、西海中学校を受験するんだって?」
「……」
「今なら、学校とご両親に喫煙がバレるだけで済むかも知れませんよ。兄貴が煙草吸っているのがバレて受験に落ちた、なんて可愛い妹に言われたら悲しいですねぇ」
「……」
生田は大きな体をすくませて黙った。
「おい、そんなの脅しになんねーだろ。別にバレたってどうってこと……」
「鳥飼光彦センパイのことも存じ上げてます」薄笑いを浮かべた。
「西海高校に年上の彼女さんがいるそうで。羨ましいなぁ」
「……」
「いやぁ、彼氏が煙草吸ってるなら、彼女も実は吸ってるんじゃないか、なんて疑われるかも知れないですね。高校なら一発停学だ」
「彼女は吸ってない!」
「たとえばの話ですよ。それにきっと、お堅い彼女のご両親が知ったらきっと交際には反対するだろうな。たまの休みにお洒落して出かけるのさえ友達に協力してもらってるんですって? 大変だぁ」
「……なんで、なんでそんなこと知ってるんだ?」
「俺たちの仲間に名探偵がいるんで。お見通しなんですよ」
「くそったれ!」山崎が、床の上で体をくの字に曲げたまま口を挟んだ。
「んなこたぁ、一ノ瀬なら知ってるだろ! お前らがぺらぺら喋るからだ!」
家族構成も交友関係も、一ノ瀬なら知っている。あいつが全部喋ったに違いない。
「そこに転がってるザキヤマパイセンは……可哀想だから金玉が潰れてることだけしか知らないってことにしとこう。あんたの秘密はここで言うと洒落にならんからな。お友達にも聞かれたくないだろ?」
「ハッタリ言いやがって……何のことだ、言ってみろ!」
苦痛に耐えながら、それでも泡を飛ばしつつ正体不明の生徒を睨みつける。
相手は目を細めて彼を見下ろしながら、ため息
「なんだ、知らないのか? あんたの父親のことだよ。毎週末よく一人で出かけてるけど、どこに行ってるんだろうな?」
痛みに耐えながらも愕然とした。予想外な言葉だった。父親だと? こいつは何を知ってるんだ? 心当たりはない……が、言われてみれば父親は毎週末、必ず一人で出かけている。てっきりパチンコや釣りにでも行ってると思っていたが、まさか何か、良からぬことでもしているのだろうか?
「いいか、中学校にも高校にも俺たちの目はあるぞ。見逃してもらえるなんて思うなよ。お前らだって、誰にも知られたくない、暴かれたくない秘密のひとつふたつあるだろう?俺たちにはそれがわかる」
人差し指で額をトントンと叩いた。
「予言するぜ。お前らの監督はいなくなる。お前らがビビってるセンセイも俺たちの敵じゃない。教師を追い出すよりは生徒を追い出す方が簡単だってことは、賢明な先輩
不敵に微笑んで、3人を順番に眺めた。生田は喉を鳴らした。鳥飼は上唇に張り付いた煙草を取って、唇を舐めた。山崎はもがきながら床を這って生徒から距離を取った。
「まぁ明日を待ってろよ。もう二度と関わらない方がいいってことがわかる。いろいろ言ったけど、俺に任せてくれたらあの漢女にも手を出させないし、俺たちの仲間もあんたらを攻撃しない。野球部が存続するかどうかはわかんねーけど、うまくいけば気のいい先生が顧問をしてくれるかもな。あんたらが野球部に残れるかは知らんけど」
そう言ってから大きく肩をすくめた。再び3人を順番に見て、山崎だけが汗だくで震えながらもまだ視線を外さないことに気づいた。
「そうだな……どうしても報復したかったら俺のところへ来い。天神中学校の黒川凛太郎だ」
ゆっくりとした動作でドアを開けた。
「女にボコられるよりは、年下にやられた方がまだかっこつくだろ? そのかわり、次は両方のタマを潰すぜ」
山崎を見ながら言い捨てて、出ていく。
ドアが閉まった。わずかに入り込んだ風が煙を散らせた。薄暗い部屋で誰も動けなかった。
山崎が苦痛を逃すために荒い息を吐いて、やっと時間が動き出した。
「黒川だって? あの空手女と同じ名前じゃねーか」
顔を
「姉弟だったのか。そういえば名前呼んでたな」
返事をしながら、鳥飼はまだ荒い息を吐いて立ち上がれないでいるエースピッチャーを見る。こいつも二度も急所を潰されて、気の毒なことだ。姉が高校空手の猛者なら、きっと弟も似たようなものに違いない。現に、ケンカっ早いことで恐れられる腕自慢の乱暴者が一瞬でノックアウトだ。昼間のは女相手に油断した、なんて言い訳もできるかも知れないが、今回は真正面から、しかも先に手を出して負けている。あんなのに目をつけられたら、今まで通り好き勝手にするのは難しいだろう。
明日、俺たちが煙草を吸って好き勝手していたことがバレるらしい。
あいつの言う通りなら、もう自分達の夏は終わったのかも知れない。
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