涙の理由

三鹿ショート

涙の理由

 私にとって、彼女は憧れの存在だった。

 学校の先輩だった彼女は、学業成績や素行の良い優等生というわけではなかったが、何事にも動ずることがない性格だった。

 山道を歩いていたところで野生の獣に遭遇したとしても、彼女は冷静に行動するだろう。

 流行のものに飛びつき、常に他者の視線を気にしているような人々とは異なり、自分の道を歩き続けるその姿に、私は心を奪われていたのである。

 結局、彼女に想いを伝えることはなかったが、日頃の行為から、私が彼女に対して尊敬の念を抱いていたことは、本人も理解していることだろう。


***


 彼女が先に卒業してからは会うことが無くなったために、私は常に寂しさを覚えることになってしまった。

 だからこそ、就職先で彼女と再会した際には、他者の目を気にすることなく喜びの声を出してしまったのである。

 その様子を見ていたためか、上司は彼女に対して、私を教育するようにと命令した。

 まるで学生時代に戻ったかのような関係と化したために、私は毎日の仕事が楽しみとなっていた。

 その様子を見て、彼女は私を奇妙な人間だと評しながら、薄い笑みを浮かべた。


***


 上司から、彼女を呼んできてほしいと告げられたために、私は屋上へと向かった。

 彼女が休憩時間に屋上で喫煙している姿は何度も見ているため、おそらくその場所だろうと考えたのである。

 気怠げに紫煙をくゆらせる彼女の姿はまるで絵画のようであり、私がどれだけ見惚れたのか、その回数は憶えていない。

 屋上の扉を開けようとすると、別の上司が屋上から出てきた。

 私が頭を下げると、彼は軽く手を挙げ、そのまま階段を下りていく。

 彼と入れ替わるように屋上へと進むと、彼女の姿を認めた。

 やはり彼女は喫煙していたのだが、その様子は常と異なっていた。

 彼女が、涙を流していたのである。

 彼女とは付き合いが長いが、そのような姿を見たのは、初めてのことだった。

 言葉を失っている私が見ていることに気が付いたのか、彼女は何事も無かったかのように涙を拭うと、私に声をかけてきた。

 その言葉で我に返ると、私は彼女に対して、上司が呼んでいたということを伝えた。

 彼女は煙草の火を消すと、すれ違い様に私の肩に手を置き、そのまま姿を消した。

 だが、私はしばらくの間、動くことができなかった。


***


 彼女は何かに悩んでいるのだろうかと心配しながらも、それを訊ねることはできなかった。

 余計なことを訊いてしまったことで、彼女の機嫌を損ねることは避けたかったのだ。

 しかし、以前よりも食事に誘う回数が明らかに増えていることに対して違和感を覚えたのだろう、彼女はある日、私に問うてきた。

「先日の涙の理由を、あなたは知りたいのでしょうか」

 本人がそのように訊ねてきたために、私は首肯を返した。

 騒がしい居酒屋の中で、彼女は酒を一口飲んでから、私に話し始めた。


***


 彼女は、とある上司と関係を持っていた。

 その上司は、かつて彼女の教育係だった人間であり、当時から彼女は相手に対して恋愛感情を抱いていたらしい。

 相手には妻が存在しているということは知っていたが、彼女は二番目でも気にすることはないために、愛してほしいと頭を下げた。

 家族を優先して構わないとは告げたものの、自分との時間が少ないことに対して、彼女は不満を抱いていたが、仕方の無いことだった。

 そのように割り切っていたものの、彼女は上司から別れを告げられてしまった。

 いわく、相手が誰であるかまでは突き止めていないが、上司の妻が夫の裏切りに気がつき始めたらしい。

 勿論、上司は己の裏切り行為を否定したが、突き止められてしまっては困るということで、彼女に別れを告げたということだった。

 何時の日か、このような結末を迎えることは予想していたが、いざ直面してしまうと、彼女は悲しみの海で溺れているような気分と化した。

 それが、彼女が涙を流していた理由であるらしい。


***


 尊敬している人間の不貞行為を聞いてしまったものの、彼女を見損なうようなことはなかった。

 それどころか、私に秘密を語ってくれたことが嬉しかったのである。

 彼女は私に話したことで、少しは気分が軽くなったと告げるだけで、私にそれ以上のことを求めることはなかった。

 だが、私は彼女の力になりたかった。

 彼女が悲しむことがないような未来を迎えるためには、どのような行動をするべきなのか。

 それは、深く考えずとも分かっていた。


***


 不慮の事故で妻がこの世を去ったために、その上司は悲しみに暮れていた。

 そのような相手を、彼女は慰め続けていた。

 時には理不尽な暴力を振るわれたが、彼女が上司から離れることはなかった。

 そのような態度を示し続けたことが功を奏したのか、やがて二人は結ばれ、今も幸福な日々を過ごしているらしい。

 彼女が喜んでいるのならば、私も嬉しい。

 ゆえに、胸の中に蟠っているものの正体を、認めるわけにはいかなかった。

 微妙な感覚を抱きながら生活していると、ある日、その女性が私の前に姿を現した。

 見覚えが無かったが、名前を告げられたことで、その女性のことを思い出した。

 相手は、私の後輩にあたる人間だった。

 私を慕ってくれていた後輩は、昔と変わらぬ言動を私に示してくる。

 再会に喜び、我々は時々会っては思い出話や近況報告をするようになった。

 何度か食事をした後で、あるとき、私は後輩から問われた。

「元気が無いようですが、何かあったのですか」

 そう問われたために、私は思わず、胸の蟠りについて話した。

 勿論、彼女の不貞行為を話すことはなかったが、尊敬していた彼女が別の男性のものと化してしまったことなどを語った。

 話を聞いた後で、後輩は私の手を握りながら、

「私に任せてください」

 嫌な予感がした。

 しかし、私は後輩を止めようとはしなかった。

 後輩に任せることで、私が幸福と化すことが出来るのではないかと考えたからだ。

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