第7話 巡り逢い


 私の元に美兎みとという新しい侍女がやってきて、数日が経った。

 商人の幽俠ゆうきょうが言っていた通り、彼女は侍女としてほとんど完璧な能力を持った少女だった。料理も上手く、よく気が遣えて、そして話も面白かった。


「ねえ美兎。月界って本当に、いつも夜なの?」

「そうですよ。いつも夜です。宮殿や貴族のお屋敷にはいつも灯りが灯っていますから、いつも明るいですけれどね」

「そうかあ。でも私は、いつも明るい光に満ちた世界で生きていたから、月界に行ったらちょっと寂しくなっちゃうかも」

「だけど、月界には珍しい木の実や植物が多くて、美味しいお菓子やお茶が多いですよ。瑛蘭えいらん様の好きそうな、木の実の餡が入った饅頭や、甘い葉で淹れたとっても美味しいお茶がありますよ。今度幽俠様にお願いして材料を持って来てもらいますね。瑛蘭様にもお召し上がりいただきたいので」 


 ただ、美兎が月界でどのような家に仕え、どんな罪をなすりつけられたのかは聞けなかった。聞きにくい話だし、何より美兎がその話題に触れさせない不思議な圧力を私にかけているのだ。


 なんだか不思議な雰囲気を持った子ではあるけれど、優しいいい子だし、来てくれてよかった。


「ところで、なんだか外が騒がしいですね」


 美兎が窓の引き戸を開けて外を見た。


「お客さまですか? しかも位の高い方のようですよ。輿がいくつも到着しています。瑛蘭様、若様から何かお聞きになってますか?」

「いいえ、何も聞いていないわ……。あら、随分豪勢な輿ですこと。仙族のお客ではなさそうね。どこか別の部族の首長かしら?」


 まだあまり詳しくないが、地界には仙族のように変わった能力を持つ者たちの部族がいくつかあると聞いている。


「そうでしょうか……」

「ねえ、行ってみない?」


 声をかけると、美兎は一瞬、時が止まったように黙り込んだが、やがて笑顔を見せた。


「そうですね」


 外に出ると、確かにたくさんの輿が到着して来たところだった。首長と呂太朗ろたろうが輿から人が降りてくるのを待ち構えている。


「呂太朗様、呂太朗様」


 後ろから呼びかけると、呂太朗はびっくりしたように目を丸くした。


「姫様、どうしました?」

「どなたですの、このお客様は」

「ああ、いろいろ状況が混み合っているので......あとで詳しくご説明しますが、今日からしばらく、月界の王太子がここに住むことになるんですよ」

「ええっ? 月界の? 王太子? またなんで?」

「それはあの、とにかく、あとで必ず説明しますので」


 どうして月界の王太子がここに?

 というか......月界王室の世継ぎなら、王太女じゃなかったかしら?


「ねえ、美兎、月界......って、あれ?」


 美兎がいない。確かに一緒に結花殿ゆいかでんから出てきたはずなのに。


 美兎を探して視線を巡らせていたとき、ふわり、と懐かしい香りがした。

 

 これは......何の香り?

 昔どこかで親しんだ香りのような気がする、でも思い出せない。


 四つの輿が敷地内に下ろされ、その扉が開かれる。そしてそこから、四人の美しい女性たちが現れた。


 香りがさらに濃くなる。

 なんなの、これは?


「ようこそ、桂東へ。弦深げんしん様」


一番前の輿から降りてきた紫の装束に身を包んだ長い黒髪の女性に、呂太朗が声をかけた。


「呂太朗殿。これよりしばしの間、どうぞよろしく」


 呂太朗の呼びかけに応答したその声で、その人が女性ではなく男性だということに気づく。


「こちらこそ、そしてこちらが、私の婚約者で、日界の皇女瑛蘭です」


 少し離れた位置にいる私を指し示し、呂太朗が言った。婚約者、と確かに言っているのに、何だか友人を紹介するような言い方だった。


 そして、弦深、という名の人の視線が、私の目を射抜いた。弦深は私を見ると、そのま動きをぴたり止めた。


 黒い宝玉のように美しく煌めく黒い瞳。その瞳が、私をじっと見つめていた。私まで動けなくなった。


 なんだろう、どうしてこんなに見られているの?


