第2話 皇帝の首を抱く覚悟はよろしくて? 国王陛下

「不死身の皇帝、ルーカス・リオン・ソレイユと最期の口づけを交わしておいで」

 そう言ったローガンがゆっくりと足を組み替えて、優美な仕草で玉座のひじ掛けに頬をつくまでの数秒間、ルーシーの思考はぴたりと止まっていた。けれども、悠然とこちらを見下ろすローガンが、仄暗い笑みを浮かべているのを見て、それがギチギチと油の切れた絡繰りよろしく動き出す。

「――――いま、なんとおっしゃいまして? 国王陛下」

 ローガン、ではなく、国王陛下と呼んだのはルーシーなりの気遣いだった。その言葉が、

憎い男と口づけを交わす、なんて極悪非道な命令が、数少ない友人の個人的な言葉ではなく、あくまで王としての命令だと示すための、ほんのささやかな気遣いだった。

「皇帝を殺せ、と」

 返った言葉にルーシーは首を傾げた。

 皇帝を殺せ、という命令はまぁ、いい。

 ルーシーにとっては世界でいちばん憎い男であるし、皇帝の治めるソレイユ帝国と長らく戦争状態にあるルナーン王国にとっては敵将である。殺したとて、損も害もない。恐らくは、その死を嘆く者も。

 問題は、その方法がないことだった。

「太陽皇帝は、その名の通り、神を宿して不死身となった男でしょう? いくらわたくしが万物を殺す者とはいえ、彼だけは殺せないわ」

 実際に触れてみたことがあるわけではないけれど、森の中の小さな家で暮らしていた頃に母代わりの魔女からルーシーはそう聞いていた。その言葉が嘘だとは思えない。

「それに、口づけを交わせ、がどうして殺せ、になるのかも分からないわ。だから、一直線に話すなんて、と最初に言いましたのに」

 ルーシーはわざとらしくため息を吐いて、言葉を続ける。

「一直線すぎて大事なところをみんな取りこぼしていましてよ? 国王陛下」

「足りないのは僕の話術じゃなくて、君の理解力の方だろう? 口づけを交わせ、が殺せ、になるのは、口づけを交わせば殺せるからじゃないか」

 はあ、とこれまた大きなため息をついて、ローガンは不貞腐れた表情でひじ掛けに頬をつく。その姿勢の悪さと表情で、せっかくの玉座も豪奢な服も台無しだ。ルーシーはローガンとは対照的にすっと姿勢を正して、わざとらしい呆れた顔をつくる国王陛下を睨みつける。

「――そう。「あぁ、怒っていても、君の美しさは変わらないね。我が愛しのルーシャ?」

 思い上がりの甚だしいローガンに、思いつく限りの悪態を綺麗な言葉で並べ立てようと口を開いたルーシーの出鼻をくじいたのは、彼と同じ年頃の若い男だった。

 日の射さない深い森の木々と同じ色の髪は短く整えられ、向かって左側の横髪を耳にかけている。唇には人懐っこい笑みを浮かべ、柔らかく垂れた目元の傍には泣き黒子がふたつ並ぶ。そこにすっと伸びた鼻筋をあわせれば、貴族の令嬢の中で彼に焦がれない者はいないとまで噂される美丈夫――ノア・ハリソン・フォンセの出来上がりだ。

 いつの間にか、玉座の間に入ってきていたらしい。

「あら、ごきげんよう。ノア。それで――覚悟は、できていて?」

 ルーシーがにっこりと笑みを張り付けて指先を差し出すと、ノアはふざけた笑みをおさめて跪いた。そのまま、なんの躊躇いもなく手袋に覆われたルーシーの細い手に口づけようとするものだから、ルーシーの方が驚いて肘を引く。

「そう怖がらなくても。麗しの君に触れられるなら、俺は命を投げ出したって構わないよ。おはよう、愛しのルーシャ。君は今日も花のように美しいね」

 ルーシーの手があった場所にそっと口づけて、ノアは顔をあげた。花のように柔らかな声で紡がれる、蜜のような言葉に、けれどルーシーが返したのは、決して上品とは言えない歪んだ嫌悪の表情だった。それを見て、ノアは綺麗な顔で弾かれたように笑い声をあげる。

