涙珠のワルツを弾けた時には

木山花名美

涙珠のワルツを弾けた時には

 

 ♪♪♪~


「……この音は?」

「ばら!」

「違う! たんぽぽ(ドファラ)だ! じゃあこれは?」


 ♪♪♪~


「たんぽぽ!」

「違う! ばら(ドミソ)だ! ったく、何でたったの二種類なのに分からないんだよ」

「だって、何回聴いたってどちらも同じに響くんだもの」


 窓から穏やかな陽が差し込む昼下がり。

 白いグランドピアノが光る、カランド伯爵家の音楽ルームでは、見慣れた二人のやり取りに、子供達がくすくすと笑っていた。


「まあまあ、ブリランテ。誰にでも得手不得手はあるのだよ。音楽は楽しくやらなくては」

「そうですよ。アマービレは皆の音楽を楽しんで聴いてくれれば、それで充分」


 伯爵夫妻がこうして優しくたしなめる光景も、この一家の日常であった。


「よし、ではみんなで演奏をするか。私はチェロを」

「私はバイオリンを弾くわ。……アマービレは素敵な拍手をお願いね」

「はい!」

 少女はピアノからピョンと離れると、ソファーに座り美しい演奏に耳を傾けた。



 カランド伯爵家は、音楽の才に溢れた家系。代々著名な演奏家や、作曲家を数多く排出してきた。

 先程聴音のレッスンをしていた12歳のブリランテをはじめ、その下に続く兄弟達も、皆音楽の才に溢れている。

 たった一人、アマービレを除いては──




『アマービレ』


 音楽用語で愛らしくという意味を持つこの名を、私はとても気に入っていた。その一方で、自分はこの名にふさわしいのかと考える時もある。


 生まれつき絶対音感を持つこの家の子供達の中で、自分は全く音感がない。聴音の初歩である、ドミソとドファラの違いも未だに判別が出来ないのだ。

 一番年下のアニマにすら笑われる始末……


 ピアノの鍵盤に触れれば、指が滑り音が出ない。左手と右手を別々に動かす日なんて永遠に来ないだろう。


 なのにブリランテは、毎日懲りもせず、聴音のレッスンを行い、私をピアノへ触れさせる。


「違う!」

「下手くそ!」


 ……そんな辛辣な言葉つきで。


 もういい加減にしてよ! 私は皆の演奏を聴いているだけで幸せなの! 放っておいて!

 そう何度も爆発しては、喧嘩に発展したことか。


 伯爵夫妻も、ブリランテ以外の他の兄弟達も皆優しい。嫌がるレッスンを強要することなく、素敵な演奏を沢山聴かせてくれる。

 そうしていると何故か、無性に弾きたい!という気持ちになる時があり、そんな時は同じ椅子に座り連弾させてもらう。

 一人では上手く弾けないのに、二人だと美しい音色が出て、とても楽しかった。



 私は自分の容姿もあまり好きではない。


 金や銀の華やかな巻き毛に碧眼の兄弟達と違い、一人だけ黒い直毛に黒い瞳。肌は家の誰よりも白く、まるでアマービレはピアノみたいね、と妹のドルチェによく言われている。


 唯一、兄弟の中で最も背が高いことだけが誇りだったが、それも先月成長期のブリランテにあっさり抜かれてしまった。

 年下のくせに……もう見下ろせなくなっちゃったじゃない! こんなじゃきっと、更に言われ放題だわ。


「おい、アマービレ! レッスンを始めるぞ!」


 ……ほらね。

 鏡を見ながらため息を吐く私を、容赦なくズルズルと引っ張っていくブリランテ。


 もういい加減にして~!



 ◇◇◇


 最近、ブリランテの音色がおかしい。

 技術はもちろん凄いのだけど……固いと言うか、何と言うか。ピアノが上手く歌えていない気がした。


 もうすぐコンクールも近いのに、大丈夫なのかな?