「弦深様、こちらのお三方が、お妃様方ですね?」


 呂太朗が問いかけると、弦深はやっと私から目を離し、呂太朗の方に向き直った。そして少し乱れた声で

「ええ、左様です」

 と答えた。


 三人の妃。

 妃たちまで連れて、月界の王太子がここに?

 かなり本格的に「住む」つもりのようだが、私にはさっぱりわけがわからなかった。


 ずっと口をつぐんでいた首長が出てきて言った。


「弦深様、界境を越えての長旅、お疲れでしょうから、今日はゆっくりお休みください。また明日以降、改めて話をしましょう」


 弦深と三人の妃は、屋敷の従者に連れられて彼らの居所へ歩いて行った。去っていく前、弦深がもう一度私を見た。無表情で見つめ返すのも無作法な気がして、私は小さく微笑みを浮かべた。


 すると弦深が一度足を止めた。


「弦深様? どうかなさいました?」

 三人の妃の中の一人、大きな目をした、育ちも頭も良さそうな黒髪の美女がすかさず弦深に歩み寄って訊いた。


「いや、何も……」


 弦深はそう言うと、またすぐに歩き始めた。


 

  ***



 その後、私は呂太朗に呼び出され、呂太朗の居所に行った。


 婚約者ではあるが、呂太朗の居所に行くのは初めてだった。そもそもまだろくに口を聞いたこともないので、彼に対して特別な感情を抱いているわけではないが、居所に行くとなるとなんだか突然婚約者らしい間柄になったようで、心が色めきたった。


 美兎の姿は相変わらず見えなかったが、何か用事でもできて忙しいのだろうと、あまり気にしなかった。


 呂太朗の居所は戦術訓練が行われる道場のすぐ近くにあった。後継者の家であるはずだが、そんなに目立ったところはなく、他の建物との差は特にない。むしろ私の居所の方が洗練されている気がして、なんだか複雑だった。


 中に入ると、奥の部屋から話し声が聞こえた。

 他にも誰かいるの?


「大体呂太朗は考えなしすぎんだよ」

「なんだと? 俺のどこが考えなしなんだよ、具体的にどこが!」

「言われねえとわかんねえのかこのぼんくらが! 犯人かもしれない人間を屋敷内に置くなんざ、考えなしにもほどがあるだろうが」

飛助ひすけお前、父上の話聞いてなかったのか! もし月界の人間が事件に関わっているとしてもそれはあの王太子じゃない! あの人は生まれてからずっと人から隔離され幽閉されてたんだっ。日界の人に恨みを抱く理由も、地界に刺客を送る術もない!」

「にしたって月界の王族には変わりねえだろうが! あそこの女王はとんでもねえやつだって聞くぜ。日界を潰すためなら手段も選ばねえだろ。きっと」

「飛助、もうやめろ。憶測でものを言うのはよせ」

「冷静だなあ、お前。こんな時でも。嫁さんの母親が被害者だっていうのによ。まあ、お前にとっては自分の気持ちを押し殺しての苦しい結婚だったから、仕方ねえか」


 これ以上ここで立ち止まっていると、あまり聞きたくない会話が展開されそうだったので、私はそこで思い切り扉を開け放った。呂太朗と飛助、二人の顔視線が一瞬にして私の方へ集まる。


