御伽草子に簪を添えて

藍染三月

御伽草子に簪を添えて

 瓦斯ガス燈の仄明るい光が、篠突く銀糸を夜闇に浮き上がらせている。薄紅に染まりつつある桜の蕾を催花雨さいかうが揺らしていた。


 悄然とした夜道で戛々カツカツと靴を鳴らすのは僕だけだ。立ち並ぶ家々は既に寝静まっている。


 足元が見えるほど明るいのはこの大通りくらいで、一歩隘路あいろに踏み入れば、真黒な夜が佇んでいる。それは誰もが慣れ親しんだ闇の夜。大通りが閃爍せんしゃくな明かりで満ちたことにより、浮き彫りになっているようぜんな黒。白昼ならまだしも夜降よぐたちともなると、小道に入る者など滅多に居ない。


 黒み渡った道へ跫音きょうおんを響かせる。戛々とした音は、ざらりとした砂の音に変わる。足元に何があるかさえようとして知れない。然れど己の足付きに迷いはなかった。頻闇しきやみなど数秒で慣れる、夜眼よめが利く性質だからだ。


 うらさびれた道でいくつもの音が鳴る。雨の淅瀝せきれき、土と砂の擦過音、耳鳴りじみた夜音よと、生物の鳴き声と、それに加えて、はらわたの潰れる音。


 閑道のついで、ソレは猫の肺腑を啜っていた。溶けた蝋燭のように撓んだ皮膚、子供のような背丈、角の生えた蜥蜴とかげを思わせる頭部。形容など金繰り捨てて、有り体に言うならば──其奴は妖異と呼ばれるものだった。


「……運がいいな。今日はアタリの仕事か」


 独り言ちるも呼応する者はいない。妖異は猫を取り落として僕をめかりうつ。そうしてまなじりを裂いた形貌は、真に化物。


 利刀を鞘から引き抜いた。左手首を右脇に引きつけて腰骨の上へのせる。突きの型に構えた切っ先が狙うのは奴の喉頸のどくび。傾けた白刃は一路の先から差し込む月明を受け流し、犀利な輪郭を惣闇つつやみの中に描いた。


 刀尖が雨粒をあやした乃時ないじ、踏み出すとともに突きを繰り出す。奴が地を蹴ったのも同時。跳ね上がる泥濘。水溜まりが上げた飛沫。さながら鏡映しの接近。無感触の雨を、夜気を、彼我の隔たりを突き退けて、化物の肉へ刀鋩とうぼうを届かせる。咆哮で震える悴首かせくびを深々と穿げのいた。


 骨を削り砕いた手ごたえがありありと腕を震わせる。妖異は貫かれたまま身動ぎしていたが、刃を引き抜いてやればすぐに事切れていた。


 刀を鞘に収め、赤々とした水たまりを踏み付ける。


 内臓を喰い千切られた猫の亡骸にそっと触れた。小さな体は余喘さえ漏らすことなく、ただ静かに瞑目していた。それを抱き上げると、自身の着物が猩紅で絵取られていく。冷雨のせいでその血の温度は分からなかった。


さく!」


 寂び返った道に、場違いなほど明朗な声が響く。駆け寄ってくる少女を側目そばめにかけて、その足が止まるのを待つ。彼女は片手に角灯を、もう片手には鮮やかな着物を携えていた。


みお、そっちもアタリだったのか」


「そうそう! 呉服屋で毎晩着物が一着ずつなくなってるやつ、やっぱり妖異の仕業だった。朔は猫探しだったけど、猫ちゃん……」


「もう喰われてた。遺体をこのまま飼い主に渡すのもどうかと思うし、せめて傷を覆い隠してから受け渡すつもりだ。もう遅い時間だから、明日になるが」


 澪は着物を丁寧に畳みながら、こくこくと頭を動かして迎合あどを打つ。その着物を返却するのも明朝になるだろう。


 雨下で濡れそぼった柳髪をちらと見て、彼女の袖を引っ張った。


「今日はもう帰るぞ。そっちはウチじゃない」


「でも、お寺の方で最近子供が行方不明になってるって。それも妖異のせいじゃないかな」


「それは巡査に任せておけばいいんだ。僕達の店に依頼が来てるわけじゃないんだから、金にならない」


 角灯の明かりが水溜まりを色付けて明滅する。揺動する光を蹴り飛ばし、夜籠よごもる道の先を見上げた。妖異退治店、の看板を掲げている民家を嘱目したまま頬を擦り、零露を拭った。


