死を招く口付け

甲池 幸

第1話 あら、国王陛下。気がお狂いになられて?

 世界でいちばん憎い男の顔を、ルーシー・モンシャインは毎晩、赤い炎と共に夢に見る。

 思い出のつまったレンガの家を揺らめく赤色がなめるように焼く。母代わりの魔女にもらった本も、輝く白いティーカップも、明日はご馳走よ、と魔女が張り切って集めた食材も。なにもかもが、夜の森の真ん中で赤い炎に包まれていた。

 その、真っ赤な景色の真ん中に、一人の男が立っている。

 夕暮れと同じ橙色の髪。

 血の気のない肌。

 白い皮手袋をした細い手。

 背を向けていた男がルーシーの気配に気が付いて、ゆらりと振り返る。橙色にぽっかりと空いた穴のような真白い瞳が、ルーシーを捉えた。そこだけ黒い瞳孔がきゅ、と細まって、ルーシーは思わず息をのむ。炎に照らされて赤く見える頬の輪郭を、どうしてか知っている気がしたけれど、そんな思い過ごしはすぐに男の声にかき消された。

「おまえ、俺が分かるか」

 男の声は酷い風邪を引いたばかりのように掠れていた。

「わたくしが世界でいちばん憎む相手ですわ」

 震えた声で、ルーシーは答える。彼が誰か、ルーシーは知っていた。彼の剣に、身にまとう豪奢な軍服に、あしらわれている太陽の意匠はこの国で彼だけが身につけることを許されている特別なものだ。

「そうだな」

 男は静かに目を伏せる。ルーシーの頬を雫が伝った。目を伏せていた男はそれには気づかずに、掠れた声で言葉を続ける。

「その憎悪、努々、忘れてくれるな」

 キッと、ルーシーは濡れた目で男を睨みつけた。痛みと憎悪が喉の奥で絡まって、まともな言葉がひとつも出てこないのが悔しい。言いたいことがありすぎて逆にひとつも声にならなかった。何度か口を開いて、何も言えずに閉じて。

 深く息を吸ったルーシーは、ようやく声を絞り出した。

「いいこと? あなたはいつか必ず、わたくしに殺されるのよ」

 それは宣言であり、予告だった。男は形の良い唇にほんの小さな笑みを浮かべて、ルーシーを見下ろす。

「あぁ――」



「ルーシー様。お目覚めになられておいででしょうか? 国王陛下がお呼びです」

 ベッドの上ででぼうっと夢の名残に浸っていたルーシーは聞きなれた召使いの声に、ため息を滲ませた声音で応じる。

「なあに、リリィ。まだ起きる時間ではないでしょう?」

「起きていらっしゃるようでなによりです。国王陛下がお呼びでございます。寝間着で構わないから今すぐ来てくれるかな? と」

「いやよ」

「国王陛下からのお呼び出しに否を唱えられる方はこの国にはおりません」

「行かないとは言ってないでしょう……誰が居るかも分からないあの部屋に寝間着で行くのは嫌だと言ったの。着替えを手伝ってちょうだい、リリィ」

「かしこまりました」

 言葉とほとんど同時に、凝った意匠がいくつも彫り込まれた扉が静かに開かれる。入ってきたのは黒いメイド服に白エプロンをあわせ、金色の髪を後ろでひとまとめにした女性だった。一重の目元は冷ややかで、口元のホクロは色っぽい。貴族の男児たちのなかでも美人と評判なルーシー自慢のメイドだ。

「おはよう、リリィ。あなたは今日も綺麗ね」

「おはようございます、ルーシー様。本日もお目覚めの瞬間から麗しくあられますことに、お喜び申し上げます」

 ぴくりとも口角をあげずにそう言って、リリィは天蓋付きのベッドの横に置かれた小さなデスクに、顔を洗うための水を優しく置いた。それに笑みと感謝の言葉を返したルーシーが水桶を覗き込めば、リリィはルーシーの長い髪を手袋をはめた手で柔らかく束ねてくれる。

