第32話

 朱亜から聞いた話を、劉秀は一言一句間違えぬよう皓宇に伝える。春依にバレそうになったと聞かされた時は彼は青ざめていたし、その挙句明豪に助けられたと聞いた時は頭を抱えていた。劉秀もその話を直接朱亜から聞いた時同じような反応をしたので、主人の気持ちはよくわかる。


「やはり、二人が後宮に留まり続けるのは危険だな……」


 魅音も魅音で宝物庫に忍び込もうとしているらしい。天龍の首飾りを取り戻したい気持ちはわかるが、やはり危険すぎる。劉秀は深く頷いた。しかし、彼らは後宮にいる二人の性格をよく知っている。今戻ってこいと言っても、きっと耳も貸さないだろう。


「俺は後宮には入ることができません。出入りのお茶屋に扮することで精一杯です」


 劉秀は静が手を回したおかげで、後宮にも卸している茶葉や香を扱う店の配達の仕事をしていた。そこは香玲のお気に入りの店。皇后のめでたい妊娠にあやかりたいと思う国民が続出しており、今人気が高まり大変忙しいらしい。後宮以外の配達の仕事も任せられてしまった。信用を失うわけにはいかないため、サボることなく黙々と仕事をこなしているそうだ。


 それに、彼は【男】である。後宮に出入りできる男は限られているのだ。


「皓宇様。どうにかして、殿下が後宮に出向くことはできませんか? 皇帝陛下の信頼が篤い殿下なら、もしかしたら……」


 皓宇は顔を伏せる。自分の立場なら、もしかしたら……。


「皇帝陛下に話してみよう」


 朱亜のことが心配であるのはそうだが、彼女が聞いた【皇后暗殺】という噂はあまりに物騒すぎる。自分にも何か出来ることはないだろうか、と皓宇は顔を上げた。


 翌日、早速王宮を訪ねる。約束をしていなかったため皇帝に謁見するのは時間がかかると思ったが、颯龍は合間を縫って皓宇を自身の書斎に呼び寄せた。心臓のない死体の事件を解決せよと命じられた時以来だ。その時と同じく、ここには皓宇と颯龍しかいない。

 颯龍の顔色が悪い。疲れているのか土気色をしている。皓宇が話を切り出そうとした時、彼は大きく息を吐いた。


「皓宇よ、お前も知っているか? あの恐ろしい話のことを」

「皇后陛下を暗殺しようとしている者がいる、という話ですね」


 颯龍は頷く。何か言いにくそうに口をモゴモゴと動かしていた。皓宇はふと閃く。


「陛下は、誰か特定の人物を疑っているのではありませんか?」


 身近にいる人間を疑ってしまい、良心の呵責で苦しめられているのかもしれない。皓宇の言葉に、颯龍はわずかに頷く。


「どなたを……?」

「美花だ」


 貴妃・美花。皇帝の寵愛を受け、太子・雨龍の母でもある。皓宇にとって、それは意外な名前ではない。むしろ、今最も疑われているのは彼女かもしれない。


「皓宇、頼みがある。美花について調べてほしい。本人だけではなく周辺も。私だって、本当は美花のことを疑いたくはないのだ! 皓宇、どうか美花の潔白を証明してはくれないか?!」


 皓宇の背筋が伸びる。願ってもない機会が訪れる、皇帝を言いくるめて後宮に入ることができるかもしれない。


「それは、私も後宮に赴いてもよろしい、ということでしょうか?」

「もちろんだ! 私が許す。だから、頼む。私の妃達と子を……」


 すがるように皓宇を見つめる颯龍。皓宇よりもずっと年上だが、まるで幼い子どものようだ。妻や子を一気に失う恐怖が彼を捉えて離さないのだろう。皓宇はその信頼に応えるようにしっかりと頷いた。


 颯龍の直筆の書状を持ち、皓宇は後宮に向かう。こんなことになるなら、朱亜や魅音を後宮に忍ばせる必要もなかったと後悔する。後宮内を進むと、様々なところから視線を感じた。皆、突然やってきた皇子の存在を怪しんでいるのだろう。特に今は繊細な時期だ。皓宇も刺激しないよう、足早に美花の暮らす宮に向かった。どこからか、冷たい風が吹き抜ける。誰かにじっと見られているのも相まって、皓宇はその風をとても不快に思った。