 本人もそれは分かっている様で、時折苛立たしげに鍵盤を叩いては、頭を抱えていた。


「アマービレ、レッスンを始めるぞ」


 本番まで後一週間という大事な時期なのに、彼は今日も私をピアノの前に座らせる。

 こんなことしてる場合じゃないんじゃない?

 あっ……そうだわ。


「……ねえ、ブリランテ。私と連弾してくれない? きっと楽しいから」


 コンクール前に私と連弾すると、緊張がほどけて上手く弾けると、他の兄弟達は言ってくれる。

 でも何故かこのブリランテだけは、「下手くそとの連弾なんて絶対嫌だ!」と、いつも私の誘いを断り続けていて……


 案の定、今日も答えは同じだった。


「……何回言わせれば分かるんだ。僕は下手くそとは弾かないと言っているだろう」


 心配しているのに……

 その言い方に、私はカチンときてしまう。


「ブリランテ、今までは何とかなっていたけど、今回のコンクールは強者揃いよ。このままじゃ、あなた賞を取れないわ」

「……うるさい。音感もないお前に何が分かる!」

「分かるわ。ピアノが苦しそうで、全然歌えていない」


 私は彼の両手を包む。


「もっと力を抜いて……ピアノは操られたいんじゃない……自由に歌いたいだけよ。あなたの指なら指揮が出来るわ」

「うるさい……うるさい、うるさい! 僕のことは放っておいてくれ!」


 ブリランテはそう怒鳴ると、楽譜を掴んで部屋を飛び出してしまった。



 はあ……言い過ぎてしまったわ。

 だけど、最近反抗的なんだもの。昔は威張っていても、もう少し可愛げがあったのに。……年頃だから、仕方ないのかもしれないけれど。


 先日15歳になったブリランテは、父親のカランド伯爵の背をすっかり追い越している。くるくるの銀髪はいつしかなだらかなウエーブに変わり、彫りが深く、くっきりと整った目鼻立ちを魅惑的に取り囲む。

