第18話



 ヤジとは違う方向から、何かが飛んできた。朱亜はそれを受け取る。漆塗りの艶やかな細長い棒に端に太鼓のようなものがくっついていて、二本の紐がその長い棒にピンと張られている。これ、一体何なのだろう? 剣だけを持って生きてきた朱亜には、それが何であるかもわからない。困惑して立ち尽くしていると、先ほど嗅いだ花の香りが近づいてきた。


「貸してごらんなさい」


 振り返ると魅蘭がいる。自分を憐れんでいるような視線を感じながら朱亜は彼女に楽器を渡す。それを受け取った魅蘭は窓際に腰を掛けて、楽器を構えた。朱亜を囃し立てていた声は、魅蘭を讃えるような歓声に変わっていく。


 魅蘭が奏でる音は、とても心地がいいものだった。ゆったりとした旋律から始まり、皆はそれにうっとりと耳を傾ける。朱亜はじっと魅蘭の手さばきを見ていた。二本の弦を抑える指の捌き方、弓を引く時の力加減。とても優雅に、いとも簡単そうに演奏しているように見えるけれど、その技術は一朝一夕で身につくものではないことに気付く。弦を抑える指先を震わせると音の質が変わり、小刻みに震えるような旋律に魅蘭の色っぽさが加わると、なんとも艶めかしくなっていく。唇からは熱っぽい吐息、目は潤み、首筋は汗ばんでいく。まるで見てはいけないものを見てしまったときのように、朱亜の胸がドキドキと脈打つ。男性客の反応もとてもよく、聞き惚れる者、艶やかな姿に興奮して息を荒げる者、感嘆している者、反応は様々だった。


「……うざ」


 ギリギリ耳に届くくらいの小さな声に朱亜は驚く。その声が聞こえた方を見ると、1人の妓女と目が合った。彼女は朱亜に気付くとツンッと顔を背けてしまう。彼女は、魅蘭が活躍するのが気に入らないみたいだった。

 魅蘭の演奏が終わると、すぐさま喝采の拍手が鳴り始める。魅蘭は楽器を朱亜に手渡した。


「アンタ、二胡も弾けない舞も踊れない……それでよくここで働こうと思ったわね」

「……あはは」


 楽器の名前も初耳だった朱亜。二胡、というらしい。まあ、名前を覚えたところで弾けるようになるとは思えないけれど……と肩を落とした。


「おい魅蘭、早うこっちに来い!」


 その催促に魅蘭は大きくため息をついた。朱亜に「これ、仕舞っておいて」と言ってから、渋々宴席の輪に加わっていく。朱亜は誰が魅蘭を呼んだのだろうと気になって首を伸ばす。


「……えっ!」


 朱亜は慌てて口を閉ざし、顔を背けた。魅蘭を挟むように座る二人の男に見覚えがあった。


(あれって、嫌味な孟っていうオッサンと腰巾着の飛嵐じゃない!)


 まさかこんなところにいるなんて! 朱亜が花街にいることがバレたら、どうなってしまうだろう? 緊張で体中が強張っていく。目立たないように、と歩くけれどそれもぎこちない。


「ほら、仕舞ったら早くアンタもこっちに来なさい」


 魅蘭が朱亜を呼びつける。逃れることもできなくて、朱亜は顔を伏せたまま三人に近づいた。


「ずいぶん田舎臭い娘を雇ったものだな、楼主は。今はこういうのがウケるのか?」


 だいぶ酒を飲んでいるらしい。赤ら顔の孟秀敏は朱亜の横顔が気になるらしくじろじろと見てくるが、あの時王宮で出会った【野蛮人】と同一人物であると気づいていないらしい。魅蘭がしてくれた化粧のおかげかもしれない。飛嵐は魅蘭に夢中な様子で、肩を抱いて腕のあたりを撫でたり、あわよくば豊かな乳房に触れようとしている。魅蘭はその手をピシャリと叩きつける。


「おやめくださいませ」

「なに、相変わらずつれない奴だな。女は素直な方が愛らしいぞ」

「それは、口答えせず従順な女の方が男が扱いやすいからでしょう? 私はそんな女じゃありませんの」


 飛嵐は懲りずに魅蘭の下裳をめくり、柔らかそうな太腿を手のひらで撫でる。魅蘭はため息をついた。すけべな飛嵐に呆れているのか、はたまたこの状況を諦めてしまったのか。朱亜は下手なことを言わないよう、ただ黒子に徹することにした。酒の注文が入ったら取りに行き、杯が空いたら注ぎ、秀敏や飛嵐にその正体がバレないようになるべく目立たないように。


 夜も深まり、宴席はたけなわも過ぎた。家に帰ろうとする者、気に入った妓女と一晩過ごすことを決めた者にそれぞれ分かれていく。秀敏は帰る様子だった。


「飛嵐、お前はどうする?」

「私は今日こそは! この生意気な女を口説くって決めてきてるんですわ!」


 飛嵐の声が大きい。秀敏が席を立った時、飛嵐は朱亜を指さした。


「お前も邪魔だな! 早く出ていけ」

「でも、ウチ……いや、私……」


 魅蘭は「いいから」と視線を宴会場の外に向ける。朱亜は仕方なくその場を離れた。さて、どうしよう。周囲を見渡すと、これから新しい客につこうとしている妓女がせわしなく動き回っている。


