シェア

凛道桜嵐

第1話

一人娘が結婚した。

今日は結婚式だ、朝から娘の為に右往左往しながら準備する。

娘が夫となる彼と二人で挙式を決めてウエディングドレスも決めたのだから、私は来客の挨拶だけだと思っていたが、朝から呼び出したと思ったらメイクが決まらないだの髪型はこれで良いのかだの色々聞いてくる。

私は今の結婚式用の髪型もメイクも分からないから急いでスマホで調べながら飾りをもう少し下に付けたらと言っては微調整させられる羽目になった。

ゆっくり結婚式を迎えるつもりが朝早くからバタバタさせられる。

娘のこの一面はいつも通りと言ったらいつも通りだがこんな姿を見ると本当に結婚したのだろかと不思議に思える程だった。


娘が生まれたのは1988年7月。

初夏に生まれた彼女は暑くなる夏前に暑苦しい声を大きな声を上げながら生まれた。

私は夫が見守る中出産をしたが夫はほぼ頼りなかった。

こっちが痛がっているのに

「どうしたら良いのか分からないから教えて。」

と言うだけで何もしてくれない。

こっちが1から100まで教えてくれるのを待っているかのような眼差しで見てくる。

私はその顔に腹が立って仕方無かった。

仕事でもこの人はずっと待ての姿勢なのかと思うと仕事の仲間に感謝しかないと憎たらしい考えをしながら陣痛に耐えた。

陣痛は丸一日続いた。なかなか産道が開かず出産室に入れて貰えなかったのだ。

私は波ある痛みに耐えながら夫の頼りない姿に怒りを沸々と感じながら産道が開くのを待つ。

そうして生まれたのが娘だ。

生まれてすぐは疲れ切っていてちゃんと顔を見れなかったが、夫は泣きながら娘を抱っこした。

「なんで泣いているの?」

と聞くと

「だって、こんな素敵な場面に出会えるなんて奇跡だよ!有り難う。」

と言われて私は先程までの夫への憎しみがスッと消えこの人と結婚して良かったと思った。

娘は普通の赤ちゃんよりは少し小さめに生まれた。夫に抱っこされながら小さい手を一生懸命動かしている姿は愛おしかった。

赤子の世話をするのは想像よりも大変だった。

夜泣きは勿論だが1時間置きに泣く娘は何に泣いているのかも何が不満なのかも分からず、毎日が眠さとの戦いで大変だった。

夫は仕事から帰ると寝ている娘を抱っこするので私は何度も夫に怒る事が増えて夫との関係がギクシャクした。

しかし、やっと寝てくれた娘を起こし泣いたら私に預けてくる姿勢は未だに思い出しては腹が立つ。娘は玩具では無いのだから好きなように遊べば良いと思っている姿に腹が立つのだ。

私は実家には頼れ無かった。理由は実家の母と性格が合わなかったから。

母は何でも決めつけてくる人だった。

私が好きな人が出来た時も恋の話を母にした時

「この人は駄目、きっとあちらこちらで女を作るわ。もっと生真面目な人にしなさい。あんたは見かけで選ぶから変な男を好きになるんだ。見かけが良い男は遊びたがる事を学びな!」

