第5話 新しい侍女


 数日前通り抜けた界境をまた通り抜け、私は首長と呂太郎ろたろうとともに故郷、日界に戻った。


 朱絃都に辿り着くと、皆が喪服を着て暗い表情をしていた。母は私たち家族のみならず、多くの民に愛された皇后であった。誰もが皇后の突然の訃報を悲しんでいた。


 普段涙を見せない父の目も、さすがに赤らんでいた。

「尋太朗殿。よくぞ来て下さった。きさきをここまで運んでくださったことも、感謝している」


 父は棺に入れられた母を見つめながら、小さな声で言った。


「当然のことでございますよ。家族になる人の母君ですから」


 首長の静かな言葉に、なんだか胸が熱くなる。


「首長殿と少し話をしたい。瑛蘭えいらん、お前は呂太朗殿に宮殿をご案内しておきなさい。せっかく来てくださったのだから」


 私はちらりと婚約者に目をやる。彼は相変わらず、少し癖のついた短髪の下で、何を考えているのかよくわからない堅い表情をして、斜め下に視線を落としている。


「はい、お父様。呂太朗様、参りましょうか」


 父の言いつけ通り、外に出てみたはいいものの、どこからどう案内すればいいか皆目検討がつかなかった。


「そうだわ! 兄と妹をご紹介しましょうか。なかなかお引き合わせする機会もないでしょうから」


私が言うと、呂太朗は呆然とした目を私に向けて、一呼吸おいた後、口元に笑みを浮かべた。


「そうですね。お会いしたいです」


 何だろう、優しく笑っているのに、どこか冷たい表情。まるで仮面をかぶっているみたいに。


「ところで、ここは本当に見事な宮殿ですね。煌びやかで美しくて」


 ぼんやりと呂太朗が言うので、私はついつい桂東けいとうの屋敷を思い出して、気を遣った発言をしてしまった。


「少々、目にうるさすぎるのではないですか。派手なばかりの宮殿ですから」

「いえ、そんなことありません。あまりこういう光景を見ることなく育ってきたので、新鮮で楽しいですよ。ただ、かなり暑いところなんですね。日界って。桂東はいつも薄寒いから、ちょっとこたえます」


 言われてみれば、確かに彼は着ていたはずの濃い鼠色の羽織をぬいで、下に来た着物の袖もまくっていた。筋肉質で細かい傷がたくさんある腕が顕になっている。


 何の傷だろう。


「すぐそこが、兄の住まいです。入りましょう。少しは涼しくなるはずです」


 兄の寝殿に入っていくと、部屋の扉の前に、妹の香燐こうりんがいた。


「お姉様?」

「香燐! どうしたの? 中に入らないの?」


 私が声をかけると、香燐は泣きそうな顔で私に擦り寄ってきた。


「お兄様が......お兄様が、お母様の訃報を聞いてからずっと、食事をとってくださらないんです」

「なんですって?」


 私は急いで扉に近寄り、兄に話しかけた。


「お兄様。瑛蘭です。お母様の葬儀のために、帰って参りました」


 それでも返事はなく、私は少し落ち込んだ。嫁いでしまったはずの妹が帰ってきたと言うのに、顔も出してくれないとは。しかし私は、諦めずに言葉を続けた。


「お兄様。婚約者の呂太朗様も来てくださいました。ご挨拶だけでも、できませんでしょうか」


 あまり期待はしていなかったが、少しすると扉が小さく開いた。

 兄は礼儀正しい性分なのだ。挨拶を、と言われたら通すしかなかったのだろう。


 部屋の中には兄一人しかおらず、侍女も護衛も誰もいなかった。兄は髪を振り乱し、目を真っ赤に泣き腫らしていた。頰がこけている。


 香燐が兄に駆け寄った。


「お兄様! こんなに痩せ細ってしまわれて......。みんな心配しているのですよ、お願いですから、少しでもいいですから、何か食べてください。私が何でもお好きなものをお持ちします」

「かまわないでくれ……。何も喉を通らんのだ」


 兄は力なく言い、痩せほそった腕で弱々しく香凛を突き放した。


「皇太子殿下」


 突然隣で涼しげな声がし、呂太朗が兄に歩み寄っていった。兄は声に釣られて一瞬だけ呂太朗の方を見たが、すぐ気まずそうに目を逸らした。


「この度は、皇后陛下のこと、誠に残念でございました。こんな時に初めてお目見えすることになってしまい、心苦しい限りですが、ご挨拶させていただきます。桂東仙族首長尋太朗の長男であり、瑛蘭様の婚約者、呂太朗と申します」


