第一章 金文使い六 その質問は気に食わない
「もしあなたが禁断の沼で……」
何の前置きもなく、いきなり尋炉が尋ねた。
「俺にか?」
睨鬼は身構えた。自分に話しかけられたと思わなかったのだ。だが尋炉は睨鬼を見据え、真剣な面持ちで深く頷いた。
「ええ。もしあなたが禁断の沼で溺れている子供を見つけたとします。あなたは子供を助けることができます。しかし沼は結界が張られた聖域で、あなたが立ち入ること自体が、世界を滅ぼす原因になるかもしれません。あなたならどうしますか?」
睨鬼は戸惑った。苦手なタイプの質問だ。
「例え話かよ。俺はその手の質問は嫌いなんだ。深く考えねえからな」
「あなたならどうしますか?」
静かな、まったく同じ口調で尋炉が繰り返した。
「その場になってみなけりゃわかんねえよそんなこと。くそ、俺を試しているつもりか?」
尋炉の傍らから、子春が意味ありげな含み笑いを浮かべ、そっと睨鬼を覗き見た。
「その場になってみなければわからない」
また、繰り返した。今度は睨鬼の言葉を。睨鬼は尋炉の心を量りかねてどぎまぎした。次に何を聞かれても答えないぞと、唇を引き締めてかたく決意した。
「わかりました」
ところが尋炉は一つ頷いたまま、もう何も聞かなかった。線の細い色白の面に、満足そうな紅の血色が差している。
宴席の中央では舞がはじまっていた。仮面をつけ、真紅の袖を長く引いた舞姫たちが、次々と現れては、列をなして笙や瑟の音にあわせてくるくると舞った。彼女たちは時折仮面を外しては、妖艶な白塗りの顔を一瞬だけ見せ、ひらりと身を翻しながらまた隠した。
「おい、どういうつもりだ先生」
皆が舞に気を取られる中、睨鬼は尋炉を怒鳴りつけた。尋炉がきょとんとした表情で「はい?」と振り向く。
肩や膝や頭の上に、およそ重さというもののなさそうなふわふわと輪郭の定まらない、たくさんの埃鳥たちをのせていた。睨鬼の金文板から数えきれないほどの群で現れた埃鳥たちは、そこらじゅうを歩き回り、四季弟子の年少の二人、子秋と子冬が、かき集めては転がして遊んでいた。
「はい? じゃねえよ。そいつを返してくれよ。大切なものなんだぞ」
睨鬼は思わず尋炉の胸元を掴みかかった。衿がはだけ、光の零れるようなきめの細かい白い胸板が覗いた。
胸板だけではなく、そこには睨鬼の金文板も覗いていた。睨鬼は手を入れてその一つを強引に奪い返した。
「ああ、これは申し訳ありませんでした。つい……」
尋炉がきょとんとした表情のまま言った。
「他の二枚も返してくれ」
睨鬼が詰め寄ると、左右の袖の中からもう二枚も出して、名残惜しそうに渡した。睨鬼は怒りを通り越して呆れた。こいつ、あきらかに宴のどさくさに紛れて俺の金文板を盗ろうとしていた。
「本当にすみません。心底探し求めていたものだったので、うっかりあなたのものだというのを忘れて、手が勝手に着物の中に入れてしまったのです」
そんな言い訳あるか。
「句……」
そのとき、最初の一羽が無に帰した。
寂しげな、最期の声を発して、空気中に分解して氷が溶けるように、跡形もなく消えていった。完全に消える寸前に、一瞬だけ、淡く光る『句』という文字を浮かび上がらせた。それが埃鳥の真名だった。
「句……句……句……句……句……句……」
おそらく一番先に生まれた子だったであろう、その一羽をかわきりにして、次々に埃鳥たちは無に帰していった。尋炉の着物に纏わりついていた子、子秋子冬が遊んでいた子、御馳走の皿に入っていた子、皆、消えていく。
そうか。こいつらが別名『句鳥』といったのはこういうわけか。しかし、物を食べるための口もなく、生まれてすぐに死んでいくだけの存在とは……。
「埃鳥たちは生まれて短い決まった時を過ごすと、必ず発生した順に消えてゆくのです。おそらく彼らの寿命で……運命なのです」
まるで埃鳥を悼むかのような尋炉の言い方に、睨鬼は無性に腹が立ってきた。束の間で死に至る運命と知りながら、金文板を反応させて儚い亜獣たちを生み出したのは、他ならぬおまえではないか。
「おもしろくねえ。俺は少し外に出て風に当たって来る」
最後の埃鳥が消え去る前に、睨鬼は杯に残っていた酒を一息に呷ると、宴のにぎわいに背を向けて外の回廊へ出た。
尋炉先生と世界の終わり たなかあこ @sosokan
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