「お金かぁ……依頼、どんどん減っていっているもんね。瓦斯燈とか電気燈が増え始めてるから、夜でも街が明るくなってて妖異自体も減ってる気がするし」


「そもそも、妖異が見える人間すら年々いなくなってるって噂もあるんだ。時代が進むにつれて妖異退治店なんていらなくなるさ」


 普通の人間は妖異を視認することが出来ない。幼子や、死期の近い者は妖異を目睹もくとすることが出来るが、そのほかの人間となると霊視の才がない限り、妖異とは無縁の日々を送っている。


 木造りの戸を引き開けて土間に踏み入る。澪は式台に角灯を置いてから、濡れた着物の水を払っていた。


「ちょっと朔、そんなこと言わないでよ。父さんと母さんの代には繁盛してたのに、このままじゃ私の代で終わりだよ……」


「仕方ないだろ。そもそも、妖異に悩まされる人間がいなくなるのは良いことなんだから」


「まあそうだけど……そういえば、依頼の手紙、もう一通あったよ」


「内容は?」


「えっとね……流行り病は妖異のせいだと思うって」


「ないだろ。ハズレの依頼だ、ほっとけ。いいから着替えて寝ろ」


 近頃流行している病。熱が出て悪夢に魘される、程度の症状を聞く限り、それはけだしく風邪の類だろう。


 土間に荷物を置き去りにしたまま、座敷へ上がっていった澪の刀を見下ろす。短刀ほど短くはないが、打刀ほど長くもない脇差。もともとそれを使っていたのは彼女の母親だ。そして、僕の腰に在る打刀は彼女の父のものだった。


 実の両親の顔は思い出せない。それゆえ僕にとって、澪の両親が親のような存在であり、店を潰したくないという気持ちは、彼女の意念と同じほどの熱を帯びて、この胸臆で揺らめいていた。


     *


 血と脂と泥を拭い去った猫の亡骸は、今頃飼い主たる女性の手で埋葬されているのだろう。彼女の哀咽あいえつが未だに耳から離れない。依頼を受けた身とはいえ、たもとを絞る女性から金を受け取るのは、気分の良いものではなかった。紡がれた謝礼さえ、猫を救えなかった僕が貰うべきではないと感じてしまう。


 気色ばんだまま意味もなく街を歩き、光風に遊ばれた髪を片手で払う。店を出たのは朝だと言うのに、気付けば陽が赤らびいていた。ぶらぶらと逍遥しょうようにふけったところで、気分が晴れなかったことに顰蹙し、けうといあまべにから顔を背けた。


 妖異退治店の戸を潜って室内に上がると、帯刀した澪とぶつかりかける。


「朔、ちょうど良かった。お寺で子供が行方不明になってる事件、親御さんから依頼が来てたの。行こう」


「今からか? まだ日が落ちてないぞ」


「ゆっくり行けばその間に夜になるよ。弱い妖異なら子供を怖がらせているだけだろうけど、強い妖異だと臓器を食べようとするから早い方がいいでしょ。ほら刀持って」


 元来、人の恐怖や思い込みが実体化した、とも言われる妖異は、その姿やその名に向けられる嫌悪と恐怖を力にする。矮小で名もない妖異はたいてい力も弱く、人を襲えずに動物を喰らう。今回子供を攫っている妖異が小物であることを願って咨嗟しさを吐き出した。


 差し出された刀を腰に収め、足を踏み出す。と、澪に腕をぐいと引かれて蹌踉そうろうと倒れかけた。仏頂面で振り向けば、不服そうな桃顔がこちらをじっとまばる。


「待って、今日はまだ朔におまじないかけてない」


「またアレか……毎日毎日、よく飽きないな」


「飽きる飽きないの問題じゃないんだよ。いいから目瞑って」


 少女のしなやかな繊手が額に触れる。促されるままに交睫こうしょうした。澪は不思議な言葉をつつめいた。これは僕達の間で日毎必ず行われるお祈りのようなものだ。とはいえ、詞の意味も、何を言っているのかも僕には皆式かいしきわからない。彼女曰く、大怪我をしないように祈っているだけ、らしいが、まじないなんぞに効果があるとは思えなかった。