「お話中、失礼致しますわ。呂太朗様にお招き頂いたので参りましたが、お邪魔でしたかしら。出直した方がよろしいですか?」


 努めて平静を装っているのに、どうしても声がこわばる。多分私、今ものすごく醜いんだろうな。意識の片隅で、そんなことを思った。


「瑛蘭様。すみません。お恥ずかしいところをお見せしてしまいましたね。この……飛助とは、幼なじみでして、私も飛助も二人で話しているとついつい口調が砕けてしまい」

「そんな取り繕う必要もねえだろうよ。いつまでも猫かぶって生きてくわけにもいかねえだろ」


 呂太朗の話を遮って、ここに来た日に出会った体格のいい男、飛助が吐き捨てるように言った。


「飛助、お前はちょっと黙っててくれ。瑛蘭様に今回の件の説明をさせろ」

「はいはい」


 飛助が黙って明後日の方向を向くと、呂太朗はまたいつもの丁寧な口調に戻り、私に説明を始めた。


「瑛蘭様、すでに先ほどご覧になった通り……本日より月界の王太子、弦深とその妃たちが、この屋敷で生活することになりました。そして弦深は、今後皇后陛下襲撃事件に関する我々の調査活動に全面的に協力するとのことです」

「協力……ですか」

「はい。今の俺たちの話、瑛蘭様も少しお聞きになったかもしれませんが……、私と父は、今回の襲撃事件に、月界の人間がなんらかの関わりを持っているのではと推測しています」


 その瞬間、突然心の奥に凄まじい怒りが巻き起こった。

 これまで向ける先がわからず心のあちこちを彷徨っていた怒りにすらなれない思いが集結して、初めて燃え上がった。


「瑛蘭様の従者に見せられた仙陣は月界特有の模様で、私も父もそう思わざるを得なかったのです。しかし父が月界に赴きその話をしたところ、月界女王は大層お怒りになり、自分達の無実を訴えました。そして、それを証明するため、息子を使わし、自分達の潔白を示すために調査活動に加わらせると宣言したのです」


 先ほどの美しい顔をした男。あの弦深という男の故郷は、母の仇の巣食う場所かもしれない。


 燃え上がる感情は止まることを知らなかった。私は声も上げずに、一人胸の中で叫び続けた。


 しかしそんな時、どこからか私に語りかける声がした。


「瑛蘭。真実というのは、幾つもの苦難を乗り越えて、たくさんの人の助けがあって、ようやく辿り着けるものです」


 母の声だ。


「だから仄かに見え始めた真実の如く振る舞う影を、容易く信じてはいけません。それがどんなに信頼できる人の言葉であっても、簡単に鵜呑みにしてはいけません。どんな時も、あなたにとっての全ては、自分の心の中にあるのです」


 いつの時だったか、母にそうたしなめられたことがあった。ずっと昔だ。どうして今、こんなに昔のことを突然思い出したのだろう。


 また、母にたしなめられている?


 怒りが引いていくのがわかった。呼吸がしやすくなり、周りの景色が、外で鳥の鳴く声が、意識の中に入ってくるようになった。


「瑛蘭様、大丈夫ですか?」

「大丈夫なわけねえだろたわけが。自分の住んでる屋敷ん中に、自分の仇の関係者かもしれねえやつが住むことになったって説明を受けたとこなんだぞ。正気でいられるわけがねえだろ」

「お前黙ってろと言ってるだろう。いい加減にしろ」


 飛助が再び黙ると、部屋の中に静寂が訪れた。しばらくそうしていたら、突然扉の外で鈴が鳴るような女性の声がした。


「呂太朗? 入りますよ」


 入ってきたのは、薄い鼠色に桃色の花の模様が散りばめられた上品な着物を纏った銀色の髪の女性だった。

 あまりにも美しくて、私はその姿に釘付けになった。肌は白いというより、輝いていた。神々しく。そして大きな灰色の目。明らかに何も塗っていないのに紅い唇。


 なんだろう、この美しさは。見たことがない。神々しさに圧倒されそう。


「……大変失礼致しました。静かでしたので、まさかご来客中とは……先にかすみ様のところへ参ったのち、出直させていただきます」


 女性が慌ててお辞儀をし、出て行こうとすると、飛助が野太い声でそれを止めた。


「待て。ひとえ。別に何も取り込んじゃいねえよ。呂太朗の傷の手当てしに来ただけだろ。何を謝る必要があんだよ。それにそんなかしこまる必要ねえだろ、俺たちの仲で」


 傷?

