第13話 その声の、柔らかさが好きだった。

「このままでは風邪をひいてしまうわ。この近くに小さな小屋がありますの。一先ず、そこで雨宿りをするのはどうかしら」

 平然とした顔で問いかけながら、ルーシーの内面はぐらぐらと揺れていた。ルーカスの細い指先が撫でていった感触が、まだ耳に残っている。

 頭を引き寄せられたときの力強さも、自分の意志とは関係なく心臓が高鳴る感覚も、触れていないのに感じた熱も。

 何もかもがはっきりと記憶に残っていて、気を抜いたら、叫びながら走り出しそうだった。ルーシーがこんなにも動揺しているのに、目の前のルーカスの表情はいつも通りに凪いでいて、それが余計に悔しい。

 宿った神の意志を感じたのは久々だったけれど、やっぱり碌なものじゃない。

 そもそも、神が体を動かしているときは夢を見ているようにぼんやりとして、思考や感覚が遠くなるのに、彼らが引っ込んだ途端にそれが鮮明になるのは、一体どういう仕組みなのか。

 いっそ、記憶も消してくれれば、こんな思いをせずに済んだのに。

「そうだな」

 平静そのもののルーカスは静かに頷くと、ルーシーの手を引いて立ち上がる。立てば、もう彼の手を握っている必要もない。ルーシーは火が出そうなほど熱を持っている頬を隠すように、繋がれていた手を解いて森の奥へと足を進めた。

 ぐるぐると至近距離で見つめたルーカスの瞳が頭の中を回る。触れられたところが外気に触れて冷えるから、その熱さを嫌でも思い起こしてしまう。

 ふに、と自分の唇に触れて、そこで我に返った。これではまるで、キスが出来なくて残念に思っているみたいだ。

(いえ、残念なのは確かだけれど。あの場で殺してしまえれば、これ以上帝国に留まる必要もなくなるのだから)

 カツカツカツ、と早足で歩を進めていたルーシーは思考に引きずられて、ピタリと足を止める。

(そう。残念で間違いないわ。決して、口づけに憧れがあったとか、そういうことではなくて、ただ、皇帝を殺せなくて残念という意味で。)

「よろしくて?」

「何がだ」

 自分に問いかけたつもりが声に出ていたらしく、すぐ後ろを歩いていた皇帝の声が返ってくる。

 心臓が、ほんとうに、喉から飛び出たかと思うほど、驚いた。

 目を見開いて、バクバクと脈を打つ心臓を押さえて、ルーシーはルーカスを睨みつける。

「あなた、どうしてそう、気配もなくわたくしの後ろに立つのかしら」

「気配を消したつもりはないが」

「昨日の夜もそうだったでしょう、わたくし、心臓が飛び出るかと思ったのよ」

「それは、すまなかった……?」

 ルーシーの怒りが理解出来ていないのか、ルーカスは半分首を傾げて謝罪を口にする。その様子にルーシーはますます苛立つ。

 雨のなかで喋ったから口に雨粒が入って不愉快だし、だんだんと寒くなってきたし、驚いたことを素直に喋ってしまったのも癪だし、急に話しかけられたくらいで驚いているのも、それに苛立ってルーカスに怒っているのも余裕がなくて自分が腹立たしい。

 ルーカスと居ると、感情が上下に揺れ動いて、制御がきかない。

「分かっていないのに、謝られると余計に不愉快ですわ」

 言葉を吐いてしまってから、これではまるきり理不尽にいじける子供だと気が付いて余計に恥ずかしくなった。なんでもいいから、とりあえずルーカスと距離をおきたくて、ルーシーはくるりと彼に背を向ける。

「あ、おい」

 追いかけるように伸ばされた手を振り払い、足を踏み出した先は、苔むした岩の上で。

 ずるり。

 踏み出した勢いの分だけ、ルーシーの体は横に流れる。反対側の足が地面を離れて、体が倒れる衝撃に、ぎゅっと、目を瞑った刹那――太い腕に、抱き留められた。

 耳元を熱い吐息が掠めて、ルーシーは瞑った瞼をゆっくりと開く。両足はぶらりと宙に浮いていて、ルーカスに腕一本で抱き上げられているのが分かった。ぎゅっと、ルーシーの体に回した腕に力をこめて、彼が、呟く。