 まだ少年の青さは残るものの、精悍な大人の入口に足を踏み入れたことは確かだった。


 来月にはいよいよ社交界デビューも控えている。音楽家としても、伯爵令息としても、希望に溢れた一番良い時期である筈なのに。


 ピアノのことでなくても、最近の彼は常に何かに焦り、苛つき、そして怯えている様に見える。

 彼が産声を上げた時からずっと傍に居るのに、こんなに気持ちが分からないことなど初めてだ。



 どうしたものかと、手の甲で鍵盤をカラカラ撫でていると、後ろでポロンと音がする。

 振り返れば、ブリランテより一つ年下の弟ルバートが、グランドハープをはじきながら立っていた。


「ルバート、いつからそこに居たの?」

「力を抜いて……の辺りから。盗み聞きするつもりはなかったんだけど」


 よく似てはいるが、兄よりもずっと柔和な顔立ちのルバートは、笑みを浮かべながらコンクール用の楽譜をヒラヒラと掲げる。


「ああ、連弾したいのね」

「うん、力んで上手く引けない所があって。お願いしてもいい?」

「もちろんよ! あーあ、ブリランテもこんなに素直だったらね」


 ルバートはくすりと笑いながら、ピアノに楽譜を広げた。


「兄上はさ、アマービレのことが好きで大好きで仕方ないんだよ」

「好き!? ……全く分からないわ。だったら何であんな態度を取るのかしら」

「うーん……僕はもう理解しているけど、まだ君には教えてあげる時じゃないんだ。いずれ分かるよ」

「まあ、大人ぶっちゃって。私はあなたのことだって、おむつをしている時から見ているんですからね」

「それは年頃の男子には言っちゃ駄目だよ。兄上には特にね」


 椅子に座ると、ポンポンと隣を叩き促すルバート。

 私はそこへ座り、彼の手を包み込む様な気持ちで鍵盤に手を置いた。


「……僕の夢は世界一の作曲家になることなんだ。“涙珠るいしゅのワルツ” を超える名曲を、次代に遺したい。……寂しいけど、覚悟は出来てる」


 私が微笑んだ瞬間、ふわっと祝福が舞い降りる。ルバートの繊細な指揮により、美しい歌声が室内に響き出した。






 その後、様々なコンクールで金賞を受賞し続けるルバートとは対照的に、賞はおろか予選すら通過出来なくなっていったブリランテ。


 私をレッスンすることもなくなり、どうにかすると数日部屋に引きこもり、ピアノに触れないことすらあった。

 たった一日弾かないだけでどれだけ腕が落ちるか……理解していない筈はないのに。


 夢を追い光の中に居る兄弟達とは正反対の、暗く孤独な場所でもがいている気がした。


 赤ちゃんの頃の様に抱き締めてあげたくても、幼い日の様に楽しい言い合いをしたくても……彼は絶対に心の扉を開いてくれない。

 どんなに優しくノックをしても。




 明日は、18歳になったルバートが国際コンクールに出場する日。

 弾くのはもちろん、“涙珠のワルツ” だ。


 この曲は、カランド伯爵家の祖先が作曲したもので、一流の音楽家になる為の登竜門と言われる最難曲だ。

 優美で叙情的な序奏から始まるそれは、中盤で一転、激しいパッセージと不安定なメロディーを繰り出し、魂を抉る。終盤は哀愁に満ちた繊細な旋律に、大粒の涙を流さずにはいられない。

 技術的にももちろん、聴く者の涙珠を誘うのは、音楽の神に愛された演奏家のみとも言われている。



 ルバートは楽譜を手に、静かに私の元へやって来ると、いつも通りポンポンと椅子を叩いた。

 私もいつも通り隣へ座ると、いつも通り彼の手を包み込む様に手を置く。


「……今までありがとう。アマービレ」

「こちらこそ! 素敵な演奏を聴かせてくれてありがとう。明日はきっと、上手くいくわ」


 ルバートの瞳は涙で潤み、指揮を振るう指は震えている。それにも関わらず、今までで一番美しい歌声が、二人の間に響き渡った。


 優しくて柔らかくて、いつだって小さな紳士だった。大切な大切な、私のルバート。

 彼は見事、金賞を受賞し、私の元から去っていった。




 その二年後、同じく18歳になったドルチェが、同じコンクールで涙珠のワルツを弾く為、私との連弾を求めやって来る。


「今までありがとう、アマービレ。ピアノみたいに綺麗なあなたが、私は大好き」

「私も太陽みたいなあなたが大好きよ、ドルチェ。明日はきっと、上手くいくわ」


 ドルチェはしゃくり上げながら、ルバートよりも激しく震える指で指揮を振るう。それにも関わらず、やはり一番美しい歌声が、二人の間に響き渡った。


 朗らかで快活で、いつだって小さなお姫様だった。大切な大切な、私のドルチェ。

 彼女も見事、金賞を受賞し、私の元から去っていった。




 その三年後、僅か17歳のアニマも、同じ様に私との連弾を求めやって来る。


「今までありがとう、アマービレ。あなたはお姉さんで、今では妹に見えるけど……それでもやっぱり大好きなお姉さんなの」

「私も、今ではお姉さんに見えるけど、妹みたいなあなたが大好きよ、アニマ。明日はきっと、上手くいくわ」


 アニマはうわあんと泣き叫びながら、ルバートよりもドルチェよりも更に激しく震える指で指揮を振るう。それにも関わらず……二人の間に響くピアノの歌声は、今までで一番美しかった。