 呂太朗が頭を下げると、兄は軽く髪を整え、呂太朗の前に進んだ。


「このような姿でご挨拶することになってしまい、申し訳ございません。日界皇太子、寿景じゅけいと申します」


 兄が叱られて謝る子供のように頭を下げると、呂太朗が突然表情を明るくして言った。


「あの! いきなりで申し訳ないのですが、私に殿下のお食事を準備させていただくことはできないでしょうか?」

「えっ?」


 兄も香燐も、もちろん私も、あまりに唐突な提案に言葉を失った。


「きちんと調理場の方々の監視のもと調理しますので、仙術をこめたり、毒を混ぜたりはできないですからご心配なく」

「いえ、呂太朗様、そういうことではなく、お姉様の婚約者にそんなことはさせられません」

「では、失礼をば」


 香燐が引き止めるのも聞かず、彼は人を呼び、調理場まで行ってしまった。


「お兄様......こんなにお痩せになって......。このような状態では私、心配で地界に戻れませんわ」

「何もする気が起きないし、何も食べたくないのだ......。瑛蘭、お前は平気でいられるのか? 母上がこのように亡くなられて......。しかも清琳までも同時に失ったのだろう? 何故そのように平気な顔をしていられるのだ」

「平気だなんて......。でもいつまでも泣いていても何も状況は変わりませんし、お母様も......お兄様のそんなお姿を見たらさぞ悲しまれるはず。宮殿の皆だって、心配しますわ」

「だがどうにもできないのじゃ。誰にも会いたくないし、何も食べたくない。生きているのがもう嫌だ。元々本当は皇帝にだってなりたくなくて、母上が喜んでくださるから皇太子になったのに......」


 私は小さくため息をついた。兄は私より三つ年上だが、いつまでも少年のような人だ。


 しばらくののち、呂太朗は盆を持った1人の侍女を連れて戻ってきた。


「お口に合うといいのですが」

「ろ、呂太朗殿、申し訳ございません......。このようなことをさせてしまい......」


 兄はすっかり縮こまった。呂太朗自らわざわざ作った料理とあっては、兄も拒絶するわけにいかない。おずおずと匙を手に取る。


「これは......」


 皿に盛られた料理を見た瞬間、私たち三人は息を呑んだ。


 それは、私たちが子どもの頃、母がよく用意してくれた野菜の粥だった。


「実は父が、昔私たちの婚約の件で皇帝陛下とお会いした際、こんな話を聞いたそうで。陛下の三人のお子様方はみんな元々食が細く、病気の時や気分が落ち込んでいる時は何も口にしてくれなくなると。でも、皇后陛下が自らお作りになった野菜粥だけは食べてくれるのだと」


 そんな、首長から伝え聞いただけのたわいもない話をずっと覚えていてくれたと言うのか。

 心の中がしっとりと暖かくなる気がした。


 呂太朗は兄に語りかけた。


「殿下」

「は、はい」

「私も小さな頃、母を病で亡くしました。元々病気がちで、皆覚悟はしていましたが、それでも辛かった。このような形で母君を失ったお三方の悲しみがどれほどか......私には想像もできません。だけど、殿下。あなたには、守るべき家族が、そして日界の民がいます」


 兄の目に、また涙が浮かび上がった。


「皇后陛下の不審死により、これから世の中は少し難しい状況になるでしょう。民は不安を抱き、ご家族も厳しい立場に追い込まれるかもしれない。守れるのはあなただけです。だから、乗り越えてください。今のこの苦しさを」


 呂太朗の言葉に、兄はか細い声で答えた。


「あなたは立派なお方です。ですが私はあなたのように強くはない。本当は世継ぎにだってふさわしくないのです。他に皇子おうじがいないから私に回ってきただけで、本当は……父上だって不本意だったはず。私にはできません、民や家族を守るだなんて、そんな大それたこと……。そんなことは選ばれた人間にしかできないんです」

「いや、それは違います。守りたいという気持ちがあれば、力は必ず湧いてくるはずです。それに、あなたは一人じゃない。お父様がいらっしゃる、妹君も。そして私も、いつでもお力になります。私たちはもう……」


 呂太朗はそこで一度兄から目を逸らし、そのまま視線を戻すことなく言った。

「家族なのですから」



 ***



 母の葬儀は、盛大に行われた。宮殿は解放され、多くの民たちが葬儀に訪れた。


 清琳せいりんも、父の計らいで同じ日に丁重に弔われた。

「ずっと瑛蘭のそば近く仕えてくれた侍女だ。后も……一人で逝くより心強いだろう」


 いつも冷たく、遠く見えた父が、初めて少しだけ身近に感じられた。


 葬儀を終え、地界に帰るとき、見送ってくれた兄は少し肌艶が良くなったように見えた。


「呂太朗殿。やはり私の力は小さく取るに足らぬものですが、自分なりに頑張ってみたいと思います。またお会いできるときは、少しましになっていることを目標に……。あなたが妹の婚約者であること、本当に嬉しく思います」