 目は覚めるけれど、指先が痛くなるほどではない、ちょうどよい温度の水で顔を洗うと、ぼんやりしていた頭がようやくすっきりと目覚める。リリィが差し出したふかふかのタオルで水滴を拭いながら、ルーシーは今朝の呼び出しについて思考を巡らせた。

(彼の呼び出しが急なのは、今に始まったことではないけれど……)

 月を冠に頂くルナーン王国の現国王――ローガン・セオ・ルナーンは昔馴染みだからか、ルーシーに対しては遠慮も礼儀も忘れがちなのだ。

(それにしても、朝いちばんに、寝間着でいいから、なんて呼び出しは初めてだわ)

 なんの用件が考えられるか、ルーシーは最近のできごとを頭の中に並べ立てる。

 それは三ヶ月前に起きた国境線の小競り合いに始まり、ひと月前に日暮れの塔で行われた舞踏会に移り、舞踏会で帝国の女性からも黄色い悲鳴を浴びていた黒の公爵家長男に脱線し―――最後にはあと二ヶ月で期限の切れる停戦協定へと着地した。

「ねえ、リリィ」

 鮮やかな青色を白いレースがふんわりと覆い隠すドレスを着つけられながら、ルーシーは自慢のメイドに視線を向ける。動いて素肌が触れては事なので、顔も首も動かさず、本当に視線だけ。

「ローガン陛下は、他にはなんて?」

 ルーシーの自慢のメイドは目を伏せてコルセットをきゅっとしめながら、言葉を紡いだ。

「君に最後のチャンスをくれてやる、と」

「最期のチャンス」

「そうおっしゃられていました。私にはなんのことだかわかりませんが、私ごときに国王陛下の真意を尋ねる権限はこざいませんので」

「あら。あなたの問いにすら答えられない王なら、わたくしがこの手で殺してさしあげましてよ? リリィ」

「ルーシー様。今のお言葉はいくら陛下が寛大といえど、他のものに聞かれればタダではすみません。どうか、御身のために慎みください」

 貴女様の手には、本当にその力があるのですから。

 リリィの声は部屋中に敷かれた毛足の長い絨毯に吸い込まれるように低かった。

「そうね。失言だったわ、忘れて頂戴」

 ルーシーはなるべく軽い口調でそう言って、自身の両手に目を向けた。

 その手は年中、白い手袋に二の腕まで覆われている。日に当たると七色に輝く綺麗な手袋だ。これはその昔、ルーシーがまだ王城に住む貴族なんてものではなかったころに、ある人にもらったものだった。もらったその日以来、ルーシーが手袋を外したことはない。

 着付けを終えて、リリィがルーシーから離れる。それでルーシーはようやく、詰めていた息を吐いた。

「よかった。今日もあなたを殺さずに済んで」

「ルーシー様の温度を知ることができるのなら、例え死すとも本望にございます」

 無表情で言ってのけるリリィにルーシーは静かに微笑んだ。

 リリィは、ルーシーの温度を知らない。彼女がモンシャイン家に仕えはじめて早十数年、ルーシーの傍仕えになってからは既に四年近い年月が過ぎた。それでもなお、彼女はただの一度もルーシーに触れたことがなかった。本当に、一度も。ほんの小さく、爪先ですら。

「いやよ。わたくし、あなたを気に入っているもの」

 笑うルーシーに唇を歪めたのはリリィの方だった。美人のメイドの、悲しそうな表情すら美しいことにルーシーは笑みを深めて、手袋と小指の太さの空気を挟んでその頬を撫でる。温度も感触も、力の強さも。何一つ伝わらないまま、優しさだけが空気にのってリリィに届く。

「存じております、ルーシー様」

 優しさだけは届いてしまうから、リリィはそう答えて、目を伏せるしかなかった。



「お呼びですこと? ローガン陛下」

 綺麗に髪まで結って、ルーシーは玉座の間へと足を運んだ。玉座まで伸びる真っ赤な絨毯の中ほどまで進んで、ルーシーは恭しく国王陛下に頭を下げる。人払いを済ませたのか、いつもは絨毯の両側に陣取っている白と黒の公爵家の長男たちの姿はない。玉座の間にいるのは、ルーシーと呼吸の音すら殺しているリリィと、国王の傍仕え、それから国王陛下ローガン・セオ・ルナーンの四人だけだった。

