第33話

 皓宇は日が暮れるまで後宮の中に留まった。様々な人から話を聞いて皓宇が後宮に対して抱いた印象は【不穏】である。話を聞けば聞くほど、誰を信じていいのかわからなくなっていく。疑心暗鬼になる噂話ばかりが蠢いていた。


「本物の太子様は5年前に亡くなっていて、今の太子様は孟氏が用意した別の子供だ」

「以前貴妃がご懐妊されたとき、嫉妬に狂った皇后が貴妃に毒を盛り貴妃は流産した」

「皇后の腹にいる子は皇帝陛下の種ではない」

「春依様は気がおかしくなって、死体を検分する医官の真似事をしている」

「公主と太子は姉弟という関係を飛び越え、夜な夜な密会している」


 皆、口を開けば悪口ばかり。母が後宮を出たがった気持ちが今になって嫌と思うほどわかった。体の疲れより、心の疲労が溜まってしまった。今晩はこれまでにしておこう、と皓宇は帰路に着こうとする。誰もいない暗くなった廊下。灯りを持ちそれを頼りにしながら進むと、向こう側から話し声が聞こえてきた。


「だから、お前は魅璃ちゃんとどういう関係なんだよ」

「ただの顔見知りだってば」

「本当にそれだけか? それだけなら、同室の女官ちゃんたちがお前にこんな頼み事するか? あ?」

「あー! うるさいな! ウチ一人で探すから着いてこなくていいってば!」


 聞き覚えのある声、一人称。皓宇は足を止め、無意識に笑みがこぼれる。言い争うような声はどんどん近づいてきた。


「魅璃ー。どこー……って、わぁ!」


 朱亜だ。皓宇の姿を見て、まるで目玉が飛び出そうなくらい驚いている。隣にいる宦官は勢いよく頭を下げた。朱亜も慌てて頭を下げる。ここでは二人は【他人同士】なのだから、皇子である皓宇のことを敬わなければいけない。彼の【皇子の証】でもある金色の髪は、灯りを反射してまばゆく輝いていた。


「皓宇皇子殿下! 大変失礼いたしました!」

「いい。2人とも顔をあげよ」


 朱亜は言われた通りすぐさま顔をあげたけれど、隣の宦官はじっと動かない。


「燈実さん、大丈夫だって」

「お前、態度でかいな! 不敬だぞ!」


 燈実と呼ばれた宦官は朱亜の頭を叩く。それを見た皓宇は苛立ちを覚える。しかし、燈実も朱亜もそれに気づいていない。


「皇子殿下なんて初めて見るぞ、おい。……あ、皇子殿下、後宮にどのような用事でしたか?」

「調べ事だ」


 皓宇は颯龍から渡されていた書状を見せる。燈実は口をあんぐり開けていた。


「丁度いい。そちらの者、手を貸してくれ」

「え、ウチ? いや、私がですか?」


 皓宇は頷く。しかし、2人の間を燈実が割って入ってきた。


「いやいやいや、ここは私が。この者はまだ新人ですので役に立つかどうか」

「いや、皓宇……殿下はウ、私を指名してるんだから! 燈実さんは魅璃を探してきたら!」

「そうだ。彼一人いれば十分だ、君は早く来なさい」


 その声はいつもの皓宇の声と比較すると少し冷たく聞こえた。何かにイライラしているのかな? 朱亜にはその原因はわからないまま、とりあえず彼の後ろにつく。燈実の姿も声も遠ざかってから、ようやっと朱亜は普段通りに皓宇に声をかける。


「皓宇……あの、なんかごめんなさい!」

「え?」

「ウチ、何かやらかしちゃったんでしょ? 潜入失敗して、怒った皓宇がその尻拭いに……」

「そういうわけではないよ、朱亜」


 皓宇の声が少しだけ優しくなって、朱亜は安心する。

 朱亜には指摘されて、皓宇は自分が苛立っていたことに気づいた。でもそれは朱亜に対して向いていたのではない。心の狭い自分自身に腹が立っていた。


「あの宦官と随分仲がいいんだな、と羨ましく思っただけさ」

「仲良い? 皓宇にはそう見えるの?」


 朱亜にとってはただの面倒な先輩だったのに。朱亜はハッとあることに気づく。


「もしかして……ウチが皓宇以外の人と仲良くしてるのを見てヤキモチ妬いたんじゃない?」

「あぁ、そうだよ」


 朱亜としては皓宇を揶揄おうとしただけなのに、即答されてしまった。皓宇は口に出してから自分の大人げなさに後悔する。


「すまない、変なことを言った。朱亜に味方が増えるのは良いことであるということは分かっている。けれど……自分の知らない場所で、知らない男と話していると、こうも腹立たしくなるものだな」


 それを聞いていると、朱亜はなんだか恥ずかしくなってきた。ほんの少しだけ皓宇から離れる。皓宇に大切に思われているのはわかるけれど、今まで向けられたことのない感情。じっと彼の前に立ち尽くすとムズムズとしてくる。朱亜は思い切って話題を変えた。


「皓宇はどうしてこんなところにいるの? 後宮は男は入れないって……」

「皇帝陛下から密命だ」

「もしかして、皇后様の暗殺の計画の事? 劉秀から聞いたんだ」


 皓宇は頷く。颯龍は美花に疑いの目を向けているため、彼女の周りを調べていた皓宇。朱亜は、魅音も貴妃の周りを疑っていたのを思い出していた。そうだ、魅音!


