第16話
綾女と零士の死闘から一夜が明けた朝、藤堂隆夫は一通の手紙の前で絶句していた。
裁判所からの出頭命令が手紙として届いたのである。
警察署からは何度か任意での同行を求められていたが、藤堂は当然のごとくその全てを拒否していた。根回しの甲斐もあり、警察はそのことについて大した追及も行ってこなかった。
それが今になって唐突な出頭命令である。
警察への根回しがあるから逮捕状は出ておらず、出頭命令で済んでいるが、彼がこのまま命令を拒み続けられる時間は長くないだろう。
藤堂は真っ白になりそうな思考をなんとか働かせた。選挙戦が終わるまでに解決できるはずであったこの事件は確実に藤堂を破滅へと追い込んでいる。悪い夢を見ているような現実に、藤堂はただ呻くしかない。
金が警察を抑え込んでいる間に、藤堂たちは事件をもみ消すことが出来なかったのだ。
零士は腹部の骨にヒビが入っており、今まで通りの派手な動きは難しいだろう。
ヤクザとの関係も切れ、金で雇った私兵達も綾女たちを恐れて姿を消してしまっている。
「どうする……どうする……?」
藤堂は血走った眼を激しく動かしながら逆転の一手を考えていた。
このままでは、自身の娘に自分の人生を否定されて終わってしまうのだ。
藤堂隆夫は幼い頃から他人と比較されて育った。
社交界では幼い頃から子供たちはエリートになるための教育を受ける。
惜しみない金をつぎ込み、それに比類しない結果が出た際に子供たちを待っているのは落胆と叱咤である。
藤堂は生まれてから親に褒められた記憶がない。彼が求められるのは常に一番になるという事のみであった。当然、同年代の子供たちは全て敵であり、彼が心を許せる人間など世界のどこにも存在しなかった。
彼の友人としてふるまう大木は、運動でも勉学でも藤堂の上を行く成績を残し、藤堂はそのために常に親の不興を買った。
藤堂は世界の全てが不快だった。
そんな藤堂も、憎しみ以外の感情を憶えた時期が確かにあった。
政略結婚で結婚した妻が生んだのは女の子だった。
人の親になること、生まれたのが跡取りの男ではないことで藤堂はその時も不満を周囲に喚き散らし、母親を神経衰弱にしかけた。
しかし、それも花蓮が生まれるまでだった。
綾女が生まれたとき、藤堂は己の全身の血が沸騰するような感覚を覚えたことを思い出す。
誰にも認められなかった自分でも、誰かを幸せにしてあげられるかもしれない。
自分の事を良い父親として見てくれるかもしれない、自分を認められるかもしれない。
幸せになれるかもしれないと藤堂は思った。
藤堂は、己の腕の中で静かに眠るしわくちゃな生き物に向かって、久しぶりに心から微笑むことができたような気がした。
綾女が赤ん坊のころは過保護な親として苦笑いされつつも、藤堂の新たな家庭は上手く行っていたように見えた。
しかし、それも長くは続かなかった。
花蓮が物心ついたころ、藤堂は、自身の子供時代の経験に基づき一流の家庭教師たちを雇い始めた。花蓮はまだ遊びたい盛りの子供であり、精神年齢もまだ幼い。
藤堂は自身の教育の意図を花蓮が理解してくれないことに焦った。
早くしなければ、社交界の優秀な子供たちに勝つことができない。早く綾女を立派な子供に育て上げなければ、花蓮が苦しい思いをしてしまう。
藤堂が思い描くのは苦しかった子供時代である。
その苦しさを与えた親と同じ行動をとっていることに藤堂は気が付かない。
花蓮は運動や狩猟では優秀で藤堂を喜ばせたが、勉強の方はいたって普通の子供であった。社交界の親たちが自身の子供の出来の良さを自慢するたびに藤堂は焦り、花蓮を教育で縛り付ける。
気が付けば花蓮が自由に使える時間はほとんどなくなっていた。
教育方針を巡って妻とは喧嘩が多くなり、遂には藤堂家を出て行ってしまった。花蓮を連れて行こうとしたが、藤堂は金の力で妻の家の事業を失敗させて追い払った。
藤堂は、花蓮が笑わなくなったことに気が付いていた。
娘の笑顔を奪ったのは自分である事に気が付いていても、藤堂はその事実をどうしても認められない。
決定的な破綻は、花蓮が家を抜け出そうとしたことから始まった。
こっそりと家出するには大きすぎるトランクを引きずった娘が使用人に連れられてきた時、藤堂は我を失って花蓮に怒鳴りつけた。自分が否定されるように藤堂は感じていたのである。
「お父様は、私を社交界に対するトロフィーだと思ってるんだわ!」
花蓮は、我慢ならないといった風に怒り返した。
その瞳に憎しみの色が差している様子を見て、藤堂はかつての自分が同じような目で両親を見ていたことを思い出した。
花蓮には、子供のころの自分と同じ思いをして欲しくない。幸せにしてやりたい。
すべて花蓮の為であったこれまでの家族生活は、そこで崩壊した。
気が付けば藤堂は花蓮を殴りつけていた。
それから親子の関係が戻ることは二度となかった。
藤堂は花蓮の事を頭から振り払うと、警察について思考の焦点を絞り始める。
彼に残された逆転の手段があるとすればそこだった。
綾女が証拠を押さえたこと、派手な戦闘を繰り返したことでその指示が藤堂から命じられたものであると嗅ぎつけられたことから、警察の中で藤堂の勢力はすっかり抑えられてしまっている。
出頭命令が出されたのもそのためだろう。
藤堂は自分に出された出頭命令をまじまじと見つめ、突然立ち上がった。
藤堂の脳裏にはこの状況を互角に持ち込む策が閃いていた。
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