30. 研究の心構え

 神凪かんなぎ先生の授業は、与えられたテーマに対して、国連の文書を使用しながら答えるという形式のものだった。先生は、ぼくの未熟な報告に対して、必ずひとつは褒めてくれるし、よりよい研究になるように根気強く指導をしてくれている。


「わたしがここで注意を払ってほしいと思ったところは、安保理の非常任理事国に、内戦中の×国が連なっているところかな」


 というように、ぼくの気付かないところを――先生にとって物足りないところを、強い言葉を使わずに教えてくれる。


 最初の授業のとき、どれだけ「しばかれる」のだろうと(いままでの経験から)ドキドキしていただけに、優しくて面倒見のよい先生だということに、良い意味で拍子抜けしてしまった。いままで、こんな先生に出会ったことはなかったから。


「わたしの研究室は《アジール》だから。なにかあったら、いつでも来ていいからね」


 ふつう、事前にメールなどでアポイントメントをとらないと、先生とは面談ができない。だけれど神凪先生だけは、常に研究室をオープンにしている。

 その理由は分からないし、先生は答えるつもりもないらしい。むかし、単純に疑問に思いいてみたことがあったのだけれど、ただ微笑んで見せただけだった。


 そんな先生のお人柄のこともあり、神凪ゼミを第一希望にする学部生は多く、毎年倍率が高いのだという。もし、受け入れるゼミ生の上限がなかったとしたら、最大規模のゼミになるのは間違いない――と、胡桃ことう先生は言っていた。

 もちろん、胡桃先生のゼミも大人気だと聞いている。ぼくが学部生だったら、おふたりのゼミのどちらの選抜試験を受けるかで迷っていたと思う。


 国連文書は、国連のウェブサイトで閲覧することができる。もちろん、閲覧できないものもあるけれど、ぼくが研究をする上で必要な文書はすべて、ネットに繋がるパソコンが一台あれば、アクセスすることが可能だ。


 いまぼくの見ている安保理(Security Council)の議事録には、まず一頁目に、日付や文書番号とともに、議長国(President)と理事国(Members)の名前が並んでいる。そして次の頁から議論の趨勢すうせいが記録されている。


 こうした文書は、フォーマットがほとんど同じで、英文自体も難しいものではないので、取っ掛りやすいし、ぼくの語学力でもすらすら読むことができる。数頁のものから十数頁のものまで、文書の長さはさまざまだ。


 議事録には、決議(Resolution)の草案を採択するかどうかの投票結果も書かれており、それを経て正式に発表された決議は必ず読むようにと、神凪先生からは教えられている。


 研究に関係する文書の「番号」も年度ごとにリストアップするよう言われており、たとえば「S/PV」からはじまるのは安保理の議事録で、「S/RES」は決議の印だ。


 ぼくが一番多く読んでいるのは、×国の内戦後の文書であり、その数は膨大だ。これには、たいへん苦戦しているが、「修士のうちに全部読むというのは、ムリだといっても過言ではないから、『できるだけ多く読もう』という気持ちでいるといいよ」と、神凪先生に言われている。


 でも、約一年も経てば、もう慣れてしまったもので、ぐんぐん読むことができる。だけど、研究書なども読み込まないといけないから、先生の仰ってくださった通りの気持ちでいる。


 修士論文の構成上、×国の歴史を振り返らなければならない。すると、日本語の文献は少ないため、洋書にたくさん当たらなければならない。

 さらに難しいことに、×国の移行期正義について考える上では、周辺国の事情(歴史)も見ていく必要がある。


 そして修論を仕上げるには、「あれもこれも」というより、ある程度の「節制」を心がけなければならない。修論に収めることができる内容は、自然と限られてくる。すると、もっともっと、自分の研究を深めていきたいという気持ちにもなってくる。たくさん論文を書きたいと考えてしまう。


 博士課程も視野に入れたいな――と、思うこともある。


 しかし家族のことを考えると、働いた方がいいという思いもある。博士課程に入れば、就職先の選択肢は狭まるし、仕事が見つかるのが、いつになるのかも分からない。不安定で不確定な未来が待っている。


 こういうことは、考えるべきことなのだけれど、考えているうちに、どんどん気が滅入ってしまった。そこで、リフレッシュのためにテレビをつけた。そして、チャンネルを回しているうちに、驚きの光景を見ることとなった。

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