閑話 若い男女が密室で二人。何も起こらないはずもなく……

 公主様と婚約した。


 その日一日は、学園中その話題で持ち切りとなり大いに騒がれた。

 特に桜華からはいじり倒される羽目になった。屈辱であった。


 だが、公主様との関係は特に何かが変わる訳でもなく。

 今日も今日とて、溜まり場であるボロ小屋にいつもの三人が集まっている。


「なぁ、俺たち婚約したんだからデートぐらいしてもいいんじゃないか」


 表面上は平静を装い、ごく自然な感じで。しかしその実態はバクバクと心臓を鳴らしながら麒翔きしょうは提案した。

 が、読んでいた分厚い本から視線を上げると、公主様は不思議そうに首を傾げて、きょとんとして言う。


「なぜだ」

「なぜって黒陽おまえ……」


 当の公主様はこの調子である。

 婚約者からのデートの誘いに「なぜだ」などと身も蓋もない返し方をされては、二の句を継げなくなるのも致し方あるまい。付き合っているのかさえ怪しく思えてくる始末である。


「わたしのことは気にしなくていいんだよ。イチャイチャして貰っても」


 うざったいぐらいのニヤニヤ笑みを張り付かせ、長机に片肘をついた桜華が言った。その頭からは悪魔の角が生えているように麒翔きしょうには見えた。


「人前でイチャイチャなんてできるか」

「えー? みんなの前でキスしてたじゃーん」

「てめ、桜華。まだそれを言うか」


 心底嬉しそうに桜華がにんまり笑む。


「当ったり前じゃーん! こんなに良いネタ誰が手放しますかっての!」


 ぐぬぬぬ、と風下に立たされっぱなしの麒翔きしょうは歯噛みする。

 麒翔きしょうも半分は人間。思春期の年頃である。

 いじらしく献身的な公主様の姿勢を前に、男として我慢がならなくなり勢いでキスまでしてしまった。そのこと自体に後悔はないが、だからといって、恥ずかしくない訳ではない。その弱点を桜華は巧妙に突いてくる。


 油断をすればやられる。

 そこに慈悲などという生温い手心は加えられない。

 桜華は勝ち誇ったように、にんまり笑んでいる。

 なんとか反撃する手段はないのか。麒翔きしょうは頭をフル回転させたが何も思い浮かばなかった。


 と、読書を終えた公主様が、辞書みたいに分厚い本をパタンと閉じて立ち上がる。桜華の元まで歩いて行き、その手を取った。


「わかっているぞ。桜華」

「え? なにが?」


 公主様は自然な動作でポカンとする桜華を立ち上がらせ、麒翔きしょうの前まで誘導して来る。


麒翔きしょうも立つんだ」

「は? なんで?」


 言われるがままに立ち上がり、眉間にしわを寄せていると、桜華の背中がドンッと押された。「きゃっ」という短い悲鳴。桜華との距離が半歩の距離まで縮まる。


「よし。キスをしろ」

「は?」

「え?」


 二人は同時に間抜けな声を出していた。状況が飲み込めなかった。


黒陽おまえはいつもいつも唐突だな!?」

「そうだよ、陽ちゃん。ちょっと意味がわからないかな」


 さりげなく距離を取ろうとする桜華の両肩を後ろからガシッと掴んで固定し、退路を塞いだ上で公主様が問う。


「桜華とはまだ婚約していないのだろう?」

「当たり前だろ。俺たちはそういう仲じゃねえ」

「うんうん。翔くんとはただの友達だよ」


 二人の言い分を公主様がばっさり切り捨てる。


「半年もの長い間、若い男女が密室で二人。何も起こらないはずがないだろう」

「いや実際、何も起こってねーよ!? なんだそのエロチックな物言いは!」

「論の主たる部分はそこではない。好意のない男と、ずっと一緒にいるはずがないと言っている」

「ちょっと、陽ちゃん!? な、ななな、何言い出しちゃってんの!?」


 条件反射で否定する桜華に続こうとして、そこで一旦、麒翔きしょうは思考を止めた。桜華の様子がおかしい。声がブレているし、顔が少し赤い。ピンと来た。


(照れてる? 自分がいじられるのに慣れていないという事か)


 麒翔きしょうの顔に悪い笑みが浮かんだ。桜華が小悪魔だとすれば、それはこの世の全てを支配する魔王のような邪悪な笑み。両肩を固定されていて逃げ場のない桜華から「ひっ」と短い悲鳴が上がる。


「ああ、そういうことか。今まで気付かなくてすまなかったな、桜華」

「なになになに? なんで翔くんまでそんなこと言うの!?」


 茹タコみたいになった桜華が混乱してますって感じで首を左右に振る。

 麒翔きしょうは半歩踏み出して距離を詰めてみた。桜華は後ろへ下がろうと足を動かしたが、公主様にディフェンスされているため体はその場に留まった。二人の距離は鼻先数センチのところまで狭まっている。もはや、意地の悪い小悪魔に余裕はない。茶色の瞳を潤ませて許しを乞うているようにさえ見える。


 完全に形勢が逆転していた。

 しかし、あと一押しというところで、麒翔きしょうは吹き出してしまった。


「どうだ。いじられる側の気持ちがわかったか?」


 ワンテンポ遅れて、からかわれていたことに気付いた桜華が憤然ふんぜんと頬を膨らませる。


「もー! 婚約したからって二人で組むのはずるい!」


 そう言って、桜華は自分で自分を笑う。


「ナイスフォローだったぞ、黒陽」


 これが阿吽あうんの呼吸というやつか。と、一矢報いることに成功した麒翔きしょうは一人で納得している。一人悦に入る彼は、公主様の訝しげな顔に気付かない。そして母子家庭で育った麒翔きしょうは、群れというものへの認識に乏しい。だから群れの和を大切にする公主様の配慮に気付けない。彼女の真意に気付くことができない。


 何事も冷静に客観視する公主様が、この手の冗談を言わないことに気付いたのは、もっと後になってからの事だった。

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