 満足したらしい澪の、熱い体温が遠ざかり、目を開ける。彼女はというと、既に外へ踏み出していた。彼女の自由奔放な性質に溜息を吐いてから、僕も陽射しを浴びに行く。


 晩景を駆けていく夕烏が淡い夜を引き連れていた。茜空が少しずつ桔梗色で賦色されていく。頭上を見霽みはるかしながら歩いていれば、澪に袖を引っ張られる。余所見をするな、ということだろう。彼女に寄せられていなければ、前方から走って来た子供とぶつかるところだった。


 兄弟か、はたまた友人か。仲の良さそうな少年の、遠ざかる影を一瞥してから瞬目する。自分も、幼い頃はあんな風に駆け回っていただろうか。


 思惟に沈み始めた意識を、澪のかわらかな声が引き上げた。


「少し暗くなり始めてきたけど、やっぱり瓦斯燈があるから明るいね。昔はこの時間でもだいぶ暗かったのに」


「何百年とか過ぎたら、夜中でも昼間みたいに明るいんだろうな」


「そんな世界でさ、妖異はどこに行っちゃうんだろう」


「……澪は、妖異退治をしているくせに、妙に妖異を気にかけるよな」


「だって、悪さをしない妖異だっているもの。私、昔は妖異と文通をしてたんだよ」


「文通? 喋れる妖異もたまに見かけるが、それなら普通に話せば良かったんじゃないか?」


「幼い頃は、妖異を見ることが出来てもその声が聞こえなかったから」


 行路の先を見放みさく横顔は、どこか別の場所を見ているようでもあった。思ひの色を気取ってしまい、彼女から顔を背ける。見知らぬ色差しの彼女を見ていたくなくて、雑踏に五感を委ね、気を紛らわせようとした。錯覚のような夕轟きに長息を吐き捨てていたら、澪に肩を叩かれる。


「ねえ見て、あの簪すごく綺麗……! 朔、買って、誕生日の贈り物ってことで買って」


「お前の誕生日は冬だろ。というか簪、持ってなかったか?」


「この前壊れちゃったんだ。大事な人にもらったものだったんだけど」


 ふうん、と適当に相槌を打ちながら、簪をちらと睇視ていしした。澪は足を止めて、店先に置かれている簪を手に取っていた。月下美人を模した花が彼女の手元で揺れる。繊細な花びらを、白魚のような指がなぞった。


「ねぇ、人と妖異が恋に落ちたら、どうなると思う?」


「なんだそれ。……文通してたやつの話か?」


「んー、まあ、そんなところ」


 値札を一見した澪が、苦笑して簪を元の位置に戻す。跫然となびいた翡翠の髪状かんざしを追うように、僕も石畳を鳴らした。


 僕にとって彼女は、仕事仲間で、相方のような、それだけの存在だ。それでも共に過ごしてきた彼女が、他人を、まして妖異を特別視しているのは、あまり良い気はしなかった。ふつふつと浮いてくる苛立ちを飲み込んで、てんぜんとした態度を繕って、淡々と返した。


「澪。この時代で妖異に恋なんて、するべきじゃない。人が妖異のことを見えなくなる可能性が高いし、明るくなる世界に妖異が耐え切れないかもしれないしな」


「うん……そうだよね。昔だったら、人と妖異の恋物語とかあったのに」


「そんな話があるのか?」


「あるよ。えっとね、この街に伝わってる御伽草子。人間の女性と、妖異の男性が出会って恋に落ちて、子供と一緒にしばらく仲良く暮らしてたんだって」


「子供……その場合、子供は人間と妖異のどっちになるんだ?」


「半分半分。初めは人間と妖異の要素が半分でもさ、成長していくにつれて、妖力ってどんどん強くなっていくみたいだから。どんどん、人じゃなくなっていくみたい」


 それは、澪が恋をしていた、文通をしていた妖異の話なのだろうか。彼女は、妖力が強くなった思い人を、その手で殺めてしまったのだろうか。それとも、その妖異を探しているのだろうか。


