彼女がいる世界で

木口まこと

全1話

 ゆっくりと目を開けた。自分がどこにいるのかとっさには分からず、何度か瞬きをした。天井が見えている。

「ご気分はいかがです?」その声でようやく何が起きたのかを思い出して、起き上がろうとしたが、胸に巻かれたベルトがそれを許してくれなかった。ベッドに縛りつけられたまま顔を右に向けると、男の顔がにやにや笑っている。武田だ。

「二度目の旅はいかがでしたか、新井さん」武田が言った。「我々の役に立ちそうな情報を持ち帰っていれば、あなたはもっといい待遇を受けられるようになりますよ。今回なにもなかったとしても、チャンスはあと三回あります。もっとも、最後の一回はチャンスとはいいがたいかな」

 僕はまだぼんやりしている頭で、旅でのできごとを思い出そうとした。嘘をついてもしかたないのは分かっていた。連中はSQUIDのパターンで嘘かどうかを見分ける。

「たいしたできごとはなかった、と思う」僕は言った。「明日までに思い出しておくよ」

「では、明日」武田がそう言うと、後ろに控えていたふたりの男が歩み寄ってきて、胸と脚のベルトを解いた。ふたりに追い立てられるように廊下へ出て、別棟に向かう。『アライヒロシ』と書かれたプレートが貼られている扉が開けられ、僕は逆らわずに独房に戻った。

 鍵がかけられているのと少々狭い点を除けば、独房の住み心地は必ずしも悪くはなかった。僕はベッドに仰向けに寝転がって目を閉じ、一緒に逮捕された仲間の顔を思い浮かべた。もう二度と会えないキム。亜由美、吉田、コースケ、ジョー。そして誰よりも玲奈。彼女はどうしているだろう。いつに旅しているだろうか。

 電撃的に行われた一斉検挙で、全国で一万人のレジスタンスが捕まった。軍政に反旗を翻して民主化を目指そうとした地下組織は壊滅し、僕は仲間とこの収容所に入れられたのだった。


「時間は制御できないんですよ、新井さん」僕を最初の旅に送り出す前に、武田はやけに丁寧な口調でそう言った。この口調がこの男なりの恫喝だと気づくのに時間はかからなかった。「どの時間に到着するかは個人差です。だから、時間が分かるもの、たとえば新聞でも持って帰ってください。あとは写真を撮って」

「制御できないって、原始時代とかとんでもない未来に着くこともあるのか?」僕は聞いた。

「今までのところ、いちばん昔で五十年前、いちばん未来で五年後です。未来には行きづらいようですが、我々は未来の情報が欲しい。できるだけ未来を期待していますよ。最初の旅はあっという間です。時間を無駄にしないように」

 気がつくと僕は林の中にいた。目の前に小さな木造の小屋が建っている。小屋の周囲をひとまわりしてから、扉の取手を回して引いた。鍵はかかっていなかった。使われなくなって十年か二十年、いやもっと経っていたのかもしれない。

 部屋の片隅に机が置かれていた。近づいてみると、積もった埃の上に、やはりうっすらと埃をかぶった一枚の紙切れを見つけた。

『同志へ。今は二〇一七年だ。林を抜ければ町がある。生き続けろ』メモ書きの最後に見慣れたキムの署名があった。

 キムは八年前の世界に着いてこのメモを残した。彼は何を見つけたのだろうか。僕は小屋をあとにして、林の中の道を進んでいった。

 十分ほど歩くと林は途切れて、小さな商店街のはずれに着いた。そこが東京近郊であることは教えられていた。時間は違っても、みんな同じ場所に着くのだ。

 店構えに微妙な違和感を覚え、見慣れない商品とそこに書かれた奇妙に簡略化された文字に酔いそうになりながら、とにかく写真を撮って歩いた。横書きの文字が左から右に向かって書かれていることに気づくのにしばらくかかった。

 ミュージックショップと書かれた店の店頭にロック・フェスティバルのポスターが貼ってあった。この世界にもロックと呼ばれる音楽はあるわけだ。それが地下で流通しているのではなく、表に堂々と掲げられていることに軽い衝撃を受けた。フェスティバルの開催日は十一年未来になっていた。武田が言う通りなら、新記録のはずだ。