 可愛くて温かくて、いつだって小さな天使だった。大切な大切な、私のアニマ。

 彼女も見事、金賞を受賞し、私の元から去っていった。




 私の元に残ったのは一人……


 ピアノへの……音楽への情熱も才能も捨て、心に鍵を掛け続ける、25歳のブリランテのみ。


 思いきって彼の元へ行けば、怯えた瞳で私を見つめる。その姿を見て──

 私は全て思い出した。この身に生を受けた理由を……私の使命を。



 カランド伯爵家では、子供の出生と共に、ある特別な儀式を行う。音楽の神に祈りを捧げ、神の使いを賜る為に。

 儀式を行えるのは、各世代に一度だけ。子供の人数に関わらず、賜ることの出来る神の使いは一人のみだ。


 そう、その使いが私、アマービレ。


 私はこの家の4人の子供達の目にしか映らず、話も出来ない。そんな私に、伯爵夫妻が名前を付け、家族の一員として大切に接してしてくれたのは、神の使いだったから。


 私の使命は、子供達に眠る音楽の才を花開かせること。彼らに寄り添うことで、時に感情を揺さぶり、時に感情を静め……最大限の力を発揮させる。


 私に音感がなかった理由も、一人ではピアノが弾けなかった理由もようやく分かった。使命を果たす為に、それが必要ではないからだ。


 子供達が最大限の力で涙珠のワルツを弾ききった時、音楽家としての大成を願い、私は最高の祝福を授ける。

 それと同時に、彼らの中から私は消える。姿も声も全て。……残るのは、神の使いが傍に居たという、朧気おぼろげな記憶だけ。



『兄上はさ、アマービレのことが好きで大好きで仕方ないんだよ』



 ルバートの言う通りね……

 本当に素直じゃないんだから。



「ブリランテ」


 幼子を宥める様に呼び掛けるも、お決まりの返事が返ってくる。


「うるさい! 放っておいてくれ!」


 もう25歳なのに……

 見上げる程スラッと伸びた大きな身体で、思春期の少年みたいに駄々をこねる彼。

 何だかもう可愛くて、抱き締めたくて堪らない。


「ねえ、ブリランテ。私はきちんとお仕事をしないと、神様の元へ帰れないのよ」


 彼の瞳は忽ち潤み、大粒の涙が溢れる。

「帰らなくていい……帰らなければいい……ずっと僕の傍に居ればいい」


 もう立派な青年として、彼を尊重してあげなくてはならないのに……やっぱり可愛くて、思わずくすりと笑ってしまう。


「それは出来ないわ。だってそうしたら、あなたは幸せになれないもの。……私もね」


 震える彼の手を取ると、長く美しい指を一本一本撫でていく。それは鍵穴に慎重に鍵を差し込む作業に似ていた。


「本当はあなたは、兄弟の誰よりも音楽の才能があるのよ。その才能を開かせるどころか潰してしまったら……私は神様から罰せられてしまうわ」

「どんな罰?」

「それは……」


 ……考えていなかった。だって本当は、使命を果たしたら私は消滅するだけだから。


「……とても恐ろしくて言えないわ。とにかく私を、そんな可哀想な目に合わせる気?」

 腰に手を当て、姉さんらしく言ってみる。でも、この見た目では迫力がないか。私を避け始めた頃のあなたと……15歳だったあなたと、同じ位の少女の姿のままなんだもの。


 彼は私を見てパチパチと目を瞬かせると、涙を払い、ふいと暗い顔を逸らした。


 まあ、まだ反抗的なのね。

 生意気で……愛しくて、いつだって私の恋人だった。大切な大切な、私のブリランテ。


「ねえ、ブリランテ。今度は私が、あなたにレッスンをしてあげる」

「……嫌だ。音感もない、ピアノも弾けない君に教わることなんて何もない」

「音感はなくても、歌声は聴こえるわ。あなたと一緒ならピアノも弾ける……」

「嫌だ……嫌だ……」


 ブリランテは歯を食い縛り、動かすものかと必死に指に力を込めている。

 だけど私に撫でられ熱を持ち始めた指達は、鍵盤を叩く様にくうをヒラヒラと舞い始めた。