「皓宇、魅音見なかった? 昼頃から行方知らずで、宿舎に戻ってないんだって」


 日が暮れてから、朱亜の元へ魅音の同室の女官たちが訪れた。楽器の整備をしていたはずなのに、いつの間にか姿が消えていた。誰にも気づかれないままいなくなっていたけれど、その時は誰も気にしていなかった。みんな「どうせ逢引きでしょ」なんて思っていたらしい。けれど、点呼の時間までには必ず戻ってきたのに、今夜に限って戻ってこない。そこで、以前魅璃を訪ねてきた宦官・朱亜のことを思い出してきたらしい。


 その話を聞いて、朱亜はさっそく探しに出かける。燈実は勝手に着いてきただけ。


「あの人、魅音に夢中だから……でも全然見つからなくって。多分、天龍の首飾りを探しに行ったんだろうけれど」


 皓宇は、昼間の出来事を思い出す。もしかしたら魅音を見たかもしれないと話すと、朱亜は皓宇から少し距離を取っていたのを忘れて前のめりになって食いつく。


「それ、どこ?」

「どこだったか……美花様の宮に近いことは確かだ。しかし、似たような廊下が多くてはっきりとは……」

「わかる、それ! まずは美花様のお部屋行ってみるよ!」

「私も行く」


 魅音のこともそうだが、朱亜のことも心配だったし、なにより積もる話もある。皓宇はわざとゆっくりと廊下を進んだ。


「……あれ? もしかして、魅音かな?」


 暗い廊下の先で灯りと人影が揺れている。魅音かと思ったけれど、影の長さや体格は男のものだ。宦官か、もしくは皇帝がお忍びで歩いているのかもしれない。朱亜たちはこっそりと近づく。

 そこにいたのは、思いがけない人物だった。


「――あれって!」

「しっ! 朱亜、静かに」


 皓宇は後ろから朱亜の口を手で塞ぐ。二人の視線の先にいたのは、劉秀の兄・泰然。朱亜は小さな声で皓宇に尋ねた。


「劉秀のお兄ちゃんって、宦官だったの?」

「いや、そういう話は聞いていない。どうして彼が後宮に……?」


 何かを探しているのか、あたりをキョロキョロと見渡している泰然。あまりに不審な姿だ、もしかしたら彼が皇后暗殺を企てている者かもしれない。それに、皇帝からの許可を得ていない男が後宮に入るのも禁じられている。まずは尾行し、不審な行為を取ったらすぐに捕らえよう。皓宇が目でそう合図を送ると、朱亜も頷く。皓宇は灯りを消した。


 足音を立てないようにそっと後をつける。彼は何かを警戒しているのか、何度も後ろを振り返る。その度に二人は隠れ、それを繰り返している内に彼は外に出ていた。もう後宮内に用事はないのか、なぜ来たのか……やはり捕らえて問いただした方がいいのではないか、と皓宇が考えた時――朱亜が大きく皓宇の名を叫んだ。


「逃げて!」


 朱亜は皓宇を突き飛ばす。驚き、突き飛ばされた勢いでひっくり返ってしまう皓宇。彼の目の前には、頭から真っ黒な布を被った人間が立っていた。小柄で、その手には刃先が波打った短刀が握られている。


「朱亜、この者は!」

「いいから早く逃げて! ウチが時間を稼ぐから!」


 朱亜はそう叫ぶが、両手は空いていた。彼女は武器を持っていないのだ。それは皓宇も同じで、二人とも丸腰。それなのに、彼女は皓宇を助けるために立ち向かおうとしている。


「朱亜――ッ」


 その背中を見た瞬間、皓宇の脳裏に過っていくのは【最悪な想像】。短刀が突き刺さった朱亜の体。そこから血が吹き出し、治療することもままならず命を落として――彼は彼女を失ってしまう。翠蘭の時と同じように自分は守られて、そのせいで再び大切な人を失ってしまう。皓宇は朱亜の服を引っ張ろうとした、頼むから自分の目の前からいなくならないでくれ! 


 黒衣の人物は短刀を振り上げる。朱亜は目をつぶる。しかし、その時――金属同士がぶつかる音が響いた。


「な、何!?」


 朱亜と黒衣の人物の間に、何者かが立ちふさがる。朱亜はその背中を見てとても驚いた。いや、朱亜だけではなく皓宇も。だって、彼は助けてくれるとは二人とも予想だにしていなかったから。


「み、明豪!」

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