 写真を撮りながらしばらく歩いていると突然意識が遠のき、目覚めた時には僕はベッドに縛りつけられていた。

 翌日、尋問があった。武田のほかに上野と名乗る軍装の男が同席した。

「写真を拝見しました」武田が口を開いた。「二〇三六年とは素晴らしい。他の写真も上々です。ほかに何か気がつきましたか?」

「いや、短い時間だったから特に」僕は答えた。

「嘘はやめましょう。嘘かどうかくらいはSQUIDで分かります。あなたは何かを見た。そうですね」

「忘れていただけだ」僕は下手な言い訳を口にした。「仲間が書き残したメモを見つけた」

「仲間とは誰だね?」それまで黙って聞いていた上野が口を開いた。

「一緒に逮捕されたキムだ」僕は渋々答えた。

「ああ」と武田が声を上げた。「彼なら五回目の旅から廃人になって戻ってきましたよ。精神が崩壊していたので、安楽死させました。残念ですが」

 その言葉に僕は動揺を隠せなかった。

「最初に申し上げたとおり」僕の様子を気にする風もなく、武田が続けた。「旅を重ねるごとにあちらの世界との結びつきが強くなり、滞在時間が伸びます。あちらの物質と量子相関が形成されるからだと我々は考えています。そのせいで、ひとりの人間があちらの世界に行ける回数には限りがある。五回ですよ。それで終わりです」

「キムはどうして」僕はつぶやいた。

「五回目の旅から戻るときに、比喩的に言うならふたつの世界に引き裂かれたのでしょう。精神が量子相関の切断に耐えられないのだと我々は考えています。これまでの実験によれば、十人中九人は五回目の旅から精神崩壊の状態で戻ってきます。我々はその持ち物や写真やSQUIDデータから引き出せるだけの情報を引き出しますが、たいした成果はありません。あなたも四回目までに何かを持ち帰るといい。そうすれば、五回目の旅の代わりに、いい待遇を差し上げますよ。二七歳ですか。人生はこの先まだ長い。そう思いませんか?」

「残りの一割は?」僕は聞いた。「残りの一割はどうなる?」

「戻ってきません。あちらの世界との量子相関が強くなりすぎるのでしょう。あちらでどうなったのか、我々には分かりません。あちらに留まったまま量子相関に引き裂かれたのだろうと想像はしていますが」

「つまり、もしかしたら逃げられる可能性が一割あるかも知れないと?」

「それを分がいい賭けだと思われるのでしたら、そうかもしれませんね。単にどっちの世界で廃人になるかだけの違いかもしれませんが、我々にとってはどうでもいい」

 レジスタンスなら、その一割に賭けるだろう。当たり障りのない情報を持ち帰って回数を稼ぎ、五回目にもうひとつの世界で生き残る可能性に賭ける。そうして機会を待つ。たぶん、キムもそうしたのだ。

 軍部は政治犯に何かを期待していたわけではない。連中が本当に求めていたのは、もうひとつの世界と安全に行き来する方法を確立することだ。できるなら、未来の世界と。そのためのデータを集めるのに政治犯はおあつらえ向きの捨て石だった。

 

 この日戻った二度目の旅は一日続いた。試しに二〇三一年の贋札を商店で使ってみると、一瞬怪訝な顔をした店員はそれでもその札を受け取って、お釣りをよこした。現金を使う客が珍しかったのだろう。

 駅でもちょっと苦労したものの、なんとか乗車カードを手に入れて、都心に向かった。その夜は渋谷で街と人々を眺めて過ごした。派手な電飾や大きなテレビ画面が輝くその街は、僕が知っているくすんだ色のビルが並ぶ渋谷ではなかった。

 翌日の昼過ぎまで都心を歩き回り、僕は元の世界に引き戻された。軍部が求めるような情報はなかったかもしれないが、とにかくたくさんの写真を持ち帰った。


 その夜、玲奈の夢を見た。空間が妙に歪んではいても、それは僕が住んでいたアパートに違いなかった。だとすれば、ふたりともまだ二十代初めのはずだ。僕たちはベッドの上で裸で抱き合っている。僕は玲奈にキスをしようと顔を近づけていくが、どうしても近づかない。彼女も顔を近づけようとしているのに、ふたりの距離はいっこうに縮まらない。彼女の口が「ひろし」と動いたが、声は聞こえない。突然、僕の視点が切り替わって、僕はベッドの上で抱き合ったまま動かないふたりを見下ろしている。

