第6話


 皓宇がそう呼ぶと、奥から初老の女性が現れた。朱亜のことを不思議そうに見つめている。今まで見たことのない、しかもとても汚れている人物に対して警戒しているのが分かる。その緊張を解そうと、皓宇は朱亜のことを「恩人だ」と紹介する。


「朱亜という。森で私を助けてくれた。ぜひもてなしたい」

「まあ! もちろんでございます、皓宇様」


 静と呼ばれた女性は朱亜に近づいてくる。


「まずは沐浴の用意を致しますね、朱亜様。お召し物も用意いたしましょう」

「劉秀、お前の服を貸してあげてくれ。朱亜、それでもいいか?」


 朱亜はボロボロになった自分の麻の服を見る。邪王城での戦いのせいで、ひどくボロボロになっている上に、汚れや返り血などもいっぱいついていてとても汚い。「着替えまで? いいの?」と喜びの声を上げたのと同時に、劉秀は「うぇっ!?」と変な声を出した。気まずそうな表情で朱亜を見る。それは静も同じなようで、皓宇と朱亜の顔を交互に見つめている。


「なんだ、劉秀。嫌なのか?」

「嫌って訳じゃないですけど……本当に俺の服でいいんですか?」

「ウチ、裸じゃなかったらなんでもいいんで! ありがとう!」


 皓宇と劉秀、静にそれぞれ頭を下げた朱亜はそのまま浴室に押し込まれた。もくもくと立ち込める蒸気、初めて見るたっぷりのお湯。いつもは川で体や頭を洗っていた朱亜には驚きの連続で、本当に使ってもいいのかと不安になる。お湯を汲んで体にさぁっと流す。薄汚れていた肌が本来の明るさを取り戻していき、汗や砂ぼこりでべたべたとしていた髪がするすると滑らかになっていく。その代わり、お湯は真っ黒に汚れていった。蒸気のおかげか、体だけではなく頭の中まで暖かくなってきた。のぼせてしまう前に、と朱亜は早々に沐浴を切り上げた。出ると、劉秀のものと思しき服が置いてあった。


「ぶかぶか……」


 袖も裾も余ってしまうので、何度か折り返す。先ほどまで着ていた服の懐にしまっていた妖獣の角を再び手にして脱衣所を出ようとすると、静の声が聞こえてきた。


「それにしても、あのような貧相な身なりの者に助けられるなんて。何があったのですか、殿下」

「あぁ。ちょっと森で、私が妖獣に襲われていたところを彼が助けてくれたんだ」

「まぁ!」


 静の大きな声が響く。


「いい加減、そんな危険な真似はおやめくださいませ! 皓宇様に何かございましたら、私は鈴麗様や翠蘭スイラン様に顔向けできませぬ」

「いや、しかし……」

「劉秀も何をしているのですか? 護衛であるお前がだらしないから、皓宇様が危ない目に遭うのです。今回は朱亜様のような方がいてくださったから助かったものの……」


 二人は静の説教を聞いてどんどん小さくなっていく。朱亜が沐浴を終えたことに気付いたらしく、静が振り返った。


「食事の支度は整っておりますよ、朱亜様。皓宇様もどうぞ」

「ありがとう。行こう、朱亜」


 皓宇の後に続き、奥の部屋へ通される。並んでいる食事を見て、朱亜は何度目か分からない感嘆の声を上げていた。


「うわぁ!」

「なに? 何か嫌いな物でも入っていたかな?」

「ううん! すごいご飯だね!」


 皓宇はこれが当たり前なのか首を傾げている。けれど、朱亜にとってそれは見たことも聞いたこともないご馳走だった。茶器の底が見えるくらい澄んだお茶。前日に食べたものと比較にもならない具沢山の汁物。真っ白な饅頭は蒸したてなのかまだほのかに湯気が立っていて、そこから甘い香りがする。食卓の上には小さな皿に盛られた多種多様の総菜。そして極めつけは、真ん中に鎮座された大きな肉の塊! 静はそれを切り分けて朱亜の皿に盛りつける。


「これ、全部食べていいの?」

「あぁ、もちろん。朱亜のために用意させたのだから、遠慮なく食べてもらって構わない」

「こんなご飯、生まれて初めて! ウチの故郷の婚礼で出てくるご馳走より立派だよ! いただきます!」


 お茶を一口飲んでから、朱亜は肉にかじりついて目を丸める。表面についていた調味料のせいだろうか、舌の上がピリピリと痛む。けれど不快じゃない。鼻の中を香ばしい匂いが突き抜けていって、口いっぱいに塩気や肉の脂の甘みが広がっていく。


「おいしい!」

「良かった。たくさん食べてくれ」


 朱亜が一口食べるたびに「おいしい」と反応するので、静はそのたびに微笑んでいた。朱亜に対する警戒心も緩んできたみたいで、皿を空っぽにするたびに「これは食べますか?」とか「おかわりどうぞ」と用意してくれる。朱亜のお腹はみるみる内にいっぱいになってしまい、お腹のあたりの帯を少し緩めた。食べすぎたかもしれない、お腹が苦しい。


