二 花街

<1> 気高き妓女

第16話


「全く、皓宇ってば相変わらず弱いね。このままじゃ妖獣の1匹も倒すことできないよ」


 木刀をブンッと鋭く振る朱亜。彼女の視線の先には、木刀を手放して横たわっている皓宇がいた。あまりにも弱すぎる彼のために稽古をつけ始めたけれど、まったく進歩が見られない。皓宇の剣先はふらつき、握力も弱くて簡単に木刀が手からすっぽ抜けてしまうことも多々ある。朱亜に勝てるようになれとは言わない、でも、せめて自分の身を守ることが出来るくらい強くなってほしい。しかしこのままでは……先が思いやられると朱亜はため息をついた。


「ウチがいなくなっても大丈夫?」


 返事はない。その代わり、粗い呼吸が聞こえてくる。


「劉秀が、いるから、大丈夫だ……!」


 息が絶え絶えになりながらも皓宇はゆっくりと立ち上がった。膝はがくがくと笑っているし、全身汗まみれ。腕に力も入らない。これはきっと明日は全身筋肉痛だろう、と今から恐ろしくなる。しかし、彼は自分の事よりも朱亜の方が心配だった。


「私のことより、朱亜こそ大丈夫なのか?」


 数週間前に花街に潜入すると決めてから、朱亜は何度も皓宇から同じ質問をされた。その度に朱亜は胸を張って答える。


「大丈夫だって! 何とかなるから!」


 根拠のない自信を見せる朱亜。皓宇は不安で仕方がないが……花街という場所柄、女である朱亜に頼んだ方がいいのもわかっている。


「わかっているな、朱亜。万家の名は……」

「絶対に出しちゃダメ! うかつに喋ったら捕まるかもしれないんでしょ?」


 何度も言われなくてもわかってるよ、と嫌気が差しはじめた朱亜。皓宇だけではなく、劉秀にも同じことを言われて、耳にタコができそうなくらい。皓宇は最後まで引き留めようとするけれど、すんなりと言うことを聞く朱亜ではない。


「さて、ウチはそろそろ行くから。急がなきゃ」

「……分かった」


 どこの妓楼へ潜入するか、それは情報通の静が探ってくれていた。多くの人が出入りする人気の高級妓楼、朱亜もそこで働けるよう話を通してくれた。そこで朱亜は明豪のことを探りつつ、万家の生き残りが本当にいるのかも調べなければいけない。準備に少し時間がかかったけれど、ようやっと今日から花街に潜り込める。これから静が妓楼に行っても悪目立ちしないよう、身なりと整えてくれるらしい。


「ウチってさ、着るものも化粧道具も、あとかんざしも持ってないじゃん。静さんが全部そろえてくれるって言ってたから、待たせるわけにはいかないの」


 かんざし、という言葉に皓宇は胸のあたりを抑えたが朱亜は気づかなかった。あの仕舞いこんでいた持ち主のいないかんざし、朱亜なら似合うだろうか? と少しだけ考えるが、渡す勇気は出てこなかった。


「私はこれから王宮に行かなければならないから、見送りはできないが……何度も言ってきたが」

「わかってるって! 万家の名前は出しちゃダメって言うんでしょ!」


 名前も出さずに万家の生き残りを探すのは難しそうだ。けれど、何とかなるだろうと朱亜は軽く考える。


「そうだ。いいか、朱亜。くれぐれも無茶だけは……」

「はいはい、大丈夫! 上手くやるからさ! じゃあね!」


 片手を振って去っていく朱亜。あっけらかんとした、とても軽い別れだ。しばらく会えないかもしれないというのに。皓宇も王宮に向かう前、着替えるために自室に戻る……が、その前にどうしても気になっていたことがあった。


「劉秀、いるか」


 誰もいないはずの鈴麗宮の皓宇の自室。皓宇がその名を呼ぶと、劉秀は音もなく現れた。この数週間、彼の口数はとても少なかった。劉秀も自覚しているのだ、己の【罪】について。花街に潜入する朱亜にこれ以上の気苦労はかけたくなくて、皓宇はあえて黙っていた。彼女がいない今、ようやっと咎めることが出来る。自然と皓宇の声が低くなった。