 少しばかり俯いた澪の、その心を映し出すように、夜の気配が空を搔き暗す。店や民家の多い繁華な道を抜け、寺に近付けば近付くほど、冷たい夜風が皮膚をすべる。傾いていた日輪が地平線に喰われると、空は夜を吐き出した。人通りの疎らな通りがじわじわと濃藍で満ちていく。弥漫びまんしていく夜に、両の眼を細めて、刀の柄を撫でながら歩き続けた。


「その御伽草子、どこにあるんだ?」


「読んでみたい? けど……うーん、どこにやっちゃったかなぁ」


「じゃあ結末だけ教えてくれ」


「……その子の父親が、電気の明るさから逃げるように消えちゃって。母親と子供は、父親を捜しているうちに崖から落ちちゃった」


「そう、か」


 慮外にも悲劇だった御伽草子に、眉を顰めつつ胸を撫で下ろした。澪が、大切な人をその手にかけていなかったことに、安堵した。ふ、と息を吐き出すと、鞘から秋霜を引き抜いた。僕達は寺の門を潜る前に、足を止めていた。


 子供の欷泣が聞こえる。声の出処は門の先だ。空気が膨張するように、大きな硝子玉を置いたみたいに、景色が歪んで膨らんだ。月気が虚空を色付けて異形の輪郭を辿る。その妖異は、にわかに、冥暗の中に浮き上がった。


「朔、あれ……」


「あいつが子供を攫ったんだろうな。子供の泣き声はまだ遠い。多分、寺の中か、或いは建物の裏だ。妖異は僕が倒すから、澪は子供を頼む」


 視界の隅で、澪が寺の講堂の方へ駆け出していく。その気配はすぐに気づかれたらしい。大塊の、鬼のような妖異が、太い腕を振り上げていた。


 勁風けいふうが砂塵を舞い上げる。妖異の手の影が、澪を青黒く染め上げる。僕は蹶然けつぜんと飛び出して落ちる影の中へ着地した。切り上げた刀が甲高い刃音を立てた。僕を圧し潰そうとする手の平に刃は沈まない。硬い。このままでは刃金が折れかねない。


 歯切りしながら地を転がって引き退く。妖異の手は砲声じみた地響きを轟かせ、大地を揺るがす。奴の攻撃は終わらない。羽虫でも払うようにこちらへ腕を振るってくる。後退して避け、躱し、刀で受け止める。


 かち落とされる力を上から下へ受け流すように、防御の形に構えて防いだ。右足を擦り鳴らして後退するとともに、柄を右頭上へ引きつけ切っ先を下げる。それを右に左にと繰り返す砂利の音と、弾かれる金属の璆鏘きゅうそうが夜の寂静じゃくじょうをつんざき続ける。


 窺窬きゆしているのは首を断つ好機。一撃で断切できるよう奴を視一視した。唸る喉の動き、撓んでは伸びる首の皮、項垂れては持ち上がる頸椎の位置を、きかと見極める。


 子供の泣き声が、奴の背後で上がった時。奴は僕に背を向けて、自身の背よりも低い講堂を見下ろした。


 その、須臾しゅゆの間。僕は高く跳び上がって奴の背骨を馳せていた。狙いは首。刀を振るい上げる。俯いている奴の頭部がぴくりと動く。けれど顔を上げさせはしない。


 閃いた太刀影。そこには迷いも擬議もない。打ち放った矢のごとく、真っ直ぐに、勁疾けいしつに、頸椎の間隙へと氷刃を打ち付けた。全霊の力と、全身の重さと、重苦しい夜の重力に任せて、握った剣鋩は大地を目指す。


 化物の皮膚を裂き、肉に沈む刀。骨の繋ぎ目さえも穿孔して皮下組織をくぐり抜けた鋭刃は、僅少の沈黙ののちに月光を浴びていた。


 けざやかな赤が溢れる。妖異は首を垂れたまま、膝を突いて俯伏する。転がった頭部も、残された躯幹も、雲霧に紛るように崩れていった。


 剣先を鞘に収め、寺を顧望する。講堂の端、木暗がりの下では、澪が二人の子供と手を繋いでこちらを見ていた。口を開けたままポカンとしている、その気抜けた顔様に思わず片笑みを浮かべてしまった。