 静は食後のお茶を淹れてくれた。その時、皓宇はひじのあたりが気になったのか何度も搔いている。


「どうしたの?」

「ひじを擦りむいたみたいなんだ。きっとあの時だ」


 朱亜は妖獣に襲われていた皓宇のことを思い出す。確かに、転んで尻餅をついていた。静は「大丈夫ですか?」と心配して、劉秀は傷を洗うための水を汲みに行こうとした。


「そうだ、ウチ、いいもの持っているよ。ほら」


 朱亜が懐から取り出した物。それはあの時拾った妖獣の角。まるで闇をそのまま閉じ込めたように黒々としているそれを見た時、三人はわずかに慄いていた。朱亜はすり鉢を借りて、それを粉になるまで砕いていく。少しずつ水を足して、今度はベタベタとした黒い練り物が出来上がった。


「朱亜、君は一体何を?」

「膏薬だよ。傷、見せて」


 皓宇はひじを見せる。赤茶色に固まったかさぶたの上に、出来上がったばかりの膏薬を塗り付けていった。


「お前、皓宇様に何をしている! そんな得体のしれないものを……!」


 劉秀の勢いは今にも切りかかってきそうだ。皓宇はそれを止める。静は静で、いつでもふき取ることができるように布を湿らせていた。


「妖獣の角で作った軟膏を塗ると、傷の治りが早くなるんだよ」


 朱亜の故郷では当たり前の光景だったし、旅の道中ではこれを作っては売り銭を稼いでいた。皓宇はひじを仕舞い、背を伸ばして朱亜と向き合う。目の色が変わったような気がした。朱亜の背筋も自然と伸びていく。


「朱亜に聞きたいことがある。君はあの時、どうやって妖獣を倒したんだ」


 その声音は低く、頭の深いところにまで響いてきた。


「この国に妖獣が現れて5年ほど経つが、今までそんなことができた者はいない」


 妖獣は首を刎ねても胸を射抜いても死なない化け物。それなのに、朱亜が妖獣を倒したとき、あれは確実に死んでいた。朱亜はほんのわずかに首を傾げて皓宇の問いに答えた。


「どうやってって……簡単だよ。角を壊せばいいんだから」

「角を?!」


 皓宇は驚き、大きな声を出した。朱亜の時代では、妖獣と出くわしたら角を狙うのは常識だった。しかし、今の時代ではそれはまだ発見されていない対処法だったのかもしれない。


「君はどこでそんなことを知っているんだ? そもそも、朱亜は一体どこの国から来たんだ? この国の者ではないようだが」


 ついに話す時が来てしまった、と朱亜は喉を鳴らした。意を決する。


「話しても信じてもらえないかもしれないけれど……ウチ、実は、100年後の世界から来たんだ」


 勇気を出して放った朱亜の言葉。しかし、みんなきょとんとしている。


「やはり、こいつは頭がおかしい。皓宇様、とっとと追い出しましょう」


 劉秀は立ち上がろうとするが皓宇は諫めるように手を挙げた。逆らうことはできない劉秀はぐっと押し黙る。朱亜の話の続きを引き出すように、皓宇は小さく頷いた。朱亜はたどたどしく話し始める。


「ウチが暮らしていた100年後の世界は邪王に支配されていて、それで、天龍の預言に遺されていた邪王を倒す者だって言われたウチが討ちに行ったんだけど……」


 その結果、敗走。朱亜は幼馴染の小鈴に言われるまま、首飾りを使ってこの時代にやってきたと話す。


「この時代ではまだ邪王は復活してないでしょ? だから、復活する前に倒して……ウチはウチの世界を平和にしたいの!」


 朱亜の話を皓宇は遮ることなく最後まで聞いてくれた。こんな荒唐無稽なことを信じてくれるとは思えないけれど、と朱亜は付け足す。皓宇は深く頷いた。


「信じよう」

「はぁあっ!」


 朱亜よりも劉秀が驚いている。


「こんな奴の妄想を信じるのですか、殿下! 天龍様の首飾りなんてものもすでに消失しているのに、この者の時代にはあると話す! 俺には信用できません」

「ならば劉秀、妖獣はどうして現れたのだと思う? あのような恐ろしい生き物、以前ならこの国にはいなかった」


 皓宇は近くにあった書簡を手に取り、広げて見せる。


「ここに天龍様と邪王の戦いについて記されている。書いてあるだろう、邪王は妖獣を使役する、と。妖獣あるところに、邪王はいるのだ」


 朱亜には文字が読めないから何が記されているのか分からなかった。劉秀は言い返せなかったのか黙ってしまった。


「あれはやはり、近々邪王が復活する兆しだ。朱亜の話によると、この国はきっと幾ばくもしないうちに再び邪王に支配されてしまう」


 少しだけ考えるように俯いた皓宇。再び顔を上げたとき、その視線はまっすぐ朱亜に向いていた。


「朱亜、協力してくれないか」

「二人で邪王を倒すっていうこと?」

「あぁ。その間、君の衣食住の面倒は見る。だからその力を貸してほしい」

「もちろんだよ!」


 朱亜が快諾すると、皓宇は安堵したのか小さくため息をついた。劉秀もため息をつくけれど、それは面倒なことになったとこれからを心配するものだった。

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