西海中学校④

 一ノ瀬康二が帰るのは、グラウンドの整地、備品の点検、部室の後片付けが終わってからだった。おかげで部室を出るのはいつも7時を過ぎる。そのあと、先輩が出した吸い殻を敷地外へ捨てる。7月になると陽が落ちるのが遅くなり、まだ辺りは薄明るい。人目を避けるにはもう少し暗くなるまで待たなければならなかった。


 罪悪感がないわけではない。しかし校内では捨てられないし、校外のどこかのゴミ箱に捨てるのも万が一見られたらと思うと怖い。何より、持ち運ぶために鞄に入れると、消臭スプレーをしてビニール袋に閉じ込めても臭いが移ってしまうのだ。こんなもの、長く持っていたくはない。


 こんなはずではなかった。最初の1ヶ月は他の一年生と同じように練習をしたし、掃除も片付けも全員でやっていた。3年が煙草を吸っているのを見て……何かを言った気はするが、覚えていない。体に悪いですよとか、うちの兄貴も吸ってたけど止めましたよとか、なにかそんなことだったような気がする。そのあとだ。あれが原因だったのだろうか? 身内に煙草を吸う人間がいるので、パシリに使えると思われたのだろうか?


 それとも、何か生意気なことをしたのだろうか。自分に不手際があったのだろうか。先輩や監督の、何か気に触ることをしてしまったのだろうか。もう自分ではわからない。同じ一年生も、上級生からの報復が怖くて康二には話しかけもしない。2年生も気を使ってくれている様子はあるが、腫れ物扱いだ。


 監督が全く口を出さないことも不安だった。


 康二が一人だけ練習から外されて部室の掃除をさせられていても、練習後に一人でグラウンドの片付けをさせられていても、絶対に見て気付いているはずの3年の喫煙行為にも、何も言わないし聞きもしない。監督にとってはこれは許される範囲のシゴキなのだろうか。練習をさせないことも、雑用を押し付けるのも、煙草の後始末をさせるのも、あの監督には問題に見えていない。何より、生徒をこまのように扱う態度。


 それとも自分が知らないだけで、世の中の野球部はこうなのか。


 こんなことが3年生がいなくなるまで続くのだろうか。それとも、あの上級生たちが学園にいる間はずっと続くのだろうか。この私立西海学園の高校はほとんどが内部進学で、校舎もほぼ同じ。グラウンドや部室こそ違えど、共有の道具もあるし、顔を合わせる機会はいくらでもある。……まさか、これから4年間も? いや、それどころか、この監督がいる間はずっと……?


 やっと陽が落ちて暗くなった。辺りを照らすのはもう、まばらな街灯だけだ。グラウンドの照明はとうの昔に落ちていて、部室周辺は真っ暗になっている。


 消臭スプレーですっかり湿った吸い殻をつまんでフェンス近くまで来た。こんなことを続けていたら、いずれ誰かに見られるかも知れない。2日前に見たあの二人の生徒のように、歩道に捨てられた吸い殻を不自然に思うかも知れない。それがもし学校の先生だったら。……考えたくもない。


 フェンスの間から手を出して、指で吸い殻を弾く。気に触る臭いだけが残った。今日も疲れた。


「みーちゃった」


 不意に暗闇から声が聞こえた。康二は体を震わせて周囲を見回した。既に目は慣れていたが、人影はない。学校敷地内には誰もいない。警備員が持っている懐中電灯の灯りも見えなかった。フェンスの向こうも、いくら街灯が少ないとはいえ、視界を遮るのは街路樹くらいのものだ。道を挟んだ民家からだと、声が遠すぎる。


「ここだよ」


 フェンスの……上? 見上げた暗闇の中、薄く人影が見える。まばらな街灯と街路樹のせいで、ちょうど影ができて光が届かない。


「あんまり待たせるなよ。高所恐怖症なんだぜ、俺」


 そう言いながら人影はフェンスをくだって、外側に飛び降りた。見覚えがある。暗いのではっきりとは分からないが、癖っ毛の髪、長身。そして揶揄からかうような、明るい声。


「お前……あの時のスパイか? 何しにきたんだ」


 まさか、今のを見てチクるつもりか。身の毛がたった。やっぱりあの時、煙草の吸い殻を眺めてたのはそういうことだったのか。


「もう来るなと言われてただろ!?」


 声が震えてなかっただろうか。もっと大きな声なら誤魔化せるだろうか。どうやったら追い返せるのか。いや、今このまま追い返して良いのか。一体こいつは何をしにきたんだ? 最悪なことしか思いつかない。俺をチクる気か。苛立ちと恐怖でフェンスを強く掴んだ。耳障りな音がした。息を飲んで相手の次の言葉を待った。


「あやまりにきた。あの時はからかって悪かったな」


 ……違った。


 相手は康二の威嚇など意に介さないように、平然と、落ち着いた声で返した。


 ほっとした。そして、急に情けなく、恥ずかしくなった。


「知るか。さっさと帰れよ」うつむいたまま言った。顔を上げれなかった。


「そうもいかないんだ」


 フェンスをはさんで、向かい合った男子生徒が言う。


「本当はそっちに降りて話をしたいんだけど、一応私有地らしいから遠慮しとく。市立いちりつ中学なら気兼ねなく入るんだけど、めんどくせーよな」


 2日前と違い、薄闇の中で人懐っこい笑顔になった。


「実はもうひとつ用事があって来たんだ」


「何だよ。そんなもの聞く義理はねーよ。さっさと帰れ」


「そう言うなって。こんな事言いたかないけど、お前が煙草を捨ててるところをちゃんと見てるんだぜ、こっちは」


 そう言いながらスマホを見せる。脅してでも話を聞かせる、そんな意思を感じる。康二を逃がすつもりはないらしい。


「なあ、俺にもおすすめの煙草をひとつ買ってくれよ。金なら出すからさ」

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