「お前は、私に話さなければいけないことがあるな」


 劉秀はその場に座り、深々と頭を下げた。


「……申し訳ございません、殿下」

「お前も知っている通り、万家は皇帝陛下を侮辱した大罪人。万家に名を連ねる者はすべて裁かれなければいけない。残党を見つけたらすぐに通報するように、という触れが出ていたはずだ。しかしお前は、花街にいるかもしれないということをこの私にもずっと黙っていた。それをどう償うつもりだ?」

「だからです、殿下」


 皓宇は座り、劉秀の言葉を待つ。しかし、彼は口を閉ざしたまま。皓宇は仕方なく譲歩することにした。


「ここでの話は誰にも言わない。それでもダメか? 劉秀」


 観念したのか、劉秀はようやっと顔を上げた。罪を咎められることを恐れているのか、それとも秘密が露見することに怯えているのか。彼の顔は真っ青だった。


「……花街にいる万家の生き残りは、もしかしたら私の許嫁だった者かもしれません」

「許嫁? お前、そんな相手がいたのか」


 三大貴族同士の沈家と万家。互いの結びつきを強くするために子女同士を結婚させることはよくあることだ。しかし、堅物に見える劉秀にもそんな相手がいるとは思わず、皓宇は声を上げる。


「彼女は5年前の万家の騒動以降、行方知らずとなっておりました。父と兄は、彼女は野垂れ死んだに違いない、早く別の女を娶れと私を急かし……私もそれで良いと思いました。あの噂話を聞くまでは」


 父親と兄の人形のように、言いなりとなって暮らす日々。無気力となった劉秀の耳に飛び込んできたのは、花街にいるとある妓女の話だった。


「とても芸達者な妓女がいるという噂を耳にしました。舞も楽器も一級品で、花街ではそうそうお目にかかれない……その妓女は、元は貴族の娘かもしれない、と誰かが話していたのです。もしかしたら、と私は思ったのです」

「それで、お前は会いに行ったのか? 話をしたのか?」


 皓宇は前のめりになって尋ねるが、劉秀は首を横に振るだけだった。


「いいえ、一度も」

「どうして? 死んだと思っていた許嫁が生きていたかもしれない、それを確認しなかったのか?」


 自分なら間違いなく会いに行くのに、と皓宇。劉秀は力なくうなだれる。


「花街には行きました。その妓女の後ろ姿を一度だけ」


 後ろ姿だけで、彼にはその妓女の正体が分かったのだ。心の中でずっと思い続けていた相手であるということが。


「しかし、元は許嫁といえども、彼女は敵に会いたいと思うでしょうか? 俺にはアイツに合わせる顔はありません。俺は、孟家と結託し、万一族を追放した沈家の者。アイツもきっと、俺のことを恨んでいるはずです。……だから俺も、会いたいなんて思ってはいけない」


 彼はずっと罪を償い続けてきたのだろう。花街にいる妓女が万家の生き残りだとバレないように、知らないふりをし、噂を聞くたびに否定し続けた。しかし、邪王復活が迫る今、彼女を庇うよりも果たさなければいけない使命が生まれた。そして彼女の情報を皇子・皓宇に売ってしまった。劉秀が感じている罪がさらに重たくなっていく。


「いつか請け出そうと思っていたんです。年季が明けるのはいつなのかもわからない、苦界とも言われる花街から少しでも早く出ることができるように。これが罪滅ぼしになるとは思えませんが」


 だから金が必要だった。しかし、沈家の富に手を付けるわけにはいかない。そんな折、鈴麗宮に住まう末端の皇子の護衛の話を聞いた。渡りに船と飛びついて、今に至る。でも、金はあまり溜まっていない、これなら彼女は請け出すのはいつになることやら。劉秀は情けない自分を嘲る。


「その者が愛おしいのだな、劉秀」


 劉秀はまっすぐ皓宇を見つめ、深く頷いた。


「そんなに愛しいと思うのなら……生きている内に会えばいいものを」


 愛した者たちと再び出会うなんて、皓宇にとっては二度と叶わない夢のようなもの。その機会をみすみす逃している劉秀の気持ちが、皓宇にはわからないままだった。


「劉秀。その許嫁だった女性の名を聞いてもいいか?」


 劉秀は小さく頷き、口を開いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る