 美花の暮らす宮を訪ねると、美花だけではなく彼女付きの女官達も大いに驚いていた。


「弟宮様! どうしてこのような場所に?」


 美花を庇おうとする女官に颯龍の書状を見せる。彼女はそれを美花に見せた。


「調べ事を許可する、とありますが……一体どのようなことでしょうか?」

「……心臓のない死体についてでございます。事件を起こした女官について、もう少し調べる必要がありまして」


 皓宇は嘘をついた。ここで正直に美花のもとへ来た理由を話したら、きっと美花は心を閉ざしてしまうだろう。


「彼女は春依公主様付きの女官でしょう? どうして私に……」

「もちろん、春依様からも話を聞いております。ですが他の方からも証言をいただきたく」


 嘘であるが、美花は皓宇を疑わなかった。


「かしこまりました。誰か、お茶を用意してくださる?」


 皓宇は居室へ招かれる。外まで来たことはあったけれど、中に入るのは初めてだ。【貴妃】と【皇位継承権を持たない皇子】があやまちを犯さないよう、年嵩の女官が睨みをきかせている。


「春依公主様といえば、とても雨龍のことを心配してくださって。以前は特別な薬も用意してくださいました。あの女官は、その手伝いをしていたという話を聞いたことがあります」

「薬?」


 美花はその薬の詳細を知らないらしい。ただ、滋養が付くものだと雨龍が話していたそうだ。


「あの子、また体調を崩してしまって、公主様もよく見舞いに来てくださるそうですわ。お母様のことも心配でしょうに、こちらにまで気にかけてくださって。大変ありがたく思っております」


 香玲の話が出た。皓宇は身を乗り出す。


「貴妃様も、皇后陛下のことはさぞご心配では?」

「もちろんですわ。皇后様も私も、長い間、子に恵まれない日々を過ごしておりましたから。時には互いの心を慰め合うように、お茶を飲んだり気晴らしをすることもありました」


 その日々が懐かしいのか、美花は外を見る。


「明豪は無事に産まれると占ってくれたけれど、どうしても不安で……祈祷師にも祈りを捧げるようお願いしておりますわ」


 美花は手を握る。まるで祈りを込めるようだ、と皓宇は思った。


「……美花様は、とても皇后陛下のことを心配なさっているのですね」

「当たり前ですわ!」


 美花は声を張り上げた。驚く皓宇。その声には、悲痛な叫びも混じっているような気がする。


「私たち妃は皇帝陛下に身を捧げているのにも関わらず、妃としての役割を果たせずに過ごして参りましたのよ! 香玲様だって、ようやっとここまで漕ぎ着けることができたのです……どうして、この私が香玲様のことを!?」


 自身を取り巻く黒い噂。彼女も知っているらしい。


「……私が疑われるのはわかります。けれど、そんな恐ろしいこと……口に出すこともできません。ただ、私は香玲様のご出産が無事に終わることばかり祈っているのに」


 香玲に美花の本音が伝わっていますように、と再び彼女は祈る。潔白と言わんばかりの様子に悪意や不自然なものは感じられなかった。颯龍が彼女を疑いたくないと言っていた理由が少しわかったような気がする。しかし、疑わしいのは彼女だけではない。今目を光らせている女官だって、美花のためにその手を血で濡らすことも考えているかもしれない。皓宇は一旦宮を後にすることにした。美花の周囲を探っていこう、と考え直した。


 さて、次は誰の話を聞こうと後宮の中を歩いていた時、彼の視線の先にはある人物がいた。


「あれは、魅音か?」


 一人でこそこそと、しかし足早に周囲を見渡して進んでいく姿はとても目立つ。皓宇は角を曲がった彼女に追いつこうと足を早めた。彼女にも協力してもらおうと思ったのだが……。


「魅音?」


 確かに角を曲がっていったはずなのに、そこにはもういなかった。……気のせいだったのだろうか? 似たような扉が並ぶ廊下に皓宇は立ち尽くす。仕方ない、一人で探ろうと皓宇は踵を返した。

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