4.

「理乃」

 会社で、下の名前を呼ばれて驚いて振り向くと、高槻がいた。久しぶりだった、とても。理乃は驚きを隠しながら、笑顔で言った。

「久しぶり。どうしたの? 出張?」

「うん、そう。理乃、もう仕事、終わる?」

「うん、あと少しで」

「飯、行かない?」

「いいよ」

 理乃は高槻の背中を見送りながら、息が止まりそうになるのを感じていた。

 どうして、いいよ、なんて答えてしまったんだろう?

 理乃の中で、ちくりとした後悔と、滲んで広がっていく期待とが、ぐるぐると渦を巻いていた。


 定食が食べられるお店で食事をしながら、理乃と高槻はお互いの近況を話した。高槻は仕事に邁進しているらしく、順調に出世するだろうな、と理乃は思った。そうだ、もともと、仕事を頑張っている高槻のことを好きになったのだった。そのころのことを思い出して、理乃は高槻の顔をじっと見つめた。

 同じ季節を三度一緒に過ごした居心地のよさは確かにあって、話は弾んだ。理乃はふと、川添のことを思った。同じ人と十年一緒にいるって、いったいどういう気持ちになるんだろう? と。川添は爽やかで気遣いがあり、実のところ会社でも人気があって、「長くつきあった彼女には勝てそうもないから」と溜め息をついている人は多かった。理乃には三年でもとても長く思えたので、十年という年数の重みが量れずにいた。

「どうしたの?」

 ふいに黙り込んだ理乃に高槻が言う。

「ううん、なんでもない。……コーヒー、頼む?」

「ああ」

 高槻が店員に「コーヒー2つ。ホットで」と頼むのを、理乃は見ていた。


 食事が終わったあと、どちらともなく、ホテルに入った。

 キスをする。

 川添ともシンとも違うそのキスを、理乃は受け留める。

 服を少しずつ脱ぎ、そして慣れたはずの手順でする。

 理乃は、高槻とこうすることが大好きだった。歓びと幸せに満ちていた。

 なのに、今は。――哀しみが辺り一面に漂っていると、理乃は思った。

 その手も唇も、あんなに知っているもののはずだったのに。

 指も舌も。

 変らないはずなのに、全然違うもののように感じた。

 彼の味もにおいも。

 どこまでもいけたのに。高い高いところへいけたのに。

 高槻の気持ちが、彼と一緒に理乃の中に入って来た。あのころとは違う冷めた感情が、理乃の中いっぱいに広がって、水に垂らした墨汁のように隅々にまで広がっていった。

 あまりにもさみしくてかなしくて、理乃は涙を抑えるのに精いっぱいだった。

「理乃」名を呼ぶその声も。

「理乃、いいよ」そう言ってするキスも。

 躰が震える。分かっている。そう反応すればいい。

 体温がそこにあって、ずっと待ち望んだものがすぐそこにあるというのに、欠落はさらにぽっかりと大きな穴を開けて、理乃を呑み込む。

 その穴の中で、ずっと待ち望んだものはすぐそこにあるわけではないということが、理乃には分かった。自分が、恋焦がれた相手はもういないのだ。ここにあるのは残骸。確かに気持ちが通じ合って、繫がってどこまでもいけたときもあった。だけど、もうそれは永久に失われたのだ。気持ちが自分にないことがあまりにもよく分かって、以前確かに肌で感じていたこととあまりに違って、それでかなしいのだと、理乃は底のない暗闇で理解していた。理解すると、ますますさみしくかなしくなった。

 ――こんなセックスは二度としたくない。

 理乃は、高槻に「またね」と手を振りながら、きっと、「またね」はないのだろうと感じていた。


 理乃が部屋について着替えをしようとしたところで、母から電話がかかってきた。

「どうしたの?」

「あ、うん、元気かなと思って」

「元気だよ」

「あのね、勝のとこ、赤ちゃん生まれるんだって」

 勝とは、去年結婚した、理乃の一つ下の弟だった。

「え? いつ?」

「八月に」

「わあ、よかったね!」

「うん、私もおばあちゃんになるわ。……理乃は?」

「え?」

「理乃はどう? 結婚、しないの? つきあっている人は?」

「……うん」

「私、理乃の赤ちゃんの顔も見たいわよ」

「……うん、お母さん。分かってる」

 それから、他愛のない会話をして、電話を切った。

 理乃は着替えもせず、そのままベッドによりかかって、ただくうを見ていた。

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