「お転婆め」


 ――――その声の、柔らかさが好きだった。


 抱えられたまま、呆然と、ルーシーは彼を見上げる。髪の色も、目の色も、寝顔だって。

 全部が違う。

(でも――間違いなく、同じ声だった)

 最後に聞いたのは随分と前で、もう、頭の中でその声を浮かべることはできないけれど、聞いても分からないほど、記憶は遠くない。「抱えるぞ」ルーシーを一度も地面に下ろすことなく、横抱きにして、ルーカスは歩き出す。「ちゃんとつかまっていろ」その顔から目を逸らすことのできないルーシーの様子には気づかずに、彼は前だけを見据えている。

(オスカー、あなたなの)

 声を出したら泣き出しそうで、ルーシーは白い首筋にぎゅっと両腕を回して目を瞑った。



 二人がたどり着いた小屋は、その昔この辺りで薪を作っていた木こりのもので、中には一人用のベッドと机が一揃いと大きな暖炉があるだけの簡素なつくりだ。

 彼が前にリアムに渡されたという水を吸い取る魔法のかけられた布で、二人はまず体を拭いた。洋服の水分はすっかり乾いてしまったけれど、雨に濡れて冷え切った体を温めるような機能はない。寒さに震えるルーシーに自らの上着を着せて、小屋に僅かに残っていた薪に手早く火をつける彼の背中をルーシーはじっと見つめる。

(あれは、確かにオスカーの声だったけれど……でも、そんなのあり得ないわ)

 だって、オスカーは、ルーシーの目の前で殺されたのだ。

 あの日、星が見たくて真夜中に家を抜け出していたルーシーが焦げ臭い匂いに気が付いて家に戻ったとき、ちょうど、燃え盛る炎の前で皇帝が剣を振りぬいた。鮮やかな鮮血が舞って、切られた人影がルーシーを見る。その、青い瞳が笑うように細められたのを、ルーシーは確かに覚えていた。今も、鮮明に思い出せるほどに、強く。

(あのとき、確かにオスカーは死んだわ)

 ルーシーの目の前で。

 悲鳴もあげずに。

(そう、そうよ。彼が生きているなんて、まして、ルーカスと同じ人なんてあり得ないわ)

 同じ声だと思ったのがそもそも勘違いで、似ている気がするのも、なんにでも彼の面影を探してしまう癖のせい。それが一番現実的で、道理の通った考えだ。

 だって、意味が分からないだろう。

 わざわざ他人に成りすましてルーシーに近づいたかと思えば、その仮面を自分で殺す、なんて。魔女の協力を得られれば、そのくらいのことは不可能ではないだろうけれど、そんな馬鹿みたいな茶番をしかける理由がない。

 そんなことをしても、得られるのは、ルーシーからの恨みだけだ。

 そんな物に、いったい、どんな価値がある?

 たとえばルーシーが、怒るとぽろぽろ宝石を産むような体質だったなら分かる。痛めつけて、苦しめて、怒らせることに意味がある。外道の所業だけれど、動機に想像はつくし理解もできる。

 けれど、ルーシーは怒っても、恨んでも、せいぜい刺々しい言葉を吐けるくらいで、価値のあるものなんて、ひとつも生み出せない。

「もう少し、傍に来い。火はついたが、薪がたくさんあるわけじゃない。そう大きくはできない」

 だから、時間をかけて、そんなことをする理由がない。

「……ルーシー?」

「え?」

 名前をよばれて初めて、彼が自分の方を見ていることに気が付いたルーシーは目を瞬かせる。

「暖炉の傍によれ。さむいだろう」

「え、えぇ。そうするわ」

 曖昧に、微笑みを浮かべて、ルーシーは彼の隣に座った。間違いなくあれはオスカーの声だったと叫ぶ声を、そんなのはあり得ないと現実的な思考で何度も蓋をする。

 その間にも、彼は何かを喋っていたけれど、それがなんであったのかも、自分がなんと返事をしているのかも、よく分からなかった。屋根を叩く雨音のように、意識に登らない声が不意に途切れて、ルーシーはそこでようやく、暖炉に向けていた視線を彼に戻す。

