夢と現実
「かぜ……よかぜ……清風」
微睡の中、幾度も聞こえる自分の名前を呼ぶ声。
それに気付いた俺は、重たい瞼を抉じ開ける。
寝ぼけ眼に映るのは、色も輪郭も何もかもがぼんやりとした不明瞭な視界。けれどそれは段階的な意識の覚醒と共に少しずつ晴れて、鮮明さを取り戻していく。
そして、遂に完全に視界が鮮明となったその瞬間。
「か、母……さん?」
寝起きの瞳が、一気に見開かれる。
「どうしたの? そんな驚いたような顔をして」
「えっ? いや、だって母さんは――っ!?」
瞬間、俺は口にしようとした言葉を飲み込んでしまう。何故なら、気付いてしまったのだ。これが夢であると。所謂、明晰夢というヤツだ。
そう、これは夢だ。だって、俺は現実を確かに認識している。
忘れられない……忘れられるワケがない。
あの美人だけど不遜な女神の事も、暴力的で可愛げないけど放って置けないネクロマンサーの少女の事も、何よりも――
「……? 私が、どうかしたの?」
でも、目の前で小首を傾げながらそんなことを訪ねてくる母さんに、言えるはずがない。貴女がここに居る筈はない。だって貴女は死んだハズだから――なんて。
「いや、何でもない」
「……そう? なら、いいけど」
顔を背けながら居心地悪そうにそう答える俺に、母さんは深く問い質すような真似はしなかった。ただ生前と同じ優しい笑顔でそう言うと、ゆっくりと目を閉じるだけ。
「……何、しているの?」
「気持ちいわね、ここの風は」
「……風?」
「清風も、やってみれば分かるわよ」
言われて、そっと目を閉じてみる。
確かに、涼しくも優しい風が肌に当たる感覚が伝わって来て、心地がいい。
視覚を遮断して触覚がより鋭敏化したせいか、殊更に心地よく感じる。
「どう?」
「ああ、そうだね。気持ちがいいよ、この風は」
「でしょ?」
子供みたいに無邪気な声でそう言われて、俺は静かに首肯する。
その振る舞い、その雰囲気、紛れもなく俺が知る母さんのまま。
頭では死んでいると認識している筈なのに、心のどこかでこれが現実なんじゃないかと考えてしまう自分が出てくるのも無理からぬことだろう。あの突拍子もない出来事や母の死こそが夢であり、こちらが現実だと思ってしまうのも。
「そういえば、言ったことなかったっけ?」
「……何を?」
「貴方の名前の由来。私がどうして、貴方に清風って名前を付けたか」
「――っ!?」
切り出されたその言葉に、俺は瞬間瞠目する。
「そ、それは……」
「私はね、この世で一番優しいモノは風だと思っているの。風は、誰にでも吹くわ。誰にでも平等に、優しくそよいでくれる。そんなことをしてくれるのは、風だけ。そしてそれは、火も水も土も、太陽にだって出来ない凄いこと。そして――」
「そして風は、時に力強くもある。だから貴方は、そんな風のように強さと優しさを備えた男になりなさい。清らかな、風になりなさい……ですよね」
母さんが紡ごうとしていたその先のセリフを、先んじて口にする。
そうしたら母さんは面喰ったように驚いて、次いで頬を少し紅潮させながら。
「あ、あら? 私、言ったことあったかしら?」
恥ずかしそうに、繕う微笑を浮かべる。
しかし、そんな母さんに気遣う余裕など、俺には無く。
「清風? ど、どうしたの? どうして、泣いているの?」
気付けば俺は、嗚咽交じりに咽び泣いていた。
確信してしまったから。実感してしまったから。
心の底から、認識してしまったから。
やはり母さんは死んでいる――と。
これは紛れも無い夢なのだ――と。
俺の名前の由来の話は全て、臨終間際の母さんが最後に教えてくれたことだから。
「あぁ、もう……よしよし、泣かないで」
暫しオロオロしていたが、流石にそこは母親というべきか。
すぐに優しい声でそう言うと、俺をギュッと抱き締めてくれた。
母さんに抱擁されるのは、もう十年ぶりくらいだろうか。
懐かしい感覚。これが夢だと分かっていても、自然とそう思ってしまう。
けれど同時に、自然と口を吐いて出てしまう。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい」
「……? どうして謝るの?」
「それは……その……そんな気分だから」
「そう? 変なの。まあ、いいわ。よく分かんないけど、許す。お母さんは、絶対に貴方の味方。貴方が何をしても、どんな風になっても、絶対に」
「……ぬいぐるみの体になってても?」
「えっ? どういうこと?」
「……何でもない。冗談だよ」
「あ、貴方何か変よ? 熱でもあるの?」
「……無いよ。熱なんか。でも――」
母さんからゆっくりと離れると、すくっと立ち上がる。