「お願い、ブリランテ……私を殺さないで。あなたの中で、あなたの才能の中で永遠に生き続けたいの。それが私の幸せよ」

「アマービレ……僕の幸せは……」

「弾きたいんでしょう? 本当は。弾きたくて弾きたくて堪らない。あなたの指がそう叫んでいるわ」


 微笑む私に誘われながら、ブリランテはふらりとピアノの元へやって来る。椅子に座ると、頼りなげな青い目で私を振り返った。


「大丈夫よ、一緒にピアノを歌わせてあげましょう」


 明るく言いながら、震える長い指を包み込む。


 ポン……


 一音弾いたのを皮切りに、彼は夢中で指揮を振るい始める。離れていた時間を、感覚を取り戻す様に。

 それは音楽に対する、狂おしいまでに純粋な愛と欲求だった。


 ────激しい音と共に、扉は呆気なく開いた。




 それからのブリランテは、寝る間も食べる間も惜しみ、ピアノに向かい続けた。


 私も必ず彼と共に鍵盤へ向かい、指揮を振るい続ける指を支えた。最初は感覚が戻らず戸惑っていたピアノも、その内、彼の指揮で心地良く歌える様になっていった。




 一年後────

 いよいよ明日は、彼が国際コンクールのステージに立つ日。


 楽譜も持たずにやって来たブリランテは、「今からレッスンしてやるからよく聴け」と、偉そうに……でも楽しそうに笑いながら、ピアノへ向かい和音を響かせ始める。


 ♪♪♪~


「ばら!」

「違う、 たんぽぽ(ドファラ)だ」


 ♪♪♪~


「今度こそ、ばら!」

「違う……また、たんぽぽ(ドファラ)だ。全く……よくこれで音楽の神の使いが務まるな」

「私が音楽をやる必要はないもの」

「必要ない……か」


 ブリランテは哀しく笑い、鍵盤からすっと手を下ろした。


「人間に……なって欲しかったんだ。僕と同じ人間の……ただの女の子に。ばらとたんぽぽだけでもいいから……音を聴き分けて、君一人でピアノを弾ける様になったら、ずっと傍に居れる気がしてた。そんなことをしても、君は僕と同じにはなれないって、ちゃんと分かってたのに。足掻いて、しまいには君もピアノも避けて……おかしいよな」


「そうだったのね……あなたの気持ちも知らないで。ごめんなさい、ブリランテ。私の方こそ反抗的だったわ」


 泣いているみたいな銀髪に指を伸ばす。この髪に触れられたら、どんなに素晴らしい感触がするだろうか。きっと柔らかくて、温かくて……そしてとても繊細で。

 いつの間にか彼の手も、私の黒髪に触れようと、懸命に指を伸ばしている。


 でもきっと、互いに触れ合うことが出来ないのは、神様のご配慮かもしれない。その存在を確かめ合ったら、離れがたくなってしまうから。


「……今まで私の為に、素敵なレッスンをありがとう、ブリランテ」


 彼はもう何も答えなかった。鍵盤だけを見つめる澄んだ瞳と、きゅっと固く結ばれた口。

 ……知っているわ。この顔は、彼が何かに堪えている時の顔。泣きたいのに泣けない程、辛い時の顔。


 でもそんな時のブリランテが、人の感情を最大限に揺さぶる指揮を振るうことも、私は知っている。

 大丈夫……明日はきっと、上手くいくわ。



 涙珠のワルツの一音目に指を置くブリランテ。その彼を包み込む様に手を重ねた。


 とくとくとく……とくとくとく……


 彼の鼓動と共に、三拍子が刻まれる。ふわりと優雅にタクトが舞い上がった。



 序奏は優美で叙情的。流れては留まる旋律が、聴く人の一番優しい扉を開く。

 中盤は激しいパッセージが、不安定なメロディーを煽る。一番深い扉を開け放たれた人は、それが超絶技巧であることにも気付かず、ただ聴き入り歌声と溶け合う。

 そして終盤……哀愁に満ちた繊細な旋律。瞳に揺蕩う涙を思わせる高音と、それを重力で落下させるかの低音。一番儚い扉を開けられた人は、まさに涙珠と呼ぶにふさわしい大粒の涙を流し始める筈だ。


 でも……残り一小節という所で、ブリランテはピタリと手を止めた。


 ……どうしたの?