「あっははは、いいね。ほんと、これだから君を口説くのはやめられないんだ」

「あなた、いい加減にしないとわたくしの前にフォンセ公爵に殺されましてよ」

「父上が俺を? ないね。あの人は俺を剣の前に差し出せる盾だと思ってるんだから。自分の身に危険が及ばないうちは、有用な盾を手放しはしないさ」

 酷く乾いた声でそう言って肩をすくめるノアに、ルーシーは小さくため息を吐いた。こんな時はとくに、自分の両手が忌まわしく感じられる。

(もしわたくしの両手がだったなら)

 そこに痛みがあることも忘れて、いつも通りの顔で笑って見せる友を、一人で立たせはしないのに、と。不甲斐なさとやるせなさを噛みしめて、ルーシーは目を伏せる。

「それで? 俺もオリバーも来ていない早朝に、国王陛下はルーシャと何の密談を?」

 空気を切り替えるように、ノアは立ち上がってローガンに向き直った。その表情は目に入る令嬢を端から口説く社交界の花から、国王陛下の右腕として国政に深く関わる黒の公爵家の長男に変わっている。

「口づけの話よ」

 居住まいを正して、ルーシーは端的に答えた。

「えっ。ローガン、まさか、君ついに? 嫌だな、そういう時は柱の陰からこっそり見守ってあげるから呼んでって前に言ったのに」

 キリッとしていた表情が途端、緩んだ顔に戻る。

「仮にそういう話だったとしてもお前だけは絶対に呼ばないし、今回はそういう話じゃないよ」

「なんだ、残念。ようやくローガンにも春が来たのかと思ったのに」

「なに馬鹿なこと言ってるのよ。今は秋よ?」

 二人の会話についていけずに、ルーシーは首を傾げた。「あぁ、そうだね」「うーん。これは、ローガンが苦戦するわけだね」遠い目をして頷くローガンと、苦笑いを浮かべるノアから、どうやら馬鹿にされているらしいことだけは感じ取って、ルーシーは眉根を寄せる。

「あら。お二人とも、そんなに死にたくて?」

 喧嘩はなるべく安く買いたたき、敗北を丁寧に支払うのがルーシー流である。幼い頃から幾度となく売ったつもりのない喧嘩まで買われてきたローガンはため息をついて額をおさえた。

「君に殺されるなら口づけがいいな」

「あなたに上げるほどわたくしの口づけは安くなくてよ」

「知ってるさ。だから、焦がれるんじゃないか」

「馬鹿ね」

「美しい令嬢を前にして愚かにならない人間がいるなら、ぜひ見せてほしいね」

「あら。あなた、玉座でしかめ面をしているひとが目に入らなくて?」

 ピン、と伸びばした人差し指でルーシーはローガンを示す。彼女が魔女と森に住んでいた頃から、数えられないほど言葉を交わしてきたけれど、ローガンがノアのような言動をとったことはない。

「…………あぁ。ウン、そうだね」

 歯切れ悪く頷くノアに首をかしげ、問いを投げようとしたルーシーの言葉を遮るようにして、ローガンがひとつ、大きな咳ばらいを落とした。

「そろそろ、本題に戻ってもいいかな」

 玉座のひじ掛けに頬をつくローガンの顔は、ほんの少しだけ、怒っているように見える。例えば、きゅっと寄せられた眉間の皺とか。にっこりと綺麗な笑みを浮かべる口元とか。その、ふたつが生み出す不協和音、とか。

「ええ。問題なくてよ。ローガン」

「そうだね、そうだった。俺は君の話を聞きに来たんだった」

 放っておかれれば、いつまでもくだらない言葉の応酬に興じるところだった二人は、さっと姿勢を正してローガンに向き直る。

「それで、口づければルーカス皇帝を殺せる、というのはどういうことかしら?」

 ほとんど忘れかけていた本題を、どうにか巻き戻した記憶から掘り起こして、ルーシーは笑ったまま怒っているローガンに疑問符を投げた。ひとつ、息を吐いたローガンは真面目な表情を浮かべ直すと、傍仕えが差し出した一冊の本をルーシーに差し出す。

 銀色の表紙に白い線で月と太陽の意匠が描かれた本だ。厚みは人差し指の先から二つ目の関節くらいまでで、どうやら古い本らしく中の紙は黄ばんでいて、端が丸くなっている。

「それは、僕の家で代々受け継がれている神々についての本だ」

「神様」

「そう、神様。この国にかつて居たとされる、太陽と月の神。その二柱がどう生きて、どう世界をつくって――――どんな風に、この世を去ったのか」

 ローガンの言葉に、ルーシーは目を見開いた。

「不死身の神が没した記録が、あるのね?」

 それならば、神を宿して不死身になった太陽皇帝も、あの憎き男も、殺すことができるかもしれない。

「あるとも」

 ローガンははっきりと頷いて、ルーシーの黒い目をじっと見つめた。星も、月もない。真っ暗な夜闇の瞳を見つめたまま、ローガンは短く息を吐いた。続く言葉を吐いてしまえば、彼女は皇帝の元へと行くだろう。