 そこで目を覚ました。あの頃の僕たちはまだ地下活動に加わる前の普通の恋人同士だった。

 軍政に批判的な言葉を口にしがちなのは僕よりも玲奈のほうだった。

「わたしたちは民主主義を目指すべきよ、アメリカのように」彼女はよくそう言った。

「そうだね」と僕は相槌を打つ。

 あれは僕が大学を卒業する直前だったと思う。ひとつ歳上の玲奈は先に大学を出て働いていた。僕たちは激しく愛し合って、それからベッドでお互いを見つめていた。

「一九六九年」僕は言った。「あの時の民主化闘争は激しかったと聞くね。学生や労働者が一斉に蜂起した」

「そして徹底的に弾圧されたのよ」彼女が言った。「大日本帝国史上最大の民主化闘争はあっけなく終わった。民主主義は負けたの」

「一九九〇年の小規模な闘争と二〇一一年」

「東北大地震があの闘争を終わらせてしまった。震災のあと、軍部の支配は前よりも強固になったわ」

 そのあと、僕たちは起き上がり、黙ってビールを飲んだ。そんなことが時折繰り返された。

 大学を出てもぶらぶらしていた僕は、知り合いに頼まれて新宿の小さなバーで雇われマスターとして働き始めた。集合住宅の一室で玲奈と暮らし始めた時、稼ぎは玲奈のほうがよかったが、彼女はそれで構わないのだと言って、家賃の大半を出してくれた。

 半年ほど経った頃、そのバーにたまたま幼なじみのキムが現れた。十年ぶりの再会だった。僕は店を臨時休業にして、玲奈を呼び出し、近況を語り合った。幼なじみ同士に戻るのに時間はかからなかった。

 それからキムは頻繁に僕の店を訪れるようになった。吉田もコースケもジョーもキムが連れてきた。恋人の亜由美も紹介してくれた。

 そんなことが一年ほど続いた初夏の夜、他に客がいないのを見計らって、キムがいつになく静かな声で「話がある」と言った。そうして、僕と玲奈はレジスタンス活動に足を踏み入れることになった。それは時間のかかる壮大な計画で、決して人に明かしてはならない秘密だった。


「三回目の旅は三日間です」武田の声がした。「ホテルに泊まるほうがいいでしょう」

「身分証が要るだろう」僕は言った。

「二〇三一年には金さえ払えば身分証なしでも泊めてくれるホテルがあったようですから、たぶんあるでしょう。探してください。それに」と言葉を切る。「万が一逮捕されて留置されても、三日後には自動的にここに戻ってきますよ」

 気がつくと僕はいつもの林に立っていた。目の前には例の小屋がある。僕は扉を開けて中に入り、机に近づいた。キムのメモはそのまま残されていた。僕はポケットから紙とペンを取り出して、紙をキムのメモの横に置いた。

『同志へ。今は二〇三六年だ。とにかく生き延びろ。五回目を生き延びる確率は一割だ。それを信じろ。新井浩』と記して、小屋を出た。

 電車を降りると新宿は人であふれていた。華やかなビルが立ち並び、賑やかな街には外国人の姿も多い。僕は目についたものを片っ端から写真に収めていった。

 ホテルはあっさり見つかった。身分証などそもそも必要なく、偽りの住所と名前を書くだけでよかったのだ。僕はこの世界では人間の管理が緩いことを知った。

 翌日と翌々日の二日をかけて都内を歩き回った。地下鉄の路線にちょっと戸惑いはしたものの、地名はそれほど大きく違わない。見知った地名に見慣れない街並みが次から次へと現れた。

 旅の最後の日の朝、ホテルを引き払った僕は近くの小さな喫茶店に入って、店主らしい女性に「コーヒーをひとつ」と声をかけた。窓の外を通る人の波を眺めていると彼女がコーヒーを運んできた。

「ありがとう」と言って顔を上げた時、テーブルひとつ隔てた席でカップを口に運ぶ若い女性に気づいた。とっさに「玲奈」と声を上げそうになったが、玲奈でないことはすぐに分かった。二十代半ばくらいだろうか、黒っぽいワンピースを身につけた彼女は僕が見つめていることに気づいたのか、目をそらせた。