「何してるんだ澪。妖異はもう倒した。早く子供達を送り届けるぞ」


「朔すっごい……! どうやってあんな高さの首を落としたの!? 飛んだの!?」


「飛べるわけないだろ、人間なんだから。あいつの背中を伝っただけ──」


 子供から手を離し、駆け寄ってきた澪がたたらを踏んで転びそうになる。ひらめいた袖を手繰り寄せてどうにか抱き留めれば、苦し気な片息が首をかすめ、戸惑った。


「どうした、大丈夫か?」


「ごめん……なんかずっとフラフラしてて……限界かも」


「っ、おい!?」


 辛うじて立っていた彼女が、脱力して僕に身を委ねる。布越しに染みてくる体温がやけに熱い。思えば、おまじないをかけてくれた時も彼女の手は熱を帯びていた。


 煩憂の赴くままに彼女を抱きあげた折柄おりから、助けた子供らと目が合って固まった。一度視線を泳がせ、唸りながら尋思したのち、彼女を抱えたまま子供を家まで送ってやることにした。


     *


 澪が患ったのは、例の流行病だった。医者は、僕達が妖異退治店の人間だと知ると、流行病の変わった症状を教えてくれた。なんでも、患者はみな妖異を見たことがある人間で、熱に浮かされるなか、妖異の夢を見ていたらしい。


 けれど病が治ってから、いわゆる霊感や第六感のようなものが失せてしまって、妖異を感じることすら出来なくなった、という患者が多くいたという。


 魘されながら眠り続ける澪も、妖異の夢を見ているのだろうか。日常と変わらず妖異を退治する夢か、それとも、文通をしていた相手の、夢か。


 濡らした手拭いを絞って、彼女の赤らんだ額にそっとかける。枕に横たわった花貌を憂わしげに眺め、頭蓋から響いてくる鈍痛に眉根を寄せた。


 僕も病に罹ったのかもしれない。内側から額を喰い破るような痛みに、そう思い込んで牙噛きかむ。前髪を押さえて俯くと、潤んだ懸珠が僕を映していた。


「朔……? どこか痛いの……?」


「……僕はなんともない。お前、昨日は丸一日寝てたんだぞ。何か食べるか?」


「ねえ、疲れてるでしょ。いつも以上に声ちっさくて聞こえなかった」


「いつも声が小さくて悪かったな。飯でも食うかって聞いたんだ。でもまぁ、とりあえず水でも持って──」


「待って、おまじない!」


 まだ残夢に浸かっていたような澪が、出し抜けに叫んだものだから瞠若した。立ち上がろうとした腰を下ろすと、向かい合う彼女は上半身を起こしていた。暗影がその面持ちを覆っていく。深刻な顔をする理由には見当もつかず、首を傾げた。


「昨日……おまじない、かけられなかった」


「別に、妖異退治には出掛けてないしいいんじゃないか」


「よくない。かけるから。お願い、今すぐおまじないをさせて」


 震え声で哀願されては、その手を払ってないがしろにするわけにもいかない。大人しく頭を差し出してから、脳髄が灼ける痛みに弾かれて、身を引いた。今は彼女に触れられたくなかった。触れられてしまえば、隠した痛みを暴かれる。


 だが、あからさまに避けた方今の態度は不審だったろう。弥縫びほうする為の言い訳を口にするべく面を上げ、彼女が、彼女自身の手を見つめたまま、固まっていることに気が付いた。青びれていく頬が、僕の視線を浴びてハッと笑みを象った。


「ご、めん。寝ぼけてるのかな。おまじないの言葉が……思い出せなくて」


「……疲れてるんじゃないか。お前、流行病に罹ったみたいだぞ。どうやらあの病、過去に妖異を見たことがある者ばかり罹ってるらしい。完治後に妖異を視認出来なくなるって」


