第14話 隠れた献身
下院の庭園は狭いとよく言われるが、それはあくまで上院と比べての話であって、実際はそこそこの広さがある。なので一口に庭園と言っても、すべてが一色に統一されている訳ではない。例えば、庭園の南西には噴水広場と呼ばれる憩いのスペースがある。赤レンガが敷き詰められており、噴水を中心として花壇が整然と並び、季節ごとに色とりどりの花たちが咲き誇る。
赤レンガ造りのベンチに腰掛け、夏に咲くアネッサの花を心ここにあらずという顔付きで眺めながら、
「一体、私の何がいけないのだろう」
噴水の
夏の強い日差しに火照った体がほどよく冷却される。大気に舞う
対して
「分不相応。わからない……建前なのか。
そんなはずはない。龍人は平均的に能力の育つ種族である。多少の得意不得意はあっても、あのレベルの剣術を扱える男が、あそこまで自分を
「相応しくないのは私の方だろう……」
下院に在籍していることを恥じているのかとも思った。
上院はまたの名を
だからその事を伝えた。
「今すぐには無理でも、二学年へ上がる頃には上院へ転属できるはずだ」
しかし、
「どうしてわかってくれないのだろう」
内側から得体の知れない感情が湧きあがってくる。
目頭がツンと熱くなり、
「なんだこれは。どうしてしまったんだ。私は」
生まれて初めて感じた抑えきれない何かに
視線を赤レンガの地面へ落とす。
その時、誰かが隣にふわりと座った。
桜華だった。
「ねえ、陽ちゃん」
その声は硬質を帯びていた。
陽気でほがらかな雰囲気をどこかへ置き去りにしたかのような真剣な眼差しで、桜華は訊いてきた。
「翔くんのこと好き?」
無意識に
「ああ、好きだ」
桜華は真剣な
「群れに入るのって必ずしも恋愛感情が絡むわけじゃないじゃない? むしろ大きな群れになるほどその感情とは無縁になっていくし」
桜華の言う通り「群れに入る」という言葉には色々な意味が含まれており、[嫁ぐ][就職する][仲間になる][友達グループに入る][仕える][傘下に入る][雇われる]など、複数の意味を内包している。これは群れという概念が、単純な一夫多妻制とは異なり、
つまり、群れに所属する動機は人それぞれ様々なものがあり、必ずしも恋愛感情が必要というわけではない。若い頃――小さな群れ――ほど恋愛を重視する傾向にあるが、群れが拡大するにつれてその意識は薄まっていく。また学園卒業後に打算や身の安全を理由に、大きな群れへ入る女子たちもいる。それは[嫁ぐ]というよりも[就職する]という感覚が最も近い。
そして
要するに桜華はこう言いたいのではないか。
「私が恋愛感情を抜きに、つまり打算的な理由で
桜華は肯定も否定もしなかった。ただ質問を投げて
「陽ちゃんは、なんで翔くんが好きなの? あなたより強いから?」
その声は感情のこもらない無機質なものだった。いつの間にか桜華の表情からは一切の感情が消え失せ、血の通わない能面のような冷たさがそこにある。それは表情の乏しい
「ねえ、なんで? 答えてよ。黒龍石、あれ翔くんの仕業なんでしょう」
「どうしてそれを……」
桜華は感情のこもらない
「簡単だよ。陽ちゃんが下院に転属して来た日に、黒龍石が両断されて見つかった。そしてその日、初対面のはずの陽ちゃんは、なぜだか翔くんに興味を持っていて群れに入ると言い出した。翔くんも初対面って感じじゃなかったよね」
大きく開かれた口内から覗く鮮血のような赤。吊り上がった口角の端から一筋の赤がつっと伝い流れる。桜華はそれを手の甲で拭い、獲物を狙い定めるかのようにすっと目を細めた。鋭利に研ぎ澄まされた瞳。白目に走る無数の毛細血管の筋。その目元からは赤い涙が今にも流れ出し――――
幻覚?
転属当初、孤立していた
桜華の顔が間近に迫る。
「あまつさえ今日、正妃にしてほしいとまで願い出た。とすると、やっぱり初日に何か『陽ちゃんが惚れるような』大事件があったとしか思えない」
津波のような強大な《剣気》の本流。
黒龍石が両断される刹那、確かに
一目惚れに近かった。
模擬刀で黒龍石を切断するという非常識。それは
「ああ、そうだ。優秀な
桜華は一瞬たりとも目をそらさず、
「桜華……。やはり正妃は譲りたくないということか」
群れは女社会である。そして正妃はその頂点に立つ称号。
普通、譲ってくれと頼まれて簡単に譲れるようなものではない。当然、交渉にあたって、様々な説得材料を用意しておいたのだが、あまりにもあっさりと承諾してもらえたので、それらを使う機会はなかった。
しかし、本当は正妃の座を譲りたくなどなかった。そう考えたほうが納得がいく。公主である自分に頭を下げられたから、断るに断れなかったのだと。
が、桜華は残念そうに首の動きでそれを否定する。
「ねえ、陽ちゃん。それじゃ駄目なんだよ。強い男の子が好き。その気持ちはわかるけど。それじゃ翔くんは納得させられない。ねえ、陽ちゃん。翔くんのこと本当に好き?」
挑むような。試すような。そんな口調。
朗らかな少女の見せるもう一つの顔。それは狂気などではなく真剣なのだと悟る。
右手を胸に当て、その鼓動を確かめる。
「生まれて初めて人を好きになった」
一瞬だけ、桜華の瞳が、その決意が揺れた。
「私にとって初恋だ。そして最後の恋となるだろう」
恋が成就しなかった時は、卒業と同時に龍王辺りに嫁ぐことになる。
「陽ちゃん。最後に一つだけ教えて。本当に最後まで翔くんに寄り添うことはできる? 絶対に見捨てたりしないって誓える?」
「それはどういう……」
「大事なことなの答えて!」
桜華の本気はその問いに集約されている気がした。包み込むようにして
「私は幼少の頃より、個人の利益よりも群れの利益を追求するように育てられてきた。それは個を殺すことを是とする。ゆえに感情をうまく表に出すことができなくなってしまった。だから」
握られた両手をぐっと引っ張って、桜華の手を自身の胸へぎゅっと強く押し当てる。
「この感覚を教えてくれたのが
虚無を貫いていた桜華の顔に驚きが広がった。
「ドキドキしてるね」
「そうだ。すごくドキドキしてる」
「翔くんいないのに。こんなに」
「
桜華は、はにかむように笑った。それはいつもの彼女だった。
「ごめんね、怖かったよね。変なこと聞いて」
ぎゅっと抱きしめられる。
「――――――っ」
全身に電気が走ったような衝撃。
声にならない驚きが
恐る恐る問いかける。
「…………桜華?」
返事はない。
「泣いて……いるのか?」
そこでようやく
「本当にごめんね。わたし焦ってたの。どうしても確認しなくちゃって。でも、陽ちゃんの気持ち伝わったから。すごくすごく伝わったから。だから教えてあげる。翔くんのこと」
桜華は教えてくれた。
そして話の最後を彼女はこう締め括った。泣き腫らした顔を少し照れ臭そうに笑みながら。
「翔くんのことお願いします。陽ちゃんがしっかり支えてあげて」
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