 膝を抱えてまるくなる姿は子供のようだった。瞼はとじられて、ぐったりと力の抜けた様子から、彼が眠っていると分かる。

 不意に、彼がいつもしている革手袋が目に留まった。

 同時にオスカーの左手に刻まれていた太陽の痣が脳裏に浮かんだ。

 ルーシーはそっと、彼に手を伸ばす。彼が頭をのせている両腕は膝の上で組まれているものの、幸いなことに左手は外側だった。眠って力の抜けた左手の手袋を、指先から引っ張って、慎重に、ゆっくりと外す。

 知らぬ間に、息を止めていた。

 もともと日に焼けているようには見えないのに、輪をかけて白い手首が見えて、ルーシーはごくりと唾を飲み込む。一度、手が止まった。何も知らないままの方が、確かめない方が、幸せな気がしたのだ。

 ここで、なにも考えずに、目を瞑ってしまう方が、ずっと。

 でも結局、ルーシーは白い手袋を引き抜いた。


 その手の甲には、見慣れた、太陽の痣が、浮かんでいる。


 頭が真っ白になった。なにをどう考えればいいのかも分からなかった。ただ茫然と、その痣を、見つめることしかできない。

 この痣は、オスカーの体に刻まれていたもので、彼は死んだ人で。

 目の前にいるのはルーカスで、彼は、殺した人のはずだ。

 意味が分からないままなのに、じわりと視界が滲んだ。

 生きていたことを喜べばいいのか、傷つけられたことに怒ればいいのか、恨んでいたことを、謝るべきなのか。分からないまま、唇が震える。

「……ルー、シー?」

 震える空気に気が付いたのか、彼が薄く目を開いた。彼はルーシーが泣いているのを見ると

、驚いたように、僅かに固まった。

「どうした」

 涙を拭おうとしたのか、彼はまっすぐにルーシーに手を伸ばして。

 途中で、その手に、手袋がないことに気が付いた。

 左手に刻まれた太陽の痣が露わになっているのを見て、彼はすべてを悟ったようだった。

 けれど言葉はなく、静かに視線がそらされる。

「説明して」

 ルーシーは震えた声で強く訴えた。

「なにも分からないわ。あなたの考えていることも、あの夜に本当はなにが起きたのかも、あなたが誰なのかも……!」

 震えた雫が、ぽたぽたと床にシミをつくった。

「ねえ、どうして? どうして、オスカーが生きているの? 殺したはずの皇帝の手に、同じ痣があるの? あの夜からの、わたくしの四年間は、いったいなんだったの」

 ルーシーはぎゅっと、彼の白い手袋を握りしめながら言葉を並べる。手酷い裏切りだった。根付いた感情は簡単に消せやしないから、恋慕と憎悪がぐちゃぐちゃに混ざって、目の前の男に向いてしまう。

「説明して。ちゃんと、わたくしに分かる言葉で話して」

 ルーシーの目からぼろぼろと雫が落ちる。その光景に、彼は顔を歪めた。その顔が、本当に痛みを覚えているように見えるから、余計に苦しかった。そんな顔をしないでと、力なく殴りつけたところで、痛みは少しもマシにならない。絡まった感情は、少しも解けない。

 許せなくて。

 許したくて。

 愛おしくて。

 憎らしい。

「なんとか言ったらどうなの。話すこともないっていうの? こんなに、わたくしのことを泣かせておいて、言い訳のひとつくらいしてみなさいよ」

 少しも力の入らない手で、ルーシーは彼を何度も殴った。開かないドアを、何度もノックするような、不毛な暴力だった。

「どこからが嘘なの? あの家で過ごした時間も? ねえ、黙っていないで、何か話してよ。わたくしには、本当のことを話す価値すらないって言うの?」

 ルーシーは涙で溶けた瞳で、彼を睨みつける。

「そんな風に、泣かせるつもりは、なかったんだ」

 彼の手が震えながらルーシーの頬をなぞった。素肌が触れると余計に熱くて、痛かった。

「俺の望みは、ずっと。あの、雪の降る日に、お前を見つけたときから、ずっと」

 眉をよせて、顔を歪めながら、それでも彼の瞳から涙が零れることはない。

 太陽神に、涙を流す機能はないから、彼の悲しみは内側に降り積もり続ける。

「――――おまえに、殺されることだけだった」

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死を招く口付け 甲池 幸 @k__n_ike

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