と言って来たのでそれがきっかけで母に恋の話をすることを止めた。

他にも

「あんたの大学ここにしな!・・・え?こっちの大学を受けたいだって?だめだめ!あんたの学費は親が出すんだから母さんの言う大学を受けな!」

と言って大学は無理矢理変えさせられた。

こんな事が毎日で友達も母が選んだ人じゃないと遊ばせて貰えなかった。

母は私の為に言ってくれてるのは分かるが私は縛られるのが嫌で18歳の時に家を出て一人暮らしを始めた。

私はそんな母に赤子が生まれたことを伝えると

「名前は杏にしな!あんずだよ!あんず!」

と言って労いの言葉もくれなかったので母は母だと思って孫が生まれたから少しは変わるのかと思っていた性格は変わらなかった。

その性格は死ぬまで変わらなかった。

娘を連れて何度か帰省をしたが娘も嫌がるほど

「女とはー」

とグチグチ言うものだから娘は

「おばあちゃんあまり好きじゃ無い」

と言って帰省をするのを嫌がりついに娘は母の元に行くことが無くなった。

それが母は腹が立つのか

「あの子は親不孝者になるよ、あんたの育て方が悪かったんだ。」

と言うようになり段々余りにも娘をバカにするので私は生まれて初めて母と大喧嘩をした。

母の娘というよりも娘の母として子供を馬鹿にする人は敵だと思ったのだ。

それがきっかけか元々母は決めていたのか施設を決めて早々に実家を売り施設に入居した。私は母の事も父の事も好きだったので世話をするつもりで居たが、父が病気が見つかって入院を繰り返し身体が動かなくなって来たのを機に二人して施設に入居したのだ。

私は何でもかんでも勝手に決める母が決める姿を嫌いだった。

施設もそうだが自分の葬式すらも決めて私には何も手伝わせてくれなかった。

母が亡くなったのは施設に入って暫く経過してからだった。

元々私は両親が高齢になって生まれた子なので両親の死は早くに経験することは分かっていた。でも母は思っていたよりも何倍も早くガンで亡くなった。

闘病生活も一切関わらせて貰えず、最期まで母は何もかも自分で決めて亡くなった。

そんな母のようにはならないようにと私は娘には一緒に悩んで一緒に考えて決める教育をした。

学校で嫌な事があった時、ご飯を作り途中でも親身になって一緒の目線で考える。時には人生の先輩としてアドバイスをするようにした。


私は夫とは娘が中学生に上がる時に離婚した。

理由は夫が浮気したからだ。私は娘が出来てから夫婦の会話は娘を通してしかしていなかった。夫は最初は一生懸命育児に参加してくれていたが段々それが嫌になったのか、飽きたのか外で趣味を見つけてそこに通うようになった。

テニスやゴルフを好きな時にする夫を見ると羨ましい気持ちから憎しみがモソモソと生まれてつい口を聞けば嫌みを言ってしまう。

そんな自分が嫌で私は娘が3歳になった時を機に仕事復帰した。

仕事をしてからは幸せで夫の事が気にならなくなっていた。そんな日々が続いたある日に夫から離婚して欲しいと言われた。

他の人を愛してしまったと言われた時私は泣きながら夫を責めた。

育児を手伝うという名ばかりで何もしなかったのに娘がこれから受験という年齢になってきている時にそんな事を言い出すのが腹が立って泣きながら夫にこれでもかという位暴言を言った。

夫は黙って下を向いていたがその態度が余計に腹が立って、私は

「出て行け!」

と言って夫を追い出した。

娘はお父さんが居ない事に気づいたが、女の子の心の成長は早く離婚という言葉を素直に受け止めて

「私これからお母さんの旧姓名乗れば良いの?」

と聞いて来た。

我が娘ながらさっぱりした性格だなと思ったものである。

そんな娘の親権はもちろん私になった。弁護士を交えての話合いで私は慰謝料を浮気相手にも請求した。

どうもその金額がきっかけなのか夫とは別れたと後々に風の噂で聞いたが、私にはどうでも良かった。

しかし、夫は良き父親ではあった。娘は浮気した元夫が許せないから会わないと決めたらしく私に隠れて会うという事は無く、逆に元夫から娘に会わせて欲しいと連絡が来るほどだった。

