第31話 母の願い

『ノア。こっちにいらっしゃい』


『お母様!!』


「なんだ、ここ…」


 懐かしい声が聞こえて目を覚ますと、俺は真っ白な空間の中に立っており、目の前にはステータスが表示される時と同じ青色の板が宙に浮いていた。


「あれは…母上?」


 その板に映っていたのは、俺と同じ金色の髪に赤い瞳をした美しい女性で、彼女は白い椅子に座りながら駆け寄ってきた小さな子供を愛おしそうに抱き上げる。


『ノア。今日は何をして遊んでいたのかしら?』


『今日はお庭に綺麗なお花が咲いていたので、それを摘んできました!お母様へのプレゼントです!』


『あら。ふふふ、綺麗な黄色の薔薇ね。ノアの髪にそっくりで可愛らしいわ。ありがとう』


『えへへ!お母様にも似ています!』


『ふふ。そうね、ノアと私は同じ髪色だから、この薔薇は私たちにそっくりね』


『はい!』


「母上…」


 この記憶は恐らく俺がまだ3歳くらいの頃の記憶で、母上が外を歩ける程度の体力があった時のものだろう。


 母上は父上や第二夫人から冷遇されていようとも俺の前では笑顔を絶やさない人で、父上が俺を見てくれない分、母上が二人分の、いやそれ以上の愛を俺に注いでくれていた。


 しかし、この幸せな時間も長くは続かず、この数ヶ月後には母上はベッドから起き上がることができなくなり、さらには流行病を患ってしまい会える時間も減ってしまった。


 それでも俺が会いにいけば笑顔で出迎えてくれたし、母上の学生時代の友人であるドルニーチェ伯爵夫人と娘であり幼馴染でもあるイリアが遊びに来てくれていたので、そこまで寂しい思いをすることはなかった。


『ノア。今日は何をして遊んだのか教えてちょうだい?』


『はい、お母様。今日はイリアと一緒に庭園を見てまわりました。そこでイリアが虫を見て驚いてしまって、それで……』


 日に日にやつれて元気がなくなっていく母上を元気付けるため、俺は彼女に会える時はいつも外で遊んだ時の話をし、時には嘘をついて母上が笑ってくれるよう頑張った。


 そんな生活が続いて俺が5歳になったころ、母上に部屋へと呼ばれて彼女に会いにいけば、いつもより体調が悪そうな母上が俺のことを待っていた。


『ノア。こっちにいらっしゃい』


『お母様』


 以前の姿は見る影もなくなった母上は、二年前と同じ言葉なのに声は掠れて今にも消えてしまいそうで、それでも最近の中で一番力強い瞳で俺のことを見ると、近づいた俺を強く抱きしめた。


『いい、ノア。私はずっとあなたを見守っているわ。例えどんな辛いことがあっても、悲しいことがあっても、あなたなら絶対に乗り越えられる。あなたのことはこの私が守ってあげるからね。だから、ノアはノアが生きたいように生きなさい。今は難しくても、必ずチャンスが訪れるはずよ』


『お母様、それは一体どういう』


『ふふ。まだ難しいわよね。でも、いつかどうしようもない困難に陥った時、私のことを思い出して。そうすれば、私があなたを助けてあげるから。愛しているわ、ノア』


『僕も、僕もお母様を愛しています』


『ありがとう。ノアの未来が輝かしい幸福で溢れていることを願うわ』


 母上がそう言って俺を抱きしめる腕に力を込めると、母上の手が触れた背中が温かくなり、俺はその温かさから眠気に誘われて意識を失った。


 次に目を覚ますと、遊びに来ていたイリアが泣きながら俺の部屋へと入ってきて、母上が息を引き取ったことを教えてくれる。


 それから俺は、この世の終わりを迎えたかのような絶望感を胸に抱きながら母上の葬儀に参加し、葬儀が終われば俺を取り巻く環境が更に酷くなった。


 メイドたちが少しずつ減っていき、気が付けば誰もいなくなり一人で自分のことをしなければならなくなったし、部屋も狭くて光があまり入らない薄暗い場所へと変えられた。


 父上のせいでイリアには頻繁に会えなくなったし、一人でいる時間がほとんどになった。


『母上…母上…』


 唯一俺を愛してくれた母上を失い、心の拠り所を失くした俺は何度も死にたいと思ったが、その度に最後の母上の言葉が俺を正気に戻らせ、壊れることも死ぬことも許してはくれなかった。