 兄にそう言われると、呂太朗はまた少し、兄から目を逸らしながらも、笑顔で深々と頭を下げた。



 ***



 地界に戻ってからは、恐ろしく退屈な日々が続いた。まるで檻のない監獄にいるかのような気分だった。


 婚儀が先延ばしにされているためその準備も特になく、首長や呂太朗は日々の仙術訓練や会議、そして私の母の事件に関する調査などすべきことが山積みでほとんど相手にしてくれない。


 いつも私の話し相手になってくれた清琳は、もういない。


 こんなに退屈なのは、人生で初めて。

 誰も私の相手をしてくれないなんて。そんなことこれまでなかった。

 寂しすぎる......。


 そんなある日、突然呂太朗に呼び出され、私は数日ぶりに自分の居所を出た。


「ああ、瑛蘭様。唐突にお呼びたてして申し訳ない」


 侍女に連れて行かれた部屋に入ると、そこには呂太朗を含め三人の人物がいた。一人は、童顔で若く見えるが目つきに鋭さや微かに表情に浮かぶ渋みから三十歳ほどと思われる、色白で細く、長髪ではないが黒い前髪が少し目にかかるやや陰気な雰囲気の男、もう一人は、小柄で丸い顔をした私と同じか少し下と思しき十代の少女だった。


 三人は、紫の風呂敷を囲んでいた。風呂敷の上には、何やら木片のようなものや植物、宝玉にもただの石にも見える、奇妙なものたちが無造作に転がっていた。


「あ、の……。こちらの方々は?」

「ああ、失礼いたしました。この者は私たちの元に、戦術に使う道具や食材、その他諸々必要なものを運んできてくれる、幽俠ゆうきょうと申すものです」


 呂太朗が男のほうを示して言った。幽俠と呼ばれたその男は鋭い目で私を睨みつけた。しかし私が軽く狼狽すると、たちまち先ほどまでの鋭い眼光が嘘だったかのように破顔して


「これはこれは若奥様お初にお目にかかります。お会いできて恐悦至極に存じます。ええ、私めは、幽俠と申しましてしがない物売りでございます」


 と、捲し立てるように早口で言って低頭した。話し方には癖があるが、ちょうどいい低さで心地よく、思わず聞き入ってしまう声だった。


「初めまして。それで……あなたは?」

 私が少女の方を見ると、呂太朗が言った。


「瑛蘭様が一人で心細いかと思って。同じ年頃の娘を侍女におつけしようと、少し前から幽俠に探してもらってたんです」

 そう言って柔らかく微笑んだ呂太朗を見て、とくん、と胸が疼くのを感じた。


 ずっと忙しくて、私のことなんて忘れてしまっていると思っていたのに。


 ふと、呂太朗と兄のやりとりを思い出した。つかみどころのない人だからか、なんとなく親しみにくい人だと思っていたけど、本当は周りの全ての人を気にかけていて、ものすごく優しい人なのかもしれない。


 じんと染みる感情を味わっていると、幽俠が再び口を開き、ものすごい速さで、しかし単調な口調で語り始めた。


「そう、そうなんでございますよ。いやお優しい方の元に嫁がれましたなまごうかたなき勝ち組でございますな。それで私が見つけてきたのがこの娘というわけでございます。実は商売に使う品を探し月界を彷徨い歩いている時に出会ったのですが、なんと無実の罪をなすりつけられ元々仕えていた屋敷を追い出されてしまったというんでございますよ、こんな哀れな話があるでしょうか、まあ、あるか。うん、よくよく考えると何回か聞いたことがある話だな。いや失礼。哀れに思って桂東に連れ帰り、家のことをさせてみたらこれがそこらの経験豊富な老女中も思わず感心してしまうくらいの腕前でして。若奥様と歳も近く、これ以上ない適任ではないかと思い連れて参った次第にございます」


 私は思わず少女に憐憫の眼差しを向けてしまった。無実の罪をなすりつけられただなんて。こんなにか弱く純粋無垢な少女が。


「どうでしょう、瑛蘭様。いい話し相手にもなるかと思うのですが」


 呂太朗は相変わらずふんわりとした微笑みを浮かべ、私を見ている。

 私は少女に問いかけた。


「あなた、名はなんというの?」


 少女は顔と同じくまん丸ないじらしい目を真っ直ぐ私に向けると、柔らかだが芯の強い微笑を浮かべて、想像よりもずっと明瞭な声で答えた。


美兎みと、と申します」








 

 


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る