あの時の失敗②

「お前……? お前、煙草吸わないだろ?」


 柳田はいぶかしげに康二をにらんだ。


「はい、あ、いいえ、その……隠れて吸ってました。すいません」


 下手な嘘だった。そもそも康二はブラフも演技も苦手だ。しかし信じさせなければ健流が何をされるかわからない。舌が痺れてきた。回らない舌で何を言えば信じてもらえるか必死で考えるが何も出てこない。口を開けようとしたが唇が震えただけで言葉は出なかった。


「そうか。そういうことなら、そうなんだろうな」


 そんな康二をどう勘違いしたのか、柳田は一人納得した。


「確かに、そうすれば4番もピッチャーも守れる。なるほどな」


「……」


 康二が3年をかばったと思っている。都合のいい発想だ。なぜいじめられた人間がいじめた相手を庇うのか、などということは彼の頭にはないのだろう。ただ彼の頭の中では、もっとも損害が少なく合理的な結論が出たようだった。


 康二は、自分が泥沼にはまっていく感覚があった。自分の犠牲で安心しているこのどうしようもない大人が不気味で気持ち悪かった。


「確認するぞ。後戻りはできんからな」


 一息吸い、康二の眼を見て言った。


「なぁ、本当におまえがやったのか?」



「はい」何とか言い切れた。


「……わかった。決して悪いようにはしない。よく言ってくれた。これで中体連にも出場できるし、お前の友人も先輩も野球を続けることができる。誰にも知られないが、お前は俺たちを救ってくれた英雄だ」


 何が英雄だ。お前らなんか守ってない。俺は友達を守ったんだ。


「ありがとうございます」自分の口から出た言葉と思えない。


「ありがとう」


 ラクダのゲップのような臭いだ。


「……。ありがとう」


 上級生の誰かが言った。どうせ後でまた忘れたように嫌がらせをするくせに。


「明日の朝、打ち合わせをしよう。上手いこと事故ってことにして、なんとか職員会議を納得させる。念のため今日はもう帰って、退部届だけ用意しておけ」


 柳田は肩をいからせて出ていった。長い時間だったように感じたが、実際には康二が入ってから3分と経っていないはずだった。


 ドアが閉まったあと、康二は所在がなかった。しゃくりながら鼻を啜る生田と、まだ呆然としている二人の上級生をどう扱えばいいのか見当がつかない。耐えられなくなって部室を出た。






 翌朝、教室には行かずに野球部部室で柳田と待ち合わせ、職員室に向かった。


「いいか、打ち合わせ通りに言え。お前はうっかり乾燥剤を飲み物の容器に入れて捨てた。偶然可燃物が近くにあったので、発熱した乾燥剤が燃え広がってしまった。これ以外は言うな。あとは俺に任せておけ」


「……はい」


 いま、康二と柳田は二人で職員室の前に立っている。最後の打ち合わせを終えた。康二の手には退部届が入った封筒。親の印を勝手に押した、適当に理由を書いた適当な書類。


 こんなものに何の意味があるのかはわからないが、一先ずはこれで終わる。中学生活での野球は終わる。


 その時、ぱたぱたと不器用に上靴が廊下を叩く音がした。


「待ってください!」


 廊下の奥から上擦うわずった声が聞こえた。振り向くと、髪を振り乱し、半泣きで走ってくる友人の姿が見えた。


「……三井? どうして……」


「僕がやりました!」息を切らして、喉を絞るように叫んだ。「僕が……実験してて……怖くなって逃げました」


 二人の前で立ち止まり、康二の目を見て、べそをかきながら90度に腰を曲げた。


「ごめん! すいませんでした!」


 そして、顔を伏せたまま、職員室のドアを開けた。


「僕がやりました!」室内へ向けて大声で叫んだ。「僕が! すいませんでした!」


 健流は職員室の中へ入って、ドアを閉めた。一瞬見えた顔は涙で濡れながらも鋭く柳田を見ていた。廊下にも職員室のざわめきが伝わってきた。健流が必死に、自分の実験のせいで火が出た、怖くなったので逃げた、と弁明しているのが聞こえる。


 隣の柳田が舌打ちした。


「とんだ茶番だったな。余計なことするんじゃねぇ。全く……」


「……」


 言葉が出なかった。


「生田の言った通りだったか……普段は嘘ばかりのくせに、こんな時だけマジなこと言いやがって、ムカつくぜ」


「……」


「おら、お前はさっさと戻れ。まったく、面倒くせえ……」


「……」


 柳田は職員室に消え、康二だけが取り残された。


「……」


 職員室の中から健流が一人で戦う声が聞こえ……そのうち、聞こえなくなった。

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