「なに、それ……普通じゃない人間を普通にする病、みたいな感じなの? それじゃあ、私はもうおまじないを使えないし、妖異退治も出来ないし、私……」


「別に、お前が戦わずに生きたっていいんじゃ──」


「よくないよ……! 朔と一緒にいられなくなっちゃうのに!」


 澄んだ硝子玉のような明眸が、濡れた眼差しで僕を射る。水面のごとく揺らぐ虹彩は容易く僕を縛り付けた。顔を背けられないまま、虚像の僕が彼女の涙に溺れていく。


 彼女の言葉を脳裏で糾返あざかえした。不可視の針に抉られる頭で、ひたすらに思議して、彼女の訴えを味解しようとした。


 案出される答えは、どんなに思考を巡らせてもただ一つ。否定しようがないほどに、この身に走る痛みが正答を突き付けてくる。


 無感情に吐いた息は、感情的にひどく揺れていた。


「それは、僕が妖異になるからか?」


 緘黙は、言葉よりも雄弁だ。澪の表情で、真実を悟ってしまった。痛む額に手を当てて、苦笑した。今に至るまで何度もソレに触れ、錯覚だと否定し続けた感触。前髪の下で浮き上がっているものは、紛れもなく、妖異の角だった。


「澪は、知ってたんだな。僕は……何も知らなかった」


「うん……私達、親同士の仲が良かったの。昔は私の両親が、朔の妖力を抑えるためにずっとおまじないをかけてた。でも、貴方は街からいなくなったお父さんを探して、お母さんと一緒に崖から落ちて。全部忘れちゃった」


 眼裏で回視したのは、簪を見ていた彼女。思いなだらむ彼女が、語り成した物語。


「……あの御伽草子は、僕のことだったのか」


「うん。……ねえ、朔の人生が悲劇になるなんて私は嫌だ。私はもっと、朔のそばで、もっとたくさん、貴方が笑うのを見ていたいよ」


 顰笑ひんしょうする澪の瞳の中で、彼女の見ている景色が、僕の像が、溶け出していく。彼女は僕の袖を掴んで離さない。滲んだ視界に呑まれてしまう僕を、繋ぎ止めるみたいに。


 大粒の涙を零してしゃくり上げる彼女の、乱れた髪をそっと撫でた。梳いてやる程度の弱さで、体温を伝えられるほどの強さで、撫でてやった。


「いいから、寝てろ」


「っでも、寝て起きたら見えなくなっちゃうかもしれないのに……!」


「そうしたら、手紙を書き合えばいいだろ。お前の想い人みたいに、良い文は綴れないと思うけどな」


 面食らったように、泣き顔がとたんに呆けていく。それがおかしくて笑みを向ければ、澪も破顔していた。涙痕を両手で拭った彼女が咲笑えわらう。綻んだ解語の花に愁眉を開いたら、彼女の体がこちらへ傾いた。


 僕の肩に顎をのせて、凭れかかったまま、澪は笑声を吹きこぼしていた。


「朔、もしかして私の文通相手に嫉妬してるの?」


「してない。茶化すな」


「だっておかしくって。私と文通してくれてたのは、貴方なのに」


 今度は、僕が目を瞠るほうだった。思い出せない過去の中で、言葉を交わせなくとも、妖異の血が流れていると知っていても、幼い彼女も僕と関わろうとしてくれたのだろう。昔を思い描くだけで、頬が緩んでいく。


 僕達はそのまま褥に倒れ込んで、他愛ない思い出話を交わし合い、眠りについた。


 次に目覚めた時、澪は僕の姿が見えなくなっていた。声を上げて泣き、憂き音に沈む彼女に手紙を差し出して、僕達の文通が始まる。綴られていくのは単なる無駄話や下手な絵が多い。一日に一通、と決めても結局何通も送り合うことばかりで、次第に筆談じみてくる。けれどもそれが楽しかった。


 いつの間にか立派になった角に触れて、文面に悩む。文字を見つめて微笑む澪に手を伸ばし、空を撫でて苦り笑う。


 そんな日々を送り、空から玉屑ぎょくせつが舞い落ちる季節になった。澪の誕生日が、近付いていた。


 簪が欲しい、と言っていたことを思い出して、澪が寝ている間に探しに行った。勁雪で覆われた地面に、いくつもの白片が溶けていく。銀世界が朝影を反射するものだから眩しさに目を細めた。


 開店したばかりの小間物屋を眺めていく。妖異に近い肉体が人に認められることはなく、店主が所在無げに欠伸をしていた。店先から店の奥までぐるりと見て回り、小棚の上で咲き誇る月下美人の綵花さいかを、ようやく見つけた。僕は代金を棚に置いて、その簪を握りしめ、帰路を辿った。


