砂の街の魔女と草原の賢者

日崎アユム/丹羽夏子

第1章

第1話 砂の街の魔女、鉄の女ハディージャ

 彼女の瞳に目を奪われた。


 意志の強そうな赤褐色の瑪瑙めのうの瞳は、何の迷いもなく一点をにらんでいた。


 その瞳を見た途端、エムレは、自分が思い上がっていたことに気づいた。


 砂漠の民の文化風習を敬っているつもりであっても、心のどこかでは、俺は最強の騎馬民族の出なんだ、砂漠の民のような軟弱な都市民にはない強さがあるんだ、と思っていたような気がする。


 それを、彼女に突きつけられた。


 思い上がりを正してくれた彼女を、救いたい。


「貸してくれ」


 エムレは、すぐそばで唖然とした顔で魔術師の彼女と騎馬民族の男たちの攻防を見ていた男から、馬の手綱を取り上げた。

 荷運び用の馬の背には荷物が山と積まれていた。

 申し訳ないが、非常事態だ。

 エムレはベルトをはずして荷物を地面の上におろした。

 そして、裸の馬の背にひらりと飛び乗ってまたがった。


「あっ、ちょっと、お兄さん――」

「すまん、すぐ返す」


 自分の行動が彼女にどう解釈されるかはわからない。気高い彼女にとっては屈辱的な行いかもしれない。余計なお世話で、自分が手出しをしなくてもなんとかなるのかもしれない。


 彼女が両手を自身の胸の前に突き出すように伸ばした。彼女がはめている革の手袋の手の平が光った。


「炎よ、祝福あれ!」


 凛とした、澄んだ声が響き渡った。


 彼女の手の平から炎が一直線に噴き出した。


 けれど、間に合わない。


 騎馬で逃げていく男たちが、馬に乗ったまま上半身をひねって、弓を構える。


 彼女が使った魔法の炎が男たちに届く前に、彼らが放った矢が彼女の華奢な体に降り注ぐ――


 その直前に、馬に乗って通りを横切る形で走ってきたエムレが、彼女のもとに到着した。


 手を伸ばす。

 彼女の腹に腕を回す。


「きゃっ」


 彼女の体を抱えて、馬の背に引き上げた。


 両腕で彼女を横抱きにしたまま、足だけで馬を操る。降り注ぐ矢の雨から逃げ、街の奥に向かって駆け出す。


 彼女が困惑した声を出した。


「ちょっと、何をするのですか!」


 怒っている。案の定だ。しかしそんなところも好感が持てる。彼女は声を出すことを恐れない女性なのだ。それが実力主義社会で育ってきたエムレにとってはかえって心地よかった。


「あんたが危なそうだったから助けに入らせてもらった。今はとにかくあの連中から離れたほうがいい」

「頼んでいません」

「そう言うと思ったが、多勢の男たちと一人の女性が争っているなら神は女性のほうに味方することを望まれると判断した」


 神、という単語を出すと、馬上でみじろぎしていた彼女の動きが止まった。


「あなた、何者です?」


 エムレは苦笑した。


「俺はエムレ。草原の民の出だが、今はこの街に住んでいる。学識者見習いのはぐれ者だ」


 そして、訊ねた。


「お前の名は?」


 彼女は瑪瑙の瞳でエムレの顔を見上げていた。その目つきがまるで挑むようで、また怒るかな、と思ったのだが――彼女はこう答えた。


「わたしはハディージャです。国主アミールムクシル様のご息女マルヤム様の第一の従者」


 ハディージャもムクシルもマルヤムも、聞いたことのある名前だ。エムレの脳内で話が全部一本につながった。


 なるほど、この娘が砂の街の魔女ハディージャか。道理で肝が据わっているわけだ。


 惹かれた。


 この、強く気高く美しい魔女ハディージャに、近づきたい、と思った。




   * * *




 その日の朝、ハディージャはいつもどおり目が覚めた。


 カーテンを束ねて窓の外を見ると、まぶしいほどの青空がそこに広がっていた。


 このダラヤの街は砂漠の中の都市国家のひとつだが、朝は気温が低い。太陽が昇れば昇るほど暑くなり、正午頃には太陽がすべての動物を焼き殺すかのように輝くが、今の時間帯はまだ過ごしやすかった。