「行かなきゃいけない場所は、ある。やらなきゃいけないことも、ある」
「き、清風?」
「ごめん、母さん。俺、もう行くよ」
「――えっ?」
「久しぶりに会えて、嬉しかった。これが例え、夢だとしても。そして何より、ありがとう。俺のアイデンティティを、思い出させてくれて」
涙声で、けれどもハッキリとそう言い放つ。
すると母さんは暫く面喰ったように驚いた顔をしていたけど、最後は腹を括ったのか頭をガリガリと掻きながらも。
「……ああ、もう! 何もかもよくわかんないけど、とりあえず行く場所とやることがあるってことだけはよく分かったわ。なら、私は言うことは一つだけ」
母さんも、すっと立ち上がる。
そして、太陽みたいな満面の笑顔で。
「いってらっしゃい。何かよくわからないけど、頑張ってくるのよ!」
精一杯背中を押してくれた。
何が何だか事情が呑み込めていないのに、理解も追いついていないのに、それでも深くは聞かずに全部受け入れて。
我が母ながら、大した懐の広さではないか。けれど、今はそれが有難い。
「ああ、勿論だ。じゃあ、いってくるよ。次会うのは、多分大分先になる」
「――えっ?」
「その時は、もっとゆっくり話をしよう。話したい事、沢山有るから」
「そう。なら、楽しみにしておくわ」
笑顔でそう言って、優しく手を振る母さん。
その顔をずっと見ていたいと思うけれど、生憎そうゆっくりはしていられない。
後ろ髪をひかれる思いを噛み締めながらも、俺は踵を返して前に進む。
「ごめん。今行くから、もう少しだけ待っていてくれ……エルマ!」
そのまま、一気に駆け出す。
母がくれたこの名の通り、風になったかの如く疾く。
そうして走っていると、何時しか目の前に大きな光の穴が見えた。
突拍子もない状況だが、理屈ではなく直感で確信する。
アレを通れば、戻れる――と。
「だぁああああああああああああああっ!?」
絶叫と共に足の回転を速める。
いつしか俺の体は生前の体から、何だかんだ慣れ始めて愛着すら沸き始めた二頭身へと戻り。その二頭身の姿で、俺は躊躇なくその光の穴へと飛び込んでいく。
眩い光の中へとダイブして、そして俺は――
◇
必死の回避で迫るテールスイングの辛くも躱したのも束の間、素早く身を翻したドラゴンの鋭利な爪が光る両前足による打突攻撃が迫って来る。
「あくっ!?」
回避を試みても、如何せん攻撃範囲が反則級に広すぎて回避が追い付かない。故に直撃を避けるのが精一杯で、爪が掠った際に腕を抉られて血が噴き出す。
これは不味い――反射的にそう思った私は体制を整えるべく、手近な岩場の陰に潜り込むことで絵身を隠して難を逃れる。
立派な岩を背に、肩が上下するほどに上がった息を整えつつ、深手の腕を手で押さえて止血を試みる。けれどもどれだけ力を込めて押さえても夥しい出血は止まる気配が無く、襲い来る激痛に灼熱感による苦痛で表情が歪み、自然と苦悶の声が漏れてしまう。まさに筆舌に尽くしがたい辛苦なのだが……それでもまだ意識は保っていられていることを考えると、ふと思う。
「……皮肉な話ね。今だけは、嫌悪される混血の体で良かったと思うだなんて」
普通の人間の肉体でここまでのダメージ受ければ、間違いなく死んでいた。
ここまで粘れたのは、そしてまだ戦えているのは、混血の恩恵でこの身が人よりも遥かの丈夫で強靭だったからに他ならない。まぁ尤も、混血の身だからこそこんな目に遭っていると言えば、それも否定できない事実ではあるのだが。
……余計なことを考えている場合じゃないか。
それにこの傷と出血量からして、如何に頑丈な混血の体でも流石に処置しないと不味い。
仕方ない――私は急いで懐に手を伸ばして緑の微光を放つ液体に満たされた容器を取り出すと、器用に片手で蓋を開けて中身を一気に喉に流し込んだ。
「……ふぅ。これでまだ、何とか戦える」
飲み干したこの液体は応急処置用の治療薬で、その効能は鎮痛と止血。
正直味はマズくて飲めたモノではないのだが、その分効果は強力。更に混血の体による自然治癒力の高さも相まって、負った深手の傷は瞬く間に流血を止めた。
先の竜人兄弟との戦いでは、二体一という状況と手数差から悠長に治療薬など飲んでいる余裕すら無かった。でも今の相手は一体で、しかも図体がデカくて目立つし、鈍重で本能任せの攻撃ばかり繰り返すだけ。そんな相手に持久戦を繰り広げるなら、この薬は有用。
とはいえ、相手の攻撃力と防御力は破格であり、空も飛べる以上はそうそう容易くは逃げられない。そんな相手に持久戦を展開してタダで済む筈はなく、既に私の体はボロボロで、五本あった治療薬の持ち合わせも今の一本で全て使い切ってしまった。