 店を出てまぶしい空を見上げた次の瞬間、僕はベッドで目を覚ました。


 いつものように尋問は翌日行われた。

「たくさんの写真をありがとうございました」武田が慇懃に言った。「我々は未来の技術ならなんでも知りたいのですよ。あなたが持ち帰った科学技術博物館の資料も実に興味深い」

「それはなにより」僕は言った。「じゃあ、これで僕の旅は終わりなのか?」

「そういうわけにはいかない」同席していた上野が口を開いた。「政治犯の罪は重いんだよ、新井さん。簡単には終わらせられない。五回目まで行ってもらうよ」

「約束と違うな」と口にしたが、意外ではなかった。

「政治犯とは何も約束しない。君は五回目まで続けるんだよ」それきり、上野は何も言わなかった。

「ほかに何か気づきませんでしたか?」武田が取りなすように口を開いた。

 僕は少し考えこんだ。華やかな街とそこを行く人々の賑わいはこの世界とはずいぶん違っていたが、それだけではない違和感が残っていた。

「気づかなかったんですか」武田が呆れたような声を出した。「あなたが行った世界はね、大日本帝国じゃないんです」

「どういう意味だ」僕は思わず声を上げた。「僕は間違いなく新宿に行った」

「それはそうなんですが」武田は言葉を切った。「あちらの世界でこの国は日本とだけ呼ばれています。帝国ではないんですよ。これまでの調査によれば、台湾と樺太は日本の領土ではありません」

「それは」と言いかけたものの、言葉が続かなかった。

「大日本帝国は未来の技術を必要としています」武田が話題を変えた。「帝国と言ってもね、新井さん。ソヴィエト連邦率いるワルシャワ条約機構とアメリカ合衆国率いる北大西洋条約機構の冷戦の狭間で危ういバランスを取っている我が国に必要なのは圧倒的な科学技術力です。ソヴィエトとは友好的な関係とは言え、技術力がなければ近い将来どうなるか分かったものじゃない。あなたがたにはそのための実験台になってもらう。政治犯が帝国に奉仕する数少ない機会ですよ」

 独房に戻った僕はベッドに寝転んであれこれと考えを巡らせてみたが、五回目を生き延びられることに賭けるほかに道はなさそうだった。キム以外の仲間はどうなっただろうか。

 その夜見た夢の中で、玲奈はふたつの世界の量子相関に引き裂かれていた。僕は声を上げようとしたが、ただ口だけが動いて、音にならなかった。


 旅と旅の間はぴったり十日間空けられる。この几帳面さはいかにも軍部らしい。休みを入れてもらえるのはありがたかったが、差し入れられる屑のような本を読むか運動をするくらいしかやることはなかった。僕は『大日本帝国の栄光の歴史』とかそんな感じの題が付けられた本を何冊も読み流して、いい加減嫌になっていた。あとはベッドに寝転がって仲間のことととりわけ玲奈のことを考えて過ごした。


 四回目の旅は一週間続くと武田が言った。

「どうして世界はふたつしかないんだ?」僕はベッドに縛り付けられたまま、思いついた疑問を口にした。

「無数にあると思いますよ。そういう理論はいくつもあります」武田が答えた。「あの世界とこの世界がとりわけ近いのかもしれないし、我々の装置がたまたまあの世界としかつながれないのかもしれません。まだ分かってないんですよ。だから、あなたがたに行ってもらう」