 彼を、殺すために。

 あの日から痛み続ける傷を、癒すために。

 行かないでくれ、と縋りつきたい心は、玉座には重く――。

「神話のなかで、太陽神、ソレイユを殺したのは月の女神ユノアの口づけだった」

 ローガンは、静かに息を吸って、続く言葉を口にするしかない。

「つまり、月の女神を宿したルーシャの口づけなら、不死殺しの再現ができると?」

「あぁ。僕はそう考えている」

 ノアの言葉にローガンは深く頷いた。そして、衝撃で固まるルーシーに視線を向ける。

「幸運なことにも皇帝は休戦協定の象徴として、我が国の姫を妃に、と望んでいる。僕は、その妃候補として、君を推薦するつもりでいる。……もう、分かるね?」

 そう問いかけるローガンの顔は真剣そのもので、ルーシーはこの話が嘘でも性質の悪い冗談でもないことを理解した。理解したから、頷く前に深く、息を吐く。

(殺し損ねれば、休戦協定が終わると同時に開戦するつもりのローガンに敵国の妃として殺される。上手く殺せたとして――わたくしは、こんな風に温かな場所にいることを、きっと、二度と自分に許せないわ。……あぁ、でも、だめね)

 ルーシーは静かに目を伏せる。

(二度と、この場所には戻れないと分かっても、それでもわたくし、あの男が憎いんだわ)

 長いまつ毛を震わせて、ルーシーは視線をあげた。目を合わせただけで、ローガンが自分の返答を理解したことが分かる。言葉などなくとも伝わるものがあるほどに、二人の重ねた時間は長かった。

「では、改めて命じよう、ルーシー・モンシャイン。これより二ヶ月の間に皇帝を籠絡し――不死身の皇帝、ルーカス・リオン・ソレイユに死を招く口付けを」

 ルーシーは玉座に座る友に向けて、美しく礼をする。

「その命、ルーシー・モンシャインが謹んでお受けいたします」

 そうして、ルーシー・モンシャインは紅の引かれた唇で挑戦的な笑みを浮かべて、引き返すことのできない道へと大きく一歩を踏み出した。

「皇帝の首を抱く覚悟はよろしくて? 国王陛下」



 ドレスを翻して華奢な背中が玉座の間を後にする。そのピンと伸びた背筋を見つめる国王に横目を向けて、ノアは浮かべていた笑みを消す。

「いいのかい? あんなことを命じて」

 君は彼女が好きなんだろう、と言外に匂わせれば、ローガンは目を伏せた。彼の血筋では穢れた紅だと忌み嫌われる深紅の髪が、その頬に影を落として、ノアからは彼の浮かべる表情が見えなくなる。

「僕の感情なんて、些末なことだよ」

 その声が震えているわけでもなく、ただ愛しさを滲ませているだけなことが面白くなくて、ノアは唇を尖らせて話の方向性を捻じ曲げた。

「君が彼女を好きって話じゃないさ。俺が言ってるのは、君はかつて、あの皇帝に憧れていただろう? ってことだよ」

 十四年前。この地にあった国がまだ、ひとつだったころ。

 ノアもローガンもオリバーも、そして、敵に変わった皇帝も。全員がまだ、幼く夢見がちな子供だったころ。

 目を輝かせて皇帝の後を追いかけていたローガンの姿を、ノアはまだ覚えている。

 ノアの言葉にローガンはゆるり、と視線をあげた。その瞳に映る怒気にノアは無自覚に笑みを深める。

(あぁ、本当に、君は虐めたときがいちばんイイ顔をする)

 その狙った通りの表情を引き出せて満足です、とでかでかと書かれたノアの顔を見て、怒らことに気が付いたローガンは知人の趣味の悪さに深々とため息を吐いた。

「お前に熱をあげてるご令嬢に、今のやり取りをそっくり全部見せてあげたいよ」

 そうすれば、性根の悪さに目が覚めるだろうに。

 ローガンが呟いた言葉は、一人悦に浸るノアにも、もちろん、彼に夢中なご令嬢にも届くことなく、真っ赤な絨毯の上を空しく転がって空気に溶けた。

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