第14話 隠れた献身

 下院の庭園は狭いとよく言われるが、それはあくまで上院と比べての話であって、実際はそこそこの広さがある。なので一口に庭園と言っても、すべてが一色に統一されている訳ではない。例えば、庭園の南西には噴水広場と呼ばれる憩いのスペースがある。赤レンガが敷き詰められており、噴水を中心として花壇が整然と並び、季節ごとに色とりどりの花たちが咲き誇る。


 赤レンガ造りのベンチに腰掛け、夏に咲くアネッサの花を心ここにあらずという顔付きで眺めながら、黒陽こくようはため息をついた。


「一体、私の何がいけないのだろう」


 己惚うぬぼれていたのかもしれない。自分の能力は他に類をみないレベルで高い。だから麒翔きしょうも当然受け入れるはずだと信じて疑わなかった。唯一の懸念は、公主としての婚姻に必要な正妃の座であったが、桜華おうかの許しは思いのほかスムーズに得ることができた。すべては順調なはずだった。


 噴水の飛沫しぶき霧雨きりさめとなって肌を湿らせる。

 夏の強い日差しに火照った体がほどよく冷却される。大気に舞う霧雨きりさめ越しに少し遠くへ視線を向けると、太陽の光を受けて瑞々みずみずしく躍動やくどうする新緑しんりょくの草木たちが眩しいぐらいに輝いて見えた。


 対して黒陽こくようの心は今にも降り出しそうな暗雲が立ち込めている。


「分不相応。わからない……建前なのか。ていよく断るための」


 麒翔きしょうは自分が相応しくないの一点張りだった。


 そんなはずはない。龍人は平均的に能力の育つ種族である。多少の得意不得意はあっても、あのレベルの剣術を扱える男が、あそこまで自分を卑下ひげする理由がわからない。彼の剣術は学生の身でありながら、すでに成龍おとなのそれも龍公りゅうこうとやり合えるだけの高次にある。


「相応しくないのは私の方だろう……」


 下院に在籍していることを恥じているのかとも思った。

 上院はまたの名を貴族院きぞくいん。下院は庶民院しょみんいんと呼ばれていた時代がある。上院は基本的に貴族の推薦がなければ入ることができないため、このように呼ばれていた訳であるが、それは昔の話。今では貴族院への昇格が可能となったため、上院下院と呼ばれるようになった。


 だからその事を伝えた。


「今すぐには無理でも、二学年へ上がる頃には上院へ転属できるはずだ」


 しかし、麒翔きしょうは頑として譲らなかった。


「どうしてわかってくれないのだろう」


 内側から得体の知れない感情が湧きあがってくる。

 目頭がツンと熱くなり、黒陽こくようは目元を拭った。


「なんだこれは。どうしてしまったんだ。私は」


 生まれて初めて感じた抑えきれない何かに黒陽こくようは困惑する。

 視線を赤レンガの地面へ落とす。


 その時、誰かが隣にふわりと座った。

 深遠しんえんの底まで埋没しかかっていた顔を上げ、視線を横へ。

 桜華だった。


「ねえ、陽ちゃん」


 その声は硬質を帯びていた。

 陽気でほがらかな雰囲気をどこかへ置き去りにしたかのような真剣な眼差しで、桜華は訊いてきた。


「翔くんのこと好き?」


 無意識に黒陽こくようは胸に手を当てていた。鼓動が高鳴るのを感じる。薄桃色の唇をきゅっと噛み、こくりと頷く。


「ああ、好きだ」


 桜華は真剣な面差おもざしのまま距離を詰めると、黒陽こくようの両手を取った。茶色の瞳が真っすぐこちらを見つめている。


「群れに入るのって必ずしも恋愛感情が絡むわけじゃないじゃない? むしろ大きな群れになるほどその感情とは無縁になっていくし」


 桜華の言う通り「群れに入る」という言葉には色々な意味が含まれており、[嫁ぐ][就職する][仲間になる][友達グループに入る][仕える][傘下に入る][雇われる]など、複数の意味を内包している。これは群れという概念が、単純な一夫多妻制とは異なり、生活共同体コミューンのような役割を担うために起こる認識の差異である。


 つまり、群れに所属する動機は人それぞれ様々なものがあり、必ずしも恋愛感情が必要というわけではない。若い頃――小さな群れ――ほど恋愛を重視する傾向にあるが、群れが拡大するにつれてその意識は薄まっていく。また学園卒業後に打算や身の安全を理由に、大きな群れへ入る女子たちもいる。それは[嫁ぐ]というよりも[就職する]という感覚が最も近い。


 そして黒陽こくようは世界一大きな群れで育ち、その常識を色濃く継承している。実際、それらの感覚を彼女は持ち合わせているし、正妃を所望したのはあくまで就職の一環という感覚であった。


 要するに桜華はこう言いたいのではないか。


「私が恋愛感情を抜きに、つまり打算的な理由で麒翔きしょうに近づいたと?」


 桜華は肯定も否定もしなかった。ただ質問を投げて寄越よこした。


「陽ちゃんは、なんで翔くんが好きなの? あなたより強いから?」


 その声は感情のこもらない無機質なものだった。いつの間にか桜華の表情からは一切の感情が消え失せ、血の通わない能面のような冷たさがそこにある。それは表情の乏しい黒陽こくようの無表情とは根本的に異なる、全く別の無表情。虚無であった。


