part A

旅先 1

 ――初めての海外一人旅が台無しだ。


 水門のアーチをくぐった旅人たちに、橋の上から花売り娘たちが歓迎のフラワーシャワー。運河に沿って極彩色に塗られた外壁の建物が立ち並び、広場へ続く通りはマーケットで賑わう。

 肺を満たす空気すら完熟して弾けているような、そんな華やかな都へ来たというのに、織田てふちょうの気分は沈んでいた。



『だって心配だろ!てふは自分のかわいさに無自覚なんだからさ』


 兄の声が脳内に蘇る。

 二つしか離れていないのに、兄とふたりでいると十中八九親子に間違われるのが、昔から嫌だった。そのくせいつもてふの方が、兄の言動にため息をつくのだった。


『おにいちゃん。わたしもう成人してるんだけど』

『だから余計に、じゃないか!嫁入り前のだいじな妹に異国のへんな虫がついたらどうするんだ!』


 兄はずり落ちそうになる眼鏡を持ち上げる。嫁入り前のだいじな妹の一人部屋に勝手に入ってくる兄の言う台詞ではないとてふは思った。

 兄のこの反応は予想していた。だから出発前日の今日になるまで言わなかったのだ。

 しかし兄は曲がりなりにも一家の大黒柱、光の速さで現地の知り合いに連絡を取り護衛手配を済ませたという。こんなところで兄のすごさを知りたくはなかった。

 てふはトランクケースに、下着類を見られないよう隠しながら、一週間ぶんの衣服を詰めていく。


『おにいちゃん。旅行ってプライベートよ。個人的なこと。私事わたくしごとなの』

外国語蛮ことばくらい分かるさ。でもてふは織田の娘だから、敵襲に備えて護衛は必須なんだ。それに超絶かわいいんだし』

『わかってる。ぜんぶ気をつけるから放っといて』

『いいや、だめだ。僕が安心して眠れない!てふはいいのかい、日夜職務で忙しい僕が寝不足で倒れても!!』

『べつに……』

『ひどい!!』


 この世の終わりかのように嘆く兄に、てふは重い息を吐いた。こういうのをロリコン、いやシスコンというのだ。

 だが兄の優しさはわかっているつもりだ。

 父が病に倒れて一線を退き、兄は長男として学問もそこそこに家督を継いだ。対して自分は名門女学院を出してもらい、嫁ぎもせず洋裁の専門学校に進学している。

 ――母には一族の家業に加わるよう何度も窘められた。てふが人生の節目を迎えるその時どきで、母が父を不甲斐ないと責める場面に出合った。

 兄はそのたびにてふを庇ってくれた。てふはそのままでいいんだよ、蝶のように自由に羽ばたいていくんだ。そのために僕はおにいちゃんなんだから、と。


 てふは荷造りの手を止め、兄の顔をしっかり見る。

『おにいちゃん。大人なんだから自己管理は自己責任よ。わたしだってそう。我儘言うんだから、ひとりでする方法は心得ているわ。おにいちゃんが一番よく知ってるでしょ』


 妹に見つめられて、兄は目と口をぱくぱくさせた。そして頷き、悲しそうに眉尻を下げて微笑む。

『……うん。そうだね。僕はてふが女の子として思うまま人生を楽しんでほしいと思うよ。だからてふに近づくやつらの存在をできるだけ排除したい。てふが自分でなんとかできるからこそ、やつらにはもう遭ってほしくないんだ』

『おにいちゃん……』


 兄の優しさにじんとしたのも束の間、兄は自信満々に胸を張った。


『だから、先方には数メートル離れて尾行してくれって頼んでおいたよ!てふの邪魔にならないようにって!』


 てふはトランクケースを締めて項垂れた。


『それストーカー……』

『すとーかーってなんだい?』

『あんたのことよ!!』


 満面の笑みの兄を追い出し、てふはぴしゃりと襖を閉めたのである。



 酷いことを言ってしまったかな、と、今になっててふは少し後悔した。わかっている、兄はストーカーではないし悪気もない。

 情けなくも見えるほど柔和な目尻にくっきりとした笑いジワ、穏やかなえくぼ。分厚い眼鏡のせいでますます老けて見えるのだ。のんべんだらりとしたお寺の鯉みたいなあの顔をくっきりと脳裏に浮かべれば、なぜか申し訳なさより腹が立ってくる。

 あんなのでも“下手人ハンター”――鬼を退治する専門組織にして織田家の家業―だなんて。


 いや、今は兄や家業のことは忘れよう。

 てふは頭を振り、髪につけた大きなリボンを揺らして兄の浮遊霊を追い払った。


 そんなわけで、てふは兄の手配した護衛とこの水門広場で待ち合わせているのである。到着したら舟を下りて待っているように、と言われたが、それらしき人物は見当たらない。

 てふは街灯に寄りかかりながら道行く人々を観察し、自分のファッションと見比べてそわそわしていた。白いボウタイブラウスに淡いブルーの羽織をショールのように掛け、臙脂色の袴をプリーツスカートのようにブラウンのブーツと合わせて着こなした。