 砂漠に住まう者は、早朝に動き出し、昼食を取ると午睡ごすいをし、また夕方日が暮れてから活動する。ダラヤの街はそういう生活リズムで整えられていて、ハディージャも例外ではない。早くに主君であるマルヤムのもとへ参上して、マルヤムと昼食をともにして、一回自宅に帰る。休憩してからマルヤムのもとに戻り、夕食の時間までともに過ごす。


 今日もそういう一日になるはずだった。


 ごみごみした部屋の中を、荷物を掻き分けるようにして歩く。


 ハディージャの家はどこもかしこも物だらけだ。今は亡き父の代からずっとそうで、事情があってあえて整理していない。ハディージャ個人の物欲はあまり強くないのだが、物が減る気配はなかった。


 とはいえ、ハディージャに整頓する能力があったら、収納用具を準備して片づけることは可能なのだが。


 考えなかったことにする。


 この屋敷は真ん中を中庭でくり抜いた四角形をしていて、その中庭に井戸がある。ハディージャは井戸から水を汲み、顔を洗った。


 水を汲んでくれる使用人はいない。


 ハディージャは一人暮らしだ。

 食事はマルヤムと一緒に取るので、マルヤムの宮殿に勤める宮廷料理人が作ったものを食べている。風呂は公衆浴場ハンマームに行く。着替えは一人でできる。掃除と洗濯は二日に一度雇った人に来てもらっているが、他のことはなんとかなる。


 自室に戻って、着替えをする。

 寝間着をそのへんに脱ぎ捨てる。下衣シャルワールをはき、上衣カフタンに袖を通して、革の帯を腰に回す。鏡を見て、豪快に波打つ長い髪を櫛で整え、母の形見の耳飾りをつける。全身を覆う黒い布をまとって、濃き緋色のスカーフを頭に巻く。最後に父が特別に作ってくれた革の手袋をはめれば完成だ。


 鏡を覗き込む。


 大きな赤褐色の瞳、同じ色の髪、小麦色の肌。生まれてすぐに亡くなった母親と瓜ふたつらしい。

 しかし、母親はここらでは一番愛想がよくて可愛らしい女性だったと聞いた。

 むっすりと唇を引き結んで硬い顔をしているハディージャとは、きっと大違いだろう。


 鏡に布を掛けた。


 出勤だ。


 また、物を踏み越えて玄関に向かう。


 路地に面した扉を開けると、学校に向かう子供たちが踏み固められた砂の道を駆け抜けようとしていた。


 彼らは、ハディージャの姿を見かけると、大きな声で言った。


「出た、魔女だ! 魔女がマルヤム様を泣かせにいくぞ!」

「マルヤム様をいじめるな、この、悪い魔女!」

「みんなマルヤム様の味方だぞ! お前みたいな魔女、誰も味方しないぞ!」


 ハディージャが魔女と呼ばれて罵られるのはいつものことだった。いつもなら無視しているところだ。

 だが、今日はなんとなく虫の居所が悪かったので、相手をしてやることにした。


「風よ」


 両手を少年たちのほうにかざす。手袋の手の平には魔法陣が描かれている。


「我に恩寵を授けたまえ」


 ハディージャがそうやって呪文を唱えると、少年たちの周りで空気が渦を巻いた。

 子供が相手なので本気の風魔法ではない。少年たちの貫頭衣カンドゥーラの裾を巻き上げる程度だ。

 しかし、ここは砂の街ダラヤ。砂漠の中にある都市なので、少しでも風が吹けば砂だらけだ。


「ぎゃあ!」


 少年たちが咳き込んだ。


 風がやむと、少年たちは逃げ出した。

 体は前を向いて小走りで逃げつつ、顔だけ後ろを向けて叫ぶ。


「おれも魔法が使えるようになったらお前なんかこてんぱんにしてやるからな!」

「はいはい」


 ハディージャも彼らとは反対方向に向かって歩き出した。

 こんなしょうもないことで時間を浪費してしまった。どうしてこんな馬鹿馬鹿しいことをしてしまったのだろう。いつもならこんな些細なことで魔法を使おうなんて思わないのに。


 しっかりしなければ。砂の街の魔女、鉄の女ハディージャは、国主アミールムクシルの姫君マルヤムの守護者として、いつも胸を張って生きていなければならないのだ。


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