 生きたいように生きて。その言葉は自由に生きて良いという言葉であると同時に、諦めずに生き残れという呪縛のようでもあった。


 結局死ぬことすらできず生き続けた俺は、感情が無くなり、愛を忘れ、生きる意味も見つけられないまま父上に殺されそうになった。


「はは。ほんと自分でも呆れるよ。結局、俺自身に死ぬ勇気が無かっただけの話だろう。死のうと思えばいつでも死ねたはずなのにそうしなかったのは、母上の言葉を言い訳に現実から逃げていたからだ」


 感情が無くなった?違う。何も考えないようにしていただけだ。本当は寂しかったし悲しかった。


 愛を忘れた?違う。母上から貰っていた愛を忘れたことなど一度もなかったし、それは今だって変わらない。


 生きる意味も見つけられない?それも違う。俺は母上の言葉が間違っていなかったと証明したかった。いつか死んで母上に会った時、あなたの言葉は間違っていなかったと、自分はこれだけ頑張って幸せになれたと、そんな話を母上にしたかった。


 そして何より、母上を見捨て、母上と俺をこんな状況に追い込んだあのクズな父親に復讐したかった。


「母上。俺はまだあなたのもとに行く訳にはいきません。まだ何も誇れることがない。あなたの言葉が正しかったと証明もできていない。あなたを笑顔にできるような…そんな素敵な幸せが俺にはまだありません」


『ふふ。そうね、ノア。あなたはまだこちらに来るべきではないわ』


「…母上?」


 映像が終わり何もなくなった空間で俺が一人呟くと、忘れもしない懐かしい声が空間全体に広がる。


 そして、目の前に光の粒が集まるとそれは人の形を作り、ずっと会いたかった人が目の前に姿を現した。


「母上」


「久しぶりね、ノア。随分と大きくなったわね」


 その人は俺を死ぬ瞬間まで愛してくれていた人であり、この世界でただ一人味方でいてくれた大切な人だった。


「どうして…母上が…」


「そうね。簡単に言えば、私は残留思念みたいなもので、あなたの中に残っていた私の力が最後に見せた幻想とでもいうのかしら」


「母上の力ですか?」


「そう言えば、ノアには私の職業を教えたことはなかったわね。私の職業は『幸運の巫女』といって、私が祈りを捧げることで、その人を幸運にしてあげる職業なの」


「幸運にする…」


「そうなの。私がその人の幸運を願えばその人は大きな幸運を手に入れる。事業が成功したり、幸せな結婚をしたりとかね。でもデメリットがあって、私が誰かの幸運を願った時、私は自分の寿命が削られてしまうの」


「え…」


 母上の職業を聞いた俺はそのデメリットがあまりにも大きく、さらに誰かの幸運の下に母上の命が削られることになるという事実を知り、次の言葉がうまく出てこなかった。


「あなたが驚くのも無理はないわ。私もあまりの理不尽さに怒りが湧いたもの。でも、今はそれに感謝もしてるのよ」


「なぜ…ですか」


「だって、こうして愛しい息子を守るチャンスを得ることができたのだから。これ以上に嬉しいことなんてないわ」


「俺を守るとは、いったいどういうことですか?」


「そうね。ノアも覚えていると思うけど、私は元々体が弱くて、長くは生きられないと言われていたわ。その事実を知った私は生きることに意味が見出せず、両親の言う通りにあなたのお父様と結婚した。