 澪の喜ぶ顔が見たくて、柄にもなく雀躍じゃくやくとした足取りで彼女の寝室へ駆け戻り──一通の手紙しか、向き合う相手がいなかった。


 取り落とした簪の琅琅とした音色と、拾い上げた紙の擦過音だけが、虚しく響いていた。



『見えることも、触れることも出来ない私が、貴方を縛り続けるのは間違ってる。だから、これで終わりにしたい。貴方はどうか、貴方の人生を生きてほしいの。だけど、一つだけ忘れないでほしい。絶対に人間の血を口にしないで。貴方が人の血を口にすれば、理性を失くして心まで鬼になってしまうから。どうか、貴方の綺麗な心を、失くさないでいて。私は、優しい貴方が大好きでした』


     *


 自分の人生など、僕には分からなかった。大切なものなど、この店にしかない。彼女と関わりのない道を選ぶことなど、出来なかった。


 少しだけ、恨み言を紡ぎたくなる。一人で何度も月の盈虚えいきょを眺め、日毎重なっていく彼女への想い。それを伝えるまで、この店とれ果つつもりはなかった。


 無人の店を壊そうとする人間を、幽霊さながらに脅かして追い払い、気まぐれに妖異退治をする日々。何百、何千も朝を見て、見飽きた満開の桜を、店の屋根の上から眺めた。無為に佇んで、やがて夜になる。


 頭上では彎月わんげつが、暗暗とした夜天に消え入りそうだというのに、下瞰した夜道は電気燈が普及したおかげで明るかった。


 洋装を纏った男が通り過ぎ、和装の女が歩き去る。真っ白な髪の老女が緩慢に石畳を踏んで、ふと立ち止まった。おもむろに、満天の星空を、僕を、見上げた。


 ──普通の人間は妖異を視認することが出来ない。幼子や、は、妖異を目睹することが出来る。


 僕は、老女の前に降り立った。からん、とくつが鳴る。彼女は見張った瞳を、だんだんと細めていった。皺だらけの目元が、あの空の月みたいにたわんで、泣き出しそうに震えた。


「どうして、ここにいるの……」


「良かった。見えてるんだな。お前なら、死ぬ前には帰ってくると思ってたんだ」


「私が、分かるの? こんな、おばあちゃんになっちゃったのに」


「分かるに決まってるだろ。何年お前を見てきたと思ってるんだ」


 夜燈に溶かされてしまう幻想のような、かつての少女のような、あだない微笑みが実体を持って現前に在る。その事実が喜びとなって肺を満たし、僕を息衝かせる。澪の掠れ声が夜風に運ばれた。


「私……朔と過ごした日々が、全部夢みたいだった。何も、持ち出さなかったから」


「……それなら、今日のことは、夢にしないでくれ」


 懐から取り出した簪が、街燈と月明りに濡れて煌めく。簪の花弁に似た白らかな柳髪を、指先ですくった。


 あの日より、ざらついた髪の感触。あの日より、低くなった背丈。あの日の面影を残したまま、月日を物語る一つ一つの変化を見つめて、微笑んだ。


「これは、お前が姿を消した日に渡すつもりだったものだ。付けてやる」


「そ、そんな可愛らしいもの、今の私じゃ似合わないでしょう……」


「そんなことない。いいから、後ろ向いてくれ」


 促すと、彼女はしとやかに口元を隠し、照れくさそうに眉を寄せながらも、後ろを向いてくれた。長い髪をまとめて、簪をさしこむ。そのまま捻って固定してやれば、終わりを感じて振り向いた彼女が、静かに一笑してくれた。


 僕は月下美人の花にそっと触れ、紅燭で色付いた頬を包み込む。柔らかな双眸が僕だけを見ていた。その瞳に僕が映っているのを確かめたくて、互いの睫毛が触れるほど近付いた。そうして耳元でささめく。この声が、しかと届いていることを感じ取りたかった。


「澪。お前と会えるのは、この時しかないと思った。だから、ここでずっと待ってたんだ。どうしても、もう一度だけお前に会いたかったから」


 掻き抱いた体は、花物のようにか細い。けれど抱き竦めた彼女は、冷え切った僕に熱を思い出させてくれた。震えながらも、僕の名前を絞り出した彼女の音吐。それが、胸郭を暖かく染めていった。


 人は、この温度を幸せと呼ぶのだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

御伽草子に簪を添えて 藍染三月 @parantica_sita

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