 手元を覗き込めば、最後の一音の僅か数㎜上で、指が震えている。


「嫌だ……やっぱり嫌だ……」


 そう呟く彼自身が、涙珠を流している。全ての指をカッと開くと、鍵盤を乱暴に叩く。美しい余韻を裂く濁った音に、空気は一変した。


「ブリランテ……」


 彼はこちらを向くと、私を抱き締めた。その感触など何もない筈なのに……身体中が温かいのは何故だろう。


「……僕の才能の中で永遠に生きる? それが君の幸せ? 僕はやっぱりそんなの嫌だ」


 少し身体を離すと、指揮を振るうべき貴い指を、私の頬に滑らせる。

「この白い肌も、黒い瞳も黒髪も……君の心も。絶対に失いたくない。僕の心と共に、永遠に生きて欲しい。それが僕の幸せだ。……涙珠のワルツを弾くよりもね」


 感じる筈のない彼の温もりに、私の瞳もみるみる熱を帯びていく。


「馬鹿ね……ワルツを弾いた方がいいに決まっているのに。私には心なんてないのよ」

「じゃあ何で泣いているの?」


 少し生意気に笑いながら、優しく涙を拭われる。

 指先と目尻。そこから互いの熱が交わり、燃える様に熱い。


 どちらからともなく引き寄せられ……私達は今、自然と唇を重ねている。それは甘く……限りなく甘く……今までで一番美しい音色が聴こえた。


「さくら(ソドミ)……かしら」

「違う……すみれ(ソシレ)かな。僕もよく分からないけど」


 額を合わせ、くすくす笑う。


「……いつか、涙珠のワルツを弾きたくなったら教えてね。その時までは傍に居てあげる」

「いいよ。永遠に弾かないけどね」


 もう一度重なる唇。


 そうね……ブリランテの言う通り、この音はすみれ(ソシレ)かもしれない。

 甘くキラキラしているのに、どこか切ないわ。



 ◇◇◇


 海外でのコンサートを終え屋敷へ戻ると、庭の向こうから、楽しげなピアノの和音と、子供達の笑い声が聞こえる。


 音楽家ではなく、音楽教師として子供達を指導する、平凡な道を選んだ兄ブリランテ。

 教室兼住居として使用している離れの小さな屋敷は、そんな彼の城だった。


『カランド伯爵家で唯一、音楽の神に愛されなかった哀れな青年』


 人々は兄のことをそんな風に噂していた。

 でも僕は逆だと思う。愛して、愛され過ぎて、兄は音楽と一体になったんだ。

 ……神の使いがどんな姿だったか。沢山レッスンを受けた筈なのに、僕には全く思い出せない。だけど、じんわりと心が温かくなるのは、きっと僕もその使いを愛していたからなのだろう。



 ♪♪♪~


「ばら(ドミソ)!」


 ♪♪♪~


「たんぽぽ(ドファラ)!」

「よく出来たね、完璧だ。じゃあ一つお花を増やすよ」


 ♪♪♪~


「この音はすずらん(シレソ)だよ。覚えてね」

「はーい!」



「ブリランテったら、随分優しいのね。私の時と大違い」

「君はひどい生徒だったからな」

「まあ!」

「……でも、一番可愛い生徒だったよ。ずっとずっと、ときめいていた」

「あなたも可愛い先生だったわ。今は少し素敵になってしまったけどね」


 ピアノの横で、触れ合う筈のない手をそっと重ねる。


「先生、誰とお喋りしているの?」


 内緒だよという風に、長い指を美しい唇にあて、ブリランテは囁く。


「音楽の妖精」

「妖精?」

「うん。先生の……小さな恋人」

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涙珠のワルツを弾けた時には 木山花名美 @eisi0922

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