奇術師

 埃っぽい台所にたどり着くと、硝子窓の破片の上で若い青年が倒れ込んでいました。

「あなたは誰? 一体なにをしに来たの?」

 青年はリラの呼びかけに応えません。どうやら気を失っているようです。華奢な頬には血色がいっさいありませんでした。


 リラは突然現れた存在に怯えます。お屋敷の外へ出たことがなかったように、リラはおばあさま以外の人間と出会ったことがなかったのです。そんな中で、リラは彼の存在に僅かな希望を感じていました。もしかしたらお星さまのことを知っているのかもしれないわ、と。

 青年は真っ黒なシルクハットをかぶり、同じく黒い燕尾服を身に纏っていました。どうやら質のよい生地で作られているようです。窓を破って屋敷に飛び込んできたのにも関わらず、燕尾服には傷ひとつありませんでした。その一方、彼の顔にたくさんの切り傷と痣があるのをリラは見つけました。

 リラは青年の頬を撫でます。おばあさまから魔女の手は傷を癒やす力があるのだと教わったからです。赤ん坊のやわい肌を愛でるように。繊細な絹織物の手触りを愉しむように。しかし、どれだけ傷に触れたって治る気配がみえません。それもそのはず、リラには魔女の力なんて持ち合わせていなかったのですから。

 おばあさまは悪魔と契約することができないと、魔力は得られないと話していました。悪魔と契約したことのないリラは、とうぜん魔力がありません。ですが、リラは心のどこかで、自分は傷を癒やすことができるのだと過信していました。ですから、閉じることのなかった傷をみて、深いため息を吐きました。

 なにも出来なかったリラは、湿らせた綿布で傷を拭いました。白い布地に赤い血が滲んでいきます。


 しばらく経ってから、青年の目が開きました。朝日が昇り、橙色に暮れようとしていた頃です。

「君は魔女の弟子か?」

 彼は目覚めた途端、間髪を入れずによく通る声で問いかけました。

「そうよ。わたしは魔女の弟子だわ」

「ここは魔女の屋敷かい?」

「ええ、あなたはその魔女の屋敷に飛び込んできたのよ」

「そうか、おれはついに成し遂げることができたんだな」青年は澄んだ緑色の瞳でリラを見つめ、続けます。「おれの名前はラルフ。丘の下の街で奇術師をしている。――君、奇術師というのはどんな者か知っているかい?」

「奇術師……。そういえば、魔法使いの紛い物だとおばあさまは言っていたわ」

 リラは失礼なことを言ってしまったと恐ろしくなってラルフを見上げます。

「そうだ。君はなにも案ずることないよ。奇術は魔法を実現するために発展したのだ。君は魔術をみたことはあるかい?」

「いいえ」

「そうだろう。だからね、奇術師は魔法使いの紛い物だ。おばあさまとやらは正しい。奇術は魔術になりきれないんだよ」

「あなたは魔法使いになろうとは思わなかったの?」

「おれが魔法使いに? なれるものならなりたかったな」


 少し間が空くと、ラルフは台所を見渡しました。

「しかしずいぶん派手に飛び込んでしまったな」

「そうよ、おばあさまに謝ってちょうだいね」

 それから、リラはどうやってラルフをおばあさまに紹介しようかと考えました。窓から飛び込んで来たなんて、穏やかなおばあさまはきっと信じないはずだわ、と。ですが、そんなおばあさまは今や魔女になるための眠りについてしまっています。そのことをすっかり忘れさっていたリラは不意に眼の奥が辛くなりました。

 しかし、いつまでも幼子のままでは前へ進むことができません。リラは勇気をふりしぼって尋ねます。

「あなたは星がどこにあるのか知っているかしら」

「星は夜空に浮かぶものだ。君もきっとみたことがあるはずだよ」

 リラは考えこみます。探さなければならない星は、ラルフの話しているものとは違うと感じたからです。

「悪魔と契約するための星よ」

「悪魔と契約! 君は本当に魔女の弟子なんだね。悪魔と交わるには星が必要だなんてはじめて知ったよ」

「本当に決まってるじゃない。わたしは魔女であるおばあさまの弟子よ。あなたは魔法使いになりたかったのに、こんなことも知らないのね」

 ラルフは少し黙った後、なにかを決心したように言いました。

「リラ。街へ出てみないか。おれは君の言う星についてなにも教えることができなかったが、もしかしたら知っている人が街にいるのかもしれないよ」

「街……。わたしはお屋敷から出たことがないのよ。外の世界なんて恐ろしいわ」

「安心おし。外の世界は確かに恐ろしいこともあるが、楽しいこともある。おれの奇術だって、そんな楽しいことのひとつだ。この屋敷に閉じこもっていたら君の眼は単調な風景しか映し出さないんだよ。世界は鮮やかだ。君にはその景色を見つめる権利がある。だから、街へ出てみようよ、リラ」


 リラは今までおばあさまのために生きていました。体の不自由なおばあさまへリラのすべてを捧げたと言っても過言ではないほどに。

 そんなおばあさまを置いて街へ出る。本当はこのまま死ぬまでおばあさまのお屋敷でぬくぬく暮らしていたいと願っていました。もちろん、お屋敷から外へ足を踏み出さなければ、お星さまを見つけることができないとはわかっています。ですが、これはリラにとって自身の臓器を売るくらいの大きな問題だったのです。

 しばらく経って、リラはちいさくて澄んだ息をすーっと吐いて、まっすぐに答えました。

「わかったわ。わたし、街へ出るわ」

 リラはこの13年間ではじめて自らの鼓動を感じました。

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