 がらんと広い玉座の間に、国王陛下の声は朗々と響く。

「僕は寝間着でもいいから早く来いと言ったつもりだったけれど、ずいぶんおめかししてきたんだね? ルーシー」

「あら。我が愛しの国王陛下に会うのですから、身支度を整えるのは当然の礼儀ですわ」

 にっこり笑ったルーシーの言葉に、玉座に座ったまだ若い男が呆れを多分に含んだため息を吐いた。月夜に咲く薔薇と同じ深紅の髪は顎先で切りそろえられ、向かって右側だけが耳にかけられている。瞳は夜闇にぽっかりと浮かぶ満月と同じ白さで、彼の血筋を顕著に表していた。

 彼が座る玉座に戴くのは三日月の紋章。

 太陽と対を成すそれは、神話の上では不死身の全能神から生まれた死を司る女神の意匠であり、もっと身近なところでは、太陽を神と仰ぐ皇帝の懐刀として名を馳せ、十四年前に皇帝を裏切り建国を成した――月の王家、ルナーン家の家紋でもある。

「さて。君がゆったりと身支度をしていたおかげで、「失礼な殿方ですこと。これでも目一杯急ぎましてよ」――ともかく、今の僕らには雑談の時間もない。早速だけど、本題に入ろう」

「一体いつ、あなたとわたくしの会話が、一直線で終わったことがあるのかしら」

「今日、初めてそうなるさ。僕の話を聞けば、ね」

 ゆったりとした仕草で国王陛下は長い足を組み替える。膝に引っ掛かっていた鮮やかな白い肩掛けがはらりと舞った。

「二か月後に休戦協定が切れるのは、もちろん知っているだろうね?」

「ええ、もちろん。存じておりますわ」

「僕はこの協定を最後の休戦期間にするつもりでいる」

 ルーシーはじっとローガンの白い瞳を見上げた。

「正気でして? ローガン」

「正気だよ。狂っていては、あの皇帝相手に戦争なんて仕掛けようがない」

「そう。やっぱり、降伏ではなく開戦をえらぶつもりなのね」

「君は、僕に父上の仇を許せと?」

「言ってないわ。ただ、戦争は同じ悲劇を生むだけだと言っているのよ」

「……そうだね。だから、僕は今日、君を呼び出したんだ」

 目を伏せたローガンの言葉にルーシーは首を傾げた。休戦協定の継続ではなく、開戦をえらぶというのなら、ぬくぬくとダンスのレッスンに明け暮れているルーシーを呼び出すよりも、いつも引きつれている公爵家の嫡男たちと話をする方がよほど有益だろう。彼らならば、戦争をより優位に、より被害のでない方向で進める冴えた考えをたくさん持っているに違いない。

「ルーシー、君が世界でいちばん憎んでいるのは誰だい?」

「太陽皇帝、ルーカス・リオン・ソレイユ、その人ですわ」

 世界でいちばん憎い、あの家を焼いた男。

 世界を統べる神様をその身に宿し、不死身となった愚かな皇帝。

「今でも、彼が憎いかい?」

 ローガンは伏せていた視線をあげて、ルーシーを見た。ルーシーもまっすぐにその白い瞳を見て、答えた。

「ええ。この手で、殺してさしあげたいほどに」

 けれど、それは不可能な話だった。

 不死身の皇帝は、誰にも殺せない。

 たとえそれが、触れたモノすべてを殺す、呪われた少女であっても。

 太陽を模った全能神から生まれた、月の女神のうつしみであっても。

「そうか。それじゃあ君に、最後のチャンスをあげよう」

 そう言って、ローガンは薄く笑った。まるで笑顔には見えない、痛みをこらえるような笑みだった。

「ルーシー・モンシャインに命ずる。これより二ヶ月の間に皇帝を籠絡し――」

 何かを振り払うように強く、ローガンが人差し指でルーシーを示す。

「不死身の皇帝、ルーカス・リオン・ソレイユと最期の口づけを交わしておいで」



「――――――――――――――いま、なんとおっしゃいまして? 国王陛下」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る