「ねえ、なんで? 答えてよ。黒龍石、あれ翔くんの仕業なんでしょう」


 正鵠せいこくに言い当てられ、黒陽こくようは瞳を大きく見開いた。あの話は麒翔きしょうに口止めされている。特に桜華にだけは絶対に話すなと釘まで刺されている。


「どうしてそれを……」


 桜華は感情のこもらない哄笑こうしょうを浮かべる。


「簡単だよ。陽ちゃんが下院に転属して来た日に、黒龍石が両断されて見つかった。そしてその日、初対面のはずの陽ちゃんは、なぜだか翔くんに興味を持っていて群れに入ると言い出した。翔くんも初対面って感じじゃなかったよね」


 大きく開かれた口内から覗く鮮血のような赤。吊り上がった口角の端から一筋の赤がつっと伝い流れる。桜華はそれを手の甲で拭い、獲物を狙い定めるかのようにすっと目を細めた。鋭利に研ぎ澄まされた瞳。白目に走る無数の毛細血管の筋。その目元からは赤い涙が今にも流れ出し――――


 幻覚?


 得体えたいの知れぬ恐怖を黒陽こくようは感じた。

 転属当初、孤立していた黒陽こくように初対面であるにも関わらず、明るく優しく接してくれた桜華。そのほがらかな姿はもうそこにない。あれは仮の姿で、こちらが真の姿なのだろうか。ついそんなことを考えてしまう。

 桜華の顔が間近に迫る。


「あまつさえ今日、正妃にしてほしいとまで願い出た。とすると、やっぱり初日に何か『陽ちゃんが惚れるような』大事件があったとしか思えない」


 津波のような強大な《剣気》の本流。

 黒龍石が両断される刹那、確かに黒陽こくようは恋に落ちた。

 一目惚れに近かった。

 模擬刀で黒龍石を切断するという非常識。それは黒陽こくようの期待を遥かに超えていた。


「ああ、そうだ。優秀な麒翔きしょうについて行くと決めた」


 桜華は一瞬たりとも目をそらさず、まばたきもせず、じっと黒陽こくようの瞳を凝視している。その茶色い瞳の奥底には必死な何かが見え隠れしている。それは狂気だろうか。それとも――


「桜華……。やはり正妃は譲りたくないということか」


 群れは女社会である。そして正妃はその頂点に立つ称号。

 普通、譲ってくれと頼まれて簡単に譲れるようなものではない。当然、交渉にあたって、様々な説得材料を用意しておいたのだが、あまりにもあっさりと承諾してもらえたので、それらを使う機会はなかった。


 しかし、本当は正妃の座を譲りたくなどなかった。そう考えたほうが納得がいく。公主である自分に頭を下げられたから、断るに断れなかったのだと。


 が、桜華は残念そうに首の動きでそれを否定する。


「ねえ、陽ちゃん。それじゃ駄目なんだよ。強い男の子が好き。その気持ちはわかるけど。それじゃ翔くんは納得させられない。ねえ、陽ちゃん。翔くんのこと本当に好き?」


 挑むような。試すような。そんな口調。

 朗らかな少女の見せるもう一つの顔。それは狂気などではなく真剣なのだと悟る。

 右手を胸に当て、その鼓動を確かめる。


「生まれて初めて人を好きになった」


 一瞬だけ、桜華の瞳が、その決意が揺れた。


「私にとって初恋だ。そして最後の恋となるだろう」


 恋が成就しなかった時は、卒業と同時に龍王辺りに嫁ぐことになる。


「陽ちゃん。最後に一つだけ教えて。本当に最後まで翔くんに寄り添うことはできる? 絶対に見捨てたりしないって誓える?」


「それはどういう……」

「大事なことなの答えて!」


 桜華の本気はその問いに集約されている気がした。包み込むようにして黒陽こくようの両手を握る彼女の手は、緊張からか小刻みに震えている。


「私は幼少の頃より、個人の利益よりも群れの利益を追求するように育てられてきた。それは個を殺すことを是とする。ゆえに感情をうまく表に出すことができなくなってしまった。だから」


 握られた両手をぐっと引っ張って、桜華の手を自身の胸へぎゅっと強く押し当てる。


「この感覚を教えてくれたのが麒翔きしょうだ。私はこの感覚を失いたくない」


 虚無を貫いていた桜華の顔に驚きが広がった。


「ドキドキしてるね」

「そうだ。すごくドキドキしてる」

「翔くんいないのに。こんなに」

麒翔きしょうのことを考えただけでこうなってしまう」


 桜華は、はにかむように笑った。それはいつもの彼女だった。


「ごめんね、怖かったよね。変なこと聞いて」


 ぎゅっと抱きしめられる。


「――――――っ」


 全身に電気が走ったような衝撃。

 声にならない驚きが黒陽こくようの口から漏れた。

 恐る恐る問いかける。


「…………桜華?」


 返事はない。黒陽こくようよりも小柄な彼女の体は小刻みに震えている。


「泣いて……いるのか?」


 そこでようやくせきを切るように桜華が泣き出した。溜まった想いに嗚咽おえつを交えて彼女は必死に言葉を紡ぐ。


「本当にごめんね。わたし焦ってたの。どうしても確認しなくちゃって。でも、陽ちゃんの気持ち伝わったから。すごくすごく伝わったから。だから教えてあげる。翔くんのこと」


 桜華は教えてくれた。

 そして話の最後を彼女はこう締め括った。泣き腫らした顔を少し照れ臭そうに笑みながら。


「翔くんのことお願いします。陽ちゃんがしっかり支えてあげて」

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