元夫はきちんと養育費を払ってくれた。

「浮気をしたのは自分だが父親では居たい」

と身勝手な事を言っていたが、私はもうその頃には元夫への未練は無かったので戯れ言を言っているとしか思えなかった。

因みに娘にもチラッとその話をすると

「ふざけているんじゃない?父親でいる資格なんて自分から捨てたのに。」

と言っていたので私のこの感情は間違っていないと信じたい。

娘は母としてこんなに褒めるのは変かもしれないが、気遣いが出来て私と違って物事をハッキリしている子だった。

歴代付き合ってきた彼氏に対しても嫌なものは嫌だとハッキリ言えて別れは決まって娘から言っていたらしい。

私はそんな娘を尊敬していた。

理由は私は母の教えから自分で物事を決めるのが苦手だったからである。


娘はお洒落な子だった。私は20歳の時の子だからか他のお母さんが出来ないメイクも服もいつもシェアをしていた。

年齢は離れていても服はいつも私の真似をして

「お母さんこの服一緒に着ようよ」

と言っては私におねだりするのだ。

私は娘の服を着る時は少し恥ずかしさもありながら若返った気持ちにもなった。

「この服借りても良い?」

と聞くと決まって

「良いよ、その服に合う他のアクセサリーも見つけてきて。」

と何かしら強請られた。そんな娘と共有はメイクでもあった。

「お母さん、オレンジのチークいる?私オレンジチーク可愛くて買ったはいいけれど肌に合わなかったんだよね。」

「私は逆にピンクのチーク買ったけれど合わなかったから交換したい。」

と娘と化粧品を交換することも屡々あった。

他にもシャンプーやリンスもシェアしていた。

「お母さんのシャンプー良い匂いだから使ったけど、少し髪がゴワゴワするね。」

と後から報告される事があったが、私は娘のシャンプーは黙って借りていた。

娘とは社会人になってからも関係は良好だった。一人暮らしをしたいんじゃないのか?と聞いても

「お母さんの傍にギリギリまで居たいし、東京の家賃は高い」

と言って一人暮らしをしなかった。

娘が後に結婚相手となる彼氏を見つけたのはマッチングアプリだった。

私の感覚ではアプリ一つで出逢えるなんて事は考えも思いつかなかったが、娘の中ではそれが普通のようだった。

ただ、中には変な人も居るようで

「今日来たメッセージにこんな事を送ってきた人が居るの!お母さん聞いて!!」

と言っては私にそのメッセージを見せてくる。

直接アプリを通してとはいえ、対面では無いからか中には酷い事を言ってくる人も居るらしい。

そんな中で出会ったのが今の彼氏である。

娘が彼氏が出来るのはこれが初めてでは無いが少し寂しい気持ちになった。

母の勘ではこの人が最後の彼氏になるのだろうと思ったからである。

私の勘は当たり、娘は結婚前提に29歳の冬にその人と付き合うようになった。

娘の彼氏は娘とは違って冷静に物事を見れる人だった。娘の少しキツイ性格も大きい器で受け止めてくれる人だった。

そんな人がアプリの中に居るのかと私は最初は疑って娘が騙されているのではと思ったが実際に会ってみるとそんな事は無く遊び人とも思えないくらい地味な子だった。

娘の好みが派手な子から地味に変わって少し驚いたがきっと年齢も年齢だから落ち着いた雰囲気の子が好みになったのだろうと思うようにした。


娘は派手な子だった。

化粧品売り場で働く娘を何度かこっそり覗きに行った事がある。

娘が忙しそうに品出しをして接客をしている様はどこか別のお嬢さんに思えた程だった。

少し前まで流行したコロナも落ち着きを見せたお陰かマスク無しで楽しそうに働いている娘を誇らしく思った。

私も負けていられないと思って仕事に戻っては娘のようにハキハキと働いたもんだ。

娘はそんな職場で得た知識なのかメイク道具を沢山集めては

「お母さん、この道具で明日メイクしてみて感想教えて。」

と言って来た。

私は

「何でその道具縛りなの?」

と聞くと

「お母さんくらいの年齢の人に勧めたい商品を探しているのよ。なかなか無くてどうしたら良いか分からないからお母さんのアドバイスが欲しいの。」

と泣きつく姿は昼間見たあの娘の姿から想像が出来ない、ただの私の娘に戻る。

そんな娘の姿に少しホッとして私は次の日に娘から貰った道具でメイクをした。


娘は食べ物でもシェアするのが好きだった。

私はいつもレストランに行くとメニュー表を見ていつも二つの食べ物に悩む癖があった。そんな私の性格を知っているからか、その二つを頼むと娘は半分こにしてはお皿に盛り付けて私に渡してくる。

