第12話 公衆浴場《ハンマーム》での情報収集
洗い場係の女性が、大理石の長椅子にうつ伏せになっているハディージャの体に、注ぐように湯をかけた。
湯の温かさ、肩や背中にかかる適度な圧、裸の胸の下にある温まった大理石の感触、水蒸気たっぷりの空気――ここはきっと楽園を模してつくられている。
ハディージャは、
「生き返る……」
洗い場係の女性が「よかったですね」と笑った。客のハディージャは全裸だが、係の女性は仕事なので薄衣をまとっている。
肩や腰を揉みほぐされて、ハディージャは一瞬この世の憂いをすべて忘れた。
やはりこの世は金、金、金である。
ハディージャは公務員魔術師でそれなりの俸禄を貰っているので、自宅に帰ればちょっとした蓄えがあるのだ。
たまにはこういう贅沢をしてもいいではないか。
一方、エムレは貧乏学生だ。
とのことで、ハディージャはエムレにも
エムレとハディージャが宿泊を決めた
二人は、今、そこでのびのびと体を休めている。
一応、寺院でできなかった分の情報収集もする、ということになってはいる。ただくつろぐだけではない。自分たちにはそれなりの使命が――と思っているが、ドーム状の天井から蒸気で柔らかく蒸された日光がおりてくるのを見ていると、気を抜いてしまいそうになる。
いけない、いけない、と自分に言い聞かせた。
「すみません、ちょっとお聞きしてもよろしいでしょうか?」
ハディージャにマッサージを施していた女性が「何でしょう?」と答えた。
「この街に草原の民の一団が来ませんでしたか? 三十人か四十人ほどの武装した集団なので、いくらマーディトの街であっても目立つと思うのですが。しかもダラヤの姫君を連れていまして」
「うーん、草原の民が武装して入ってくることはそんなに珍しいことじゃないですけど……ダラヤのお姫様かあ」
彼女は隣でまた別の女性にマッサージを施していた同僚に「どう?」と訊ねた。その女性のほうは「ああ」と頷いた。
「ヤイロヴ族じゃなくて?」
ハディージャはその場で上半身を起こした。
「知っているのですか!?」
「知っているも何も、仕事でその女性の体を洗わせていただきましたよ」
「詳しく聞かせていただけないかしら」
急に興奮し出したハディージャを見て、係員二人がきょとんとする。
「わたし、早番なんで、朝からここで仕事をしてたんですけど。旅の草原の民の一団が風呂に入りたいと言い出したとかで、昼の日が高い時間に男性用の浴場を占領してましたよ。その間お連れの女性がこちらにいらしたんです」
そして、「確か」と小首を傾げる。
「ヤイロヴ族のある男性が、その女性をマルヤムと呼んでおいででしたね」
「そうです、その人です! その人を捜してるんです」
「あなたもダラヤからいらしたんですか?」
「はい、マルヤム様は私の仕え先でして、大切な主君なのです」
「あら、そう。大変そうねえ」
女性たちが顔を見合わせた。
「ダラヤで何が起こったのかは存じ上げませんけど、お姫様が家出するんじゃ世も末ねえ」
ハディージャは目を真ん丸にした。
「いえ、家出では、ございません。ヤイロヴ族の男に拉致されて……、これは誘拐事件ですよ」
「えっ、そうなんですか? 和やかな感じだったので、とてもそんなふうには見えなかったんですが。もしそうならマーディトの街ももっと大変なことになっていましたよ、ただでさえヤイロヴ族は残虐で有名だったんだし」
「そんな……、マルヤム様はむりやり連れていかれて――」
「あのヤイロヴ族のベルカントも砂漠の女性をお嫁さんに迎えるほど丸くなったのね、なーんて話をしてたんですよ」
わけがわからなかった。
とてもではないがのんびりお風呂に入っていられる状況ではない。
パニック状態のまま大急ぎで体を拭いて服を着ると、
ちなみに客室はエムレが男二人旅から夫婦二人旅に予約し直したと言っていた。ハディージャがこのまま男装を続けていてもいいことはない、と判断したためだ。
連れてきた男の奴隷を売って、別の女の奴隷を買って解放奴隷にして妻に迎えた、と言ったらしい。
そんなむちゃくちゃがまかりとおるこの世界のゆがみには胸が痛む。