 形良く切りそろえられた黒髪のおかっぱ頭はこの国ではそれなりに目立つので、先方にてふの特徴として伝えておいたと兄は言っていた。リボンカチューシャをつけてこなかったほうがよかったかな、とてふは髪を撫でた。


 ひとりでこんなに待たせるなんて、これなら護衛の意味なんてないじゃない。

 そう思ったてふだったが、兄のにこにこ顔を思い出すと無下にもできない。


 それに心配性な兄のことだ、おそらく自国からも兄に命じられた護衛が密かに付いてきているのだろう。兄が個人的な任務を頼み、かつ昨日の今日で来られるやつなんて、あいつしかいない。


門松かどまつ……」


 奥歯で苦く呟く。周囲に気配はない。


「モンちゃん!」


 声を張り上げると、周りの人びとが振り返った。

 正面の人波からあい、と返事が返ってきて、袴にダークグレーの外套を合わせた出で立ちの少年がぬるっと現れた。


 モンちゃんことこの門松は、織田家の従者で組織の一員“猿飛さるとび”に所属する諜報員兼下手人だ。敵だけでなく味方にも悟られずに行動する隠密部隊としての彼の実力の高さに、てふはまた奥歯で苦虫を噛み潰す。

 眠そうな一重瞼に口角は真顔でもやや上がっており、常にニヤついているように見える。その顔や態度が“猿飛”内ではふざけているとみなされ、門松は問題児としててふの家に厄介払いされているのだ。


 門松はあーあと大袈裟にため息をついた。


「お嬢はほんと勘がいいなぁ。そんな気ィ張ってるからいつまで経っても彼氏できないんスよ」

「あのシスコン兄貴のせいよ」

「ちょっと隙のある女の子のほうが男はグイグイいきたくなるもんっスよ」

「えらそうに……」


 てふは言いかけて、そういえばこいつは団子屋と旅籠屋と質屋の娘たちと三股していたことを思い出した。

 隠密部隊に所属する者が目立つ行動はするなと上司に怒られたのでしかたなく別れ話をしたら、全員から往復ビンタされたという。六往復なんてひでぇよなあ、こんな顔じゃ目立っちゃうっスよ、とおたふく顔でヘラヘラ笑っている門松を見て、てふは三往復だと心のなかでツッコミをいれた。てふは彼から、ちょっとダメな男のほうが女の子は心奪われやすいのだということを学んだのだ。


 なぜ自分の周りの男は揃いも揃って癇に障る顔をしているのだろう。

 和装を見慣れない異国の通行人からヤマトボーイと声を掛けられ、呑気にハイタッチしている門松を眺めながら、てふは自分の男運のなさを感じていた。


 時刻は昼、広場ではマーケットが賑いをみせていた。時期が合えばカーニバルも行われるというこの広場は、水と花の都として栄えてきたこの街の活気を象徴する場所だ。

 その中でもひときわ人気の路面店に、てふは狙いを定めた。

 店までの道順を示すかのように行列が伸びており、広場内の通路は片側通行のような状態になっているようだ。てふは先程から甘いバターの香りに鼻腔をくすぐられていた。道行く人はみんな同じ包み紙を持っている。おそらくその店の商品だろう。

 てふは店を指さして、門松に命じた。


「『アップルトリップ』のアップルパイ。買ってきて。ホールで」

「はぁ?え、イヤっスよぉ、並んでんじゃん。しかもホール?誰が食うんスか」

「だれも食べる話してないでしょ、買ってきてって言ってるの。わたしは待ち合わせがあるからここを離れられないのよ。ほら早く並ばないと列が伸びるわよ」

「目立つ行動はするな、じゃなかったんスかー。お嬢のゼイタクー、太るぞー」

「うるさい」


 食い下がる門松の背中をぐいくいと押す。彼は諦めたようにはいはいと呟き、黒い手袋を嵌めた手を差し出してきた。


「なによ」

「金、もってないっス。なんか入り用のときはお嬢に言えって、あるじが」


 あの軟弱メガネめ。脳裏に浮かんだ兄の脳天気な顔面をてふはおたふく顔にしてやった。

 しかたなく金の刺繍を施したがま口財布を渡すと、門松はその重みににんまりとした。


「まいどぉ」


 嫌な予感がしたが、護衛をひとり追い払えただけでもよしとしよう。

 てふは気を取り直して、トランクケースに腰をおろした。


「はぁ……」


 思わず漏れた溜め息に、てふは投げ出したブーツに目をやる。

 本当は自分で行列に並びたかった。まだ旅先でなにひとつ楽しいことをしていないのに、疲れている自分にてふは少しがっかりした。


 その時、てふの前で磨き上げられた革靴が止まった。


「あの……」


 男性の声とともに影が落ち、てふは顔を上げる。

 

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