「あの、ウチ、どうしたら……」

「いや、あなたは結構よ」

「こっちにも来ないで頂戴!」


 妓女たちはみんな、朱亜が自分の座敷に来るのが嫌らしい。流行遅れの派手な化粧と、変てこな踊りのせいかもしれない。仕方なく朱亜はさっきまでいた宴会場の前に座り込む。明豪のことや万家の生き残りについて調べにやってきたのに……これでは馴染むのでも精いっぱいだ。こんなに女だらけな場所も初めてで、どう振舞えばいいのかも分からない。魅蘭がもっと教えてくれるかな。大きく息をはいた瞬間、宴会場から何かが倒れるような大きな音が聞こえてきた。


「この私に歯向かうのか! この売女風情が!」

「嫌っ……誰か! 誰か!」


 魅蘭が助けを呼ぶ声がする。朱亜は反射的に宴会場の引き戸をぶち破った。そこには魅蘭を組み敷き、下裳を引き裂こうとしている飛嵐がいた。彼はすでに下衣を脱いでいる。魅蘭は逃れようと必死に抵抗しているけれど、取り押さえられていて身動きが取れずにいた。二人とも朱亜が突入していることに気付いていなかった。


「魅蘭から離れろ! このクズ男!」


 朱亜は扇子を引き抜き、それを飛嵐の後頭部に叩きつけた。飛嵐は「ゲフッ」と聞いたことのないような悲鳴を上げ、そのまま昏倒していった。朱亜が持っていた扇子はその衝撃でボキッと折れてしまったけれど、そんなものよりまずは魅蘭だ。


「大丈夫? 魅蘭!」


 魅蘭は着物を手繰り寄せ、体を隠す。髪もぐちゃぐちゃになっている。可哀そうに、怖かったのだろう。体が震えていて、呼吸が浅くなっている。魅蘭の着物を整える手伝いをしていると、騒ぎを聞きつけた楼主が慌てた様子でやってきた。


「ふぇ、飛嵐様! お前たち、一体何をしているんだい!」

「コイツが魅蘭のこと手籠めにしようとしていて……!」

「馬鹿娘! ここは、そういう場所なんだよ! 上客に暴力を振るうなんて……アンタはもうしばらく座敷に出るのも禁止だよ! 魅蘭!」


 楼主の怒りの矛先が魅蘭に向かう。彼女は姿勢を正し、真正面から楼主に向き合った。瞳に滲んでいた怯えはもうなく、そこには気高さのような何かがある。


「アンタのそのくだらない矜持にはホトホト呆れたよ。いい加減、飛嵐様でも他のお客でもいいから抱かれちまいな!」

「嫌よ」


 魅蘭の声音は凛としている。彼女は立ち上がって楼主を見下ろした。


「この苦界、芸だけで身を立てるのはそんなにいけないこと? 体を売って成り上がるなんて生き方、私の品位に傷がつくでしょう!」


 そう言って早歩きで出て行ってしまう。


「全く、気位の高すぎる女も迷惑なもんだね……ここはそういう場所じゃないって何度も言っているのに」


 楼主もゆっくり立ち上がる。ただ一人残された朱亜は途方に暮れる。宴会場を覗き込んでいる他の妓女たちと目が合った。彼女たちは引き返そうとしたけれど、朱亜は裾を掴んで離さない。


「ねえねえ、魅蘭って一体何者なの?」

「えー、何よ急に」

「教えて、お願い!」

「もう……面倒くさい女よ、アイツは」

「ねえ、偉ぶっちゃって気に入らない。あの子、客と寝ないの」


 悪口は好きなような、次から次へと魅蘭の悪口が溢れてくる。花街の娼妓とは思えないくらい芸事が達者で、品が良く、雅な立ち振る舞いが人気だけど……彼女は客と夜を共にすることはない。体を売らない妓女、なのだ。


「でもそんな妓女、追い出されそうなものだけど」

「それがねぇ、逆に客が途切れないの」

「そうそう。自分が初めての男になってやる、なんてお客が勝手に盛り上がっちゃって」


 ふっと朱亜の頭に疑問が生まれる。


「どうしてそこまで嫌がるんだろう?」

「さあ? 誰も知らないみたいよ。どこから来たのかもわからないってさ」

「楼主さんでも?」

「そう。奴隷市場で買ったらしいわよ、魅蘭の事。出自は魅蘭が話したがらないから知らないんですって」


 彼女たちは頷く。魅蘭の過去についてはあれこれ噂話が飛び交っているらしい。実は本命の男が他にいてその男のために操を立てているとか、実は男なんじゃないか、という突拍子のないものまで。


「元は貴族だったから、下級の男には抱かれたくないっていう話もあったわねぇ」


 その噂話に朱亜はピンと耳を立てていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る