だが、今のハディージャの中ではそれについて悩むことの優先順位は低い。
まずは、マルヤムだ。
エムレはすでに部屋にいて、ベッドに寝そべって部屋の中の机に置かれていた聖典の小型本を読んでいた。
険しい顔で帰ってきたハディージャを見て、急いで体を起こした。
「どうした? 何かあったのか」
「ありました。天地がひっくり返るような重大な情報を入手しました」
「そうか、まあ、聞くから頭に布を巻いてくれないか? さすがに夫婦でもない男の前で洗い髪をさらすのははしたないと思うぞ。ここに来るまでいろんな人に見られなかったか?」
「そうですね、すみません、非常事態だったもので」
ハディージャはエムレのベッドに身を乗り上げた。エムレが驚いて身を引いた。
「何を――」
「見てください」
手を伸ばした。
エムレの額に触れた。
「目を閉じてください」
呪文を唱えた。
「目よ、かの者の姿を見せたまえ」
ハディージャも目を閉じた。
見えたのは、夜の砂漠だった。
といっても、真っ暗な空間ではなかった。近くに大きな街があって、その街を囲む城壁に設置された
幻想的で美しい明かりの中、大きな
彼らは、砂漠から、円蓋を見ている。
彼らの先頭に、馬に二人乗りしている人間の姿が見えた。
筋骨隆々とした、眉のあたりに小さな傷がある草原の民の男が、手綱を握っている。
そして、体の前に、たおやかな砂漠の民の女性を横座りさせている。
男が彼女を見下ろすと、二人の目が合った。
二人は、ふと、笑みをこぼした。
優しく。愛しいものを見る目で。穏やかに。互いを
笑い合ったのだ。
そこで、ハディージャは、ぶつん、と透視魔法を切った。
涙があふれてきた。
「マルヤム様」
次から次へと、涙がこぼれていく。
「こんなに幸せそうなマルヤム様、わたし、見たことがございません」
ハディージャは思い上がっていた自分に気づいた。
マルヤムはハディージャが守ってあげなければ何もできない女性なのだと思っていた。彼女にはハディージャが必要で、ハディージャがすべてのことをしてあげなければならないと思っていた。
それは、
彼女のすべてを理解していた気になっていた。
傲慢だったのではないか。
悔しい、と思う自分自身が嫌になった。
こんなに尽くして、いろんな危険を冒してここまで来たのに、マルヤムは別にハディージャに迎えに来てもらいたいわけではなさそう、というのがショックでたまらなかった。
マルヤムに、ありがとう、と言わせたかったのだ。
自分は、本当は、マルヤムに必要とされていたかった。
自分のほうが、マルヤムを必要としていたのではないか。
マルヤムが、ものを考えないように。
すべてを、ハディージャに決めさせるように。
そうしてマルヤムを囲って、マルヤムに人格があることを認めてこなかったのは、ほかならぬハディージャではないのか。
マルヤムが誰かを愛するなんて許せない。
そう思う自分自身の醜さに、直面してしまった。
「わたし、自分が嫌いになりました」
震えながらそう言った。
「許せないのです。わたしがこんなにマルヤム様のことを思って苦労しているのに、マルヤム様はお幸せそうだなんて」
「落ち着け」
「わたし、なんて嫌な女なのでしょう。他の誰でもなくわたしがマルヤム様を馬鹿にしていたのですわ。マルヤム様が教主様との結婚を嫌がっていたことは知っていたのに、他に想う殿方がいたからだなんて微塵も思っていなかったのです」
「なあ、ハディージャ」
「最低です。最低です、最悪です、何もかも。ダラヤの民を
「大丈夫だ」
次の時だ。
「大丈夫だから、落ち着け」
エムレの腕が伸びて、ハディージャを、抱き締めた。
そのぬくもりを感じた瞬間、ハディージャは、呼吸が楽になった。
「よかったじゃないか、マルヤムが怖い思いをしているわけじゃなくて」
涙は、止まらないけれど。
「お前、ずっと、心配してたじゃないか。その気持ちを、否定しないでやってくれ」
「……はい……」
ハディージャはしばらく、エムレにしがみついて泣いた。
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