私はお礼を言いながらその二つの食べ物を味わうことが出来た。

娘に一度だけ聞いた事がある。

「貴方が食べたい物を頼んで良いのよ、お母さんの好きな物じゃなくて良いのよ。」

と言うと

「別にお母さんの好きな物だから頼んでいるわけじゃ無いわよ。私が食べたいと思ったからシェアしただけよ。」

と返された。

本心なのかそれとも優柔不断の私に気を遣ってからなのか分からないが、娘のその言葉をそのまま受け止める事に私はして有り難くその日も食べ物をシェアしたのだった。

娘は好き嫌いがハッキリしている子だ。

食べ物もこれは嫌いと言っては必ず残す物がある。

それはキノコ類。どんなに小さく入って居ても見つけ出してはそれを端に寄せる、または私に押し付ける。基本は残すのは勿体ないと言って私に押し付けてくる。

私はそんな娘にブロッコリーを押し付ける。

昔からブロッコリーだけは食べられず、それでもお弁当や食卓を緑色で飾るには一番簡単なブロッコリーを買わざるおえない。

お弁当の時は私は必ず娘の方に多くブロッコリーを入れて一個を丸々使い切れるように計画を立てていた。

最近は便利で冷凍のブロッコリーがあるようだが私はいつもなんやかんやで丸々一個のブロッコリーを買ってしまう。


そんな色んな事をシェアしていた娘が結婚した。

29歳で付き合ったのに結婚するまで少し時間が掛かったがそれで二人が納得するのなら良いだろうと私は何も口出ししなかった。

娘が35歳になるまで結婚を渋ったのかもしれない、それとも相手側の何かあってその年まで待たせたのかもしれない。それは私には分からないが一つだけ分かる事は結婚式が終わったら娘は私との生活を終え新たな生活を送る為に引っ越しをすることだ。

娘が居なくなった後の家の事は想像してしまうがなるべく考えたくないと思ってしまう。

この年齢になっても一人は寂しいものだ。

近くに娘は住んでくれるがきっと一緒に何かをシェアして生活をするのは無くなり、娘に子供が出来たらそれこそ私は蚊帳の外になる。

娘がウエディングドレスを着た娘に

「今日のメイク少し地味すぎない?もう少しピンク足そうよ、お母さんのアイシャドウ持って来ているから貸すからもう少し瞼に塗ってみたら?」

と言うと娘が

「やっぱり?私もそう思ってた。お母さんナイス!アイシャドウ貸して~後さチークもう少し足したいんだけどどう思う?」

と聞いて来る。

「チークはどうだろう、アイシャドウを濃くしてみたら意外とそれくらいの薄さで丁度良いかもしれないよ。」

と言うと

「そうしてみる」

と言って娘は鏡を見ながらアイシャドウを塗っていく。

その仕草は毎日メイクをしているからか手慣れた手つきだ。

昔折り紙が上手に折れなくて泣いていた手つきとは思えない程しっかりした手つきに変わっていて私は娘の成長を感じた。


娘の準備が終わると私は娘の旦那さんを部屋に呼んだ。

娘の旦那さんは娘を見るなり

「本当に綺麗」

と言った。その姿はまるで宝石を見つけた冒険家のような顔だった。

娘は少し恥ずかしそうにしながら

「ありがとう」

と返していた。その姿は私の娘というよりも綺麗な花嫁さんだった。

娘達を私は部屋に残して来客の手伝いに私は式場に向かった。

そこにはかつての夫も参加していた。

「あの子は大丈夫か?」

と白髪交じりになった元夫は娘の緊張具合を確かめながら自分が一番緊張しているようだった。

「大丈夫よ、今は控え室で旦那さんと話をしているわ。」

と答えると

「良かった、今日本当に僕も一緒に歩いて良いの?」

と聞いて来る。

「ええ、だって娘の願いなんですもの。一緒にバージンロードを歩きたいって。」

「本当にありがとう。ここまで娘を育ててくれて本当にありがとう。僕は本当に何も出来ないかったし、資格を自ら捨ててしまったから。」

と涙を流すかつての夫は昔娘が生まれた時に涙を流していた姿に重なって、ああこの人は裏切ったけれどもあの子の父親で良かったなとしみじみ思った。


「お母さん、お父さん準備は大丈夫?」

とバージンロードを歩く為に式場の扉の外で娘が私達に話しかける。

「大丈夫よ。」

と私が答えると元夫も娘の晴れ姿を見て涙を流しながら頷く。

娘は私達を見ながら

「今日は最初で最後のワガママが言いたかったの。最後にもう一度三人で一緒に手を繋ぎながら歩きたかった。私の友達にも旦那にも旦那の家族にも私の家族という物を見て欲しいの。」