 次の瞬間、林に立っていた。街に降り、今やおなじみになった電車に乗って都心に向かう。今回は長丁場だから後半は東京を離れてみようというのが漠然とした計画だった。

 新宿駅で降りて、南口を出た。

 目の前に彼女がいた。

「ずいぶん待ったわ」と彼女が言った。


「いつここに着いたの?」彼女に案内されて、静かな喫茶店の椅子に腰掛けた僕は、コーヒーが来るのも待ちきれずに尋ねた。

「二〇一〇年。二十六年前よ」彼女が答えた。近くで見ると顔に少し皺ができ、髪にも白いものが混じっていたが、その声はまぎれもなく玲奈だ。

「どうして僕が来るとわかった?」

「あの林をモニターしてるの。初めてあなたが現れるのを見た時はうれしかった。決まった間隔で来るのはわかってたから、今日は朝から娘にあそこを見張ってもらってたの」

「娘?」僕は思わず聞き返した。「そうだね。二十六年もあれば、結婚して子供がいるのも当然か」声に落胆が含まれるのを隠せなかった。

「あら」玲奈は小さく笑った。「何を言ってるの。あなたの娘よ」

 僕は言葉を失った。

「新宿の喫茶店であなたに顔を見られたと言っていたわ」玲奈が続ける。

「ああ」僕は思い出した。「一瞬君かと思ったんだ」

 玲奈に連れられて彼女の家のソファに落ち着いた。こざっぱりとした集合住宅の一室をこの世界ではマンションと呼ぶことを僕はこの時に知った。

 話は尽きなかった。彼女は五回目の旅から元の世界に戻ることなく、こちらの世界で生き延びた。

「理由は分からないわ。お腹に子供がいたことと関係あるのかもしれない」ワインを口に運びながら、彼女が言った。

「いろいろなことがあった」と言う。「赤ん坊を抱えて、東日本大震災をもう一度体験したわ。東北大地震のことよ。たくさんの人たちの好意のおかげでわたしは今ここにいるの」

「大変だったね」僕は言った。

 僕たちは見つめ合って、顔を近づけ、それからキスをした。長い時間、僕たちは舌を絡め合っていた。それから、僕は彼女のブラウスのボタンに手をかけた。

「待って」ボタンを全部外し終えると彼女が言った。「こっちに来て」

 そして、僕たちは寝室のベッドで激しくお互いを求め合った。夜は始まったばかりだった。

 翌日から玲奈の案内で東京近郊を見て回った。泊まりがけで大阪や京都にも出かけた。僕は貴重な時間を彼女とふたりきりで過ごしたかったが、「写真がいるでしょ」と彼女が言ったのだ。夜は彼女のベッドやホテルの部屋でいつまでも愛し合った。

「分岐点は第二次世界大戦よ」喫茶店でひと休みしていた時に玲奈が言った。「あっちの世界では連合国側が戦争の長期化を嫌がったし、日本の軍部も敗戦を避けるために大陸を放棄して、早々に不可侵条約が結ばれたわ。おかげで本土が戦場にならなかった代わりに、軍部の専制政治は維持された」

「本土?」と僕は聞いた。

「こっちの世界では本土が激しく爆撃されたの。東京も大空襲にあったし、広島と長崎には原子爆弾が落とされた。この国はアメリカに占領されたのよ」

 僕はうなずくしかなかった。

 最後の日に、娘がやってきた。

「浩子よ。あなたの名前を取ったの」玲奈が言った。

「ああ」僕は浩子に言った。「あの時はどうも」

 浩子は微笑んだ。自分の娘と言われても実感はわかなかった。僕と二歳しか違わないのだ。

 玲奈が僕の目を見つめた。「五回目の旅は不確定すぎると思って四回目にあなたに会うことにしたの。でも、必ず戻ってきてね。そして、五回目を生き抜いて」

 次の瞬間、僕はベッドに縛られていた。


「四回目も無事に戻れてなによりです」翌日の尋問で武田が言った。「大阪の写真は興味深い。ほかに何かありましたか?」

 僕は当たり障りのないことをいくつか並べた。リニア新幹線はとりわけ上野の興味を惹いたようだった。

「ほかには?」武田がなおも問いただした。

 僕はしばらく考えるふりをしてから、「特に変わったことはなかったと思う」と答えた。

「嘘をつくな」突然、武田が怒鳴り声をあげた。「SQUIDのパターンはあなたが何かを隠していることを示しています」武田はまたいつもの慇懃な口調に戻った。「忘れたのではなく、隠していることがあるはずですよ」

「隠してることなんか何もない。ほんとうだ」僕はなおも言い張った。

 その時、上野が立ち上がって歩み寄ってきた。「乱暴なことはしたくないんだが」そう言うと、腰のホルスターから拳銃を抜いて僕の額に突きつけた。「隠しごとを見逃すわけにはいかないのでね」上野が引き鉄に指をかけるのが見えた。僕は息を飲み、目をぎゅっと閉じた。脳裏に玲奈の顔が浮かんだ。