まさに後がない状況――いや、状況は私の認識よりも遥かに逼迫していた。
それは、岩に身を預けていた体勢から体を起こして数歩歩いた、その刹那だった。
「……うっ!?」
クラっと襲ってきた眩暈で体がふらついて、力なくその場で膝を折る。
酩酊ともいうべきその感覚を噛み締めながら、私はすぐにその原因に思い当たる。
この治療薬は、所詮止血と鎮痛が出来るだけの急場凌ぎ。また、治療薬であって回復薬ではない。つまり、都合よく消耗した体力まで回復する効能までは持っていない。
更にこの薬剤は鎮痛効果のために麻酔にも使われる原料を微量だが使用しており、それを短時間で五本も、それも体力を消耗し切った体に流し込んだのだ。感覚がぼんやりとしてくるのは、当然と言えば当然の話。
要するに、その場凌ぎを繰り返してきたツケが回って来たということ。無謀な持久戦も、そろそろ肉体的な限界が近付いて来ているのだろう。
「うっ!? ぐっ……」
最初は軽い眩暈だった症状も、いつしか視界が膨張と収縮を繰り返しているようなぐわんぐわんという気持ち悪い感覚と激しい頭痛に悪化。やがて膝立ちすらも困難になり、敢え無くその場に倒れ伏す。
その上、悪いこととは続くもので。
「GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!」
咆哮が轟いたと思えば、私が先程まで身を預けていた岩が一瞬で砕け散る。
ドラゴンのフットスタンプによる一撃で破砕したのだと、酩酊状態の頭でも理解できた。気付くのに、そう時間は掛らなかった。
「ぐっ!? がっ!?」
悪運だけは強かったらしく、少しだけだが岩から放れていたお陰でドラゴンの前足でダイレクトに潰されるのだけは避けられた。それでも当然岩をも砕く一撃が近くで炸裂したのだから相応の衝撃波が襲ってくるワケで、吹き飛ばされた私は地面に叩き付けられて転がる。でも、条件反射というのは凄いモノで、力の入らない体で半ば本能的に取った対ショック姿勢によってダメージを軽減。何とか頭を含めた急所だけは守ることができた。
――しかし、やはりこれも所詮は一時凌ぎ。
即死を避けられたといえども、もう今の私はまともに体を動かせる状態ではなかった。立って逃げるどころか、這って逃げる余力すらも残されてはいない。身を隠す岩も無くなり、ドラゴンから私は丸見え。まさに万事休す。これではもう、どうしようもない。
それに加えて、勝利を確信したが故のオーバーキルのつもりか、ドラゴンはあろうことかその大口を開けて口腔内に炎を練り上げ始める。
それが何を意味するかなど明白。清風の風魔法ですら防げなかった、ブレスの一撃を放つ予備動作。全く、この状況で瀕死の人間にこれとは、尊敬するくらいの容赦の無さである。
「……ここまで、ね」
努力しても、足掻いても、奇跡は起きなかった。
流石は神様と運命に嫌われた女だと、自然と自嘲してしまう。
不思議だったのは、後悔も絶望も無いこと。
寧ろやるだけやったという、何というか達成感染みたモノすら感じていた。
……いや、やはり今の嘘。後悔、一つだけあった。
「……ごめん、清風。約束、守れそうにないわ」
心に抱く、居た堪れない気持ち。
それを抱えて涙を流した私は、最後を悟って静かに目を閉じた。
そしていよいよ訪れた、最後の時。私は一際強く目を瞑った、その刹那。
「どぉおおおおおおおおおおおおらぁああああああああああああああっ!」
裂帛の気合が籠った絶叫が木霊する。
次いで響くのはドラゴンの苦悶に聞こえる絶叫の号砲と、重くて大きい何かが地面に叩き付けられる轟音。
「――えっ!?」
まさかと思って目を開けて、音の方へと視線を向ける。
視線の先に居たそいつを目の当たりにして、私の目は自然と潤んでしまう。
眩いばかりの緑のオーラを身に纏い、ひしひしと肌で感じられるほどに膨大で桁外れな魔力を感じさせる、力強いその雰囲気とは似つかわしくない愛らしい二頭身の姿を。
「……遅いわよ、バカッ!」
「ああ、そうだな。待たせて悪かった。でも、もう大丈夫だ。安心していい。すぐに、終わらせるから」
相手の力量を考えれば大口にしか聞こえない、その言葉。
でも、不思議と今の清風から感じられる力強さを目の当たりにすると、どうにもそれが大口にもハッタリにも聞こえない。
「……うん、分かった。待ってる」
「おう!」
肩越しに力強い言葉でそう言い放つと、清風は漸く起き上がったドラゴン目掛けて夜の空を駆けて行った。
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