と言った。

元夫は感極まって涙をボロボロ流している。

「お父さん、本当にあんな一時の感情に流されて二人を悲しい思いさせて本当にごめんな。」

と言う元夫に対して娘は

「そんなのもう良いの。今そんな事を言っても過去は変えられないし、私は過去があったから今の私が居ると思っているからもう良いの。今日は笑顔で私の式を見て欲しいの。ね?お父さん笑顔だよ!」

と無理矢理笑わせようとする姿は幼き頃の娘そのものだった。

どんなに化粧で綺麗にしても、どんなに美しいドレスを着ても私達を想うその姿はかつての面影を残していた。

私はそんな娘に

「私の娘に産まれてきてくれてありがとう」

と素直に伝えた。

その言葉を受け止めた娘は少し泣きそうになりながら

「ちゃんと後で思いを込めて手紙を読むから今は返事しないよ。」

と言って涙が零れそうになるのを耐えていた。

娘が望むバージンロードは三人一緒に手を繋いで歩く事だった。

私達は昔のように娘を真ん中にして三人で手を繋いでバージンロードを歩いた。

娘は小さい子のようにして両手をブンブン振り回して歩いていた。


「お父さん、お母さんへ

35歳のこの歳まで育ててくれて本当にありがとう。

お父さん、お父さんはとても感情が豊かな人でした。私は両親が離婚した時の事を今でも覚え居ています。お父さんが泣きながら私を抱きしめながら謝り続ける姿に幼いながらどうして自分のミスをあたかも私達が押し付けたようにして被害者面をするのかと思っていました。本当は冒頭でこんなキツイ事言いたく無かったけれども、最初で最後の私の思いを聞いてね。私は裏切られた後もお父さんの事が好きでした。

小さい頃に一緒にセミ取りをしてお母さんを驚かせた時も、一緒にシャボン玉を吹いてベタベタに服をした時にお母さんに怒られた時も、一緒に私と居るときは全力で遊んでくれるお父さんが大好きでした。

お父さんは毎年誕生日には連絡をくれたね。毎年0時ピッタシに送ってくるものだから彼氏が出来ても親友が出来てもお母さんよりも一番に誕生日を祝ってくれるのは決まってお父さんでした。お父さんがいつも笑顔で過ごしてますか?という文を送ってきてくれるのが私は好きでした。

お父さんは泣き虫だからお父さんこそ笑顔で過ごして欲しいのにいつも会う度に大きくなったねと言っては涙を流すお父さんが私は大好きです。

お父さん、別々に暮らしてもなお私の成長を見守ってくれてありがとう。

・・・お母さん。

お母さんには沢山苦労を掛けたね。それこそ一人で子供を育てるのは大変だったよね、それでもお母さんは笑顔でいつも居てくれた。私が学校で起きた出来事も全て親身になって聞いてくれて一緒に考えてくれた。

お母さんはいつも笑っていたけれど泣いている時は殆ど記憶にないの。

お母さんが本心で私と接していないんじゃないかと思った時もありました。

でもただ単にお母さんは涙を流すよりも笑顔でそれを受け止める方が楽なんだと知った時はお母さんの強さに私は尊敬し、私もそんな女性になりたいと目標にもなりました。

お母さんとは沢山色んな物をシェアして行ったね。食べ物も洋服も、メイクも。

友達にその話をすると友達みたいなお母さんで良いなーと羨ましがられて実はひっそり自慢していました。

私のお母さんは何でもわけっこ出来る人なんだぞというのが私の密かな自慢でした。

そんなお母さんとお父さんの子供に産まれて私は幸せでした。

これからは別々の生活を送るようになってしまうけれども、お母さんの家に頻繁に帰ってはまた沢山シェアしていくので覚悟しておいて下さい。

お母さんもお父さんも私は独りにするつもりは無いので。私は私の愛で二人をこれからも愛し続けます。

本当に35年間有り難うございました。」

娘の最後のワガママを聞いて私はシェアも如何な物かと思うがそれでも嬉しいと思うのはこんなワガママな娘を待った母の宿命なのかもしれない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シェア 凛道桜嵐 @rindouourann

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