 その後もあのお屋敷では酷い扱いを受けたけれど、それでも頑張れたのはあなたのおかげよ。ノアが生まれたことで、私は生きることに意味が見出せた。この子のために頑張ろう、いっぱい愛を注いで幸せにしてあげようって。でも、現実はそう上手くは行かないものね。あなたを産んだ私は更に体が弱ってしまい、さらには流行病さえ患ってしまった」


 そう語る母上の表情はどこか申し訳なさそうにしており、俺を見るその瞳には罪悪感が込められているような気がした。


「そして、あなたが5歳の時。死期を悟った私はあなたに何かを残してあげたくて、自分の力を使ったの。これから私がいなくなり、あの屋敷に一人残されるあなたが心配で、何かあった時に助けられるようにと。私の残りの寿命とその時の生命力の全てを捧げて、あなたの幸運を願ったわ。ノアが死にそうな時、一度だけその不幸が幸運へと代わり、あなたが助かるように」


「では、俺はまだ死んでいないのですか?」


「えぇ。あなたが最後に私を呼んでくれた時、私の能力が発動したの。だからあなたはきっと助かるわ」


「ですが、それでは母上が死んだのは俺のせいということに…」


「いいえ。私は遅かれ早かれ死んでいたわ。その運命には、あなたの出産もあなたの幸運を願ったことも関係ない。私は私の生きたいように生きて死んだの。だから気にしないで」


 そう言って頬を撫でてくれる母上の手は懐かしくも温かい気がして、自然と涙が頬を流れてしまう。


「母上。俺、ずっと母上に会いたくて…」


「わかっているわ。ノアがどれほど辛い思いをして、その度に私を求めてくれていたか。ごめんなさい。何もしてあげられないこんな母親で」


「いいえ。母上は俺のためにたくさんのことをしてくれました。母上から貰った愛情も言葉も、そしてこの命と幸運も…全て母上から貰ったものです。あなたが私を見捨てていれば、あなたから貰った言葉がなければ、俺はとっくに死んでいました。本当にありがとうございます」


「ノア。私の愛しいノア。あなたがこれから何を望み目指すのか、私はそれを知っているわ。だからこそ、私はあなたにもう一度この言葉を送るわね。生きたいように生きなさい。あなたが魔族になろうとも、人族の敵になろうとも、私はあなたの味方よ。ずっと側で見守っているから」


 母上はそう言って俺のことを抱きしめてくれるが、その体は少しずつ薄くなっており、今にも消えてしまいそうだった。


「母上、体が…」


「そろそろ限界のようね。いい、ノア。私はあなたをずっと愛している。例え姿が消えようとも、それは変わらないわ。また会えること、楽しみにしているわね。その時は、あなたのお話や幸せだったことについて話してちょうだい」


「はい。いつか母上に俺のお話を聞かせて差し上げます。そして、あなたを笑顔にしてみせますから」


「ふふ。楽しみにしているわね。あ、それとイリアちゃんについてだけど」


「イリアですか?」


「あなたが誰を好きになっても構わないけれど、あの子も大切にしてあげるのよ。あの子、ノアのことずっと大好きだったから」


「まぁ、いつ会えるかはわかりませんが、会った時には話してみます」


「そうね。一度ちゃんとお話しするのよ。それじゃ、またいつか会いましょうね」


「はい。またいつか」


 母上がその言葉を最後に笑顔で姿を消すと、俺のいた白い空間も明かりが無くなったかのように突然暗くなる。


「そうか。もう目覚める時なんだな」


 現実の俺が目を覚ますことを悟った俺はそのまま目を瞑ると、ゆっくりと意識が薄れていくのであった。





 ノアがいなくなった暗い空間の中に、一つの小さな光の球体が姿を表す。


『個体名ノアに加護の授与を始めます……成功しました。個体名ノアに加護が授与されました。個体名ノア、あなたの未来に幸多からんことを』


 こうして、ノアの知らぬところで彼に特別な加護が与えた。


 それはとても優しいものであり、母の愛が成した奇跡であり、この世界がノアという元主人公の幸せを願った結果であった。






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