 だが、何も起こらなかった。おそるおそる目を開くと、僕は林の中に立っていた。

 状況が飲み込めなかったが、とにかくこちらの世界に戻ったのは間違いないようだった。玲奈たちがモニターしていると信じて、しばらくそこで待つことにした。

 腰をおろして木にもたれ、三時間ほど経った頃、「お父さん」と呼ぶ声がした。


「ずいぶん早かったのね」ハンドルを握る浩子が言った。

「よくわからないんだ」僕は答えた。「連中が装置を動かしたわけじゃない。尋問の最中だったはずなのに、気がつくと僕はあそこにいた」

「それは不思議な話ね」浩子はそう言って、考えこんだ。

 玲奈も驚いた顔で出迎えてくれた。「とにかく生き抜いて」彼女が再び言った。

 玲奈のマンションに身を寄せて、不安を抱えながら二週間過ごした。五回目の旅は二週間続くと考えられていたのだ。精神を崩壊させてあちらの世界に戻るとすれば、だが。玲奈と愛し合っている時だけは不安を忘れられた。やがて、三週間が過ぎ、一か月が過ぎて、どうやら僕はこの世界で生き延びていけるらしいと信じられるようになった。

「仕事をしようと思うんだ」半年が過ぎた頃、僕は玲奈に言った。

「あら」彼女が僕をまじまじと見た。「何をしたいの?」

「またバーのマスターとか、どうかな」

 玲奈が笑った。「いいわ、友達に聞いてみる」

 彼女の伝手で、僕は新宿のバーの雇われマスターに戻った。あの世界のあの店に似た雰囲気の店だった。五年後、僕は自分の店を持った。

 僕が突然移動してきた理由は今もわからない。この世界との量子相関があまりに強くて、引き戻されたのだろうというのが僕の仮説だ。それは玲奈と毎晩夢中で愛し合ったからかもしれないし、娘がいたからかもしれない。とにかく、僕はこの世界に今も留まっている。


 僕たちは時折、元の世界の話をした。

「遅かれ早かれ、この世界の人たちもあっちの世界を発見するわ」玲奈が言った。「だって、あっちにも世界があるんだもの」

「その勢いで、軍政を倒してくれないかな」僕はそう言ってみた。

「戦争を望むの?」

「戦争っていうか、それが正義じゃない?」

「分からない。わたしもあなたくらいの歳の時はそう考えていたわ。でも、それは正義なのかな? あっちの世界のことはあっちの世界の人たちが決めるしかない気がするわ」

「君もあっちの世界の人間だろう」と僕は言った。

「どっちの人間なのか、もう分からないの。でも、民主主義は勝ち取るものじゃないかしら」玲奈が言った。

「この国の民主主義は勝ち取ったものだと思う?」僕は聞いてみた。

「難しい質問ね」彼女は首を傾げた。「でも、こっちの国には間違いなく民主主義が根付いたわ」


 玲奈はそれから三十年生きた。晩年の彼女と僕は普通の意味での恋人同士とは違ったかもしれないが、ふたりのあいだにはたしかに愛があった。僕たちは彼女の最後の日まで一緒に暮らした。

 玲奈の遺骨を灰にして、浩子とふたりだけで海に流した。僕の手もとには左手の薬指の骨だけを残した。

「何を考えてるの?」浩子が言った。

「君はふたつの世界がどうなればいいと思う?」僕は尋ねた。

「わたしはもうひとつの世界のことなんか知らなくていいと思う」浩子が答えた。

「それは正義なのかな?」

「あっちの世界のことはあっちの世界の人たちが決めるの。それしかないの。でもね」と浩子は言葉を切った。「軍政はいずれ必ず倒されるわ。それは歴史が証明してる」

「歴史か」僕はつぶやいた。

 浩子が微笑んだ。「お父さんはまだこっちの世界の人になり切れてないのよ。しかたないわ、お母さんだって最後までそうだったもの」

「そうかもしれないな」と僕は答えた。僕はまだ覚えている。キムと亜由美、コーイチ、吉田、ジョー、そして僕と玲奈。そうだ、僕がこの世界の人間になり切れる日は決してこないのだ。

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彼女がいる世界で 木口まこと @kikumaco

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