 そこでようやく私は、呂太朗の腕に包帯が巻かれていることに気づいた。


「呂太朗様、お怪我を?」

「ああ、大したことはないですよ。先日山の麓で少し、ね」


 呂太朗は笑ったが、飛助はそこに皮肉を挟み込むのを忘れなかった。


「今気づいたのかよ。夫が大怪我してるっていうのによ」

「飛助。頼むから黙っててくれ。今だけでいいから」

「おいひとえ、何してる。気にしないでさっさと来いよ。せっかく来たんだから、手当てしてやってくれ」


 ひとえ、という美女は、灰色の瞳を遠慮がちにこちらに向け、私に深々とお辞儀をしてから、呂太朗の方へ歩み寄った。


 ひとえが呂太朗の腕の包帯を外すと、ひどい色に変色した痛ましい傷が露わになった。

 こんな傷……。どうして?


「まだ膿がひどいけど、よくなっている。今日は痛み止めと化膿止めを持ってきたから、これでさらに良くなるはずよ」


 ひとえは静かに言って、懐から取り出した薬を手際よく呂太朗の傷に塗布していった。


「悪いな、ひとえ。毎日ここまで足を運ばせて」

「いいの。これが仕事なんだから。気にしないで。かすみちゃんはどう?」

「最近俺も屋敷を留守にすることが多くて様子を見れていないが、父上が言うには良好みたいだ。ひとえのおかげだよ」

「ま、ひとえの医術の腕は親父さんとお袋さんも凌ぐほどだからな。いつまで経っても親方様の足元にも及ばない呂太朗とはわけが違うんだよ」

「飛助、俺の腕が治ったら、覚えとけよ」


 三人の輪は完全に私を疎外して、彼らだけの世界を作り出していた。

 私がここにいても、私なしで成立する世界。


 私の心の中で、何かが崩れ去った。

 

「呂太朗、様、お邪魔なようですので、私はここで失礼致しますわ。お怪我、どうぞお大事に」


 そう呟いて、私は三人に背を向けた。


「瑛蘭様」

「奥方様、お待ちください」


 呂太朗の声、そしてひとえの声が背中に飛んでくる。私は走り出した。そして呂太朗の居所を出た。


 結花殿に向かって足を進める前、私は一度だけ呂太朗の居所を振り返った。もしかしたら誰かが追いかけてくるかもしれない、と思ったのだ。なんでそんな期待を抱いたのかはわからない。必ず踏み躙られるだけの期待なのに。


 誰も来ないことを確かめてから、私は走り出した。



  ***


 部屋に戻ると、美兎が私を待っていた。


「瑛蘭様。どちらへ行かれていたのですか。お顔が青ざめて……」

「大丈夫よ。呂太朗様に呼ばれて、ちょっと居所に行っていだけ」


 私は倒れ込むように椅子に腰を沈めた。


「瑛蘭様。申し訳ございません、先程は急にいなくなったりして。女中頭の方に呼ばれて、瑛蘭様に断る隙もなく連れて行かれてしまったのです。私がおそばにいられない間に、こんな……。一体若様のお部屋で何があったのですか」


 美兎が私の手を握った。

 その温かさに、思わず涙が溢れた。


 涙は止まらなかった。私は子供のように泣きじゃくった。美兎が私を抱きしめた。温もりに、全身が包み込まれた。


「瑛蘭様。大丈夫ですよ。美兎がいつも、そばにおります」


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